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ディマプールへ進撃せよ ~ インパール作戦

勝敗は紙一重だった。

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 「コヒマ占領後、引き続きディマプールに突進してもらいたい」


 昭和19年(1944年)ビルマから国境を越えてインドへ進攻するインパール作戦で第15軍牟田口司令官からコヒマを攻略する第31師団へこの司令が出されます。ディマプールはコヒマの北西方40キロにある要所です。しかし、これはインパール作戦計画にはないものでした。第31師団の佐藤師団長は黙殺の態度で聞き流しました。

 第31師団歩五八の主計将校の記録によると
「歩兵五十八連隊が敵をズブザまで追撃し、その後は歩兵百三十八連隊がディマプールまで追撃する」とあり、ディマプール進撃は意識されていたようです。同じく歩五十八の左官の記録からは「敵が北方に向けただちに追撃しようとしていた右突撃隊にコヒマに進攻すべしの命令が四月四日暗くなってから左突撃隊の司令官から発せられた」とあり、ディマプールへの攻撃が中止されたことを物語っています。

 ディマプールはイギリス軍の物資集結基地であり、ディマプールが陥落するとベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、アメリカ軍を崩壊させていただろうという要所です。英ディマプール方面33軍団最高司令官スタッフォード将軍は戦後、牟田口司令の指示通りディマプールを攻撃していたらインパール作戦は成功していた可能性が高かったことを認めています。戦後、イギリス軍の元将校は牟田口司令に
「なぜコヒマからディマプールへ攻撃してこなかったのか」と問い合わせてきています。イギリス軍将校はたちはこぞって日本軍は千載一遇のチャンスを逃したと思っていたといいます。

 牟田口司令官がディマプールの情報をどれだけ押さえていたか不明ですが、軍直轄の特務機関である西機関がチンドウィン河に近いホマリンでインパール作戦準備のための情報活動と、住民宣撫工作を行なっていました。作戦発動前年の11月にインド人工作員3名をディマプール方面へ派遣しています。軍としてはある程度の情報を掴んでいたと考えられます。
 この頃のビルマ戦線では雲南方面の状況については特殊情報班の活躍により通信を傍受解読していました。支那軍の漢字の解読は行えており、そこから間接的にイギリス軍の情報は掴んでいたようです。加藤隼戦闘隊隊員の手記からは昭和18年初期からイギリスの暗号解読が進み対峙するイギリス軍将校の名前もわかっていた、と書かれています。これらのことから牟田口司令官は不十分ながらもディマプールに関する情報を持っていたと考えられます。

 インパール戦でイギリス軍は戦力を後退集結させて日本軍を迎え撃つ戦法に出ましたが、これには広大な領土を戦わず放棄することになるため、インド国内への影響、インド兵士らの士気低下が懸念され、難しい判断であったようです。日本軍がディマプールへ進撃していたらインド国内、インド兵士に動揺が走り新展開の可能性は十分あったでしょう。勝敗は紙一重だったと言えます。しかし結局、牟田口司令官が主張していたディマプール進撃はビルマ方面軍の河辺司令官に拒否されました。そして前線の兵士は武器弾薬、食糧の補給の薄い中、血みどろの死闘を繰り広げ、白骨街道を撤退していきました。恨みはすべて軍司令官の牟田口中将に向けられました。牟田口司令官はインパール作戦の撤退を決めた後、このように訓示しています。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

 インパール作戦から撤退してきた兵士は小銃を肩にしている兵はまだ良いほうで、鉄帽はおろか、ゲートルもなく、素手で飯盒だけ持って雨季の中、雨にうたれている幽鬼の群れでした。

 歩五八・平久保中尉 撤退中に餓えと病で死んでいった兵士の死体を見て
「思えば戦闘間に天皇陛下の万歳を唱えて死ねた将兵は幸福だった。それに反し、ここに死んでいる兵士たちは、おそらく世の無情を思いながら、苦痛にせめたてられ、最後には母の名を呼んで逝っただろう」

 インパール作戦は奇襲による一撃の成否の作戦であり、ディマプール進撃計画は正しかった。しかし、作戦発動後の過程による判断は誤っていたといえるでしょう。作戦は失敗。ではインド・ビルマの地に散った日本将兵は無駄死にしたのか?そうではなかったと思います。イギリス第十四軍司令官ウイリアム・J・スリム中将は自著で以下のように述べています。

「彼ら(日本軍)がアッサムにおける勝利は遥かな密林の土地から遠くへ知れ渡るであろうと考えたのは正しかった。彼らが各部隊に対する訓示で声明した如く世界戦争の全過程を変えたかもしれない」





参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著)/ 茂木弘道(訳・注)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インパール作戦」「牟田口廉也」

添付画像
 ビルマ方面軍司令官・河辺正三(PD)

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