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運のいい男、鈴木貫太郎に国運を託した日本

「鬼貫」と呼ばれた鈴木貫太郎。

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 第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎。海軍大将でもあります。慶応3年(1868年)生まれ。子供のころは泣き虫で「泣き貫」と呼ばれていました。父親は彼を医者にしたかったのですが、「泣き貫」は外国に行きたいという単純な理由で海軍を志望しました。日清戦争では魚雷艇で清国艦船に肉薄攻撃し、この頃から「鬼貫」と呼ばれるようになりました。

 貫太郎は海軍大学校の講師をしていたとき生徒に水雷攻撃について次のように教えていました。


「敵に抱きついて短刀で刺し違えるようなものだ」

 鈴木貫太郎は三歳の頃、暴れ馬の足元に転げ込んだことがあり、馬に潰される寸前で馬が止まるということがありました。7,8歳のとき川の深場に落ちて水中に沈んだことがありましたが、厚着していたため、綿入れの浮力で浮き上がり助かったことがありました。海軍に入って船の錨を2隻のボートでロープを使って引いていたところ、一方の船のロープが切れ、貫太郎が乗っていた船が錨の重みで海に引きずり込まれ、貫太郎はロープに巻かれて十メートルも海中に没し、絶息寸前でしたが、奇跡的にロープが身体から離れて助かりました。日清戦争のとき貫太郎は水雷艇の先頭にたち、


「おれは運のいい男だ」「だから俺についてくれば間違いない。どんな危険なときでも心配するな。またおれはお前たちを死なせるほど下手な戦はしないから、安心しろ」

と訓示を述べ部下たちを落ち着いた気分にさせたといいます。

 侍従長をやっていたとき、二・二六事件で青年将校らの決起軍に襲撃され、4発もの銃弾を受けましたが、奇跡的に助かりました。運の強さは健在でした。

 大東亜戦争も終盤に入る昭和19年(1944年)、東條内閣のあとを継いだ小磯内閣は支那戦線の兵力を引き抜いて太平洋戦線にあて、戦局悪化を食い止めようとして対中和平工作を再開しました。蒋介石政権とつながっているという支那人を使って交渉しようとしましたが、蒋介石の親書を持っているわけではなく、信頼ができる人物ではありませんでした。昭和天皇も「深入りしないようにせよ」とおっしゃり、小磯内閣は瓦解します。このとき貫太郎は枢密院議長でした。

 昭和20年(1945年)4月5日、重臣会議で首相に貫太郎が推されます。貫太郎は「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なりと考えている。耳も遠いし、お断りしたい」と述べます。しかし、平沼騏一郎が食い下がり「鈴木氏は海軍ではあるが、長く文官として最もご信任のある人だ。国民も行きがかりのない精忠無比の人だと皆が信じている」と述べます。
 そして貫太郎は天皇より組閣の大命を受けることになります。しかし、貫太郎は断ります。「政治はまったくの素人で・・・老齢で耳が聞こえず・・・」。昭和天皇はこうおっしゃります。


「耳が聞こえなくてもよいからやれよ」

 いつもは「憲法を遵守せよ」とか「陸海軍の連携を密にせよ」とか注文をつけるところ、それらは何も言いませんでした。鈴木貫太郎は退役後、侍従長を8年間務めており、昭和天皇と以心伝心でした。(昭和天皇は「頼むからまげて承知してもらいたい」とおっしゃったという説もある)


貫太郎「不肖鈴木貫太郎、身命を賭して、ご奉公申し上げます」

 藤田侍従長

「この君臣の、打てば響くような真の心の触れ合う場面を拝見し、陛下と鈴木閣下の応答のお言葉を耳にした私は、人間として最大の感激に打たれた」

 鈴木貫太郎は昭和天皇が和平講和を望んでいることを悟りました。貫太郎は組閣に際して真っ先に市谷の陸軍省に赴き、阿南惟幾(あなみ これちか)大将を陸軍大臣に迎えたいと申し出します。阿南惟幾は鈴木貫太郎が侍従長だった時期のうち、4年間侍従武官を務めていました。ここでも以心伝心の人が選ばれています。公然と戦争終結を口にするわけにはいかず、終戦に持っていくには以心伝心であり、陸軍強硬派を抑えれる人物を陸軍大臣につけたわけです。

 フィリピンが陥落し、沖縄に米軍が上陸した以上、日本の生命線は既に絶たれているのは明らかです。(このシーレーンは現在も日本の生命線) しかし、国民の抗戦意識は強く、陸軍の抗戦意識も強い。どのようにして終戦に持っていくか。ここから鈴木貫太郎と阿南惟幾の以心伝心の腹芸がスタートすることになります。

 組閣翌日の鈴木貫太郎首相演説

「・・・大東亜戦争は、今や如何なる楽観も許されぬ重大な情勢に至りました。私は因(もと)より老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で、国政の処理にあたります」
「わたくしの最後のご奉公と考えますると同時に、まずわたくしが一億国民諸君の真っ先にたって、死に花を咲かすならば、国民諸君はわたくしの屍を踏み越えて、国運の打開に邁進(まいしん)されますことを確信いたしまして・・・」


 「最前列」「真っ先に」という言葉づかいは「おれは運のいい男だ、ついてこい」という意識がにじみ出ています。「わたくしの屍を踏み越えて」の裏にこめられた意味は「機を見て終戦に導く、そして殺されるということ」「命を国に捧げる精忠」です。和平反対派に殺されてでも講和に導くということです。海軍大学校の講師時代に生徒に教えた「敵に抱きついて短刀で刺し違えるようなものだ」という魚雷艇攻撃の精神を語るものでした。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
参考サイト
 WikiPedia「鈴木貫太郎内閣」

添付画像
 鈴木内閣1945年(昭和20年)4月7日(PD)

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昭和宰相列伝3 東條英機、鈴木貫太郎他(1941-1945)
http://www.youtube.com/watch?v=7VtdtDXGW0A

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