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2012年9月

タイと大東亜戦争

大東亜戦争でタイは日本の同盟国だった。

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 昭和16年(1941年)12月7日、日本軍山下兵団は南タイへ上陸してマレイ作戦を敢行すべく航行中でした。坪上貞二駐大使はタイのピブン首相に緊急面会を申し入れます。しかし、首相は国境の空港施設の視察に出向しており不在でした。やむなく日本側は首相官邸で一睡もせず、ピブン首相を待ちます。日本側の要求は以下のいずれかの一つにOKを得ることでした。

1.単に日本軍のタイ領通過を許容する。
2.日タイ共同防衛協定を締結し、日本はタイを守る。
3.日タイ同盟条約を締結し、米・英両国と戦う。この場合、日本はタイがかつて英・仏に奪われた失地をタイに返還することを保証する。

 ピブン首相が帰ってきたのは8日の午前6時40分。ただちに閣僚会議が開かれ、ピブン首相は「時間がない、ただ日本の要求を許容するか、日本と戦うかのいずれかだ」と述べ、ディレック外相が「これまで我が国は厳正中立を宣言してきた。急に態度を変えて日本と同盟することは列強を騙したことになる。ここでは、非力のためいたしかたなく日本の要求を受けたことにして、第一項をとるべきだ」と発言し、他の閣僚も同意します。こうして「日本軍のタイ国への平和進駐に関する協定書」に調印をしました。タイ政府はラジオを通じてこのことを発表しましたが、既に山下兵団は南タイのバタニー、シンゴラ等に上陸しており、タイ軍や警察隊と交戦していました。しかし若干の犠牲者を出した程度ですみました。

 日本側が交渉にきたとき、ピブン首相は不在でしたが、ピブン首相が意図的に雲隠れしていたという説があります。この後、タイは米英への宣戦布告しますが、摂政の一人プリディーが雲隠れして摂政二人の署名で行い、日本が敗戦したときに宣戦布告は摂政三名の署名が必要なので無効だと主張しています。これらは万一のことを考え、「やむを得ず」戦争に巻き込まれ、不完全な宣戦布告したという演出だったという説です。しかし、タイは日独伊三国軍事同盟への加盟を要求したり、失地ではないシャン州への外征を自発的に行ったりしていますから、演出だとすれば、できすぎの話であり、偶然の出来事を後に利用したとも考えられます。

 タイの閣僚たちが日本側要求を討議しているとき、タイの空軍大臣は日本側要求に強硬に反対し、一戦も辞さず、と息まいたという話があります。ところが、この空軍大臣の息子が戦闘機乗りで、国境で待機飛行していた日本陸軍第七十七戦隊に攻撃をしかけて広瀬少佐機に撃墜されてしまいました。これで急転直下し、空軍大臣は態度を軟化させたというのです。広瀬少佐は後にタイ空軍の懇親会に招かれたときタイ軍将校らから「ヒロセ」「ヒロセ」と握手攻めにあいました。どういうわけか広瀬少佐は英雄扱いされていたのです。

 日本とタイは昭和16年(1941年)12月21日、攻守同盟条約を結びました。ピブン首相は支那国民政府の蒋介石に「アジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民政策を駆逐すべきである」と勧告を行います。そしてタイに在留するインド人、ビルマ人に対してそれぞれの本国の独立運動を認め支援をはじめました。
 タイは日本やアジアの独立を積極的に支持、支援し、大タイ主義をかかげ、領土拡大を実現するために日本側の物資調達や借款の要求にも応じ、軍事輸送のため日本軍の鉄道使用を許可しました。日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道、クラ地峡線を作ります。昭和18年(1943年)7月、東條英機首相はバンコクを訪れ、ピブン首相と会談し、シャン地方の二州とマレイ領に編入されたケランタン州等の三州の回復を承認しました。

 昭和18年(1943年)6月、タイから日本へ仏舎利の寄贈を行いました。きっかけは前年10月にメナム平原で大水害があり、日本から数百万円の慰問物資が送られたことにあります。タイは仏教国で仏教は日常に結びついています。この仏舎利の寄贈は大変意義深いもので、日タイ両国民の精神的結びを強める意味を有しています。

 昭和18年(1943年)11月、史上初のアジアサミットである大東亜会議が開かれ王族のワンワイタヤコーン殿下が出席されました。

 ワンワイタヤコーン殿下の演説の一部
「特に一世紀前より英国と米国は大東亜地域に進出したり、あるいは植民地として、あるいは原料獲得の独占的地域としあるいは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。したがって大東亜民族はあるいは独立と主権を失い、あるいは治外法権と不平等条約によってその独立および主権に種々の制限を受け、しかも国際法上の相互的取り扱いを得ることがなかったのであります。かくしてアジアは政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。かかる事情により生まれた苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留まっているのであります」

 大東亜戦争は日本が緒戦、快進撃を続け、タイ国民も熱狂しましたが、昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦の敗北、翌年初頭ガダルカナル島撤退より、暗雲がたちこめはじめ、日本とタイの間も徐々にしっくりいかなくなっていきました。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)

添付画像
 東京にて東條首相とタイ高官。中央東條首相の右はディレック大使(開戦時外相)(PD)

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天皇陛下の稲作と働くことの美徳

天皇陛下の稲作には大きな意味があった。

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 毎年、天皇陛下が田植え、稲刈りをされるニュースが流れます。皇居内にはちょっとした水田があり、コメ作りが行われています。このコメは11月23日に行われる新嘗祭で神前に供えられます。陛下の稲作りが報道陣に公開されるのは春の「種もみまき」と初夏の「田植え」、と秋の「稲刈り」の3回あります。
 宮内庁によると稲作は昭和天皇によって始められたとなっているそうですが、明治より前は不明なものの、明治天皇が明治の初めに赤坂御苑内に水田を作らせ、陛下自ら耕されたと伝えられています。歴史的に見て天皇陛下は農耕民族の代表者であり、五穀豊穣、国民の安寧を祈る祭司王ですから伝統として何らかの形で現在に引き継がれていると考えることができます。日本書紀では天照大神(あまてらすおおみかみ)が自ら神田を営み、新嘗の祭りを行ったとあります。

 見方を変えると神話では天照大神が田畑仕事をしており、現在の天皇陛下も田畑仕事をしており、仕事・労働は尊いもの、"徳"であるとうい考え方を日本人は持っていると見ることができます。

 麻生太郎元総理が総理になる前にこんなことを言っています。
「日本人の底力の一つは労働を美徳とするところではないか」

 麻生元総理は「旧約聖書」と「古事記」の違いを述べています。旧約聖書は神様が人間に罰を与えて働かせた。だから7日目には安息の日曜日がある。古事記は天照大神が自ら畑に出たり、機(はた)を織って働いたと書いてある。神様が働いているのだから日本人は働くことは良いことだ、と思っている、というものです。

 この話はなるほど、と思いました。西洋では休暇をとるために働くといいますが、日本にはそのような考え方はありません。政権交代前、麻生総理が「老人は働くことしか能がない」と言ったのをマスコミは騒ぎ立てましたが、何のことはありません。働くことは美徳なんですから、褒め言葉であり、失礼でもなんでもありません。麻生元総理は日本人の持つ徳性を理解していたとのに対して、マスコミは理解できなかったのです。

 たしかに日本人は労働を美徳だと無意識に考えていると思います。私の両祖父は老後も絶えず何かしら家のことや地域のことをやっていましたし、現代の日本人も夜遅くまで働きます。外国からも日本人は働きすぎとか勤勉と言われます。"働きすぎ"というのは批判としてありますが、だいたいそれは労働は罰と考えるキリスト教国の白人からの批判でしょう。ルック・イーストを叫び日本を範としたマレーシアのマハティール元首相は「日本人には勤勉な血が流れているのだから誇りに思うべき」と言っています。
 定年を迎えた人もまだまだ労働意欲があると聞きます。戦前の教育勅語にも「広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)」というのがあります。以前、私が勤める会社で管理職の研修があって、「10億円もらったらどうするか」というテーマがありましたが、みな「それでもやっぱり働くんだろうなあ」という答えが返ってきました。やはり日本人はどこかしら労働を"美徳"と思っているようです。

 こうしてみると今上天皇が伝統を受け継がれて稲作を行われるのは大変大きな意義があることに気づかされます。労働は美徳であること。これを天皇陛下が御身をもって国民に示しているのです。そしてその勤勉さが底力となって日本を過去から現在まで支えてきたわけです。どんな激動の時代も乗り越えてきました。そして国体が変わらない限り、日本人は"勤勉"さを底力として今後も幾多の困難を乗り切っていくことでしょう。


参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 PHP文庫「日本の『神話』と『古代史』がよくわかる本」日本博学倶楽部(著) / 島崎普(監修)
 祥伝社「日本人の覚悟」日下公人(著)
 新潮社「立ち上がれ日本人」マハティール・モハマド(著)/ 加藤暁子(訳)

添付画像
 平成23年の稲刈りのご様子 宮内庁提供 
  http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110928-2128.html

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微笑みの国タイの逆襲

力をつけたタイは白人の横暴に立ち上がった。

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 タイは近代に白人国家が東南アジアを植民地化した中で唯一独立を保った国です。巧みな外交のほかチュラロンコーン王(ラーマ5世)が近代化に尽力され、白人の侵略を防ぎ独立を維持しました。しかし、その代償も大きく、現在のカンボジアのバッタバン地区はタイ領でしたが、フランスに奪われ、マレー半島のケダー州他3州はイギリスに奪われました。

 1914年から翌年にかけてワチラーウット王(ラーマ6世)はナショナリズムを鼓舞する政策にでます。タイでは華僑が経済活動を牛耳っており、得られた利益は支那に還元されてしまい、タイにはメリットがないとして華僑が批判の対象となっていました。
 そして第一次世界大戦が勃発します。ワチラーウット王はペンネームを使って新聞に論説を展開していたユニークな王で、アメリカの参戦を見た王は得意の論説を展開し、ドイツを批難し、世論を誘導していきます。そして1917年7月にドイツ、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告。飛行部隊と自動車部隊を欧州戦線へ派遣します。そして戦勝国となりました。タイは日本と同じように欧米列強から不平等条約を結ばされていましたが、戦勝国となったタイは不平等条約の解消を一気に進め、1919年のベルサイユ講和会議に訴え、1927年までに改正作業を終えてます。

 タイは1932年にクーデターが勃発し、立憲君主制に移行します。力をつけてきたタイはこれまでの白人らの横暴に反抗していくようになります。国際連盟で満州国について対日批難投票を棄権して世界を驚かせました。その後、満州国を真っ先に承認します。国際連盟ではベルサイユで日本の人種差別禁止提案が潰されたのを目の当たりにしてきており、アヘンをベトナムやマレーで売りさばきながら「植民地の福利厚生をはかるのは神聖なる使命」といった連盟規約の挿入を白人の欺瞞だと見抜いていたのです。

 日本とタイの関係は矢田部厚彦駐タイ公使の頃、親密の度を増して行きました。矢田部公使は昭和3年(1928年)から昭和11年(1936年)まで8年余りにわたり特命全権公使としてタイに駐在しました。タイ人学生の東京への留学の受け入れや経済使節団の交流、日本海軍練習艦の訪タイ、日本タイ教会の設立など親善外交が次々繰り広げらました。そしてタイは海軍艦船の建造を日本に発注します。旗艦アユタヤ号をはじめ22隻の新鋭艦を日本の造船所に作らせたのです。

 1937年、プレーク・ピブーンソンクラーム内閣が発足(以降ピブーン)。ラタニヨム運動というナショナリズムを鼓舞し、華僑の経済活動を公企業枠にはめ、活動を制限し、従わない華僑を追い出します。ピブーン首相は日本がABCD包囲網で軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全量を日本に供給してくれました。

 タイは以前割譲したフランス領インドシナ(以後仏印)領内のメコン川西岸までの領土(フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州)の返還を求めていました。しかし、フランスはいっこうにタイの要求を取り上げる意志を示しません。
 昭和15年(1940年)6月、ドイツ軍がフランスへ侵入し、フランス政府が降伏します。さらに日本軍が8月に仏印進駐を行い、ドンダンでフランス軍を叩きのめしました。これを見たタイは積年のフランスへの恨みをはらさんとするかの如く、11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し戦端が開かれます。タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊をもってして進攻を開始し、フランス軍を圧倒します。しかし、腐ってもフランス。海戦ではタイ海軍が敗北し、新鋭の旗艦トンブリ号が沈没。陸戦も次第に劣勢になり、タイは日本に調停を依頼しました。昭和16年(1941年)年5月8日、両国は日本の仲介により東京条約を調印し、講和となります。一応、タイではこれは「戦勝」となっており、戦勝記念塔をバンコクに建立しました。というのはチャンパサク地方及びカンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州を回復したからです。しかし、第二次世界大戦に日本が敗北するとこの領土は再び奪われてしまいました。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
 「歴史通」2009.7月号『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 めこん「タイのこころ」ククリット・プラモート/チット・プーミサック(著)/田中忠治(編訳・解説)
参考サイト
 WikiPedia「タイ・フランス領インドシナ紛争」

添付画像
 1932年頃のシャムの兵士(PD)

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タイも近代化により独立を保った

巧みな外交だけはなかった。

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 タイは白人の植民地時代に東南アジアで唯一独立を保った国です。

 侵略されたアジア諸国
1819 シンガポール(イギリス)
1826~86 ビルマ(イギリス)
1862~84 ベトナム(フランス)
1863 カンボジア(フランス)
1898 フィリピン(アメリカ)
1909 マレー(イギリス)

 タイは西にビルマが隣接しており、東はラオス、カンボジア、ベトナムがあります。ビルマがイギリスの支配下にはいるとイギリスはタイの王室独占貿易を解体せよと迫ります。1826年にバーネイ条約を結ぶことになります。そして今度は治外法権の了承やすべての港での交易権、バンコクでの居住権、船幅税の廃止、3%関税の導入など不平等条約を結ばされることになります。1855年のバウリング条約といいます。日本が欧米諸国と結んだ不平等条約とほぼ同時期であり、タイも同様の圧迫をうけたわけです。条約を結んでおいて後で一気に攻め込むのは白人の侵略の常套手段です。このときに王室の収入不足をコメの輸出による税収でまかなうことが行われました。白人のアジア植民地支配は特定の商品作物栽培を奨励したためコメが不足したのです。タイはこの頃から水田の拡大をはじめます。これが現在までタイの代表的な輸出産品となった謂れです。

 タイは西からイギリスによる経済支配を受けますが、東からはフランスの領土圧迫を受けます。1867年にタイ仏条約が結ばれカンボジアの保護権を失います。ラオスでもフランスと衝突し、メコン河でも対立します。1893年パークナーム事件が勃発。フランスの軍艦がバンコクへ向い、チャオプラヤー河口を強行突破し、パークナーム(河口)で交戦し、港を封鎖し、タイを脅します。タイ側はイギリスの支援を期待しましたが、イギリスの反応はなく、フランス側の要求を全面的に受け入れ、賠償金を払い、国土を削り取られてしまいます。

 タイは西からイギリス、東からフランスの緩衝地帯になっていたため、両国が牽制しあい、タイも外交巧みに独立を保ったといわれていますが、チュラロンコーン王(ラーマ五世)がタイの近代化に力を入れたことが大きかったと思われます。王は国家財政改革を行い、議会と枢密院を設置するなど行政改革を行います。チャクリー改革と呼ばれます。中央集権化し、教育制度の近代化も行われます。この点も日本と似ています。日本は北からロシア、南からイギリスが触手を伸ばし両国がぶつかった地域であり、独立を保つために近代化を急ぎました。タイはそのほか外国人登用を始め鉄道の建設を行います。これも日本と似ています。

 このタイの近代化に多くの日本人が寄与しています。なかでも政尾虎吉博士が有名です。明治30年(1897年)に駐タイ公使・稲垣満次郎の招聘でタイに渡り、新法制と法典編纂の事業に取り組みました。司法省には二十数名の欧米人法律顧問がいましたが、政尾博士は顧問団の首席として活躍し、タイの法制整備に尽力し、多くのタイ人から尊敬されました。博士が大正10年(1921年)にバンコクで亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇しました。
 また、近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれました。明治37年(1904年)から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えました。安井は帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残しました。

 そして近代化につとめたタイは第一次世界大戦参戦を契機に不平等条約を解消することに成功します。王室を中心として国民が団結していたということでしょう。この点でも日本と非常によく似ています。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
参考サイト
 地球史探訪:日泰友好小史(上) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog063.html

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 ラーマ5世(PD)

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皇居勤労奉仕団

奉仕の精神を育てる。

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 皇居勤労奉仕団とは皇居や東宮御所・各宮家の邸宅のある赤坂御用地の敷地内の清掃などをボランティアで行うものです。15人以上で60人までの団体(15歳以上70歳以下)を組めば年間を通じて誰でも応募、参加できます。平日の4日間連続で作業します。このとき陛下がご会釈されることがあります。会釈(えしゃく)というのは非公式に会うという意味です。陛下が人に会う行事は「会見」「引見」「拝謁」「会釈」「お茶」「お茶会」に別れています。「会見」は国家の元首級に使われる言葉です。No2級だと「引見」と言います。マスコミはときどきNo2級でも「会見」と言ったりするので注意が必要です。

 昭和20年(1945年)終戦後、空襲で草が生い茂った皇居の草刈をさせてくれと、宮内省(当時)に申し出た国民がおり、これが皇居勤労奉仕の起源です。62名の男女が自主的に上京してきて3日間奉仕しました。このとき昭和天皇は大変喜ばれて勤労奉仕団の前に姿をお見せになりました。これが口コミで全国に広がります。昭和26年(1951年)には4万人に達しました。
 この勤労奉仕をみて宮内府(当時)が昭和23年(1948年)に「一般参賀」を認めました。それまでは位階勲等がない人は皇居には入れなかったのです。元日には7万人、翌2日には14万人が参賀に訪れました。これを昭和天皇が宮内府の屋上からご覧になられたのが現在行われている「一般参賀」の起源になります。

 勤労奉仕団は学校や赤十字といった団体が取りまとめて申し込みしています。平成16年(2004年)の数字を見ると291団体9241人が参加しており、17年~19年も200団体台、6000~7000人で推移しています。
 参加者は期間中、皇居に通える近い場所に自費で宿をとります。交通費も自費です。勤労奉仕作業では、皇居の一般参賀でもはいれないような領域に入って作業ができ、その期間中、天皇皇后両陛下が地方訪問や外国賓客との会見といった行事と重ならなければ「会釈」の機会があって、参加者は間近で両陛下に対面できます。
 「ご会釈」は主に毎週火曜と金曜の午前に皇居内の宮内庁庁舎脇にある蓮池三集所で行われます。参加者が待つ中、御所から車で天皇皇后両陛下が到着すると、まず陛下からねぎらいのお言葉があります。団体の代表者には直接、お言葉をかけられます。「どちらからいらっしゃいました」などとお声をかけられ、その地域に訪問したことがあれば「○○(地域)には○○(施設の名など)がありましたね」といったお話もされます。その地域が自然災害などの被害にあっていたりすると、たとえば「台風で大変だったようですが、作物のほうは大丈夫ですか」といったことも聞かれるといいます。そして最後に奉仕団が「天皇陛下、皇后陛下、万歳」と万歳三唱して終わるようです。

 このほか、回数は少ないものの「賢所勤労奉仕団」というのもあり、宮中三殿で大きな皇室祭儀が行われる際、準備や片付けなどを行う奉仕団があります。これは神社関係の数団体があります。これも天皇皇后両陛下は「ご会釈」をされます。11月23日の新嘗祭での「献穀者」という米や粟(あわ)を献上した農家の方々に対しても「ご会釈」が行われます。公務ご多忙の中でも常に国民を気遣う両陛下の御心を伺い知ることができます。


参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)

参考サイト
 宮内庁 皇居勤労奉仕のご案内 http://www.kunaicho.go.jp/event/kinrohoshi.html

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 皇居(JJ太郎撮影 PD)

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アユタヤ王朝の親衛隊長になった山田長政

戦後語られなくなった山田長政。

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 日タイ400年史というのはタイのアユタヤ王朝の親衛隊長となった山田長政の頃からを指すものです。

 15世紀から17世紀にかけて東南アジアは「交易の時代」に突入していました。タイの国はアユタヤ王朝がありましたが、1558年にビルマのタウングー朝によりラーンナー王国(チェンマイ付近)が陥落し、1569年にはアユタヤも陥落し、ビルマの属国となりました。しかし、1584年、ナレースアンが再びアユタヤ王朝の独立を回復します。ちなみにナレースアン王はムエタイの創始者とされており、ムエタイの選手に高く崇められています。

 アユタヤは外国船が多数入港し、ポルトガル人、ベトナム人、支那人、日本人が町を形成していました。日本人が16世紀末から居住を開始したようで、最盛期には1000人~1500人程度の規模でした。商人ばかりでなく、武士の移住も多く、武士の多くは王室や高官の義勇兵、親衛隊として雇われました。約600人の日本人義勇兵が存在したといいます。

 山田長政は沼津藩主の籠をかつぐ人夫でしたが、慶長17年(1612年)頃、朱印船に乗ってアユタヤに向かったものと思われます。商業に従事し、日本向けの蘇木や鹿皮の買い付けを行い、その成功とともに名声を築いていきました。
 1621年に、スペイン・ポルトガル連合軍がマカオ争奪をめぐってオランダ艦隊と戦い、勝利に乗じてスペイン艦隊がメナム河に入り込んで猛威を振るいました。このとき長政はメナム河関所の管理隊長をしていました。そして長政の水上軍と日本人部隊がスペイン艦隊に奇襲をかけて艦を焼き大勝利を得ました。
 そして長政は日本人義勇兵の隊長にもなり、アユタヤ王朝のソンタム王の信頼を勝ち取って、オークヤー・セーナービムックという欽賜名を得るにいたります。オークヤーは5爵位内の2番目の地位です。山田長政の名声はオランダの東インド会社やインド理事会の記録にも言及されているといいますから、大変な人物だったのでしょう。

 山田長政はソンタム王の死後、王位継承争いに巻き込まれます。長政は王位継承の混乱を避けるためソンタム王存命の頃から日本流の長子相続を王に説いていました。王の死後、王の長子と王の弟との間で後継争いが起こりましたが、長子派が勝利します。そしてチェーターティラート王が即位しました。ところが、ソンタム王の叔父の子で元宮内庁長官のオークヤー・カラーホームが、王は国政をとる力がないのを見抜き、若い王を殺害してしまいました。カラーホームは王位簒奪を計画し、山田長政に同意を求めましたが、長政はソンタム王の第二王子が王位を継承すべきで、カラーホームは摂政に就くべきだとして同意しませんでした。

 王位に野心を持つカラーホームはなんとか邪魔者の長政を追い払おうとして、南タイの太守になることを条件に長政のナコン行きを説得しました。しかし、長政はアユタヤを空けると15歳の新国王が危ないことを知っていたので、なかなか承知しませんでしたが、王の命令というのでやむなく1626年10月、300の日本人と4000人の部隊を率いてナコン・シータラマート(六昆)に向かい、瞬く間に反乱軍を鎮圧しました。その間にカラホームは幼帝を殺害し、自らが王についてしまいました。

 長政はカラーホームへの復讐のためにアユタヤへ進撃する準備を始めますが、カラーホームは密使を送り、長政の主治医に長政の毒殺を命じます。主治医は戦闘で傷を負った長政の足に猛毒の薬をぬり長政を殺害しました。1630年8月ことでした。長政42歳。

 長政の死後、その長子、クン・セーナービムックがナコン・シータマラートの国守を継ぎますが、土着の貴族が彼に服さず、さらに日本人同士の仲間割れもあり、オランダ艦隊の介入などを引き起こして、日本人側が敗退し、カンボジア方面へ逃走したといいます。長政の子クン・セーナービムックは消息は定かではありません。

 この後、新王となったカラーホームことプラサート・トーング王は日本人がアユタヤで商業に従事することを許していましたが、長政の仇を撃つため日本人武士団が宮中に攻め入るという噂が流れると、王は恐れて日本人町を急襲して焼き討ちにしました。その後、王は戻ってくる日本人を寛大な態度で迎え、日本人町は復活しましたが、江戸幕府が鎖国をしたため、次第に衰退していきました。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
添付画像
 シャムにいる山田長政の軍 日の丸が見える(PD)

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日タイ間の古代、サムライが渡った中世

日本とタイの関係は古かった。

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 日本とタイの間の歴史というと「山田長政」を思い浮かべる人がいるでしょう。17世紀前半のアユタヤ王朝の親衛隊長になった人で600名の日本人義勇兵を率いていた実力者です。日タイ400年史というとこのあたりからを指します。

 ずーっと古くは西暦542年、欽明天皇のとき、「百済(くだら 朝鮮半島にあった国)王は扶南の財貨及び土人二人を献上した」と日本書紀に書かれており、扶南はタイ、カンボジア方面に存在した国を指しています。現在のタイ民族は諸説ありますが、6,7世紀ぐらいに漢民族の圧迫を受け、揚子江以南より移動して人たちと言われています。ちょうど時期はこの頃になりますが、まだ現在のタイには到達していませんから、大和朝廷に献上された土人というのは先住民モン・クメール系の民族かもしれません。

 平安時代の初期、皇族の高岳親王(たかおかしんのう)は出家され、861年に唐へいき、インド歴遊のため、広東より船で出発し、羅越国で薨去(こうきょ)されたと伝えられています。羅越国は中部タイにあった国という説があります。
 平安時代、鎌倉時代、日本は唐や宋の国と交易をしていましたが、これらを通じてタイとも交易をしていました。タイは1238年にタイ民族による近代的組織を持ったスコータイ王国が建設され、タイの船は直接日本にも行っていたようです。
 1350年、タイではアユタヤ王国が建設されました。アユタヤとは琉球との交易が見られるほか、室町幕府が支那をはじめ南方諸国との交易を認めていたため、九州の大名や長崎、博多の商人が東南アジアに貿易船を派遣し、米、銅、明ばん(鉱物)、砂金、陶器、支那の布地を積んでいったと言われています。

 室町時代末期から戦国時代になると戦に敗れた失意の武士がアユタヤへ行くようになりました。武士はアユタヤ王室や高官たちの義勇兵または親衛隊に雇われるものが多くいました。アユタヤ王第18代のナレスワン大王のときの1593年に侵入してきたビルマ軍をスパンブリ郊外で迎え撃ち、ビルマ王子を討ち取るというタイでは有名な戦闘に、日本のサムライが500名参加していたと言われています。その後の1596年、ナレスワン大王はチェンマイを攻略しましたが、このとき、日本のサムライが従軍して手柄を立てたと言われています。アユタヤ王朝は冒険的な支那人、欧州人も義勇兵として採用していましたが、日本のサムライは忠実かつ勇敢であったので歓迎され、好遇を受けました。

 江戸時代に入るとタイとの交易のため幕府から朱印状を交付されるものが数を増し慶長9年(1604年)から元和元年(1615年)の間に30件に及んでいます。長崎の木屋弥三右衛門は1606年に渡航して以来、計5回の朱印状の下付を受け、タイの滞在期間は延べ10年間に及び、アユタヤ事情に通じていたので、元和7年(1621年)にタイの使節団が来日したとき、江戸城中に召されて通訳を勤めています。
 この頃、アユタヤでは日本人街が作られ、オークブラ純広という日本人が活躍していました。「オークブラ」というのはアユタヤ王家から授爵された冠位で、上からチャオピヤ、オークヤー、オークブラ、ルアン、クンの五階級あります。純弘の次は津田又右衛門、その次が白井久右衛門が日本人町の首領となり、その後に山田長政の時代となるわけです。長政はオークヤー・セーナーピムックの称号が与えられました。

 日タイ間の公式の修交は慶長11年(1609年)、エーカトッサロート王に鎧、刀剣、馬具を贈ったところから始まり、アユタヤ王からはタイの香木や欧州より入手した火器を贈られています。元和2年(1616年)にはアユタヤ王朝より初めて日本へ公式の使節が送られました。元和7年(1621年)、アユタヤ王朝のソングタム王は日本へクン・ピチットソムバット、クン・プラサートを日本へ派遣しました。

アユタヤ国王より将軍徳川秀忠に宛てられた書簡
「日タイ両国に海があることは両国の連絡を困難ならしめて来たが、今やわれわれの交易船が通い両国の親善関係を一層緊密化した。閣下(将軍)はわれわれを心から愛され親族以上の親しみをもって交わっておられる」

秀忠からの返書
「日タイ両国間の親善関係は誠実を基礎としているから絶対阻害されることはない。両国の間に海があることもなんら大した障害ではない」

 この後、タイではカンボジアのジエタ王がアユタヤへの朝貢をやめたので、アユタヤ朝はこれを攻撃しましたが、プノンペン在住の日本のサムライ部隊がカンボジア王を助けてアユタヤ軍を撃退したため、アユタヤ王朝は江戸幕府にカンボジア在住の日本人にアユタヤとの戦闘に参加しないうよう命令してほしいという要請が出されます。そして秀忠は「日本人は政治に関与すべきでない」という返書を送っています。

 やがてタイでは山田長政が死去し、江戸幕府は鎖国令を出したので、日タイ両国の交流は約250年もの間、途絶えることとなりました。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
添付画像
 アユタヤ王宮・サンペット宮殿(PD)

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疫病の国、韓国を救った日本

日本が韓国人の生命を奪ったというのはウソ。

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 韓国では日韓合邦時代に日本が奪ったものの一つに韓国人の「生命」を挙げています。

 1993年の韓国の教科書
「民族抹殺政治」
「1920年代後半・・・韓半島の労働力と資源は徹底的に収奪された。・・・さらに中・日戦争を挑発して(1937年)、大陸侵略を強行するとともに韓半島を大陸侵略の兵站基地にしようとした。太平洋戦争が起きて、総動員令が下されると同時に、わが民族は日帝により過酷に人的、物的収奪を受けた。この時期に、わが民族は日帝によって民族抹殺統治を受けるようになった」

 生命を奪った、民族抹殺政治などとは真っ赤なウソです。生命を奪ったのなら合邦当時の950万人の人口が2500万人になるはずがないし、平均寿命が24歳から48歳まで伸びるはずがありません

 日韓合邦前のソウルは世界一不潔な都市と言われていました。旅行家のイザベラ・バードは1897年にソウルを訪れ
「城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし・・・ソウルの悪臭こそこの世で一番ひどい匂いだと考えていたのであるから!」と断ってその不衛生さをいくらか描写しています。
 当時の韓国首都ソウルではいたるところに人糞や牛馬糞が満ちており、井戸水はにごっており、風呂に入れば茶色の湯でした(当時、朝鮮では風呂に入る習慣はなく、これは朝鮮へ行った日本人の話)。こういう不衛生な環境では疫病が生命最大の脅威になります。韓国では肺結核、ハンセン病、肺臓ジストマ、赤痢、チフスなど以外にもアヘンやモルヒネ中毒もありました。17世紀から19世紀にかけて年間十万人以上の死者を出す疫病が6回も流行しています。

 また、医療も迷信に基づく医療でした。
「牛糞を塗る」「ヒマワリの種を湯がいてたべる」「患者が桃の種を二つに割り、一方に『日』の字を書いて、もう一方に『月』の字を書いて一気に飲み込む」「小さな蛙を三匹生きたまま丸呑みする(腹痛に即効)」「じっくり沸かしたお湯に40歳の女性の髪の毛を入れて飲む」という方法がとられていました。大韓帝国の最後の皇太子の妃は腹が腫れる病気になり、民間の医師の診察を受け、腹に悪霊が住み付いたと診断され、城門の戸板をはがして煎じて飲まされるという治療が行われています。そしてその後、死亡しています。

 日本は大韓帝国政府樹立以来、京城に京城医専、同付属病院の設立を皮切りに次々と公済病院を設立し、明治42年(1909年)慈恵医院の官制を発布します。日韓合邦後は本格的に近代医学医療制度を導入していきます。
 明治43年(1910年)から防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に取り組みます。この結果、コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は大正7年(1917年)~大正9年(1920年)でなくなり、乳児の死亡率が大幅に低下しました。各道から市町村に至るまで医療制度は整備されていき、すべての人が近代医療の恩恵を受けられるようになります。昭和期に入ると大陸から来襲してくる疫病を完全に食い止められるようになりました。
 インド、シナから朝鮮半島にはハンセン病が猛威を振るっていましたが、救ライ事業として世界的な規模の小鹿島更正園を作り、6,000人以上の患者を収容しています。

 朝鮮の人口は保護化の1906年は980万人でしたが、こうした近代医療の確立、環境改善、疫病の撲滅、この他にも農業改革の成功もあり、日韓合邦後の大正期に入った1912年には1400万人に急増しました。昭和期に入る1926年には1866万人、昭和13年(1938年)には2400万人になりました。

 日韓合邦は近代医学による衛生、環境の改善と疫病の撲滅によって、朝鮮民族の生命保全と繁栄に大きく貢献したのが歴史の真実です。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 株式会社国際企画「日韓2000年の真実」名越二荒之助(編著)
 講談社学術文庫「朝鮮紀行」イザベラ・バード(著) / 時岡敬子(訳)
 ワック出版「歴史通」2010.7『韓国は日本がつくった!』黄文雄

添付画像
 1904年のソウル(ロシア施設団をロシア軍が警備していると思われる PD)

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朝鮮民族を滅亡から救った李完用(イ・ワニョン)

李完用は売国奴ではない。

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 韓国、李朝の末期、国家財政は完全に破産し、国土は荒れ、政治と行政は腐敗しきっており、列強からの借金は莫大な額になり返済のあてはまったくなく、自力で国家を再建するのは無理な状態でした。韓国民衆のエネルギーを結集した政治団体一進会は日韓合邦を望みました。大韓帝国の内閣総理大臣・李完用(イ・ワニョン、り・かんよう)は日韓保護条約を経て、1910年「日韓国併合ニ関スル条約」に調印します。

 李完用は政治家人生の中で何度も暴漢に襲われています。1909年12月22日に明洞聖堂前で、合邦反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われ、全身をメッタ刺しにされ重傷を負いましたが、一命をとりとめました。彼は命がけで政治使命を果たしました。

 現在、李完用は韓国では親日派(チンイルパ=売国奴)とされています。韓国政府によって公式にも親日反民族行為者に認定され2005年に韓国において親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布された際にも、親日反民族行為者財産調査委員会は、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を行っています。韓国では彼の業績を一部でも評価しようとすれば、その人間はたちまち激しい糾弾を浴びて、社会的に抹殺されてしまいかねない状況だといいます。

 合邦までの時代背景を見ると韓国の宗主国であった清は改革に失敗し、ロシアが南下してきて朝鮮半島を脅かしました。朝鮮半島はロシア支配下になるのは目に見えていました。亡国の危機に韓国人はなぜこのときロシアと戦わなかったのか。李完用を売国奴と批判する者はこのことに言及すべきです。

 李完用は苦悩の末、日韓合邦を選びました。単独で国家を保とうとすると民族は滅亡します。日韓合邦という合邦国家方式による民族の保存を行ったわけです。李完用は1896年に独立協会を結成し、1898年、独立協会会長として、万民共同会を開催しました。京城(ソウル)都心部で独立鼓吹(こすい)の街頭講演会を多数開催しています。彼は愛国者です。その李完用が日韓合邦に踏み切らなければならないほど朝鮮社会は停滞していたということです。それを示すよい例があります。京城に電車が開通したとき、クーリー(労働者)がレールを枕にして寝るので、車掌たちはそういうものを路線から追い出す仕事をしなければなりませんでした。ところが、数人の高官は「人間にとって本然的なものである睡眠を妨害することは不法行為であり、電車は軌道上に寝ている人が目覚めるまで待つべきである」という勅令を発布するように国王に嘆願書を出したのです。またあるとき軌道上で寝ていたものが轢かれてしまう事件がおこりました。すると暴動が発生し、電車が破壊され、運転手がリンチを受けました。逮捕された暴動の指導者たちは次のように弁明しました。

「市の門外で眠っている石の亀(古代の記念物)を決して邪魔をしてはいかん - もしあの石亀が目覚めるようなことになれば国中に一大事が起こるだろう。あの電車めの物音は石亀をおこすことになりかねない」

救いがたい前近代性です。このような状態では国家破綻している大韓帝国ではどうしようもなく、日韓合邦がなければ、民族の滅亡を待つばかりだったでしょう。李完用は朝鮮民族を滅亡から救った朝鮮人にとっての恩人であると言えます。

 李は大日本帝国の下で大正9年(1920年)には侯爵となりました。大正15年(1926年)には大勲位菊花大綬章を授与されています。大正15年(1926年)、肺炎により死去。その葬儀は国葬でも無いにも関わらず、葬列が4キロに達したといいます。売国奴ならこのようなことは起こり得ません。

 斎藤実総督(当時)の弔辞
「李完用侯爵は東洋一流の政治家であり・・・彼の人格はあらゆる人たちの欽慕(きんぼ)の的であり、彼の死は国家の一大損失である・・・」

 李完用は日本語は堪能でしたが、大韓帝国時代から日韓合邦時代に至るまで、公式の場において日本語を話すことはありませんでした。朝鮮民族としての誇りを持ち、それを一般朝鮮人たちに示していたということでしょう。


参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『金玉均と李完用から見た韓国近代史』桜井誠
 祥伝社黄金文庫「歴史再検証 日韓併合―韓民族を救った『日帝36年』の真実 」崔 基鎬(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「李完用」「日韓併合条約」
添付画像
 李完用(PD)

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加藤隼戦闘隊の終戦

加藤隼戦闘隊の生き残りは敗戦に何を感じ、戦後、何を思って生きたのか。

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 昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。加藤隼戦闘隊の生き残り、鉄脚のエースと呼ばれ義足をつけて空にあがった檜與平少佐は愛知県の小牧飛行場で「終戦の詔勅」を聞きます。檜少佐は航空帽を廊下に叩きつけました。航空眼鏡が微塵に砕けて散りました。

 檜少佐
「なんのための戦いだ。なんのために払われた犠牲だ。とうとい血汐を流した数十万の将兵は、なんのためなんだ」

 檜少佐の胸にはやるだけやった、戦うだけ戦った、という思いが体を駆け巡りました。しかし得体の知れない虚しさが残りました。加藤建夫戦隊長の顔、安間大尉の顔、遠藤中尉の顔、一人っ子の黒沢大尉の顔、顔、顔、が浮かんできます。檜少佐は万斛(ばんこく)の涙をのんで、小牧飛行場の一角に立ち尽くしました。。

 陸軍飛行第六十四戦隊、通称加藤隼戦闘隊は南部仏印クラコール飛行場で終戦を迎えました。隼三型18機が残り、8月24日、全機が最後の場周飛行を行い、部隊の歴史に終止符を打ちました。第六十四戦隊の感状は合計9回となりました。生き残った隊員のうち何名かは中華民国軍やベトミンに引き抜かれたといいます。

 黒江保彦少佐は戦後は民間の航空会社にパイロットとして入社しました。昭和26年(1951年)から日本人のパイロットの操縦が許可されるようになると陸海軍のパイロットは民間の航空会社に返り咲いていました。黒江少佐もその一人でした。その後、航空自衛隊に入隊します。

 安田義人准尉は健康を害し、榛名山麓で4年の闘病生活を送っていました。あるとき、新聞に黒江少佐がセスナ機で農薬散布をしている写真入りの記事が出ており、なつかしさで胸がいっぱいになりました。矢も盾もたまらぬ思いで手紙を書きます。そして返事がきました。その中に「近々空から見舞おう」と書かれていました。4、5日たち、午後三時頃、安田氏は入浴していると、耳を切るような超低空の爆音が聞こえてきます。

「来た!」

安田氏は裸のまま庭に飛び出しました。山谷を縫うようにして何度も急降下する鮮やかな操縦のセスナの飛行に隼の姿をダブらせ、失意の底にあった安田氏は勇気づけられました。

 日本敗戦後、GHQ製の歴史が言論空間を支配し、戦争は悪、日本は悪、軍部は国民を騙した、特に陸軍は悪、軍人は悪、と言われてきました。そのような風潮の中、安田義人氏は自分の子供に戦争の話は多くは語らなかったといいます。戦争という物の熾烈さ、無残さ、空しさを含めて、よく真相を語りえなかったから、と述べています。そして著書「栄光 加藤隼戦闘隊」を記しました。そのあとがきには次のように記されています。

「祖国の栄光を信じ、遠くアラカンの山脈を越えてヒマラヤの峻峰を脚下に臨み、またインド洋の水平線のかなたで、容赦ない敵機の火箭(かせん)につばさ折れ弾丸つきて散った多くの空中戦士は、思えばすべて二十代の若鷲であった。その若鷲たちが、まなじりを決して敵機に立ち向かう勇気は、また戦争の無残さ、空しさとは別物である」

 黒江保彦少佐は昭和40年(1965年)12月5日、悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死しました。部隊葬では加藤隼戦闘隊歌によって送られました。弟の豊氏は兄の墓参りに行き、線香をたてると兄から「おい、そんな線香ばかりとぼすな」と叱られるので、兄保彦が愛好していたタバコの「ホープ」に火をつけて、墓前の香炉に立ててあげたといいます。

 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機


参考文献
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」

添付画像
 飛翔する一式戦一型(キ43-I)(PD)

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ああ陸軍 隼戦闘隊

www.youtube.com/watch?v=srCG6TR0dtw

鉄脚のエース、檜與平

義足を空にあげた加藤隼戦闘隊のエース。

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 陸軍飛行第六十四戦隊、通称加藤隼戦闘隊の檜與平と言えば、鉄脚のエースとして有名です。

 昭和18年(1943年)11月25日、ビルマのラングーンに敵機来襲の情報が入ります。ミンガラドンの加藤隼戦闘隊第三中隊4機が迎撃に向かいました。すると見たこともない単発の、頭の尖った飛行機が7機、ロッテ(2機ペアの戦術)を組んで飛んでいます。檜大尉、隅野中尉、木下准尉が計3機を撃墜したものの、高性能戦闘機の出現に警戒を強めました。P51ムスタング戦闘機が現れたのです。

 11月27日、ラングーンに敵戦爆連合約80機が来襲。加藤隼戦闘隊第三中隊8機が迎撃に向かいます。10対1の対決です。檜大尉機は前上方からバリバリ攻撃を仕掛けました。戦闘は海上までもつれ、檜中尉はP51ムスタングに照準を合わせます。後方より銃撃を加え1機撃墜、さらにB24に照準を合わせ撃墜。さらにもう1機に狙いを付けたとき、激しい衝撃を感じました。別のP51から下後方より狙い撃たれたのです。檜大尉の右足首がちぎれてしまいました。檜大尉は瀕死の状態で基地に帰還し、すぐ野戦病院へ運ばれました。

「お願いですから、私の足は切らないでください。足を切られては飛行機に乗れなくなるから・・・」

檜中尉の願いは虚しく足は切断されてしまいました。

 檜中尉は内地に戻ることになりました。羽田へ着くと、迎えに来るはずの自動車が来ていません。有楽町から電話して自動車をよこしてもらいましたが、「ご苦労です」と、運転手に声をかけても返事がありません。軍医学校へ着くと衛生兵が「背負いますよ」と馴れ馴れしい態度で接してきました。部屋は大部屋で外来患者が大勢いるところです。大尉といえども戦えなくなった兵にはこうも厳しいものか・・・しかし、昭和19年(1944年)3月に「加藤隼戦闘隊」の映画が封切られると病院内で檜大尉のことが話題になり連日の慰問攻めにあいました。

 檜大尉は義足をつけ、必死のリハビリを始めました。「もう一度空にあがる」の一念でした。義足をつけた箇所の皮膚は破れ痛みが激しくなり、再度手術することになります。治ってからまたリハビリのやり直しです。朝、義足を付けて歩くと患部が痛み、窓に寄りかかって踏み込む毎日でした。リハビリは続けられ、最後の仕上げで箱根湯本で訓練を行いました。そこには航空関係者の特別療養所がありましたが、檜大尉は当初入れてはもらえませんでした。もう空には上がれないと思われたのです。それを知った檜大尉は悔しくてたまりませんでした。

 昭和19年(1944年)11月27日、負傷して1年、檜大尉は恩賜の義足を装着し、軍服をまとい、軍刀を吊るし、立川の航空審査部に到着しました。そこで加藤隼戦闘隊にいた黒江保彦少佐に会いました。二人はかたく手を握り合い、目には熱いものがこみあげてきました。

 檜大尉は教官として明野教導飛行師団の勤務となります。三重の明野飛行場に着いた檜大尉はそこから97式戦闘機に載って高松へ向かいました。途中で垂直旋回、斜め宙返りを試します。義足の右足の踏ん張りが遅れると機体がすべります。2,3回やるうちに以前と変わりなく操縦できるようになりました。

「ついに飛行機に乗ったぞ!ジュラルミンの義足が空中へ上がったのだ!」

 昭和20年(1945年)7月16日10時頃、"敵小型編隊、伊勢湾に向かい北上中!"の情報が入ります。

「まわせ!」

 檜大尉の陸軍最新鋭五式戦闘機が飛び立ちました。敵機はあのP51ムスタングです。敵戦闘機との交戦は足をなくした日以来1年半ぶりでした。檜大尉機はP51にぐんぐん近づいていきました。あと100メートル、照準眼鏡を覗きます。「畜生!」、右足を突っ張ったつもりでも義足では微妙に自由がきかず、機体がすべり、これでは撃っても命中しません。50メートル、20メートル、これなら機体がすべっても命中間違いなし。ダダダダダ!P51は翼が吹き飛び落下していきました。加藤隼戦闘隊のエース復活、それも鉄脚のエース復活でした。



参考文献
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

添付画像
 檜與平 「歴史街道」2011.8より

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一式戦・隼を語る_檜與平(桧与平)エースパイロットの証言
www.youtube.com/watch?v=0yHlloZoUeM

加藤隼戦闘隊 VS B24

強敵、B24現る!

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 大東亜戦争の日本軍のビルマ進攻は援蒋ルートのビルマルートの遮断が目的の一つにありました。これに成功すると、英米はヒマラヤ越えの空輸ルートしかなくなってしまいます。インパール作戦のもととなった二十一号作戦はこのヒマラヤルートの遮断に主眼をおいていました。

 昭和17年(1942年)10月25日、加藤隼戦闘隊ら戦爆連合編隊百数十機がメイクテイラを離陸、チンスキアの敵飛行場を目指します。高度5500Mでアラカン山脈を越えるとヒマラヤ山脈を臨みながら爆撃と銃撃を行います。翌26日、28日も攻撃成功します。
 
 この頃から南方戦線が怪しくなり、各拠点から航空兵力が抜き取られて、加藤戦隊からも8名が転戦しています。そこへ持ってきて敵B-17ボーイング、B-24コンソリデーテッド大型機がやってきて、加藤隼戦闘隊は困難な戦闘を強いられることになります。隼は13ミリ機銃(ゼロ戦は20ミリ)ですので、命中してもB24はなかなか落ちず、エンジンが2発停止しても飛び続け、下方に銃座があるため死角がありません。加藤戦隊では西沢曹長が初撃墜し、上口伍長が体当たりで撃墜するなどしていますが、かなり手を焼きました。

 加藤隼戦闘隊は昭和17年5月の加藤建夫戦隊長戦死のあとは事実上、黒江保彦大尉が第64戦隊を指揮していました。なんとかB24に一矢報いなければとB24撃墜戦法を研究していました。
 11月23,23日とマグウエ、続いてメイクテーラ、トングーがB24の夜間攻撃によって被害を受けます。25日夜間、「ラングーン西方30キロ、敵機東進」の情報が入り、加藤隼戦闘隊は出撃します。
 黒江大尉はB17(24?)を捉えました。左下方から一連社を浴びせます。すると別の方角からもパパパと曳光弾がB17へ向かって放たれました。別の味方機がB17を狙っていたのです。安田曹長の機でした。※1 夜間ですので、味方機同士の空中衝突の危険があります。それでも黒江機は突進しました。まさに射撃を開始しようとしたとき、黒江機の前にポっと火の玉が投げられました、黒江機は急旋回して避けました。これは安田機が被弾したのでした。安田曹長は落下傘降下し、沼地に着地しました。火傷をおっていましたが、ビルマ人らが手厚く看護してくれました。

 翌、昭和18年もB24は悠々とやってきました。対する加藤隼戦闘隊の迎撃は精彩を欠きました。黒江大尉は搭乗員の士気のゆるみに気が付きましたが、責めることはせず、自らが模範を示すべきという結論に至りました。

「死のう、いさぎよくB24と刺し違えて、撃墜するか、撃墜されるか。これ以外に敵に勝つ方法はない。真っ先に勇気のほどを見せて、命を捨てよう。そうしてら、敵は必ず落ちる」

 5月入り、チッタゴン攻撃の途中、B24の12機編隊にバッタリ遭遇。黒江機は垂直攻撃を仕掛けB24に命中弾をあたえました。B24から一人、二人、三人と飛び出し、パラシュートが開きました。威圧するような巨体を持ち、火力に優れたB24といえども同じ人間が乗っているし、爆撃機にとって、戦闘機は脅威以外何ものでもない、ということに改めて気付いた黒江大尉は「攻撃のイニシアティブは戦闘機が握っている」とし、皮を斬らせて骨を斬る捨て身の戦法でB24を撃墜していきました。

 同戦隊、高橋俊二中尉も「捨身必殺」をモットーにB24来襲と聞くや真っ先に出動しました。あるとき、トングーに来襲したB24を追撃し、被弾して基地近くに不時着し、彼自身負傷しましたが、翌日には来襲したB24を撃墜し、またも被弾しながら平然と戻ってきました。決してひるまない捨身必殺の精神に黒江大尉も脱帽でした。しかし、高橋中尉は昭和18年の秋、ラングーンに来襲したB24を海上遠く追ってついに帰ってきませんでした。

 そのうちB24と一緒にP51ムスタング戦闘機という更なる強敵が出現するようになり、加藤隼戦闘隊は一層、過酷な戦闘を強いられるようになっていきました。数え切れないぐらいの戦闘を行い、無事の帰還を喜び合い、何機撃墜したかなど話題にならなくなったといいます。




※1 安田義人の記録ではB24とある。記録では黒江機の存在に全く気が付いていない。



参考文献
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
添付画像
 訓練中、黒江(左)に「よらば斬るぞ」の構えはこうだ、と説明する姿 「歴史街道」2011.8より

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イラスト
 加藤建夫 武士道Tシャツ http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11298078332.html
 ホームページ http://www.ekakineco.com/index.html
 Tシャツあります  http://clubt.jp/product/219116.html

歴史を貧困にみたらあかん ~ 松下幸之助

人を不幸にする見方はあかんな。

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 上智大学の名誉教授、渡部昇一さんは、「歴史というものは暗くも明るくも語れる。史実の並べ方ではどうにでもなる」と述べています。

アメリカの明るい歴史
「信仰の自由を求める聖なる有志ピルグリム・ファーザーズが苦労しながら独立宣言をし、憲法をつくり、そして自由主義と民主主義を世界に広めた」

アメリカの真っ暗な歴史
「ヨーロッパで食い詰めた連中が船に乗ってアメリカにわたり、おとなしく親切な先住民から食べ物をもらっていたが、力をたくわえてきたら、自分たちに報いてくれた土着の人々を殺し始め、バイソンや旅行鳩と同じく絶滅寸前に追いやり、生き残った人たちを一定の地域に押し込めた。そうして労働力不足になると、アフリカから黒人を連れてきて、ローマ帝国以来の奴隷帝国を作った」

 どちらも事実であり捏造歴史ではありません。私はどちらかというと後者のイメージが強いですが・・・

 パナソニック創業者の松下幸之助さんは高校の歴史講座をテレビで見ていて、その先生が古事記とか、日本書紀の作られた過程や、奈良の大仏の建立の説明しているのを見て、秘書の江口克彦氏に電話してこう述べています。(昭和51年、1976年)

「テレビ見とったらな、高校の歴史講座というんかな、日本史の講義を、どっかの大学の先生がやっておったけどな、それを見ておったら、あの古事記とか、日本書紀の、そのつくられた過程を説明しとるんや。ところがな、それが、いかにも天皇の作為というか、天皇さん個人が自分の都合のいいように作ったんや言うて説明しとるんやな。八つの島をつくったとあるが、あれは"こうとうむけい"な話なんだと言うとるんやな。また奈良の大仏さんの建立にしてもな、多くの民衆の塗炭(とたん)の苦しみによってできたんやと言うとるんやな」

 戦後、公職追放がなされ、教育界やマスコミのドンであるNHKに共産主義者やフランクフルト学派が入り込み、マルクス主義史観が席捲したことがよくわかる話です。

「そりゃそういう面もそれぞれにあったかもしれんけど、一面、天皇さんにしても、日本をよく治めたいという思いもあったやろうし、大仏をつくるんでも人心の安定とか、仏教の興隆を願うといったそういう思いもあったろうと思うな」

「それを、もう全部悪かったように言うとるんやな。なんとか日本をよくしたいという思いでやったことも、いわば悪意で解釈している。どんなことでも、いろいろな考え方が含まれているんやから、それを考えるときには、みんなが幸せになるようにとらえんといかんのやないやろうか。日本の歴史が偽りの歴史であり、邪悪な歴史であると考えたりする姿は、自分の国、自分たちの祖先を貧困に見ている姿や。
 なんでもそうやけど、いったい悪意からなにが生まれるんやろうか。せっかく日本はいいものを持っているのに、わざわざ悪くするようにするのは、まるで金になるものを、サビた鉄にしようとするのに似てるな。歴史については、いろいろな見方、考え方もあるやろうけど、人間を不幸にする見方、考え方はあかんな。こういう考え方がされているとするならば、日本の将来、日本の未来にとって重大な問題だと思うな」


 我々日本人は戦後、マルクス主義史観を刷り込まれてきました。搾取する側と非搾取側の二元論で考えるよう仕込まれました。政府VS国民、天皇VS国民、企業VS国民。そして捏造と歪曲の東京裁判史観により「戦前真っ暗」と刷り込まれ、あるいはその延長上の司馬史観によって「明治の栄光と昭和の破滅」で押さえ込まれてきています。それは戦後GHQフランクフルト学派により仕組まれたものです。それらは日本弱体化や共産革命といった悪意ある意図から仕組まれたものです。我々はそれに縛られることなく、歴史を貧困に見ることなく、日本の歴史から伝統的にいい物を学び、未来を育てていきたいものです。



参考文献
 ワック出版「歴史通」2009.7『唇に歌があふれていた日々』渡部昇一
 PHP文庫「松下幸之助随聞録『心はいつもここにある』」江口克彦(著)

添付画像
 松下電器、国民ソケットの昭和10年(1935年)のポスター(PD)


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