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2012年8月

軍神となった加藤建夫隼戦闘隊長

死に様も自ら身をもって示した加藤戦隊長。

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 加藤隼戦闘隊(陸軍飛行第六十四戦隊)は大東亜戦争中、マレー、シンガポール、ジャワ、ビルマで活躍しました。戦隊長の加藤建夫中佐は普段は優しい人でしたが、任務に対しては厳格な人で
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」「不時着して飛行機を敵に渡すようなことがあってはいけない」と厳しく部下に語っていました。

 昭和17年(1942年)3月12日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイへ進出。この日よりフライングタイガースP-40トマホークと死闘を演じます。4月26日、ビルマへ進出。ローウィン、ラシオ、アキャブ、チッタゴンで輝かしい戦績を重ねていきました。

 5月20日、アキャブ新飛行場にロッキード爆撃機が攻撃してきました。ちょうど加藤戦隊長機がトングーからアキャブへ来たところで、ロッキード機を撃墜しました。翌21日もロッキード爆撃機が来襲し、加藤戦隊は出撃しました。この出撃で清水准尉機が被弾し、落下傘降下していきました。捜索は南特務機関に依頼しました。

 その夜、宿舎で全将校が会食後、大谷中尉と遠藤中尉が加藤戦隊長に呼ばれて寝室に入りました。加藤戦隊長は非常に機嫌がよく、次から次へと話題を変えてはとめどもなく話し続けました。普段は口数はあまり多くなく、聞き上手の加藤戦隊長がこの日は全く異なりました。


「ドイツへ行ったとき、ヒトラー総統御自慢の戦闘機を見せてもらったが、ちょっといじってみたら大体わかったので、その場で乗って飛んだら、ずいぶんびっくりしたらしいよ、向こうはね。日本には無茶なヤツがいるってさ、ハハハハ」

 大谷大尉と遠藤中尉は今晩の戦隊長はどうしたものかなと思いながらも、珍しいお話をお伽噺のように夜遅くまで聞いていました。

 5月22日、加藤部隊はトングーへ戻ることになっていました。遠藤中尉はデング熱を発症し、加藤戦隊長の命令により一足先にトングーへ戻らされました。これが加藤戦隊長と遠藤中尉の最後の別れとなりました。
 この日の正午、行方不明の清水准尉の捜索報告が正午には南機関よりくることになっていましたが、機関員の田中中尉がくる様子がありません。トングー行きを伸ばしていると敵のブレニム爆撃機が一機出現しました。


「回せっ!」

安田曹長機が真っ先に離陸し、大谷大尉機、加藤戦隊長機、伊藤曹長機、近藤曹長機の順に離陸し、敵機を負いました。敵爆撃機は海上低く逃走します。安田機がまず銃撃を加えました。敵爆撃機の後方銃座から反撃が加えられ、曳光弾(えいこうだん)が空中で交差して火花が飛び散りました。安田機は風防ガラスを砕かれ、安田曹長は顔面に傷を受け、基地に引き返しました。
 大谷機も交戦中被弾し、燃料タンクを撃ち抜かれ、戦列を離れました。加藤戦隊長は逃してなるものかと捨て身の戦法で後上方から肉薄攻撃を仕掛けました。敵機は被弾するたびぐらぐら揺れますが完備した防弾のためなかなか落ちません。アキャブ西北方90キロ、アレサンヨウ西方10キロの海上で加藤戦隊長機が再び必殺の一連射を加え、見事に決まりました。

 ところが、加藤戦隊長機の右翼から突然、火が出ました。戦隊長はちらりと後ろを振り返り、従う伊藤機、近藤機に目をやりました。陸地は近いですが、そこは敵地です。加藤戦隊長機はゆっくりと翼を振り、そして低空からくるりと反転し、機種を垂直に立てて海中ふかく突っ込んでいきました。ときに5月22日、午後2時30分。普段から
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」と部下に厳しく言っていたことを自ら身を持って示したのです。

 5月30日、加藤戦隊長に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 加藤建夫中佐が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。

 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦

添付画像
 支那事変の出征時の加藤建夫(PD)

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加藤隼戦闘隊 (Kato hayabusa sento-tai - Colonel Kato's Falcon Squadron)
http://www.youtube.com/watch?v=YcuGt2ZVZrE

強者、安田義人 ~ 加藤隼戦闘隊

強運の持ち主、安田義人。

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 大東亜戦争中、特にビルマ戦線で活躍した加藤隼戦闘隊の中にあって「強者中の強者」と呼ばれたのが安田義人准尉です。二度も不時着し、一度目は敵地だったにもかかわらず奇跡的に生還しています。

 昭和17年(1942年)4月29日、加藤隼戦闘隊は空挺部隊のラシオ占領の援護をしていました。このとき安田曹長機がガソリン洩れをおこしました。安田曹長機はグングン高度を下げていきます。黒江中隊長機が心配そうに寄り添ってきます。あまり遅れると主力に追いつけなくなるので、安田曹長は黒江中隊長に手を振り、編隊に戻るよう促しました。黒江中隊長は安田義人は
「どんなに危ないときでも、決してひるまなかったし、運命を投げてしまわない神経があったはずだ」「安田義人はきっとかえるはずだ。どんなことがあろうと彼が自ら打開してくれるにちがいない」と自分自身に言い聞かせながら、安田機と別れました。

 安田機は平地に入り、胴体着陸を試みました。前方に崖があります。もう飛び越すことはできません。ザザーと着陸し、崖すれすれに着陸しました。けがはありませんでした。

 着陸した場所は敵地であり、友軍の最前線までは120キロあります。安田曹長は歩き始めました。途中でビルマ人に道を尋ねてさらに歩いていると前方に一人の支那兵がビルマ人を従えて歩いてきます。向こうもあまりの突然の出会いに驚いた様子でしたが、お互い気をのまれたまますれ違いました。すれ違ったあともお互い何度も振り返り、やがて支那兵の姿が見えなくなると安田曹長は一気に走り去りました。

 安田曹長はビルマ人の部落に入りました。ビルマ人らは最初は驚きましたが、食事を提供してくれ、
「安全な部落がある。4人の男に案内させる」と別の部落に案内してくれました。その部落でも暖かい食事を作ってくれました。一泊後、翌朝、弁当を持たせてくれました。

 翌日、ある部落に到着すると
「このまま進めば支那軍にやられるぞ」と村のビルマ人から警告を受けました。そこで安田曹長は飛行服とビルマ人の服を交換してもらい、ビルマ人の姿で歩き続けました。支那軍を回避し、野宿をして寒さと空腹に耐えながら3日目、最前線のサモンカンまであと2,30キロというところで支那軍の歩哨がいる橋にさしかかりました。ちょうど向こう側から荷馬車が通りかかり歩哨の点検が始まりました。安田曹長は意を決して橋を渡り、荷馬車の裏側を通りました。セーフ、気づかれなかったのか、怪しまれなかったのか無事通り抜けることができました。※1

 安田曹長はさらに歩き続け、またもや支那軍の一団に遭遇します。これを回避し、歩き続けました。空腹と足の痛みでヘタヘタと座り込みたい気持ちに鞭を打ってトボトボと歩き続けました。

「おれもいよいよ年貢の納め時が来たか、5月1日が命日か」

 日本軍がいるはずのサモンカンまであと2,3キロ。道路の前方でたくさんの自動車が停止しているのを見つけました。イギリス軍の自動車です。山に入りじっと様子をうかがいました。周囲に注意しながら近づいてみると先頭の乗用車に日の丸が見えます。安田曹長は
「ああ!」と叫び、かけよりました。自動車部隊の隊長は加藤戦隊長をよく知っており、特別にトラックを出してくれ、5月2日、安田曹長は無事、加藤戦隊に帰還できたのです。

 加藤戦隊に到着すると皆がかけより「よかった、よかった」と声をかけました。

「安田曹長ただいま帰りました!」

 戦隊長に報告にいくと黒江中隊長は
「よかったな」と声をかけ、加藤戦隊長は「おまえのことだから恥さらしのことはしないだろうと確信していた。よかった」と喜びました。

安田
「隊長、明日からまた出動させてください。体は大丈夫だし、もうこうなったら・・・」
加藤隊長
「まあいいよ、そう張り切らなくても、ひとつゆっくり休養して、それからだ。何はともあれビルマ人から、まず日本人にかえってもらわなくては・・・山本曹長、安田君をやすませろ・・・」

 そして皆が安田曹長の肩を抱くようにして去っていきました。



※1 黒江保彦の記録では安田曹長から聞いたとして記載があるが、橋のところで支那兵に呼び止められたとある。



参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

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 左から高橋俊二、安田義人、安間克己 「歴史街道」2011.8より

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死闘!加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース

こっそり参戦してきたアメリカのフライングタイガース。

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 フライングタイガースというのはアメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊のことで、アメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で、中華民国軍として兵籍に入りました。ほとんどは米軍人で退役の形をとりましたが、米軍復帰は約束されており、真珠湾攻撃前の姑息な方法によるアメリカの参戦であり、中立違反です。(アメリカ合衆国義勇軍AVGという)

 このフライングタイガースと日本陸軍飛行第六十四戦隊・加藤隼戦闘隊が激戦を交えています。昭和16年(1941年)12月25日のラングーン空襲で、25機の隼で九七式重爆撃機を護衛していた時にフライングタイガースと交戦。宿命の対決の幕が切って落とされました。

 昭和17年(1942年)3月21日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイ飛行場に集結。フライングタイガースはビルマのロイウィン、ラシオ付近に展開していました。
 4月6日、フライングタイガースP-40トマホークがチェンマイ飛行場を空襲します。P40の航続距離から考えると不可能と思われていましたが、中継基地をつかっての空襲であり、奇襲となりました。
 4月8日、加藤隼戦闘隊はローウィンを攻撃します。このとき戦隊が得ていた情報はフライングタイガースは既に戦力を消耗しているという情報でした。そのため実戦経験のない搭乗員も連れて行ったのです。しかし、フライングタイガースの戦力は十分残っており、しかも待ち伏せされており、戦隊が地上攻撃をはじめたとき約20機のP40がまともに上からかぶさってきました。苦しい戦闘の末、戦死1、未帰還3という結果となります。エース中のエース、安間大尉が戦死し、三人未帰還という損害を被りました。フライングタイガースは現地のシナ人を使って地上から監視させ、無線などで日本機の進行コースなどをAVG司令部に知らせていたのです。

「不覚であった!」

加藤戦隊長はチェンマイ飛行場へ帰還すると沈痛な表情でつぶやきました。この日の夕食時、加藤戦隊は灯の消えたようでした。ローウィン攻撃に参加していなかった檜與平中尉は「戦隊長、残念ながら打つ手がありませですね」というと、加藤戦隊長は次のように答えました。

「檜、おれはかならず、きょうの恨みを晴らしてみせる。いいか、人間はいかなる困難にぶつかっても、投げてはいかんぞ。方法はきっとあるものだ」

それから加藤戦隊長は夜遅くまでえローウィン攻撃の作戦計画をたてはじめました。そして出た答えは夜間航法による払暁攻撃でした。650キロ先のローウィンまで2時間の夜間飛行が必要になります。月齢23日のわずかな月明かりの中、人家はなく山また山という650キロです。

「航法だに成功せば、敵を奇襲しうるの確信を有す」

加藤戦隊の安田義人曹長は加藤戦隊長のこの言葉を20年後も忘れることができない、と記しています。

 4月10日、加藤隼戦闘隊9機は夜間に出撃し、途中4機がエンジン不調で引き返し、残る5機が払暁にピタリとローウィン上空に到着しました。加藤戦隊長の航法はパーフェクトでした。ローウィン飛行場にはトマホークP-40が23機、カバーをかぶせたまま一列横隊に並んでいました。加藤戦隊は急降下し、ダ、ダ、ダ、ダッ、と一撃をかけ上昇。更に急降下し銃撃。これを数度繰り返し敵に損害を与えました。奇襲成功です。

 部隊はチェンマイ帰還後、直ぐ第二撃に飛び立ち、再びローウィンを攻撃します。加藤戦隊長、十八番のピストン攻撃でした。「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を叱咤激励しました。
 夕方、ローウィン上空で加藤戦隊とフライングタイガースの死闘が繰り広げられました。フライングタイガース2機を撃墜。加藤戦隊も後藤曹長と三砂曹長が戦死し、檜中尉が負傷するという激戦でした。

 加藤戦隊は4月26日にはビルマのマグウエ基地に前進し、28日にローウィンを攻撃。このとき平野伍長機は撃墜されますが、伍長は落下傘で脱出し、敵地から奇跡的に生還します。29日のラシオ攻略の陸軍落下傘部隊の護衛では安田曹長機が撃墜されるも胴体着陸し、これも敵地から奇跡的に生還しました。フライングタイガースは4月30日には昆明に退却し、7月3日には解散しました。(中国空軍起動部隊(CATF)に編入)


参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
参考サイト
 WikiPedia「フライング・タイガース」「加藤隼戦闘隊」
添付画像
 フライングタイガースに所属するP-40Cトマホーク(PD)

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一式戦闘機 隼
www.youtube.com/watch?v=Pf1_7UbMdBA

空の神兵と加藤隼戦闘隊

歴史を変えた空の神兵。

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 昭和17年(1942年)2月6日、7日、8日、13日とパレンバン航空撃滅作戦が決行されました。スマトラ半島のパレンバンは東南アジア有数の大油田地帯で、資源のない日本にとって最重要攻略目標地でした。14日には落下傘降下作戦が予定されており、それに先立って敵の航空戦力を撃滅しておくのです。

 パレンバン落下傘降下作戦には陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊が護衛にあたることになっていました。加藤戦隊の檜與平中尉はマレーのカハンの宿舎の近くのゴム林の広場にたくさんの兵士が車座になっているのを見かけました。そこには黄色い袋の落下傘が高く積み上げられ、祭壇が設けられて数本の蝋燭が灯されていました。落下傘降下部隊「空の神兵」です。神兵たちは敬虔な祈りを捧げていました。檜中尉は足をとめて成功を祈り、頭を深く垂れました。そして行き過ぎようとすると走って追いかけてくる人たちがいます。檜中尉の同期の元田精一中尉と、飯塚英夫中尉、野崎幹雄中尉でした。みな落下傘部隊の操縦者です。

「おお、檜、パレンバンの敵さんはどうだい」


「パレンバンには、いるぞ、いるぞ。戦闘機が山ほどいるから、危ねえものだぞ」

「ほんとか。降りたらこっちのものだが、降りるまでは、なんともならん。降りるまでは頼むぞ」

「心配するな。うちの部隊がついているんだ。安心して、おフクロの夢でも見て寝ろよ、大船にのった気でなあ」「じゃあ、あしたな」

「うん、頼むぞ」

 14日、陸軍戸山学校で鍛えられた一騎当千の空の神兵降下部隊329名のうちの第1悌団は一〇〇式輸送機やロ式輸送機に乗り、パレンバンを目指しました。護衛は加藤隼戦闘隊と飛行第59戦隊です。
 パレンバンは視界が悪く目標がなかなか見えません。やっと雲の切れ間があり、高度を600メートルまで下げ、大編隊はパレンバンへは突進しました。いよいよ降下のというときは飛行速度は時速200キロ近くまで落とします。このとき敵機に攻撃されると大変です。高度300メートル。雲のため落下傘降下の最低高度となりました。まだ敵機は現れません。

「いまだ、はやく降りてくれ!」

 加藤隼戦闘隊員は祈るような気持ちで輸送機を見つめました。11時25分、歴史的瞬間!輸送機から黒いものがパラパラと無数に転がり出て、あっと思う間に純白の落下傘が間隔をおいてパッパッと開きました。気付いた敵の地上砲火が炸裂しはじめました。しかし、この時点では落下傘部隊の被害は皆無でした。加藤戦隊は来襲してくる敵ハリケーン戦闘機やスピットファイアと交戦し、12分の戦闘でこれらを撃墜しました。そして空の神兵が地上で集結しつつあるのを確認して戦場を離脱しました。

 2月15日朝、偵察機から報告が入りました。
「精油所は火煙のため確認できざるも、飛行場占領部隊は集結した部隊をもって飛行場を攻撃。その占領も時間の問題と考えられる」

 15日には第二次の降下部隊第2悌団がパレンバンに降下しました。この時点で既に飛行場は占領していました。空の神兵たちはパレンバン市街を占領しました。神兵はじつによく大任を果たし、加藤戦隊を喜ばせました。また、この占領によりシンガポールのイギリス軍の後方を遮断させることになり、15日9時50分、イギリス軍は白旗をあげて降伏しました。

 2月17日、加藤隼戦闘隊はパレンバン飛行場へ進みました。ゴム林の中にはどこもかしこも石油缶の山であり、"ガソリンの一滴血の一滴"のスローガンで節約してきた日本人にとっては驚きでした。辻々の立札には日本の落下傘部隊が降下してきた場合に、抵抗することを指示した絵入りのポスターが貼られていました。情報は洩れていたのです。しかし、シンガポール陥落より前に強行したことが「奇襲」となり成功となったのでした。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
添付画像
 一式戦一型(キ43-I)(PD)

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空の神兵
http://www.youtube.com/watch?v=sZwRg-rNnzs

閔妃は国母ではない

驚きの韓国の捏造歴史。

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  閔妃(ミンビ、びんぴ)は李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃です。高宗の父、大院君が親戚の娘である閔妃を選び、王妃にしたのですが、とんだ誤算で閔妃は義兄の閔升鎬と組んで舅である大院君を権力から追い出し、実権を握ってしまいました。大院君は隠居。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等となります。この後、1875年に江華島事件が起こり翌年に日朝修好条規が結ばれ、李朝と日本の間に正式な国交が結ばれます。

  しかし、閔妃と大院君の抗争は続き、1882年、壬午軍乱により大院君が再び政権を奪取します。しかし、閔妃は清に援軍を求め、再び大院君を追放。1884年には金玉均(キム・オッキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐載弼(ソ・ジェピル)ら開化党メンバーが大院君を奉じてクーデターを決行。しかし、またまた閔妃は清国軍に援軍を求め、政権を取り返します。そして日清戦争を経て、1895年乙未事変がおこり、訓練隊の禹範善(ウ・ボムソン)によって殺害されました。よく乙未事変は日本の仕業と言われますが、これは反日マスコミの刷り込みであり、朴泳孝らの計画に日本が軍事行動を担当したものです。大院君は閔妃一派排除を支持しています。

  この閔妃は韓国では「慈悲深い国母」「悲劇の皇后」と信じられている?ようです。実際は一族の栄達のために国費を浪費し、李朝を亡国に導いた張本人です。朝鮮の民主化、独立を推進しようとした金玉均に刺客を放って殺害し、その墓を暴いて四股を切断し打ち捨てました。
 閔妃はさらに、ロシアに金鉱の採掘権、石炭採掘権、森林伐採権を売り飛ばし、米、独、仏、英にも資源の採掘権、鉄道建設権を切り売りし、贅沢三昧の暮らしに充てていたのです。これを買い戻して朝鮮を列強の干渉から守ったのは、もちろん日本です。

  閔妃は死後、大院君の提言で 身分を剥奪され平民に格下げされました。しかし、その後、特命全権公使の井上馨の尽力によって「明成皇后」という贈り皇族に戻しています。

  1970年代あたりまでは韓国人も閔妃の真の姿を知っていたようですが、その後は「慈悲深い国母」のイメージに180度転換しています。韓国のマスコミは「明成皇后シンドローム」と表現しました。「明成皇后 The Last Empress」というミュージカルが作られ、KBS(韓国放送公社)がドラマ化し、2001年に「明成皇后」のサウンドトラックが発売されると最高潮に達しました。悪徳な日本公使・三浦梧楼が朝鮮人志士らをけしかけて王妃を殺害する、というようなストーリーらしいです。50歳以上の年配の人は不思議に思っているかもしれません。かつては「閔后のような女」というと女性に対する最大の侮辱であったといいます。

  韓国人ジャーナリストの金完燮(キム・ワンソプ)氏は閔妃のことを、朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物となどと評論したところ、ソウル中央地裁から名誉毀損として閔妃遺族らにそれぞれ1000万ウォンを支払うよう命じられる判決が出ています。

  金氏はこのシンドロームについて「韓国人が直面しているアイデンティティの混乱を端的に示している」と述べています。

金完燮氏
「韓国人が朝鮮王朝を懐かしく思い、朝鮮王朝が続いていたら今頃もっとましな状況だったに違いないと考えるのは、当時の朝鮮の実態をまともに知らないからだ。特に子供や青少年は、きれいな町と家、整った身なり、丁寧な言葉遣いなどで描写されたテレビの歴史ドラマを見て、朝鮮もそれなりに立派な社会で、外勢の侵略がなかったならば静かで平和な国家を維持できただろうと錯覚するのである。しかし、日本が来る前の朝鮮がどれほど未開で悲惨であったかという事実を知らなくてはならない」

  まあ、韓国で歴史捏造・歪曲され、錯覚がおきようと日本は関係ありませんが、そのような錯覚の産物を"韓流"といって、日本に持ち込んでくるのは勘弁願いたいものです。



参考文献
  朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
  オークラ出版「反日マスコミの真実2010」『やってくる閔妃ウェーブを迎撃せよ』若杉大
  扶桑社「親日派のための弁明2」金完燮(著) / 星野知美(訳)
参考サイト
 WikiPedia「閔妃」

添付画像
 景福宮慶会楼(1906年頃)(PD)

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隼、シンガポールへ ~ 加藤隼戦闘隊

同じカラーだった。

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 昭和17年(1942年)1月12日、マレーのイボーに前進した陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊はシンガポール攻撃の命令を待っていました。敵に機先を制されることなく、夜間に出撃するのです。しかし、あと一時間もすれば明るくなるのに出撃命令が出ません。

「よし、いこう!」

 加藤建夫戦隊長は出撃を決断。離陸寸前に出撃中止命令がでますが、「ここで中止すれば混乱を来たし、大損害を出すおそれがある」として出撃を強行しました。出撃すると重爆隊がすでに出撃しており、加藤戦隊は重爆隊を護衛してシンガポールへ向かいましたシンガポールには百機余りの戦闘機があるはずでしたが、もぬけの空でした。続く13日の出撃もわずかにバッファロー戦闘機が5,6機出撃してきただけでした。加藤戦隊は連日のようにシンガポールへ出撃しました。

 1月20日、まだ夜が明けない頃、檜與平中尉は枕元で物音がしたので目を覚ますと八田中尉が口の周りを歯磨き粉で真っ白にして立っています。

檜 
「おい、どうしたんだ?」
八田
「おい、檜、起きろよ。歯ブラシが折れたんだよ。今日はおれの最期だよ」
檜 
「ばか、歯ブラシだって何かの拍子に折れるさ」

 この日、八田中尉は敵、スピットファイアの奇襲を受け戦死しました。

 1月31日、檜中尉は後藤力曹長と奥山長市曹長を連れて、第三中隊の竹内正吾中尉の指揮する1個編隊に従って出撃しました。爆撃隊の護衛です。爆撃隊は目標へ正確に爆撃し、ジョホール水道の上空を北上して帰路につきかけていました。そのとき敵ハリケーン戦闘機10数機の大編隊が襲ってきました。檜機らは反撃します。檜中尉は数機撃墜し、ふと下をみると後藤曹長機がいました。後藤機の後方から敵機が狙っていました。後藤機は気づいていません。

「後藤危ない!」

 檜機はまっさかさまに突っ込んで救援に向かいましたが、時すでに遅く、後藤機は一連射を浴び、機体から火を噴き、墜落していきました。

 後藤曹長は落下傘降下していました。そしてゴム林の中の小さな村落に降りました。ちょうどイギリス軍が、なだれのように敗走している真っ最中でした。見つかってはまずいので、後藤曹長は一目散にあてもなく走って落下傘の側を離れました。そして、村のはずれの一軒家の物置の中の草むらに身をひそめて外をうかがっていました。
 夕方になり、周囲が薄暗くなると敵の通過も少なくなります。すると、家の中から17,8歳のマレーの少女が出てきて、どうしてか後藤曹長がいることを知っており、「来い」「来い」と手招きしています。しばらくすると、お盆の上に握り飯を乗せて一間ぐらいまで近寄ってきてお盆をおいて、家の中に走り込んでいきました。

 夜になると、また少女が現れて、「来い来い」と招くので、後藤曹長は今度はついていきました。家の中には歳取った父親が何か細工物をしていましたが、少女と何か話すと家を出ていきました。「もしや敵に通報するのでは?」と思った後藤は家を出て行こうとしますが、少女が手を横に振って引き留めて放しません。そうしているうちに5,6人のマレー人の青年が家にやってきました。後藤曹長は拳銃を持って身構えました。ところがマレー人らはニッコリとしてみんな手を出してこういうのです。

「カラー」「カラー」

手の色も顔の色も同じだ。われわれは味方だというのです。後藤曹長は安心しました。後藤曹長はひどい火傷をおっていましたが、彼らは実に親切に看護してくれ、家の外では若者たちが鎌や棒を持って護衛してくれました。後藤曹長は感激し、傷ついた身体も心もふるわせて泣きました。

 やがて日本軍第五師団が進出してきて後藤曹長は野戦病院に収容されました。後藤曹長が生きているという報せをうけた檜中尉は野戦病院を訪ねました。後藤曹長は全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、目だけ出して横たわっていました。

「後藤曹長!」
「檜中尉殿!」

 後藤曹長の目から大粒の涙がとめどもなく流れました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

文頭イラスト
 加藤建夫 武士道Tシャツ http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11298078332.html
 ホームページ http://www.ekakineco.com/index.html
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出撃、加藤隼戦闘隊

対米英開戦。隼が征く。

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 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争対米英戦の火蓋がきっておとされました。陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊は仏印フコク島で出撃の命令を待っていましたが、爆撃戦隊のいるプノンペン飛行場が豪雨で出撃は中止となりました。しかし、加藤建夫戦隊長は出撃を敢行します。目指すはマレーのスンゲイパタニ飛行場です。

「敵機発見!」

 初の実戦に檜與平中尉はゴクリと唾を飲み込みました。喉がからからに乾いていたのです。敵機はイギリスの中型爆撃機ブレニムでした。大泉製武中尉機がブレニムの後ろ上方から最初の攻撃を仕掛け、さらに高山隊長機が攻撃し、その後、檜中尉の隼が攻撃します。ブレニムは被弾しながらもなかなか落ちず、最後は八田米作中尉機が攻撃し、ブレニムは尾部がバラバラに分解して吹っ飛び、ペナン島対岸のアエルタワル飛行場の片隅へ、真っ逆さまに落ちていきました。加藤隼戦隊はこの日、スンゲイパタニ、アロルスター、アエルタワル、ペナンの敵飛行場を次々襲撃し、戦火をあげ、緒戦を飾りました。

 9日、ペナン島アエルタワル飛行場を攻撃、11日ケダー州を攻撃。寺内南方軍総司令官から感状が授与されました。13日にはクワンタンを攻撃し、コタバル基地へ前進しました。
 22日、加藤戦隊はクアラルンプール上空でバッファロー戦闘機の大編隊と激しい空中戦を展開します。600ないし700mの優位な高度をとった高山編隊が次々反転し、バッファローを攻撃し、片っ端から撃墜していきます。安間編隊は遁走するバッファローを撃墜します。おそらくは全機撃墜したであろうという理想的な大空中戦でした。

 12月23日、ビルマ方面で重爆隊がラングーンを攻撃しましたが、戦闘機の護衛が足らず、25日のラングーン攻撃に加藤戦隊が護衛につくことになりました。加藤戦隊はタイのドムアン飛行場に移動しました。飛行場に着くとタイの空軍兵士が群がってきて「ナカジマ、ナカジマ」(中島飛行機製作)と隼戦闘機を撫で回しました。

 25日、加藤隼戦闘隊はラングーンへ向けて出撃。爆撃隊はラングーンに爆弾を投下しました。その帰路のこと、敵戦闘機が爆撃隊を襲撃してきました。加藤戦隊の任務は爆撃隊の護衛ですから、敵機を深追いすることは禁物です。加藤戦隊長は敵機が襲ってくると威嚇射撃をし、敵を追っ払い、決して深追いせず、爆撃隊から離れることはありませんでした。しかし、敵機を攻撃したい気持ちで一杯の若い隊員たちは気が焦り、深追いしてしまいます。檜與平中尉はバッファロー戦闘機3機が攻撃してきたので、急旋回でやりすごし、追撃を開始してしまいました。敵機を撃墜したときには、爆撃隊は遠く機影が豆粒のように小さくみえるくらい離れてしまいました。案の定、二手にわかれていた爆撃隊の一隊は敵機の攻撃を受け、三機が撃墜され、一機が不時着という損害を受けてしまいました。

「貴様らは、それでも戦闘機乗りか!」


 基地にもどると、普段はやさしい加藤建夫戦隊長は烈火のごとく隊員たちを叱りつけました。檜與平中尉が遅くにひょっこり戻ってくると
「檜!今頃のこのこ帰ってくるとは何事だ!」と怒鳴りつけました。戦隊長は爆撃隊の隊長のもとへいき、「自分のいたらぬ指揮で援護ができず、大きな損害を出させ、何とも申し訳ありません」と謝罪しました。

 隊員はショボンとして、タイランドホテルに帰りました。皆無言です。食卓に着くと加藤戦隊長は
「本日は残念だった。さあ、みんな元気を出して、一杯やろう。ご苦労さん」と声をかけます。もう普段の加藤建夫にもどっていました。

「おい、檜、ここへ来い。うまいのをやろう

加藤戦隊長はザボン(果物の一種)を剥いて檜中尉へ渡しました。

 隊員たちはすっかり元気を取り戻し、
「明日もう一度、攻撃をやらして下さい」「お願いします」と戦隊長に熱心に頼み込みました。加藤戦隊長は「そのうち機会はまたあるさ。シンガポールも残っているじゃないか」と諭(さと)すように言いました。加藤戦隊は恨み深いラングーン攻撃をいったんあきらめて、タイを後にコタバル基地へ帰還しました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

文頭イラスト
 倉橋ちみも 仕事を探して3千里 http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11229712704.html
 yahoo版 http://blogs.yahoo.co.jp/fumizo4989/9192640.html
 ホームページ http://www.ekakineco.com/index.html
 Tシャツあります http://clubt.jp/product/208363.html

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栄光、加藤隼戦闘隊

エンジンの音 ゴオーゴオーと 

S1942


 「加藤隼戦闘隊」というのを聞いたことがあるでしょうか。陸軍飛行第六十四戦隊のことで、前身である飛行第二大隊から数えると部隊の歴史は9年に及びます。昭和19年(1944年)には映画が公開されました。戦隊長の加藤健夫中佐(死後、少将)は第四代目の戦隊長になります。

 加藤建夫少佐が六十四戦隊の戦隊長として赴任したのは昭和15年(1940年)4月15日のことでした。このとき36歳。数ヶ月前に部隊歌が作られ、赴任当日、加藤戦隊長に披露されました。

 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機


 作詞は部隊の田中林平准尉、作曲は、南支派遣軍楽隊の岡野正幸氏、原田喜一氏、森屋五郎氏、編曲が寺岡真三氏です。歌詞の中に「隼が征く」とありますが、このころ部隊の主力戦闘機は97式戦闘機でした。後に一式戦闘機が採用され、「隼」と命名され、部隊歌と偶然にも一致しました。

 一式戦闘機キ43「隼」は昭和13年(1938年)12月12日に初飛行しましたが、当時の戦闘機パイロットたちの評判は悪く、97式戦闘機よりも大きく、重たいと考えられていました。しかし、列強の新型戦闘機より500キロも軽く、運動性能に優れていました。評判の悪かったキ43「隼」は一年放置されましたが、太平洋に風雲急を告げるようになると航続の長い戦闘機が要求され、キ43が急遽採用されました。加藤建夫戦隊長はキ43の採用に反対していましたが、採用となると文句を言いませんでした。

加藤
「いくら反対したってそれは研究段階でのことだよ。いったん決定したら、どのように使うかが勝負だ。なあに、この加藤が必ずモノにしてみせるから安心してくれ」

 加藤戦隊長は多忙な訓練の合間をぬって航空本部に飛んでは改良の打ち合わせをしたり、睡眠時間を削って自ら機体の特性や限界を試したりしました。

 航空戦隊の戦隊長というと鬼のような厳しい軍人を思い浮かべますが、加藤戦隊長は実に部下思いで優しい人でした。戦隊の檜與平少尉が週番士官勤務についていると加藤戦隊長がやってきて
「今夜はおれも泊まるよ」と兵営の視察にきました。やがて消灯となったので、檜少尉は風呂へ行くと湯が汚れて悪臭を放っています。湯気の奥から「檜、こっちへ来いよ」と声がするので見るとなんと戦隊長がいました。

加藤
「こんなにひどい状態だとは思わなかった。早く改修しよう」

 翌日には大工を呼んで改修させたといいます。また、加藤戦隊長は夜半過ぎてから何度も兵舎を見て回り、兵隊たちの手や足が蚊帳の外へ出ているのを、いちいち蚊帳の中へいれていました。それは慈父さながらであったといいます。
 加藤戦隊長はコーヒーが好きで、単独飛行で出かけるたびにどこからか仕入れきました。そして、食後に
「おい、みんな、コーヒー飲まんか?」といってコーヒーを挽いて部下にふるまいました。加藤戦隊長がいれてくれるコーヒーは美味しく、部下たちはご馳走になるのを楽しみにしていたといいます。

 昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英に宣戦布告。加藤隼戦闘隊はマレー作戦に参加しました。これより加藤隼戦闘隊は激戦の歴史を刻むことになります。マレー、シンガポール、、パレンバン、ジャワ、ビルマ、遠くはインドのインパール、カルカッタまで隼は征きました。加藤部隊は一旦出撃して一撃を与え、帰還すると直ぐ出撃して再攻撃するピストン攻撃を行うという厳しい戦闘行動を行うことしばしばで、加藤戦隊長は「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を激励したといいます。戦隊の安田曹長は
「体力の限界をはるかに超すもので、ただ気力で支えられていた」と40歳(数え)の加藤戦隊長の馬力には恐れ入ったと述べています。

 「戦果」撃墜258 不確実25 炎上49 大破95
 「損害」戦死122

 加藤戦隊長は昭和17年(1942年)5月22日ビルマ・アキャブの戦闘で敵機ブレンハイムを撃墜しましたが、自身の機も被弾し、翼が炎にまみれ、50~60メートルの高度で海中へ反転し、自爆しました。これは部下に普段から話していた「確実に死ねる」方法でした。(捕虜にならないようにする) 加藤戦隊長の戦死には南方軍司令官・寺内寿一より感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 そして昭和19年(1944年)には加藤隼戦闘隊の活躍は映画化され、同戦隊の隊歌と相まって当時の全国民の知る伝説的英雄となりました。



参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」
参考サイト
 WikiPedia「加藤隼戦闘隊」「加藤健夫」

添付画像
 昭和17年(1942年)初旬(戦死の数ヶ月前)の加藤建夫戦隊長(PD)

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加藤隼戦闘隊 -Kato Hayabusa Fighter Wing-
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w

日本のいちばん長い日

  子供の頃、「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た記憶があります。白黒でした。

S_2



 昭和20年(1945年)8月14日、御前会議で聖断が下り、ポツダム宣言受諾が決定し、終戦が決定します。終戦と言えば聞こえはいいですが、「敗戦」です。阿南惟幾陸相は青年将校を集め御前会議の報告を行います。徹底抗戦を信じていた若者たちは愕然とし、「大臣の決心変更の理由をお伺いしたい!」との声に阿南陸相はこう答えます。

「陛下はこの阿南に対し、苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてもはやこれ以上反対を申し上げることはできない」
「聖断は下ったのである!今はそれに従うばかりである!不服のものは自分の屍を越えてゆけ!」

 阿南陸相は深夜近く、鈴木貫太郎首相を訪ねました。
阿南
「総理・・・」
鈴木
「はい。何ですかな」
阿南
「ここへ至るまでに、いろいろな事を申し上げ、総理を煩わせたことをお詫びします」
鈴木
「とんでもない。今日まで内閣を支えてくださって、こちらこそ感謝しています」

 阿南陸相が陸相を辞任して陸軍が後任を拒否すれば内閣総辞職でした。そして軍政となり本土決戦に向かうところでした。阿南陸相は辞任を拒み通したのです。

阿南「これは貰い物の葉巻です。総理はお好きですから、すってください」
鈴木
「ありがとう。何よりの物です。遠慮なく頂戴します」
阿南
「では、おやすみなさい」
鈴木
「おやすみなさい」

 連合国への正式回答の打電は陸軍の妨害によって午後10時過ぎにやっとおこなわれます。そして昭和天皇は皇居、表拝謁の間で終戦の詔勅をNHKラジオ放送用録音盤に録音しました。昭和天皇はご自身の御意志で2回録音されました。
 この録音盤を奪取しようと近衛師団の青年将校が師団長を殺害。ニセの師団命令を流し、宮城各門を占拠します。録音の仕事を終わって退下する情報局総裁や技術員等を逮捕し、皇居警察に封じ込めました。この報を東部軍司令部が聞き、田中静壱大将は単身数名の憲兵を引き連れ、15日夜明けを待ってお濠を迂回し、大手門、竹橋の街路を通って近衛師団(現在の科学技術館、武道館のあたり)に乗り込み、青年将校の一部を逮捕し、宮中に参入。叛徒を退散せしめました。(宮城事件)

 阿南惟幾は15日4時40分に割腹し、7時10分絶命。

<遺書>
 一死以って大罪を謝し奉る

  昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾

  神州不滅を確信しつつ

<辞世の句>
 大君の 深き恵に 浴みし身は 言いのこすへき 片言もなし

 この阿南惟幾陸相の自決は徹底抗戦派を抑える決定打となりましたが、水戸の陸軍では近衛師団のクーデター失敗が伝わらず、東京上野公園に集結し美術学校を占拠します。しかし、クーデターが失敗したことを知り愕然とします。近衛師団でクーデターを起こし、身柄を拘束されていた石原少佐が説得を買ってでますが、一部の将校が発砲し、石原少佐は死亡。その将校も斬られて死亡。直属の上官は自決。他の将校も数名、水戸に戻って自決しました。(上野事件)

  近衛師団の反乱に昭和天皇はこう仰られました。
「いったい、あの者たちはどういうつもりであろう。この私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」「わたしが出て行こう」「兵を庭に集めるがよい。私がでていってじかに兵に諭(さと)そう」

 阿南陸相の自決についてはこう述べられています。
「阿南は阿南の考えがあったのだ。気の毒なことをした」

 15日正午、玉音放送が流されました。鈴木首相はその日の午後、辞表を提出しました。


参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 別冊正論「遥かなる昭和」『皇国護持ヲ念ジツツ本夜自決ス』岡村青
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
添付写真
  終戦の日の皇居前(PD)

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終戦の詔勅 (玉音放送)
http://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo

昭和天皇の二度目の聖断

聖断は二度あった。

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 昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に発信しました。

「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」


 これに対して12日、連合国から回答が届きます。「バーンズ回答」と呼ばれるものです。

 これで問題となったのは第二項です。
「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下におかるるものとす」

 国体護持の条件回答が明確ではなく、「連合軍最高司令官の制限」の部分で、原文は「subject to」であり、外務省は意図的に「制限」と訳しましたが、これは「従属」「隷属」「服従」を意味しているもので、軍部はこれを正確に把握しており、反発することになります。

 陸軍強硬派は梅津参謀総長と阿南惟幾陸相クーデター決行を迫りましたが、梅津参謀総長が断固拒否し、阿南陸相も梅津参謀総長に反対しなかったためクーデターは未発に終わりました。

  8月13日、最高戦争指導会議で阿南惟幾陸相は国体護持について「再照会」を要求します。「subject to」の議論はエスカレートしていきました。そこで鈴木貫太郎首相は
「どうも軍部は、言語解釈を際限なく議論することで、せっかくの和平の機会をひっくり返そうとしているかのように、私には思われます。専門家である外務省の解釈になぜ任せられないのですか」と図星をいい、これで軍部側は怒気に水をかけられたようになりました。しかし、結論は出ませんでした。

 陸軍強硬派が暴発しかねず、御前会議も参謀総長と軍令部総長が判を押さねば開くことがでいません。鈴木首相は天皇直々の召集に打ってでます。昭和天皇は即座に同意しました。阿南陸相は総理室へ総理を訪ねていきました。

阿南
「総理、御前会議を開くまでもう二日待っていただけませんか。その間に陸軍のほうは何とかします」
鈴木
「時期はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうか、あしからず」

 阿南陸相の顔に寂しげな影がよぎり、丁寧に敬礼をすると部屋を出ていきました。居合わせた小林軍医が
「待てるものなら待ってあげては?」というと、総理は「今をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも攻め込んでくる」と答えました。軍医は「阿南さん死にますね」というと鈴木首相は「うむ、気の毒だが」と答えました。

 8月14日、御前会議は最高戦争指導会議のメンバーだけでなく、閣僚全員を出席させました。阿南陸相と梅津参謀長はポツダム宣言受諾に反対を唱えます。そして昭和天皇はこう述べられます。

「国体についていろいろと危惧あるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれたものとは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのまま受諾してよろしいと考える」
「国民が玉砕し君国殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、国民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることはわたしとしてはじつに忍び難い」


 阿南惟幾陸相は号泣します。その阿南陸相に昭和天皇はこう述べます。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」

 こうしてポツダム宣言受諾が正式決定し、中立国を通じて連合国へ正式に申し入れ「戦争終結の詔書」が発布されます。

 このときの大御歌

「国柄をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」


  この後、昭和天皇は今生の別れを意識して皇太后陛下にお会いになりました。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 まほらまと草子「かえるうぶすな」南出喜久治(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)

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昭和天皇の聖断下る

昭和天皇の聖断で戦争は終わった。

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 昭和20年(1945年)8月9日深夜、御前会議が開かれます。御前会議は本来儀礼的なもので、天皇陛下は一切発言しません。結論も決まっており、シャンシャンという会議です。ところがこの日の御前会議は前もって開かれた最高戦争指導会議でも閣議でも結論がでないまま開かれた異例なものでした。実は鈴木首相は事前に昭和天皇に
「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお助けをお願いいたします」と了解を得ていました。

 東郷外相

「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに・・・ポツダム宣言を受諾すべきである」

 阿南陸相

「信頼のおけない米ソに、保障もなく、皇室の運命を任せることは断じてできない。あくまで抗戦してこそ、有利な和平条件も得られる」

 梅津参謀長

「陸軍大臣と同意見である。本土決戦の準備は完了している」

■ポツダム宣言受け入れに対して国体護持の一条件のみ提示するとの主張

   東郷(外相)、米内(海軍大臣)、平沼(枢密院議長)※1

■国体護持に加え占領は最小限であること、武装解除は自主的に行う、戦争犯罪人の処分は日本側で行う四条件を提示すると主張

   阿南(陸相)、梅津(参謀長)、豊田(軍令部総長)

 憲法上条約締結については会議で決定した後で枢密院に諮る(はかる)必要があります。状況が切迫しているので、平沼議長を直接参加させていました。これも鈴木首相の策略であったといわれます。これで三対三です。このまま結論がでずに膠着状態になります。すると鈴木首相がこう述べます。


「意見の対立がある以上、甚だ恐れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮を持って本会議の決定といたしたいと思います」

 このとき阿南惟幾陸相は「総理」と小さな声を発したと、同席していた速水久常書記長が述懐しています。

  昭和天皇

「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である」
「本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備もできておらず、又決戦し弾の武装すら不充分にて、これが充実は9月中旬以降となると云う。飛行機の増産も思うようには行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことができるか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠義を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙を飲んで原案に賛成する」


 徹底抗戦を主張した阿南惟幾は伝家の宝刀「辞職」を使わなかったばかりか、会議終了後に鈴木首相に
「総理、これでは約束が違うではありませんか!(陸軍省と最初にかわした約束は徹底抗戦)」と詰め寄った吉積軍務局長に「吉積っ、もうよいではないか!」と一喝しました。

  77歳になる老宰相は17時間にも及んだ会議を乗り越え、「国体護持」の一条件をつけてポツダム宣言を受諾すると決定。中立国スウエーデン、スイスを通じて連合国へ打診しました。その際にはソ連の中立条約違反に異議をつけることを忘れませんでした。

  阿南惟幾は陸軍省高級部員を全員集め、「聖断によるポツダム宣言受諾」を報告します。そしてこういいます。

「あえて反対の行動に出ようとする者はまず阿南を斬れ」




※1平沼枢密院議長は態度が不鮮明だったという説もある。


参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
  昭和天皇(昭和7年のもの PD)

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広島人に告ぐ!言論空間を開放せよ

閉ざされたヒロシマの言論空間。

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 比較文化学者・文明批評者 金文学氏(満州の韓国系3世 日本に帰化)
「私は、今までに日本や中国、韓国で300回を超える講演を行ってきました。2007年に広島市内のある市民団体で講演した際、『核戦争についてどう考えますか?』という質問がありました。
 私は『使うか使わないかは別として、核は持つべきだと』と答えました。
 断っておきますが、私の真意は"抑止力"としての核を持っていいということで、核を使うことに賛成しているわけではありません。
 ところが主催者から『そんな発言は絶対にダメです。危ない思想です』と強烈なクレームが入りました」


 異論を封殺する排他的ヒロシマを象徴する話です。ヒロシマの言論空間は閉ざされているということです。

 平成21年(2009年)8月に田母神元航空幕僚長が「核武装平和論」の講演を行いましたが、当時の広島市長が言論弾圧を行うという異常な事態がおきました。翌年、田母神氏の講演を協賛する「平和と安全を求める被爆者たちの会」が市の財団法人に講演のチラシ広報協力要請をしたところ拒否されたという事件が起きました。さらに講演のポスターが何者かに剥がされるということもありました。昨年はやっと協力が得られたものの今度は市会議員が言論弾圧を加えるという事態がおきました。いったい広島は民主主義国家日本国内なのか?まるで中共や北朝鮮のようではありませんか。

 広島は原子爆弾によるあまりにも大きな痛みとGHQが刷り込んだ自虐史観によって思考停止状態になっています。
「過ちは繰り返しませぬから」自嘲し、「見てください、原爆はこんなに惨いのです。私たちはかわいそうな被害者です。私たちの気持ちを尊重してください」と言い核廃絶を叫んでいます。そして異論は封殺するのです。
 世界はみんな腹黒く、「核」保有国が核を捨てることはありえません。広島はGHQ憲法前文に書かれている
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」をまじめに信じているのでしょうか。信じているとしたらとんだ平和ボケです。

 金文学氏も田母神氏も世界常識のラインで論じているだけで、広島が言う「日本は唯一の被爆国だから核武装すべきでない」という主張は世界常識から大きく逸脱しています。広島は世界常識もわからないバカの集まりでしょうか。

 イギリスのサッチャー首相はパーシング・ミサイル導入問題のとき、
「核ミサイルを持っていたら、核の攻撃を受けるおそれがある」と反論がでたとき「日本は原爆を持っていなかったが、原爆の攻撃を受けた」と答えています。
  上智大学名誉教授の渡部昇一氏はベルリンで学会があったとき南アフリカから来た人が
「原爆を落としたのは結局戦争を早く終わらせるためであった」という話になり、渡部氏は「戦争を早く終わらせるためにいくらでも市民を殺してもいいというのなら毒ガスでもいいじゃないか。なぜ毒ガスにしなかったのか」というと南アフリカの人は「ああ、そうか。それは考えなかった」といいました。日本も毒ガスを持っていたから復讐攻撃されるのを恐れて絶対に使えなかったのです。ヒトラーも毒ガスは使えませんでした。日本が原子爆弾を持っていれば米軍は復讐を恐れて使うことはできなかったでしょう。こういった話が世界常識ライン上の話です。核武装平和論といった抑止力としての「核」を論じるのを禁じる広島は狂っています。

 お花畑のヒロシマは海の向こうの大陸から数百発のミサイルがこちらに向けられ、中には核弾頭のものもあるのに、それはわざと見ないようにしています。ウイグルで起こったことも見ないようにして、唯一の被爆国だと観念的「平和」を独占しようとしています。それから北朝鮮の核に寛容です。この偏向平和思考で既得権益を持っているものたちが自由な言論を阻害しているのです。今年は3年前よりだいぶ風通しがよくなったようですが、まだ田母神氏の講演ポスターが剥がされるようなことが起こったようです。

 広島人に告ぐ!日本は民主主義国家です。民主主義は自由な言論の上に成り立ちます。日本、そして世界には様々な意見があります。言論空間を開放し、様々な意見を取り入れた上で「平和」なるものを語るべきです。



参考文献
 南々社「広島人に告ぐ!我々は『平和』を叫びすぎる」金文学(著)
 ビジネス社「日本国憲法無効宣言」渡部昇一・南出喜久治(共著)
添付画像
  平和祈念公園から見る原爆ドーム(PD)

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広島人に告ぐ!自虐史観から脱却せよ

自虐史観に洗脳された広島人。

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 戦後、GHQは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」により日本人が自虐に陥るよう言論統制し、洗脳しました。原爆批判は禁じました。

 昭和23年(1948年)GHQ民間情報教育局(CI&E)の文書
「今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだという提案が、非公式にCI&Eに対してなされている。なかんずく、"マニラの掠奪"のごとき日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきであり、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきであるという示唆が行われている」
「基本方針・・・東條裁判と広島・長崎への"残虐行為"はいずれも"ウォー・ギルト"のうちに分類されてしかるべきものだという点については大方の見解が一致している」
「新聞出版班は1948年(昭和23年)4月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するように指導する」

 WGIPにもとづいて広島人も洗脳されました。それでこういう主語のない碑文が考えられたのです。

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

 「過ち」は誰が犯したのか?決まっています。アメリカです。「ルーズベルト」「トルーマン」が主語です。バカでもわかる話です。非武装民間人の殺害は国際法で禁じられています。これを昭和27年(1962年)、広島市議会において浜井市長が「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁していますから、もうWGIPの術中にはまっています。市長がこれですから、広島人はWGIPプログラムにより自虐史観に洗脳されてしまいました。

 ヒロシマは原子爆弾による余りにも大きな痛みのため、戦後から今日まで思考停止状態に陥りました。出てくる言葉は「原子爆弾は悲惨、残酷」「核実験に抗議」「核の廃絶を」という意味のものが並びます。そして自虐史観によって締め付けられ、思考停止から一歩も出ることができないのです。

「日本が侵略戦争をした。原子爆弾は戦争を終わらせるために仕方が無かった」
「本土決戦になれば米国兵100万人が犠牲になっていたから原子爆弾はやむを得ない」
「日本がだまし討ちである真珠湾攻撃をしたのだからその報復だ」
「日本がポツダム宣言をすぐ受け入れていれば原子爆弾投下はなかった」
「日本は南京大虐殺など行ったからその報いだ」

 このようなアメリカの詭弁、捏造の歴史など少し調べればわかるものです。

 比較文化学者・文明批評者 金文学氏(満州の韓国系3世 日本に帰化)
「原爆はなぜ落とされなければならなかったのか。歴史作家で評論家の鳥居民氏は、その著書『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』で、原爆投下の嘘をあばいています」
「ジャーナリストの櫻井よしこさんが著した『日本よ"歴史力"を磨け』の中でも、鳥居氏は『当時のトルーマン米大統領とバーンズ国務長官は原爆の威力を実証するために手持ちの二発の原爆を日本の二つの都市に投下し終えるまで日本を降伏させなかった』と、語っています。つまり、原爆は投下実験のためだったのです」

 投下実験、それとソ連に力を誇示するために原爆を投下したのです。ポツダム宣言は日本がすぐには受諾しないよう国体護持条項を削る細工をしたのです。
 日本の侵略など、ちゃんと歴史を調べれば有り得ないのがわかります。GHQ総司令だったマッカーサーも日本の戦争は「自衛戦争だった」と述べています。「南京虐殺」など世紀の大嘘です。ドイツのホロコーストようなことが日本にはなかったので、支那のプロパガダンダ本を東京裁判に持ち出して捏造したのです。
 真珠湾攻撃は米国が欧州戦線を睨んで参戦を果たすため、マッカラムメモランダムという戦争開始計画を練り、その通り実行していったため発生した事象であり「だまし討ち」ではありません。このことはローバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」が詳しいです。著者が17年もかけて調べ上げたもので、現在のところこの研究の上をいくものはありません。

 私たちはGHQが捏造・歪曲した歴史を教えられてきています。それによりあたかも原爆投下は正当性があるかのように語られています。本島進という元長崎市長が「広島は戦争の加害者」(平成9年)という論文を発表したり、国立広島原爆戦没者追悼平和祈念館の展示に「誤った国策により」という原爆容認的な表記があるといいます。現在、私の子も学校の先生に「日本が戦争を始めたからアメリカが怒って爆弾を落とした」と教えられています。戦争に是非はありませんが、私たちの先人にとって大東亜戦争は「自存自衛」であり「アジアの植民地解放」だったのです。

 金文学氏
「戦争は否定されるべきものですが、実は、すべての事柄に明と闇が存在するように、その中には肯定される面も含まれているのです。例えば、日本軍の進攻によって東南アジア諸国は西洋の植民地支配から脱することができ、解放した日本に感謝しているという事実があります」

「アジアで、アメリカをはじめとした西洋文明に真っ向から立ち向かい、戦ったのは日本人だけです。中国、朝鮮半島、東南アジアの人たちは戦っていません。だから、西洋文明が日本に脅威を感じたのです。」
「ではなぜ、日本だけ戦うことができたのか。それは、明治からの近代化によって、富国強兵をアジアで唯一実現させたからです」

 広島人に告ぐ!広島人は思考停止の観念的平和観を捨て、自分で歴史を調べ、先人の功績を知り、自虐史観から脱却すべきです。


参考文献
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)
 南々社「広島人に告ぐ!我々は『平和』を叫びすぎる」金文学(著)
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/ 妹尾作太郎(監訳) 荒井稔・丸太知実(共訳)
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よしこ(編)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
参考サイト
 WikiPedia「原爆死没者慰霊碑」

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  ハリー・S・トルーマン(PD)

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広島人に告ぐ!思考停止状態から脱却せよ

広島の原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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 私は広島生まれの広島育ちで就職のとき東京へ来ました。東京では8月6日が何の日か知らない人がほとんどであるのに驚きました。就職して間もなくのとき、原爆ドームが崩れそうで数億かけて補強する話がありました。その時、東京の人は「そこまでする必要があるのか」と話している人がいたので驚きました。広島を客観的みる情報を自分自身で初めて取得し、自分が井の中の蛙であることを知ったのです。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」

 原爆慰霊碑にはこう刻まれています。広島に居た頃は何も気にしませんでしたが、広島を離れてみるとおかしな言葉であることに気づかされました。誰が言っているのか。「過ち」とは誰の過ちなのか?

 比較文化学者・文明批評者 金文学氏(満州の韓国系3世 日本に帰化)
「原爆慰霊碑を見ても、誰が原爆を投下したのかという時の主語=誰=『アメリカ』が明記されていない。2010年の広島の平和宣言の中にも、『アメリカは』でてこない。広島市長はアメリカ批判をまったく行っていないのです」「広島の平和宣言は、市民の意思を反映するような書き方をしないといけないのに、誰が作成しているのかさえ分からない・・・結局出来上がったものは、上からの、権力的な、自己満足的な平和宣言・・・だから、どこかおかしい平和宣言になっているのです」

 やはり、客観的に見ると広島の「平和」はヘンです。

 昔は核実験反対の座り込みをよく行っており、みんながんばっているな、という目で見ていましたが、以前、北朝鮮の核実験の座り込みの話を聞いて、これらは念仏を唱えて申し訳程度の儀式をしているように見えました。いったい何が変わるというのでしょう。単なる自己満足ではありませんか。

 金文学氏
「彼らが口にするのは『平和』ばかり。『平和』というのは抽象的な観念で、ただ叫んでも平和がやってくるわけではありません

「『平和』を専売にする広島は、欲張って平和意識を独占し、そのために平和のことしか考えられない"平和ボケ"に陥っています」
「そのボケ状態は - 参観日、文化祭などの学校行事においては、『平和』が不動の定番テーマとして大活躍。平和さえ取り上げれば無難といった感じで、どこも『平和一辺倒』。偏向もいいところで、思考停止状態に陥っているかのようです」

 確かに広島にいたときは「平和一辺倒」だったと記憶しています。思考停止に陥っているということです。「核廃絶」=「平和」=「被爆者、遺族の思い」という独善的、観念的平和観であり、そこからは一歩も出ない。違う意見を言おうものなら言論封殺に出てきます。元航空幕僚長の田母神俊雄氏の講演がいい例でしょう。核武装平和論を唱えると広島論調は「言論の自由はあるにしても核兵器廃絶を目指す被爆者の思いとは相容れない」とし、広島市長まで「言論の自由は認めるが」と免罪符をおいて「日を改めるよう」と弾圧を加えています。

 なぜ広島人は思考停止に陥ったのか?東京裁判の判事を行ったパール博士は日本国内で東京裁判が問題視されないことについて以下のように述べています。

「これは敗戦の副産物ではないかと思う。すなわち、一つの戦争の破壊があまりにも悲惨で打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、二つにはアメリカの巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切が誤りであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」

 広島がそうであり、原子爆弾の被害があまりにも大きく、GHQの占領政策に骨抜きにされたため、思考の余地を失い、今日まで思考停止状態が続いているのではないでしょうか。

 しかしながら、最近は金文学氏が「広島人に告ぐ!」という本を出したり、田母神氏の主張を応援する「平和と安全を求める被爆者たちの会」が活動しています。広島市長も昨年変わりました。広島の思考停止状態は徐々に解かれていくかもしれません。



参考文献
 「正論」2009.10『観念的平和論に安住するヒロシマの閉ざされた言論空間』安藤慶太
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 南々社「広島人に告ぐ!我々は『平和』を叫びすぎる」金文学(著)
参考サイト
 2010年広島平和宣言 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2010/index.html

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 原爆ドーム(PD)

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Hiroshima
http://www.youtube.com/watch?v=Xs3JE4WRL-8

原爆を投下するまで日本を降伏させるな

日本が降伏しないよう細工をしたトルーマン。

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 昭和20年(1945年)4月12日、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが死去。あとを継いだのはハリー・S・トルーマンでした。彼はミズーリの田舎町の雑貨屋、しかも倒産して店じまいした雑貨屋の小者と陰口を叩かれていました。トルーマンがそんな陰口は知らなかったにしても大学を出ていないこと、大統領になったのは偶然であり、第二次世界大戦ではなんの功もない。対内的にも対外的にも劣等感が拭えませんでした。そんな彼の手の中に転がり込んできたカード、それは「原子爆弾」でした。

 昭和20年(1945年)7月16日、ポツダムの会談に臨んでいたトルーマンはニューメキシコにおいてプルトニウム型の原子爆弾実験に成功したとの報告を受けます。ソ連参戦がなければ対日戦争の早期完全勝利を望めないと考えていたルーズベルト大統領はヤルタ密約でソ連の参戦を認めていましたが、トルーマンは原爆を使ってアメリカ優位の対日政策、その後の世界勢力図でソ連、イギリスに対して優位になれると考えていました。
 トルーマンはスターリンからソ連の参戦は8月15日と聞き出していました。ソ連が参戦したら日本は降伏してしまいますが、原子爆弾は8月1日に使用の準備が整いますから間に合います。しかし、日本がポツダム宣言を受諾すると使用の機会が失われます。そこでポツダム宣言の陸軍長官スティムソンの原案から天皇の地位保全の条項を削って、日本がポツダム宣言をすぐには受け入れないように細工しました。

 7月25日、原爆投下命令発令(ポツダム宣言より前に決定していたということ)

 7月26日、トルーマンはソ連をはずして「ポツダム宣言」を発表。

 7月28日、日本政府は事態を静観し、対応を明確化せず、ソ連仲介の希望を捨てずに鈴木首相は「重視する要なきものと思う」(鈴木の回想)と発言します。しかし、新聞には「政府は黙殺」(ignore)と載り、これが連合国にreject(拒否)とされてしまいます。

 8月6日 広島に原子爆弾投下。

 8月9日 ソ連は当初、8月15日に参戦することにしていましたが、日本が降伏する前に大急ぎで参戦。

 さて日本、9日、ソ連参戦を受けて最高戦争指導会議が開かれました。鈴木貫太郎首相は冒頭でいきなりこう述べます。
「かかる情勢下においては、もはや戦争の継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾するにあたって、みなさんのご意見をたまわりたい」」

 徹底抗戦を主張していた阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は機先を制され、ポツダム宣言受諾を前提に日本側がつける希望条件についての討議に入ります。

 阿南惟幾陸軍大臣は改めて徹底抗戦論を展開。
「武装解除の後では連合国側に向かって『それでは約束が違う』と抗議しても、もうどうにもならない。イタリアの先例もあり、轍を踏んではならない。もちろん原子爆弾、ソ連参戦となった今、ソロバンずくでは勝ち目はない。しかし、大和民族の名誉のため戦い続けているうちには、何らかのチャンスがある」

 阿南惟幾陸軍大臣が辞職して後任を出さなければ内閣は総辞職になり、直接軍政によって本土決戦になるところでした。しかし、鈴木首相は憲法でいう大元帥による講和大権を行使し、統帥権を制約する手段に打ってでました。天皇陛下に聖断を求めたのです。阿南惟幾陸相は徹底抗戦を主張していたにも関わらず、素直にこれに従います。実は鈴木貫太郎と阿南惟幾は鈴木が侍従長時代に阿南は侍従武官を4年勤めており、以心伝心の仲でした。阿南惟幾は強硬派を装い、鈴木貫太郎の意を汲んでいたのでした。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
 草思社文庫「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(著)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
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 トルーマン(PD)

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ドイツ降伏後、講和を模索する日本

孤立した日本。

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 昭和20年(1945年)4月30日、欧州ではドイツのベルリンが陥落しました。ドイツの総統ヒトラーは愛人エバ・ブラウンとともに、地下防空壕で自殺しました。5月5日、ドイツのカール・デーニッツ海軍大将は連合軍最高司令官のアイゼンハワー元帥に降伏を申し入れました。5月7日、ドイツは無条件降伏します。ドイツの降伏により日本は完全孤立することになりました。

 5月6日、ドイツの降伏に関して鈴木貫太郎首相はラジオで演説を行いました。
「私はすべてを捧げて、戦い抜く覚悟である。前線における特攻の有志のごとく、一人(いちにん)をもって国を興すの気迫と希望を打ち出し、勇奮邁進されたいのである・・・」

 腹の中に戦争の早期終結を隠し持っていた鈴木貫太郎ですが、まだ時期でないと判断し、戦争継続を訴えました。ここで戦争終結を希望することを言えばクーデターが起こっていたでしょう。

 5月中旬、超極秘会議が開かれます。首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の6人のみです。以下が決定されます。

1)ソ連の参戦防止
2)ソ連の好意的中立の確保
3)戦争終結にたいしてソ連をして有利な仲介をさせること

 初めて「戦争終結」という言葉が登場しました。しかし、6月8日の午前会議では戦争継続が採択されています。

「七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和を以て国体を護持し、皇土を保衛し、聖戦目的の達成を期す」


 昭和天皇はこれには落胆し、心配した木戸内大臣は鈴木首相に会い
「戦争終結に尽力してほしい」というと鈴木首相はあっさり「同感です。やりましょう」と応諾しました。かと思えば重臣会議で、若槻礼次郎が現在の日本の国力を示す資料を見て「いずれの点から見ても戦争不可能という判断に立ちつつ、なお抗戦するという結論はどういうことだ」と鈴木首相に詰め寄ると「理外の理ということもある。徹底抗戦して利あらざるときは、死あるのみではないか」とドンと机を叩く剣幕に一同は度肝を抜かれました。鈴木貫太郎のそのような感情的な行動はこれまで見たことがなかったからです。

 若槻礼次郎回想
「鈴木の腹の中は、私には分かっていた。陸軍は半狂乱になっている。軍の情勢が悪いもんだから、もうそろそろ休戦論が起こりはせんかと血眼になっているから、自重が必要だ。私の発言に対して『その通りだ』などと言おうものなら、八方から食ってかかられ、一騒ぎ起こるに違いない。それで彼は、わざと怒って見せたのだ」

 鈴木貫太郎は陸軍の強硬派を刺激しないよう芝居をうったのです。鈴木貫太郎と以心伝心の阿南陸相も表向き強硬派を装っていましたが、国会で護国同志会が鈴木首相を攻めて、それを陸軍強硬派が後押しし、倒閣運動を始めたとき、阿南陸相はこれを厳しく禁止しました。

 昭和天皇も援護射撃に入りました。東郷外相を呼び、「戦争につきては最近参謀長、軍令部総長および長谷川大将の報告によると、支那および日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかになったから、なるべく速やかにこれを終結せしむることが得策である。されば困難なることとは考えうるけれど、なるべく速やかに戦争を終結することに取り運ぶよう希望する・・・」と述べます。さらに6月22日の御前会議でも「この際いままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、速やかに具体的研究を遂げてこれが実現に努力することをのぞむのであるが、皆はどう思うか」と述べています。

 しかし、ソ連を通じた和平交渉は不調でした。政府は東郷外相、広田弘毅を通じて駐日ソ連大使マリクに対して打診を行いますが、マリクは巧妙にごまかすだけで前進しません。モスクワの佐藤大使がモトロフ外相に当たりますが「マリクから具体的な内容が着次第返事する」としかいわず時間は過ぎていきました。ヤルタの密約でソ連は参戦の胎を固めて準備中でしたから時間稼ぎです。

 近衛文麿が天皇の親書を持ってスターリンに渡すことにし、親書の作成やら特派人数やらで大騒ぎでしたが、ソ連からはスターリンとモトロフがベルリンへ出発するため、回答は遅れると言ってきて、その後なしのつぶてでした。外務省は7月末ごろに米英支三国の重要会議がポツダムで行われるらしいことをつかみ、なんとしてもソ連を引き込もうと焦ります。

 広田弘毅
「既に罹災(りさい)した家屋を抵当にして金を借りようというようなものだな」

 7月18日、ソ連から終戦斡旋依頼の件は具体性を欠くから回答できないという返答が届きます。そして7月26日、トルーマン、チャーチル、蒋介石の三人からポツダム宣言が対日放送を通じて発せられました。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
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 鈴木貫太郎(PD)

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