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2012年7月

外国を干渉させろ ~ 第二次上海事変

第二次上海事変は支那が仕掛けた戦争だった。

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 昭和12年(1937年)8月13日から始まった第二次上海事変で蒋介石軍のドイツ軍事顧問団は上海から撤退するよう蒋介石に進言しますが、蒋介石は
「面子だ、面子」「世界の前で私は面子を失うだろう。外国の驚くべき宣伝を見たまえ。そうはできない。干渉させるチャンスなんだ」と拒否しました。

 蒋介石軍はなんとか外国の干渉をいれようとさまざまな試みを行います。日本軍を攻撃する以前の12日に支那は日本総領事と商社の電話線を切断します。13日に支那軍88師が租界から外に通じる道路をすべて遮断しました。これにより一般市民も閉じ込められることになります。そして支那軍機は英国人経営のキャセイホテルやパレスホテルに爆弾を投下します。これによって民間人2000人ほどの死傷者がでます。支那軍はバリケードや建物、移動車両の上に外国の旗を掲げさせるという暴挙まで行います。密集市街地の中心に塹壕を掘り、外国人の資産を遮蔽物にして銃を備え付けて、銃眼のついた胸壁に第三国の旗をたてました。こともあろうに支那の民間人が建物の中にいっぱいになるとそれをバリケードとみなして支那軍は移動してきて射撃を始めるということまでやっています。何度も何度も日本側は支那軍に市民に近いところから戦闘地域を移動するように要請しますが、支那軍は拒否します。米国の新聞は支那の陰謀を隠し「新しい統一された支那が日本と闘っている」として日本軍の爆撃を見出しに掲げて金切声をあげたものもあったといいます。

 しかしながら蒋介石の目論見通りにはいかず、日本海軍陸戦隊は10日間もの間、不眠不休で10倍の敵と戦い、日本人居留民を守り抜きました。日本人居留民も土嚢を作るなどして必死に日本軍を助けました。陸戦隊が負ければ通州と同じように全員虐殺されていたでしょう。8月23日に日本陸軍の上海派遣軍が上陸しました。陸戦隊の大健闘です。

 8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節 NYタイムズ8月31日
「7月はじめに北京郊外で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実はひとつしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んではおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできるだけの努力をした。だが日本軍は支那軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。支那軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中で巻き込もうとする意図があるかのように思えた」

「"外国人は日本を支持" 上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々な会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。
 日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸数日の間、兵営の中から一歩も出さなかったのである」


  この頃のNYタイムズは反日的だったといいますから、支那が明確に一方的に攻撃し、あまりにも卑怯で残忍だったということでしょう。しかしながら、現在の日本の言論空間はこの第二次上海事変から日本が支那を「侵略」したことにしています。



参考文献
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」

添付写真
 空爆によって炎上中の上海。日支どちらの空爆かは不明。手前は米国アジア(極東)艦隊旗艦の軽巡洋艦オーガスタ。(PD)

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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00

恨みは深し通州城

学校では教えない、マスコミも語らない通州事件。

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 日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年(1937年)7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺が行われました。「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(支那人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。例えば岩波新書「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子(著)を開きますとこの事件については一切触れていません。山川の高校教科書「日本史」にも一切書かれていません。

 昭和10年(1935年)11月に冀東防共自治委員会が成立しています。殷汝耕(いん じょこう)が委員長に就任します。保安隊の第一総長は張慶餘(ちょう けいよ)で、第二総長は張硯田です。12月に冀察政務委員会が発足して宋哲元が委員長になると二人は宋に会い、抗日決意を述べ、宋哲元は軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれ、と命じカネを渡します。つまり、通州の保安隊は秘密裏に冀察の宋哲元とつながっていたのです。

 昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発すると保安隊は宋哲元の第二十九軍の開戦に呼応して通州で決起するよう指示をうけ、第二十九軍の戦闘序列に編入になります。そして保安隊3000人は通州城に集結します。7月28日夜12時、通州の城門は閉じられ、通信、交通とも遮断されました。
 このとき南京放送で
「日本軍敗走」「冀東を攻撃、殷 汝耕を血祭りにする」というデマが流れており、デマを信じた保安隊の抗日態度は決定的になっていました。29日払暁、保安隊は手薄な日本守備隊を攻撃し、日本人民間人を殺戮しました。

  これには日本軍の支那二十九軍宝通寺部隊への爆撃にミスがあり保安隊を誤爆したことを原因とする説がありますが、誤爆は27日のことで、直ぐ特務機関長が冀東政府の殷汝耕に陳謝し、機関長自ら現場を視察し、遺族の弔意に奔走し、保安隊幹部一同に対して誤爆を釈明し慰撫に努めているので、日本人虐殺の契機になったとは考えにくいです。

 通州大虐殺は29日明け方から始まり、日本人はなぶり殺されました。午後4時になってようやく日本軍機が爆撃を行い、保安隊は通州から撤退します。救援部隊が到着したのは30日の朝でした。日本人は頭部を切り落とされたり眼球をえぐり取られたり、胸や腹を割られ内蔵を引き出され、陰部を突き刺されるなど極悪無道の殺され方をしました。日清戦争以来の支那のお決まりの虐殺手口です。

 当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
「日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」

「この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし、120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し自分の拷問者を見れなくした。アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクオイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった」



参考文献
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
参考サイト
 WikiPedia「通州事件」

添付画像
 通州事件の生存者(PD)

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恨みは深し通州城 奥田英子
http://www.youtube.com/watch?v=NG3TOn9uuAk

運のいい男、鈴木貫太郎に国運を託した日本

「鬼貫」と呼ばれた鈴木貫太郎。

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 第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎。海軍大将でもあります。慶応3年(1868年)生まれ。子供のころは泣き虫で「泣き貫」と呼ばれていました。父親は彼を医者にしたかったのですが、「泣き貫」は外国に行きたいという単純な理由で海軍を志望しました。日清戦争では魚雷艇で清国艦船に肉薄攻撃し、この頃から「鬼貫」と呼ばれるようになりました。

 貫太郎は海軍大学校の講師をしていたとき生徒に水雷攻撃について次のように教えていました。


「敵に抱きついて短刀で刺し違えるようなものだ」

 鈴木貫太郎は三歳の頃、暴れ馬の足元に転げ込んだことがあり、馬に潰される寸前で馬が止まるということがありました。7,8歳のとき川の深場に落ちて水中に沈んだことがありましたが、厚着していたため、綿入れの浮力で浮き上がり助かったことがありました。海軍に入って船の錨を2隻のボートでロープを使って引いていたところ、一方の船のロープが切れ、貫太郎が乗っていた船が錨の重みで海に引きずり込まれ、貫太郎はロープに巻かれて十メートルも海中に没し、絶息寸前でしたが、奇跡的にロープが身体から離れて助かりました。日清戦争のとき貫太郎は水雷艇の先頭にたち、


「おれは運のいい男だ」「だから俺についてくれば間違いない。どんな危険なときでも心配するな。またおれはお前たちを死なせるほど下手な戦はしないから、安心しろ」

と訓示を述べ部下たちを落ち着いた気分にさせたといいます。

 侍従長をやっていたとき、二・二六事件で青年将校らの決起軍に襲撃され、4発もの銃弾を受けましたが、奇跡的に助かりました。運の強さは健在でした。

 大東亜戦争も終盤に入る昭和19年(1944年)、東條内閣のあとを継いだ小磯内閣は支那戦線の兵力を引き抜いて太平洋戦線にあて、戦局悪化を食い止めようとして対中和平工作を再開しました。蒋介石政権とつながっているという支那人を使って交渉しようとしましたが、蒋介石の親書を持っているわけではなく、信頼ができる人物ではありませんでした。昭和天皇も「深入りしないようにせよ」とおっしゃり、小磯内閣は瓦解します。このとき貫太郎は枢密院議長でした。

 昭和20年(1945年)4月5日、重臣会議で首相に貫太郎が推されます。貫太郎は「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なりと考えている。耳も遠いし、お断りしたい」と述べます。しかし、平沼騏一郎が食い下がり「鈴木氏は海軍ではあるが、長く文官として最もご信任のある人だ。国民も行きがかりのない精忠無比の人だと皆が信じている」と述べます。
 そして貫太郎は天皇より組閣の大命を受けることになります。しかし、貫太郎は断ります。「政治はまったくの素人で・・・老齢で耳が聞こえず・・・」。昭和天皇はこうおっしゃります。


「耳が聞こえなくてもよいからやれよ」

 いつもは「憲法を遵守せよ」とか「陸海軍の連携を密にせよ」とか注文をつけるところ、それらは何も言いませんでした。鈴木貫太郎は退役後、侍従長を8年間務めており、昭和天皇と以心伝心でした。(昭和天皇は「頼むからまげて承知してもらいたい」とおっしゃったという説もある)


貫太郎「不肖鈴木貫太郎、身命を賭して、ご奉公申し上げます」

 藤田侍従長

「この君臣の、打てば響くような真の心の触れ合う場面を拝見し、陛下と鈴木閣下の応答のお言葉を耳にした私は、人間として最大の感激に打たれた」

 鈴木貫太郎は昭和天皇が和平講和を望んでいることを悟りました。貫太郎は組閣に際して真っ先に市谷の陸軍省に赴き、阿南惟幾(あなみ これちか)大将を陸軍大臣に迎えたいと申し出します。阿南惟幾は鈴木貫太郎が侍従長だった時期のうち、4年間侍従武官を務めていました。ここでも以心伝心の人が選ばれています。公然と戦争終結を口にするわけにはいかず、終戦に持っていくには以心伝心であり、陸軍強硬派を抑えれる人物を陸軍大臣につけたわけです。

 フィリピンが陥落し、沖縄に米軍が上陸した以上、日本の生命線は既に絶たれているのは明らかです。(このシーレーンは現在も日本の生命線) しかし、国民の抗戦意識は強く、陸軍の抗戦意識も強い。どのようにして終戦に持っていくか。ここから鈴木貫太郎と阿南惟幾の以心伝心の腹芸がスタートすることになります。

 組閣翌日の鈴木貫太郎首相演説

「・・・大東亜戦争は、今や如何なる楽観も許されぬ重大な情勢に至りました。私は因(もと)より老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で、国政の処理にあたります」
「わたくしの最後のご奉公と考えますると同時に、まずわたくしが一億国民諸君の真っ先にたって、死に花を咲かすならば、国民諸君はわたくしの屍を踏み越えて、国運の打開に邁進(まいしん)されますことを確信いたしまして・・・」


 「最前列」「真っ先に」という言葉づかいは「おれは運のいい男だ、ついてこい」という意識がにじみ出ています。「わたくしの屍を踏み越えて」の裏にこめられた意味は「機を見て終戦に導く、そして殺されるということ」「命を国に捧げる精忠」です。和平反対派に殺されてでも講和に導くということです。海軍大学校の講師時代に生徒に教えた「敵に抱きついて短刀で刺し違えるようなものだ」という魚雷艇攻撃の精神を語るものでした。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
参考サイト
 WikiPedia「鈴木貫太郎内閣」

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 鈴木内閣1945年(昭和20年)4月7日(PD)

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昭和宰相列伝3 東條英機、鈴木貫太郎他(1941-1945)
http://www.youtube.com/watch?v=7VtdtDXGW0A

ジャイ・ヒンド!(インド万歳)

ついに立ち上がったインド民衆。

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 昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動しました。インパール作戦はインド国民軍(INA)も参加し、国民軍は愛しき祖国へ向け出撃しました。ラングーンから短波放送で大東亜戦争の意義とインドの独立、チャンドラ・ボースの演説が流され、インド国民の決起を促しました。イギリスはインド国内で情報統制を行なっていましたが、この放送は少なからずインド人のモラルに影響を与えました。

 しかし、インパール作戦は失敗。一瞬祖国インドの地を踏んだインド国民軍も撤退しました。そして昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦。これにともないインド国民軍も連合軍に降伏しました。イギリスはインド国民軍兵士を裁判にかけ反逆罪で処罰しようとしていました。ところが、戦時中は厳しい検閲によってチャンドラ・ボース、インド国民軍の実態はわずかなインド人しか知りませんでしたが、終戦後次第に明らかになってくるとインド民衆は熱狂的に彼らを支持しました。

 ジャイ・ヒンド!

 人々はチャンドラ・ボースの写真を熱烈に買い求めました。民衆は警官隊と激しく衝突、インド軍も反乱を起し、水兵は「インド国民海軍」を名乗りました。イギリス軍は戦車隊を出動させ鎮圧に乗り出します。イギリス軍の対日戦戦勝パレードはボイコットされ、家々には弔旗が掲げられました。パレードの予定されたコースへ数万の抗議デモが進入し、再び警官隊と衝突、流血の惨事が繰り返されます。

 昭和20年(1945年)11月、インドの首都ニューデリーにおいて大掛かりな軍事裁判が開かれました。日本のF機関・藤原少佐はINA将兵を裁くデリーのイギリス軍軍事法廷の証人として召喚されました。

 藤原少佐

「最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた」

 藤原少佐がニューデリーへ着くと、先に光機関長・磯田中将、参謀・香川大佐と高木中佐、自由印度仮政府在勤大使・蜂谷氏が先着していました。裁判の様子を聞くと高木中佐と香川大佐はこのように語りました。

「すさまじいものだ。全印度は鼎(かなえ)の沸騰する総起ちの騒ぎだ。INA裁判の即時中止、釈放、印度統治権の返還、英人の引き揚げを要求しているんだ。INAは印度の愛国者だ。英雄だ。INAは日本の傀儡ではない。INAが日本を利用したのだと主張しているんだ。国民会議派有数の領袖を網羅した大弁護士団を編成して、一挙印度の独立獲得を期して闘っているのだ。・・・」

 全インドに巻き起こった凄まじい民族的抵抗に出会って、イギリス政府も総督も軍司令官も狼狽し、あわてふためき、彼らは遂に反乱罪を取り下げることになりました。単なる殺人暴行罪として起訴すると声明しましたが、インド民衆の怒りは治まらず、判決は禁固15年としておいて軍司令官より同日付をもって「執行停止、即日釈放」の宣告を下したのです。

 インド法曹界の最長老パラバイ・デサイ博士
「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった」

 昭和22年(1947年)8月15日、インドは独立しました。



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 小学館「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)

参考サイト
 反日ワクチン デリー軍事法廷
   http://vaccine.sblo.jp/article/16840993.html

添付画像
 1947年8月15日憲法制定議会の独立記念日セッションで演説する英マウントバッテン卿(PD)

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親日国インド http://www.youtube.com/watch?v=CunDINRHP_8

植民地に教育は不要だった

有色人種は人間以下だった。

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 ビルマ(現ミャンマー)がイギリスに植民地支配されている頃、イギリス人は学校を作りましたが、大正9年(1920年)の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベトナム、ラオス、カンボジア)では大正11年(1922年)で就学率1.7%、昭和17年(1942年)でも3%です。白人は有色人種に教育を施す気はありませんでした。賢くなって反抗されては困りますから。教育を受けたものは名誉白人という称号を与え、そうでないものは白人の良き下僕となるように仕向けられました。

 大学ではきっちりとした教育が行われていたかというと戦後、ビルマで抑留生活をしていた会田雄次氏の記録(アーロン収容所)に面白い話が載っていました。
 会田氏がラングーン大学の英文科を卒業したビルマ人に会ったときのこと。そのビルマ人はシェイクスピアに関する卒業論文を書いたといい、「カンタベリー物語」(イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー)を読んだという。会田氏は自分より英会話がうまいし、「カンタベリー物語」を読破するとはとても歯が立たないと思い、大いに敬意を表し、その本を見せてくれ、というとビルマ人は大得意で貸してくれました。ところがその本を見てみると絵入りのカンタベリー物語、シェイクスピア劇物語であり、日本で言えば中学校2,3年生程度が読むような簡易化した本でした。しかも本人は本物だと思っているので会田氏は驚いています。大学といってもイギリス人はこの程度しかビルマ人を見ていなかったわけです。

 もっともイギリス人も大したことはなく、この当時、算数が出来るものは少なく、会田氏の著書によるとイギリス人は掛け算ができないのです。経理担当のイギリス兵士は計算はできますが、そうでない兵士がトラックの荷物の受け取りなどに来ると48個入りの木箱が20だと48を二十回足し算していたため計算に20分ぐらいかかっていました。なかには「ヘーイ、ジャニイ」と日本兵を読んで、計算しろ、といい、1回で計算してみせるとしきりに首をひねっていたといいます。
 また、収容所内で新聞の発行許可をもらいにイギリス軍将校のところへいくと
「日本人の中で文字が読めるのは何人いるか?」と聞かれて「全員読める」といったところ、イギリスでは、とてもそうではなかったため、信じてくれなかったと述べています。
 元自衛官の池田整治氏の著にも父親がシンガポールに抑留されていたときの話が載っていますが、イギリス軍将校が
「日本の兵隊は文字が書けるのか」と質問してきたので「日本人なら誰でも読み書きソロバン(計算)ができる」と答えたところイギリス人らはびっくりしたといいます。
 イギリスはブルジョワジーとプロレタリアートがはっきりしており、軍隊の中でも同様で士官と下士官の区別がはっきりしています。日本軍の一兵卒が大学の講師をやっていたと言うと信じてくれなかったと会田氏は述べています。

 ちなみに日韓合邦時代の朝鮮半島では大正5年(1916年)から3村1校の教育普及政策が推進され、大正14年(1925年)の就学率は15%。高等教育では98校となっています。大正13年(1924年)に京城帝国大学が設立されています。大阪帝大や名古屋帝大よりも早く設立されています。昭和4年(1929年)からは1村1校が進められています。昭和11年(1936年)には公立普通学校は2,500校に達し、昭和18年(1943年)の就学率は61%。台湾では昭和18年(1943年)には義務教育を実施しています。これらの数字を見ても朝鮮、台湾を「植民地」と呼ぶのは誤りです。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
添付画像
 1945年ごろのラングーン大学(講堂だと思われる Glenn S. Hensley氏)

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大東亜戦争時のビルマ人とインド人

仲が悪いのは白人が仕掛けたデバイド・アンド・ルール

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 大東亜戦争後、ビルマ(現ミャンマー)で抑留されたときのことを書いた会田雄次(著)「アーロン収容所」にはインド人とビルマ人の仲が悪かったことが書かれています。会田氏が歩哨にたっているとインド兵が逃げてくる。インド兵は武装していないので非番で休暇をとっていたと思われ、服は破け、顔を打たれたらしく血が流れていました。追いかけて来るのは一塊のビルマ人らで女性の姿も見えます。このインド兵は会田氏ら日本兵捕虜に助けを求めます。ここはおもしろいところで、同じインド兵のところに助けを求めないのです。インドは宗教各派や地方、カースト別に隊が異なっているので簡単にインド兵に助けは求められず、なんと日本兵捕虜に助けを求めたのです。
 実は日本兵捕虜とビルマ人が闇取引をやっていたのをインド兵が禁止し、物資を没収したのでした。それで何かの拍子に怒りが爆発したのです。インド兵の親玉はイギリス軍です。イギリス軍はインド兵を使って取り締まりをさせていました。デバイド・アンド・ルール(分割統治)です。民族間を対立させ、その上に君臨統治する白人の手法です。

 イギリスはインド人を使ってビルマを支配していました。ビルマ国防軍のアウンサン(スーチー女史の父)もインド人に父を殺されています。インドのパンジャブ・ライフル部隊はビルマ人を殺しまくりました。大東亜戦争をきっかけに国外のインド人は独立へ向けて立ち上がりましたが、ビルマ人はそんなインド人に協力するのを拒否しました。ラングーンに自由インド臨時政府を置くのを拒否。日本の特務機関は懸命にビルマ政府を説得しました。自由インド臨時政府主席のチャンドラ・ボースはビルマ政府首相バー・モーの娘の結婚式に多額の贈り物をしてビルマ人の反インド感情を和らげようとしています。しかしビルマはインパール作戦にはそっぽを向きました。

 白人の有色人種支配は数百年かけたノウハウがあり巧みです。「アーロン収容所」によると不良イギリス軍士官がおり、腹をたてたビルマ人らが宿舎を襲撃してくるので、見張りには日本兵捕虜をたてるという驚いたことをしています。インド兵だと襲撃をやめないからです。日本兵が見張りにたつと襲撃してこなくなりました。
 日本兵捕虜が大工や左官、機械工など高い技術能力があることを知ったイギリス軍はこれを商売に使います。ビルマ人やシナ人の民営工場に派遣して働かせてビルマ人の数倍のカネをとるのです。
「日本兵は仕事をやれやれと強制すると反抗してかえって動かなくなる。自信が強いからなるべくおだてて使うとうまくいく」というパンフレットまで用意するという手の込みようでした。

 日本では終戦後に朝鮮進駐軍と称する朝鮮人が横暴を働いていましたが、GHQは半ば黙認しています。これはデバイド・アンド・ルールです。台湾人を戦勝国民と位置づけ優遇したのもデバイド・アンド・ルールです。沖縄の諸施設の名称を「琉球」に変更し、内地と距離を置くよう仕向けたのもデバイド・アンド・ルールです。

 さてミャンマー(ビルマ)ではアウンサン・スーチー女史の話がよく聞かれますが、彼女はイギリスが身元を引き受け、教育し、ハンサムな英国人と結婚させました。父の暗殺犯はイギリスの歴史が言うウ・ソー(ビルマ元首相)だと洗脳されました。彼女はイギリスとインドの利益の立場の人です。ミャンマーは民主主義 vs 軍政という単純な構造ではないようです。デバイド・アンド・ルールは今もミャンマーを混乱させています。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「歴史通」2010.3月『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
添付画像
 シュエタゴンパゴダ(C)
   Author: Ralf-Andre Lettau
    Date: 15. Nov. 2005
    Notes: Shwedagon Pagoda
    Source: Photo taken by Ralf-Andre Lettau


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日本のサムライと戦ったことは誇り

当時の人の手記を読むのは戦後のマインドコントロールから目覚めるきっかけになる。

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 大東亜戦争で日本軍はビルマへ進攻し、イギリス軍を追い散らしました。しかし、日本は敗戦。ビルマの日本兵士は捕虜となり抑留させられます。陸軍一等兵だった会田雄次氏はそのときのことを「アーロン収容所」という著書に残しています。
 「アーロン収容所」ではイギリス軍兵士は日本兵捕虜と話しをするようなことはあまりなく、例外的に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」「復讐をしないのか」(カタキウチという日本語を使って聞かれた)「なぜ武装解除に簡単に応じたか」と問いかけられることはあったと書いています。

 あるとき、アメリカで働いていてハーバード大出のイギリス軍中尉が日本兵捕虜の作業場所に来ました。彼は人懐こく、日本兵捕虜によく話しかけていました。そして作業指揮官の日本兵将校と話をしていました。そのとき、日本兵将校が「日本が戦争をおこしたのは申し訳ないことであった。これからは仲良くしたい」とという意味の言葉を言ったところ、このイギリス軍将校は次のように述べました。

「キミたちは奴隷(スレイブ)か。奴隷だったのか」

 人懐こいイギリス軍将校が急にいずまいを正すような姿勢を取りました。会田氏はハッとしました。

「我々は我々の祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それとも主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだと思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝った事を誇りとしているのだ。そういう情けないことはいってくれるな」

 会田氏はイギリス軍将校の言葉には相手を勇気づける好意が含まれているのを感じ、頭がさがる思いであったと述べています。このイギリス軍将校の言葉は戦後の日本の自虐史を真っ向から否定するような言葉でしょう。

 ジャーナリストの笹幸恵さんは、10代のとき、友人の家に遊びにいったとき、ふとこの「アーロン収容所」が目につき、そして読み、このイギリス軍将校の言葉に衝撃を受けたと述べています。

「この日本の将校と英軍中尉のやりとりは、私がそれまで受けてきた十数年の教育を根底から覆すのに十分でした。私たちの父祖の本当の歴史を自分でなんとか学ばなければならないと思いました。戦史や体験記を読んでもわからないことがある。ならばかつての戦場をこの目でたしかめ、この足で歩いてみたいと考え、これまでガダルカナル島をはじめ主に南太平洋の島々を巡ってきました。過去を過去の視点で見ることなしに、単純な善悪二元論で、戦後の日本人があの戦争は誤りだったと断ずるのは傲岸(ごうがん)だと思います」

 笹幸恵さんは学校で
「日本は無謀な戦争をした」と教えられてきましたが、年齢を重ねると疑問が出てきて、「無謀だとわかっている戦争など誰も賛成し、参加するはずもないではないか。無謀と思わない何かを信じたから、あるいは無謀ではあっても、やむを得ざる戦いだったのではないか。そうした疑問を抱えたまま漫然と十代を過ごしていた」と述べています。そしてアーロン収容所を読んで覚醒したのです。戦後教育を受けて来た人は大東亜戦争について笹幸恵さんのように学校やマスコミで言っていることに何か疑問を感じながら過ごしている人は多いのではないでしょうか。そういう方は是非その疑問を自分で調べてみてください。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「正論」2009.10『なぜ歴史の事実は封印されたのか』新城卓 笹幸恵 上島嘉郎

添付画像
 ゼロ戦(靖国神社 JJ太郎撮影)PD

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日本人は人間の範疇ではなかった

白人は有色人種を人間とみていなかった。

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 京都大学教授だった会田雄次氏(1916年3月5日 - 1997年9月17日)は昭和18年(1943年)に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍しました。終戦でイギリス軍の捕虜となり、昭和22年(1947年)に復員するまでラングーンで拘留されました。このときの体験を「アーロン収容所」という本に残しています。

 拘留時のこと、会田氏は部屋の清掃係となり、女兵舎の掃除のときのことです。

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとして驚いた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろを振り向いたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横たわりながら『ライフ』か何かを読んでいる。何の変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコをすい始めた。
 入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし、日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである」

 同じような話がシンガポールでもあります。日本兵捕虜がイギリス軍将校の家に清掃に行った時、室内を清掃していると将校の婦人がシャワーを浴び、素っ裸で日本兵の前を平気で闊歩(かっぽ)したといいます。
 当時、日本人は人間と思われておらず、家畜同然と見られていたことを物語る話です。昭和17年(1942年)のシンガポール陥落のとき、イギリスの風刺雑誌「パンチ」の絵にはジャングルの高い密林の木々の間を日本陸軍の鉄帽と銃を背負った猿の絵が描かれていました。彼らにとって日本人は「イエローモンキー」、獣だったのです。

 イギリス人はビルマ人やインド人に対しても同様の家畜扱いをしていましたが、彼らはイギリス人に愛想よく振りまいていたようです。長い間の植民地支配によるものでしょう。しかし中には日本兵に向かって「なぜ戦争をやめた。もう一度やって、あいつらを追い出せ」というビルマ人もいたそうです。
 また、こんな話もあります。日本兵捕虜の食事には砂がまじっており、日本兵がそれに抗議すると
「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」と抗議を不審そうに大真面目に真剣に回答されたといいます。

 白人らはサーカスと同じように有色人種(家畜)を鞭で十分思い知らせて押さえ込み、好ましい植民地人をつくるために人種交配(新種の家畜)も平気でした。
 インドで日露戦争の日本勝利に刺激されたインド人がやる気を出し、「我々だって機関車を作れる」と言って実際につくってイギリス人に「どうです。褒めてください」というとイギリス人は烈火のごとく起こって
「お前たちに機関車をつくる資格はない。二度と造るな」とメチャメチャに壊してしまったといいます。人間だけが文明の利器を操れるのであって、人間ではないものがそれを考えるのは神の摂理に反するというわけです。

 日本人を含む有色人種は人間とされませんでした。日本は大正8年(1919年)ヴェルサイユ会議で国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案しました。迫害されたユダヤ人に対して昭和13年(1938年)のオトポール事件を含めて日本は国際社会に対して毅然とした態度をしました。そして歴史のうねりは第二次世界大戦を引き起こしました。大戦中の大東亜会議でも日本は人種平等を掲げました。日本は一貫して人種平等を訴えていたのです。戦後、日本の主張どおりに白人の植民地支配は終了しました。昭和30年(1955年)のバンドン会議では日本はアジア・アフリカから大歓迎されています。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之共(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
参考サイト
 WikiPedia「会田雄次」

添付写真
 降伏し武装解除を受ける日本軍兵士。1945年9月(PD)

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イギリス軍の残虐さ

冷酷に残虐さを発揮したイギリス兵。

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 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦が発動されました。日本軍はアラカン山脈を越えてインパールを目指しました。インドの地でイギリス軍に一撃を加え、インド国内に独立機運をつくりあげる目的がありました。しかし、この頃は既にアメリカからイギリス軍にM4戦車などの優秀な装備が手渡されており、日本の対戦車砲は歯が立たず、2ヶ月にわたる激戦の末、日本軍は撤退します。そしてここから英軍は日本軍を追撃していきます(雨季に入ったため深追いはしなかった模様)。イギリス軍は戦闘だけでなく捕虜となった日本兵士の大虐殺を行なっています。

15師団栃平主計曹長の記録

「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけて行った。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけたのだろうと思った。次の瞬間、担架が燃え始めた。見る間に黒煙があがり、あたりは火の海になった。彼等がかけたのはガソリンだった」

 グルカ兵がご主人の英軍の言いつけで足手まといの日本軍傷病兵捕虜を焼き殺したのです。イギリス軍は日本軍の野戦病院も攻撃し、そこの日本軍傷病兵を道路に並べ、将官クラスは後で尋問するのかトラックに載せ、残った日本兵はガソリンをかけ焼き殺しています。疫病の伝染を防ぐ目的もあるのでしょうが、生きたまま焼き殺すとは・・・

 戦争が終わった後、日本兵は捕虜となり強制労働に従事させられます。その中で次のような話があります。

 陸軍一等兵の会田雄次氏が戦闘中にイギリス軍の捕虜になった日本兵から話を聞きました。

「私はミッチーナで傷を負い、倒れていてイギリス軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもよいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人に知らせてください」

 彼はイラワジ河(エーヤワディー川)のずっと河下におり、その中洲に鉄道隊にいた日本人が百何十人か入っていました。泰緬鉄道でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いがかけられてそこに収容されていたのです。そこで何があったか。

 イギリス軍は日本人百何十人の一群を河の中州におき、食糧をほとんど与えませんでした。その中州には毛ガニが棲息していますが、赤痢菌まみれで生では食べれません。中洲は潮が満ちてくると全部水に没し、30センチぐらいの深さになります。日本兵捕虜は背嚢を頭に載せて塩が引くまで何時間もしゃがまされました。イギリス兵は決してカニを生食しないよう警告しますが、日本人捕虜は耐えがたい飢えのため毛ガニを食べました。薪などイギリス軍は用意してくれませんから、生で食べたのです。そして皆、赤痢にやられ血便を出し血反吐を吐いて次々に死んでいきました。水を飲みに行って力尽き、水の中へうつ伏して死ぬ、そんな無残な死に方をしたのです。
 看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日、観測していました。全部死んだのを見届けて
「日本兵は衛生観念不足で自制心に乏しく、イギリス軍の度重なる警告にもかかわらず生カニを捕食し、疫病にかかって全滅した。遺憾である」と上司に報告したのです。

 イギリス兵は殴ったり蹴ったりというのはなく、それはオーストラリア兵に多かったようです。イギリス兵は小児病的復讐心を持ち、表面上、非難に対してうまく言い抜けできるように冷静に、そして冷酷に残虐さを発揮したのです。



参考文献
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『イギリス軍捕虜収容所の悲惨』岩田温
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)

添付画像
 エーヤワディー川 Auth:Colegota(CC)

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ディマプールへ進撃せよ ~ インパール作戦

勝敗は紙一重だった。

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 「コヒマ占領後、引き続きディマプールに突進してもらいたい」


 昭和19年(1944年)ビルマから国境を越えてインドへ進攻するインパール作戦で第15軍牟田口司令官からコヒマを攻略する第31師団へこの司令が出されます。ディマプールはコヒマの北西方40キロにある要所です。しかし、これはインパール作戦計画にはないものでした。第31師団の佐藤師団長は黙殺の態度で聞き流しました。

 第31師団歩五八の主計将校の記録によると
「歩兵五十八連隊が敵をズブザまで追撃し、その後は歩兵百三十八連隊がディマプールまで追撃する」とあり、ディマプール進撃は意識されていたようです。同じく歩五十八の左官の記録からは「敵が北方に向けただちに追撃しようとしていた右突撃隊にコヒマに進攻すべしの命令が四月四日暗くなってから左突撃隊の司令官から発せられた」とあり、ディマプールへの攻撃が中止されたことを物語っています。

 ディマプールはイギリス軍の物資集結基地であり、ディマプールが陥落するとベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、アメリカ軍を崩壊させていただろうという要所です。英ディマプール方面33軍団最高司令官スタッフォード将軍は戦後、牟田口司令の指示通りディマプールを攻撃していたらインパール作戦は成功していた可能性が高かったことを認めています。戦後、イギリス軍の元将校は牟田口司令に
「なぜコヒマからディマプールへ攻撃してこなかったのか」と問い合わせてきています。イギリス軍将校はたちはこぞって日本軍は千載一遇のチャンスを逃したと思っていたといいます。

 牟田口司令官がディマプールの情報をどれだけ押さえていたか不明ですが、軍直轄の特務機関である西機関がチンドウィン河に近いホマリンでインパール作戦準備のための情報活動と、住民宣撫工作を行なっていました。作戦発動前年の11月にインド人工作員3名をディマプール方面へ派遣しています。軍としてはある程度の情報を掴んでいたと考えられます。
 この頃のビルマ戦線では雲南方面の状況については特殊情報班の活躍により通信を傍受解読していました。支那軍の漢字の解読は行えており、そこから間接的にイギリス軍の情報は掴んでいたようです。加藤隼戦闘隊隊員の手記からは昭和18年初期からイギリスの暗号解読が進み対峙するイギリス軍将校の名前もわかっていた、と書かれています。これらのことから牟田口司令官は不十分ながらもディマプールに関する情報を持っていたと考えられます。

 インパール戦でイギリス軍は戦力を後退集結させて日本軍を迎え撃つ戦法に出ましたが、これには広大な領土を戦わず放棄することになるため、インド国内への影響、インド兵士らの士気低下が懸念され、難しい判断であったようです。日本軍がディマプールへ進撃していたらインド国内、インド兵士に動揺が走り新展開の可能性は十分あったでしょう。勝敗は紙一重だったと言えます。しかし結局、牟田口司令官が主張していたディマプール進撃はビルマ方面軍の河辺司令官に拒否されました。そして前線の兵士は武器弾薬、食糧の補給の薄い中、血みどろの死闘を繰り広げ、白骨街道を撤退していきました。恨みはすべて軍司令官の牟田口中将に向けられました。牟田口司令官はインパール作戦の撤退を決めた後、このように訓示しています。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

 インパール作戦から撤退してきた兵士は小銃を肩にしている兵はまだ良いほうで、鉄帽はおろか、ゲートルもなく、素手で飯盒だけ持って雨季の中、雨にうたれている幽鬼の群れでした。

 歩五八・平久保中尉 撤退中に餓えと病で死んでいった兵士の死体を見て
「思えば戦闘間に天皇陛下の万歳を唱えて死ねた将兵は幸福だった。それに反し、ここに死んでいる兵士たちは、おそらく世の無情を思いながら、苦痛にせめたてられ、最後には母の名を呼んで逝っただろう」

 インパール作戦は奇襲による一撃の成否の作戦であり、ディマプール進撃計画は正しかった。しかし、作戦発動後の過程による判断は誤っていたといえるでしょう。作戦は失敗。ではインド・ビルマの地に散った日本将兵は無駄死にしたのか?そうではなかったと思います。イギリス第十四軍司令官ウイリアム・J・スリム中将は自著で以下のように述べています。

「彼ら(日本軍)がアッサムにおける勝利は遥かな密林の土地から遠くへ知れ渡るであろうと考えたのは正しかった。彼らが各部隊に対する訓示で声明した如く世界戦争の全過程を変えたかもしれない」





参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著)/ 茂木弘道(訳・注)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インパール作戦」「牟田口廉也」

添付画像
 ビルマ方面軍司令官・河辺正三(PD)

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第31師団の独断撤退、そしてコヒマに咲いた花 ~ インパール作戦

コヒマに日本兵の花が咲いた。

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 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦発動。佐藤幸徳中将率いる第31師団は3つの突進隊に分かれ、アラカン山脈を越えてコヒマへ進撃しました。4月上旬にはコヒマを占領。1個師団が山脈越えでやってくるとは思っていなかったイギリス軍は大慌てとなります。コヒマはディマプールとインパールの間にあり遮断されればインパールの補給ができなくなります。またディマプールまで攻撃されると、ベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、米軍を崩壊させることになるからです。そしてコヒマで2ヶ月にわたり攻防戦が繰り広げられました。

 インパール作戦は兵站の問題がよく指摘され、補給がままならない状態であったと言われています。第31師団歩五八の主計将校の記録によると現地徴発を行なっています。主食の他、牛や豚を多量に集めることができたとあります。しかし5月からは敵戦車も出現するようになり、砲撃も激しく食料調達、炊事が困難な状況になっていきました。師団本体の方面はイギリス軍の挺身旅団が後方に侵入し、宣伝によって付近住民の感情が悪化して徴発に応じないようになっていました。

 そして6月2日、佐藤幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由にコヒマから独断で撤退してしまいます。

 ビルマ方面司令部宛

「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

 佐藤中将は独断撤退しましたが、師団の支隊である宮崎繁三郎隊は6月22日までコヒマ~インパール道の遮断し、踏ん張っていました。しかし、イギリス軍の1000両におよぶ戦車自動車に突破されました。日本軍には戦車に対して有効な対抗手段を持っていませんでした。
 先に撤退した佐藤師団はモンスーンの季節になった泥んこの道でマラリア、脚気、アミーバ赤痢で苦しみ歩けぬようになり自決するもの、部隊から離脱するものが続出します。それでも残り少なくなった牛を殺して食べたり、山中でタケノコを取って退却行軍しました。1ヶ月かけてチンドウィン河にたどり着きますが、雨季の濁流によって体力が落ちた兵は飲まれて流されてしまいます。

 7月5日に宮崎支隊に撤退命令がでます。第31師団本隊が糧食を求めて撤退した後を行くのです。籾ひとつ残っていない死の退却路です。

 宮崎少将は各部隊に以下を伝達します。

一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ず救うこと。
二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えた後、道路から見えないところに死体を運ぶか、または深く埋めること。

「よいか。餓死した死体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することに拠って全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」 

第31師団参加兵力 約15,000
死亡 : 7,500(戦死4,000 戦病死3,500)
戦傷、戦病によって部隊を離れたもの 4,500

 日本軍がコヒマから去ると野生の雑草の紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れません。そして群生して仲良く一斉に花をつけました。現地のナガ族は敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に戦い、素手に近い装備でも敵の洗車を鹵獲した日本軍の敢闘精神とこの花が二重写しとなり「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。




参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
参考サイト
 WikiPedia「佐藤幸徳」

添付写真
 宮崎繁三郎(PD)

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弓兵団、ビシェンプール、パレルで奮戦 ~ インパール作戦

日本兵士たちの死は無駄死にではなかった。

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  昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動。インド国民軍とともインドのインパールへ進攻しました。5月、日本軍第33師団(弓兵団)はインパール南のビシェンプールを攻撃します。この地を攻略しなければインパールへは到達できません。

「この突撃ならざれば、原隊に見ゆる(まみゆる)ことなかれ」

  突撃大隊は何度か市街に突入しますが、一人も帰ってきません。

  歩兵第二百十四連隊第一大隊長・斉藤満少佐は、5月24日夜、兵380名を率いて、ビシェンプールの北端しから敵陣へ突入。千余名の敵を倒し、360名が戦死。残った20名は28日に敵陣突入し、全員戦死。第九中隊の47名が敵後方に挺身し、敵砲兵陣地を急襲、戦車4両、トラック6両を破壊、敵の宿舎を奇襲します。ビシェンプールのこのような大激戦は70日にわたり展開されます。6月30日の師団の損耗は戦死傷者約7,000、戦病約5,000、計12,000。第33師団の70パーセントにのぼりました。

  第33師団がもっともインパールに近づいたところはレッド・ヒルというところで二百十四連隊はほぼ全滅しています。

  ビシェンプール東南20キロのパレルでは弓兵団の山本支隊が奮戦しました。もはやパレル突破の見込みがなくなっても切り込み隊を編成して殴り込みをかけました。第一陣、井上挺身隊13名は7月1日にクデクノーを出発。敵飛行場のに突入。破甲爆雷、手榴弾による一人一機必殺を念じ見事成功。7月4日に全員無事帰還しました。
  更に第二陣として山田芳枝准尉率いる山田挺身隊9名が出発しました。第一陣の襲撃により敵は警戒を強めているため山中に潜伏したり水中に体を没して敵の隙をうかがいました。敵分哨に遭遇した際は山田准尉が抜刀、兵は銃剣で急襲し、敵に発砲の余地を与えずこれを全滅させました。そして9日の夕方、兵舎、兵器庫、燃料庫を爆破炎上させ、10日に全員無事帰還しました。

  やがて弓兵団は撤退していきましたが、山本支隊の歩兵二百十三連隊の二十数名は撤退の時間を稼ぐため、テグノパールの高地を死守します。追撃してくる敵を引きつけた後、銃身が焼けるほど熱くなるほど撃ちまくり撃退しました。弓兵団の意地を見せつけたのです。

  日本軍兵士たちはインパール手前であるものは無念にも斃れ、あるものは退却していきました。レッドヒルで全滅した二百十四連隊500人の日本兵の霊を弔うために地元ロトパチン村人が慰霊塔を建てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵に食べ物を届けてくれたといいます。私たちのために戦ってくれた、と。

  ロトパチン村の村長
「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです」

  インパール作戦は惨敗に終わりましたが、インドの地に斃れた日本兵士たちは決して無駄死にではなかったのです。



参考文献
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  歴史通2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
参考サイト
  アジアにおける日本と大東亜戦争インド編
    「日本は本当にアジア諸国に嫌われているのか?」飯嶋七生
    http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html


添付写真
  タム付近で英軍の砲火をうける日本軍 第33師団(山本支隊)と思われる(PD)

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日本を戦争に引きずり込め ~ 盧溝橋事件

明らかな戦争挑発。日本の侵略はない。

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  昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が勃発しました。北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と支那国民革命軍第二十九軍との衝突事件です。これは支那共産党の策略と見て間違いなく、前年の西安事件によって蒋介石は命を助けてもらうかわりに抗日に同意し、共産党員らが早く決起するよう煽り立てたものです。

  盧溝橋事件より前に支那二十九軍は日本軍を各個撃破する計画をたてており、これは盧溝橋事件後に日本軍が計画書を発見しています。支那二十九軍は5月から増兵、トーチカなどの整備にあたっていました。副参謀の張克侠(共産党員)は積極的に日本軍撃滅を考えていました。張克侠は二十九軍10万の兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの三戦区にわけ、この地区に分散配置している日本軍を撃滅した後、機をみて山海関に出撃し、満州攻略を考えており、この計画を支持していたのが、共産党の指導者である劉少奇書記です。

  事件発生後、日本軍の憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが土砲と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事件拡大を策していたことが判明しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は
「劉少奇の指導を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書に記してあります。

  モスクワのコミンテルン本部は盧溝橋事件勃発をうけ、次のような指令を発しました。

1.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならない
2.右目的の貫徹のため、あらゆる手段をりようすべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼等に行動をおこさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち判らしめなければならない。
4.党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
5.党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。


  共産党員はこの指令に基づいて幾度も停戦協定をやぶり、日本からの和平の働きかけを悉く壊していったのでした。

  当時支那を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ

「日本人虐殺は続いていた。掠奪、殺人が継続した。そして盧溝橋で日本軍が銃撃された。中国共産党がこれをやった。火をつけて引火させたのだ」

「(これまでの抗日テロにたいして)日本は今度は迅速に対応した。共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟(しんぎん)していた北京市民は、日本との門が開かれたことを喜んだ。彼らは蒋介石の北京抹殺計画を知っていた。また世界では知られておらず、中国人は皆知りたがっていたことだが、蒋介石はモスクワの共産主義と平和協定を結んでいたということも知った。中国共産党は権力の座に昇ろうとしていたのだ。中国共産党は蒋介石と日本を戦わせようとし、戦争に引きずり込んだ。思ったとおりになった。しかし北京の市民はこれらの共産主義者に抵抗した。町が共産主義者に乗っ取られたならば、南京に屈従しなければいけないし、反日軍閥に救いを求めばならない羽目になるのだ」




参考文献
  展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ著/ 田中秀雄(訳)
参考サイト
  WikiPedia「盧溝橋事件」
添付画像
 盧溝橋の国民党革命軍部隊(PD)

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実録 支那事変 1/4
http://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc

インパール戦の強敵、グルカ兵

勇敢だったグルカ兵。

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  グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀、ネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギリス東インド会社は、グルカ兵が傭兵として同社の軍に志願することをネパールに認めさせました。山岳民族で勇猛という点では台湾の高砂族と似ているでしょう。グルカ兵は大東亜戦争のインパール作戦で日本軍と交戦しています。

  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に発動されました。このとき日本軍はインド国民軍と行動をともにし、インド国民軍は前線にいる英印軍インド兵の投降を呼びかけました。昭和17年(1942年)のシンガポールの戦いで、インド兵の投降に懲りていたイギリス軍は前面にグルカ兵を配置していました。このため、投降の呼びかけは戦局を左右するほどの効果はあがりませんでした。

  グルカ兵は勇猛ですから、日本軍の戦局打開のための度々の突撃戦法に恐れず立ちはだかり自動小銃を至近距離で連続発射します。インド兵の場合は恐れて逃げてしまうので、イギリス兵はインド兵の足を立ち木に縛り付けていましたが、グルカ兵にはそうする必要がなく、一歩も引かなかったといいます。これで日本軍は被害を拡大しました。

  グルカ兵は勇猛だけでなく、ご主人様(英国人)に忠実でしかも愚直といいます。インパール作戦が中止となり、追撃してくるイギリスの戦車部隊に遭遇し、山中に逃げ込んだ第15師団の栃平主計曹長は次のように記しています。
「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。次の瞬間、担架が萌え始めた。見る間に黒煙が上がり辺は火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

  ご主人様のいいつけで足でまといになる日本軍傷病兵を焼き殺したのです。残酷な命令であっても忠実に守るわけです。
  終戦となりビルマの日本兵は収容所に入れられます。そしてイギリス軍から「収容所の鉄柵に接近すると逃亡の意志ありと見なして射殺す」と通知が出ました。だいたいこういうのは訓示みたいなものですが、グルカ兵はまじめすぎて柵に近寄った日本兵を自動小銃で撃ち殺してしまいます。

  会田雄次(著)「アーロン収容所」ではグルカ兵に戦争中も収容所でもやられたのである復讐をしたことが書かれています。作業場に電気溶接をやるところがあり、そこにグルカ兵を連れ込みます。溶接作業を見てグルカ兵は大いに好奇心を持ち、
「カクネ、カクネ(面白い、面白い)」といって見飽きるまで強烈な閃光をじっと見つめ、しばらくしてぶっ倒れます。これを次の日本兵捕虜作業員にも申し送り、約10日も続けたそうです。さすがにイギリス軍が調査してグルカ兵に見学禁止を言いわたしました。このほかグルカ兵は「疑う」ということを知らないため、日本兵捕虜が「美しい女がいた」とウソをつくと、グルカ兵はそっちのほうに走って探し、帰ってきて「いない」というと、日本兵がさらに「もっとあっちのほうだ」と更にウソをつくと、何度でも探しにいったそうです。会田氏は日本兵を撃ったのはグルカ兵のせいではないのに悪いことをしたな、と書いています。



参考文献
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  歴史通2009.7「神のごとく振舞った英国人が青ざめた」高山正之
参考サイト
  WikiPedia「グルカ兵」

添付画像
  インパール-コヒマ間の路上を進撃する戦車を伴ったグルカ兵(PD)

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インド国民軍進め、デリーへ ~ インパール作戦

チェロ・デリー!

S1942


  昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース

「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両軍は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインドより放逐せざるを限り、インド民衆の自由なく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ・イギリスの帝国主義戦争の終息もなし。(中略)ここに自由インド政府は、インドの完全開放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くべき厳粛なる決意を布告す」

  インド国民軍、約6,000人が
「チェロ・デリー(進め、デリーへ)」を合言葉にインパール作戦に参加し、日本軍第33師団山本支隊らとインパールに迫るパレルで奮戦しています。第33師団山本支隊はモーレ、タムを突破し、バレルへ進撃しました。佐間連隊、はティディムからトイトムへ、笹原連隊はシンゲルに進出し、開戦わずか一週間で1800両の英印軍自動車部隊を包囲。その後、33師団はビシェンプールへ進撃し、インパールへ迫ります。

  インパール作戦は結果から導き出された「無謀」という刷り込みが行われ、第15軍司令官の牟田口廉也司令官を悪者とする、戦後の日本陸軍悪玉論の格好の標的にされています。しかし、実際には日本軍の特務機関である光機関による諜報、宣伝活動によりインド国内世論の下地をつくり、インパール作戦でイギリス軍に一撃を与え、一気にインド国民の覚醒、蜂起を促すものでした。イギリス軍は日本軍の諜報活動を非常に警戒しました。そしてインパールの戦いではイギリス軍は戦線を縮小して戦力を集中して補給線の伸びきった日本軍を迎え撃つ作戦にでました。これは合理的で「イギリスのほうが賢い、日本陸軍は馬鹿」のように言われてきましたが、戦わずして領土を放棄することになり、インド国内に動揺を与えることに繋がり、非常に難しい判断だったのです。

  第31師団と行動をともにしたインド国民軍のアジミルシン大尉は国境を越えてインドに入った時、
「おお、わが祖国!」と土を両手で握りしめて喜びました。そしてイギリス軍内のインド兵の切り崩しと民衆宣撫を行いました。4人で一班を編成し、敵陣地に潜入し、メガホンで投降を呼びかけるのです。

 光機関・金子工作隊のエピソード

「朝点呼をとったら、インド兵が15人ほど多いのです。おかしいと思って調べたら、これが、なんと、ほんものの英印軍なんです。服装も同じだし、ことばも通ずるものだから、敵のインド兵が夜間偵察に来て紛れ込み、われわれのテントで寝ていたわけです」

  そしてアジミルシン大尉は
「われわれはチャンドラ・ボースを中心とするインド国民軍であって、インド独立のためにここまで来たんだ」と説明すると英印軍のインド兵はすっかり感激して「おれたちも一緒にやる」とそのまま工作隊に入ってしまいました。(この後寝返ってイギリス側へ戻ってしまった)

  この他こんなエピソードもあります。光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。

「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。

「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けし、英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。

  しかし、日本軍の進撃は4月までで戦線は膠着し、7月には遂に撤退命令がでます。

  インド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)。その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害となりました。

  日印双方の夢は費えてしまいました。しかし、このインパールの奮戦は後のインド独立の起爆剤となりました。

  英軍東南アジア総司令部司令官 ルイス・マウントバッテン大将

「かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に、戎衣(じゅうい:戦闘服のこと)も靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわるのは生き地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った」

「それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。もし『日本について神が使命をあたえたものだったら、それは強権をわがもの顔の西洋人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」


  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  進軍の歌は今ぞ高鳴る

  我等の勇士よ眦あげて

  見よ翻るよ独立の旗




参考文献
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インド国民軍」
添付画像
 藤原岩市と握手を交わすインド独立連盟のプリタム・シン(1942年)(PD)

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征け征けデリーへ インド国民軍軍歌

http://www.youtube.com/watch?v=L4X2q4VAXJ0

インパール作戦は無謀だったのか

インパール作戦は一撃の成否如何の作戦だった。

S15pd

  昭和19年(1944年)3月に作戦発動したインパール作戦は補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦とよく言われます。しかし、作戦そのものはアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、この一撃の成否であり、それまでの補給が間に合えばよい話です。
  作戦には自動車中隊150、駄馬輜重中隊60を必要としましたが、昭和19年1月時点で調達率は19%。そこで食糧の携行の他、牛や羊を大量に連れていくことにしました。ジンギスカン作戦といわれる所以です。家畜は途中で四散、脱落したりしていますが、現地人を使って訓練していた部隊は四散させることなく活動していたようです。このジンギスカン作戦には伏線があり、昭和17年(1942年)末から翌18年のアキャブ作戦(三十一号作戦)で第33師団二百十三連隊一大隊、山砲一中隊がアラカン山脈越えの300キロに及ぶ行程を乗り切った時、牛を連れていっています。牛は高山では凍死してしまい、それを食べています。こうした前例があるので、ジンギスカン作戦は無謀とは言えないでしょう。

  第31師団の主計将校の記録によると携行食糧は20日分で一人最低50キロになったといいますから、これは大変です。このほか食糧は現地人と交渉して徴発を行っています。また、英軍が放棄した陣地の倉庫から食糧を得ています。これも作戦の範疇ですが、こういった他力本願で予定がたたないことが作戦として認められるのか?という批判は当然あるでしょうが、実際には第31師団では3月15日の進撃から5月末まではなんとか食糧を調達できています。前述した第33師団二百十三連隊のアキャブ作戦の例では現地徴発の他、川で魚をとってしのいでいます。前例があるので、まったく成り立たないという話ではないでしょう。

  昭和19年3月にインパール作戦が開始される前の年の暮れ12月にインパール作戦の兵棋演習が行われています。兵棋演習は状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究です。このとき、南方軍司令部の今岡高級参謀がこのようなことを言っています。

「軍司令官(牟田口中将)が主張されているように、一ヶ月以内にインパールが攻略できるということであれば、今、軍が考えている補給計画で、その後の補給はなんとか追随できると思う。しかし作戦そのものが途中で頓挫すれば話は別である。突進戦法が失敗すれば補給は続かないし、軍の補給計画は全面的に崩れる。
  要するに問題は補給計画の適否というよりも、軍司令官の言われるように、迂回、突進戦法で敵が崩壊するかどうかの作戦上の見通しにかかっていると考える」


  つまり、補給計画の適否より、一撃の成否だといっています。インパール作戦の本質をついた言です。誤算だったのは第15軍司令官・牟田口中将は英軍はマレー攻略のときのように弱いと思っていましたが、インパール作戦のときには英軍は米国からM3,M4などの戦車や最新の自動小銃を備えており、航空機もふんだんに利用できるようになっていました。山越えのため軽装の日本軍は歯が立たなかったのです。このあたりの敵状の情報収集不足、分析不足には問題がありました。更にいえば昭和19年の時点では既に時遅く利非ず、昭和17年のアッサム進攻作戦(二十一号作戦)を実施すべきでした。

  そしてコヒマおよびインパール方面において一撃がうまくいかなかったときの対応が問題でしょう。牟田口司令官は3月作戦開始で天長節(4月29日)にはインパールを陥落させるとしていましたから、作戦の性質上、戦線が膠着すれば遅くとも5月中旬には作戦を中止しなければならないでしょう。しかし、方面軍司令官の河辺中将が視察にきたのは6月に入ってからでした。6月6日に牟田口中将と河辺中将が懇談しています。

牟田口中将回想
「私は『もはやインパール作戦は断念すべき時期である』と咽喉まででかかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」

河辺中将の日記
「牟田口軍司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」

  何万の将兵の命を預かる軍司令官が「察してくれ」とは批判は避けられません。ビルマ方面の命運を握る方面司令官が前線を視察しておいて、戦況に望みがないと感じておきながら、軍司令官が「言わなかったから」として先送りしてしまうのは更に批判されなければならないでしょう。

  インパール作戦はこの後、1ヶ月にわたって悲惨な戦闘が続き、そして悲惨な退却となりました。一応、両将軍の名誉のために書いておくと、英ディマプール方面33軍団司令官スタッフォード将軍は日本軍のインパール作戦を好評価しています。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド(著)/茂木弘道(訳)
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
添付画像
  インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想(PD)


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