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軍神となった加藤建夫隼戦闘隊長

死に様も自ら身をもって示した加藤戦隊長。

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 加藤隼戦闘隊(陸軍飛行第六十四戦隊)は大東亜戦争中、マレー、シンガポール、ジャワ、ビルマで活躍しました。戦隊長の加藤建夫中佐は普段は優しい人でしたが、任務に対しては厳格な人で
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」「不時着して飛行機を敵に渡すようなことがあってはいけない」と厳しく部下に語っていました。

 昭和17年(1942年)3月12日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイへ進出。この日よりフライングタイガースP-40トマホークと死闘を演じます。4月26日、ビルマへ進出。ローウィン、ラシオ、アキャブ、チッタゴンで輝かしい戦績を重ねていきました。

 5月20日、アキャブ新飛行場にロッキード爆撃機が攻撃してきました。ちょうど加藤戦隊長機がトングーからアキャブへ来たところで、ロッキード機を撃墜しました。翌21日もロッキード爆撃機が来襲し、加藤戦隊は出撃しました。この出撃で清水准尉機が被弾し、落下傘降下していきました。捜索は南特務機関に依頼しました。

 その夜、宿舎で全将校が会食後、大谷中尉と遠藤中尉が加藤戦隊長に呼ばれて寝室に入りました。加藤戦隊長は非常に機嫌がよく、次から次へと話題を変えてはとめどもなく話し続けました。普段は口数はあまり多くなく、聞き上手の加藤戦隊長がこの日は全く異なりました。


「ドイツへ行ったとき、ヒトラー総統御自慢の戦闘機を見せてもらったが、ちょっといじってみたら大体わかったので、その場で乗って飛んだら、ずいぶんびっくりしたらしいよ、向こうはね。日本には無茶なヤツがいるってさ、ハハハハ」

 大谷大尉と遠藤中尉は今晩の戦隊長はどうしたものかなと思いながらも、珍しいお話をお伽噺のように夜遅くまで聞いていました。

 5月22日、加藤部隊はトングーへ戻ることになっていました。遠藤中尉はデング熱を発症し、加藤戦隊長の命令により一足先にトングーへ戻らされました。これが加藤戦隊長と遠藤中尉の最後の別れとなりました。
 この日の正午、行方不明の清水准尉の捜索報告が正午には南機関よりくることになっていましたが、機関員の田中中尉がくる様子がありません。トングー行きを伸ばしていると敵のブレニム爆撃機が一機出現しました。


「回せっ!」

安田曹長機が真っ先に離陸し、大谷大尉機、加藤戦隊長機、伊藤曹長機、近藤曹長機の順に離陸し、敵機を負いました。敵爆撃機は海上低く逃走します。安田機がまず銃撃を加えました。敵爆撃機の後方銃座から反撃が加えられ、曳光弾(えいこうだん)が空中で交差して火花が飛び散りました。安田機は風防ガラスを砕かれ、安田曹長は顔面に傷を受け、基地に引き返しました。
 大谷機も交戦中被弾し、燃料タンクを撃ち抜かれ、戦列を離れました。加藤戦隊長は逃してなるものかと捨て身の戦法で後上方から肉薄攻撃を仕掛けました。敵機は被弾するたびぐらぐら揺れますが完備した防弾のためなかなか落ちません。アキャブ西北方90キロ、アレサンヨウ西方10キロの海上で加藤戦隊長機が再び必殺の一連射を加え、見事に決まりました。

 ところが、加藤戦隊長機の右翼から突然、火が出ました。戦隊長はちらりと後ろを振り返り、従う伊藤機、近藤機に目をやりました。陸地は近いですが、そこは敵地です。加藤戦隊長機はゆっくりと翼を振り、そして低空からくるりと反転し、機種を垂直に立てて海中ふかく突っ込んでいきました。ときに5月22日、午後2時30分。普段から
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」と部下に厳しく言っていたことを自ら身を持って示したのです。

 5月30日、加藤戦隊長に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 加藤建夫中佐が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。

 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦

添付画像
 支那事変の出征時の加藤建夫(PD)

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加藤隼戦闘隊 (Kato hayabusa sento-tai - Colonel Kato's Falcon Squadron)
http://www.youtube.com/watch?v=YcuGt2ZVZrE

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41.加藤隼戦闘隊」カテゴリの記事

コメント

私は、戦前、戦中に海外の植民地で育ちました。

日本は、日本人は近隣の民族に対して、傲慢で、残虐でしたよ。
数々の事例、今も、はっきりと覚えています。

戦前からご存命の台湾人に聞いたら、日本人はとても親切で、思いやりがあった、と言っていましたね。それが真実でしょう。

僕も初めての海外出張が台湾で、昔ですけどねw、僕らより上手な日本語をお話になる方がいっぱいいらっしゃいました。
内省人の方は当然、外省人の方も親日でした。
この話題はぼちぼち解禁ですね。
東南アジアにもいましたけれど日本人の傲慢な話は聞きませんでしたよ。
僕のマレー人の友人のお父さんは兵補の将校で軍刀吊ってました。
軍人勅諭暗唱され誇りをもっていらっさいましたよ。
結局個人個人なんでしょうね。

現地人に傲慢、残虐なのは半島出身者でしょう。今も昔も同じですね^^

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