ひめゆりよ永遠に
沖縄県民斯く戦へり
昭和20年(1945年)4月、大東亜戦争沖縄戦で沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の先生、生徒で編成された「ひめゆり学徒隊」は南風原(はえばる、ふぇーばる)の陸軍病院で勤務していましたが、5月25日に戦局の悪化をうけて移動します。翌26日、摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置となります。ここは運命の分かれ道でした。伊原第三外科壕(現在のひめゆりの塔がたっている壕)が6月19日に米軍の襲撃を受け、職員は全滅、40名の生徒のうち生き残ったのわわずか5名でした。
6月18日、本部から解散命令がきます。生徒に最後の食料が分配されます。みな従軍服を脱ぎ、制服に着替え白百合の校章と桜の徽章(きしょう)を胸につけます。分散会が催され「海ゆかば」などが歌われました。
6月19日、ガス弾が壕に投げ込まれます。
生き残った大城好子さん・山城信子さんの手記より
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轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、パッと青い光が眼に映じた。先生!先生!と叫ぶ声。お母さん!お母さん!と叫ぶ声。兵隊の怒号も入り混じった。
安江千江子が、
「親泊先生!外へ出ましょう。逃げましょう」
とかすれた声。外間安子の声。
「ああ苦しい。玉代勢先生!東風平先生!」
「助けて!新垣先生!奥里先生!」
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何人かは生き残りましたが、壕を出たところで機銃攻撃を受けます。この頃、米軍は軍人だろうと民間人だろうと区別なく殺戮しまくっていました。
守下ルリ子さんの手記より
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ドカンというものすごい爆音と同時にもうもうと真っ白い煙が立ち込めて一寸先も見えない。
「ガスだ!ガスだ!」「水はどこ!水は!」
と叫ぶ声。
そのうちに息がだんだんつまって苦しくてたまらない。あちこちから、
「おかあさーん」「おかあさーん」「おとうさーん」
と呼ぶ声。
(中略)
隣では又吉さんが、
「苦しいよう、姉さん!」
「敵は中頭から上陸したのだから、私の父母も、きっとこんなに苦しんで死んだに違いない」
という。
「何を言っているの。そんなことをいったらますます苦しくなるばかりだ。しっかりしてよ」
と励ます。
「お姉さんお先にね。ああ苦しい。天皇陛下万歳!」
この声を聞いて、こんなところで死んでたまるものか、生きるのだ!生きるのだ!絶対に死なないと自分にいいきかせているうちに、いつの間にか意識を失ってしまった・・・
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この又吉さんも生きて壕を出ましたが、助かっていないので壕の外で機銃を浴びたと思われます。玉代勢先生も壕を出ましたが、同じ運命をたどったと思われます。
ひめゆり学徒隊 240名(教師含む) 生存104名、戦死136名。
ひめゆり学徒隊は戦後、「軍国主義にだまされつづけてきた短い生涯」(ひめゆりの塔)「戦場にむりやりひきずり出されながら、生き延びることの可能性については客観的にも、主観的にもそれを想像する力をうばわれている者たちとして、酷たらしく死んだ沖縄の娘たち」(沖縄ノート)と刷り込まれてきましたが、ひめゆり学徒隊の手記を読んでも彼女たちはそんなこと言っていませんし、誰かを恨んだり、自分たちを被害者としているような印象も持ちません。見えてくるのは国家のために働こうと死地にも飛び込む勇気、劣悪な環境でも健気に職務を果たそうとする姿であり、生死の狭間にあっても他人を思いやり仲間同士助け合う姿です。国家、国民、県民、家族、友、師のための公の精神です。戦後の歪んだ見方を正し、ほんとうのひめゆりの姿が人々の心に永遠に残ることを切に願います。
参考文献
PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
岩波新書「沖縄ノート」大江健三郎(著)
参考サイト
ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html
添付画像
ひめゆりの塔(画角 2) Author:A-gota
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電xx次官に御通報方取計を得度
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信が無く三二軍司令部又通信の余力無しと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代して緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど(ほとんど)顧みるに暇なかりき
然れ(され)ども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に(わずかに)身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃のがれx中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり
而も(しかも)若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦(ほうすいふ)は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり
所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思はれず
更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり
是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂にxxxx与へ、xことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形x一木一草焦土と化せん糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ
沖縄県民斯く戦へり(おきなわけんみんかくたたかえり)
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを
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