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2012年10月

チベットと日本人

日本と友好の歴史があった。

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 チベットは本来独立国でありながら、中華人民共和国に侵略され、120万とも言われる大虐殺を受けた国です。現在では一部はチベット自治区として中共の版図に組み込まれ、そのほかは青海省、甘粛省、四川省、雲南省に編入されています。チベットは仏教の国であり、歴史をみると日本と友好関係にありました。

 初めてチベットに日本人が訪れたのは明治24年(1891年)のことで河口慧海(かわぐち えかい)というお坊さんです。河口は日本に伝わっていた仏教の経典の内容に疑問を抱き、インドの原典の内容をとどめているというチベット語の大蔵経を入手しようとチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見しています。河口慧海は明治36年(1903年)に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行します。この書は一躍人気となり、本当に彼がチベットへ行ったのか、という真偽論争まで巻き起こったといいます。

 矢島保次郎は明治44年(1911年)にラサに入り日本との提携を説いて回ります。元日本軍人として日露戦争に従軍していた経験を買われ、チベット軍の軍事顧問に招かれ、ダライ・ラマ法王の目にとまって法王の親衛隊長まで務めました。日露戦争がアジア、アフリカに与えた影響は大きく、チベットも例外ではなかったのでしょう。アジアで唯一西洋に対抗できる力を持った国は日本だと見ていたと思います。残念ながら日露戦争の間にイギリスはチベットに影響力を持つようになっており、矢島保次郎はイギリスの圧力により大正7年(1918年)に日本に帰国することになりました。

 青木文教は仏教大学(現・龍谷大学)大学院生のときに西本願寺法主・大谷光瑞の命でチベットに派遣され、大正元年(1912年)にラサ入りを果たします。ダライ・ラマ13世の信頼が厚く、チベット国旗(雪山獅子旗)をデザインしたといわれています。(異説あり) 青木はチベットを離れる前の晩、ダライ・ラマ13世と同室で就寝したほど現地に深く溶け込んでいたといいます。

 多田等観(ただとうかん)は日本に留学していたチベット人僧侶の世話役を務め、彼らに日本語を教え、自らチベット語を習得しました。明治44年(1911年)、ダライ・ラマ13世から留学僧に帰国指示がでます。多田は留学僧に請われてともにインドへいきます。そしてインドでダライ・ラマ13世に謁見すると、多田はチベットのラサへ来るよう要請を受けます。そして1年後、イギリスの官憲の目をかいくぐりヒマラヤ越えへでラサに入りました。ダライ・ラマ13世は多田をチベット三大寺院のひとつ、セラ寺に預けて、国際情勢の説明役の地位を与えました。

 日本がアメリカ、イギリスと対立をして禁輸によって苦しめられた第二次世界大戦の前のころ「同じ仏教国が苦しい思いをしているのは看過できない」としてアメリカに売却予定だった羊毛を日本へ大量に送ってくれたことがあります。日本と連合国の開戦後に連合国から支那への物資輸送ルートを要求したときもチベットは拒否しています。これはチベットへ渡った日本人が肯定的に捉えられたほか、多田等観らが日本にきたチベット僧侶に好印象であったからだといわれています。

 戦後、チベットは中共の侵略を受けました。昭和42年(1957年)、ダライ・ラマ14世がタイ経由で来日されています。このとき、来日に尽力したのが読売新聞社主の正力松太郎でした。東京でチベット展覧会を開催しました。展覧会に置かれた地球儀にはチベットは中共とは異なる国として描かれていました。中共は抗議し、展覧会のガラスが割られるという妨害があり、さらに中共は読売新聞の記者を中共から追放するなどしています。

 日中国交回復がなると日本の政治家は中共に遠慮し、マスコミは中共に対して批判的なことは口にしなくなりました。平和団体も人権は団体もほとんどがチベット問題には沈黙しました。唯一、安倍晋三首相(2006年当時)が胡錦涛主席に向かって「チベットでの人権状況に憂慮している」と述べたのみです。



参考文献
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
参考サイト
 WikiPedia「青木文教」「チベットの旗」

添付画像
 ダライ・ラマ13世1900年(PD)

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【チベット問題】天台宗僧侶の涙ながらの声明【生放送】
www.youtube.com/watch?v=jzAWOmYpoLc

奴隷制度を憎んだ日本人

日本人は昔から非人道的な奴隷制度を憎んだ。

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 カール・ツンベルク、日本語表記ではツンベリーといわれています。スウェーデンの植物学者で医学者でもあります。1771年オランダ東インド会社に入社し、ケープタウン、セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任。翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし徳川家治に謁見しました。ツンベリーは、わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導しました。1776年、在日1年で出島を去り帰国し、1781年、ウプサラ大学の学長に就任しました。

 ツンベリーの逸話に日本人から冷たい視線を受けたというのがあります。ツンベリーはオランダ人として来日しているので、日本人にはオランダ人だと思われていました。オランダは奴隷貿易をしており、日本人はそれを蔑んでいたのです。有色人種が白人を蔑視するなど想像もしていなかった彼は随分戸惑ったようです。ツンベリーの著書にも次のような記載があります。

「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている」

 日本は明治維新以降、人種平等を掲げていましたが、江戸時代からも人種差別を嫌っていたことがわかります。幕末の頃はポルトガル人も日本に来ると見下されるのでわけがわからなかったといいます。幕末の書には「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生だ、人の道に反している」と書かれているそうで、攘夷論とあいまって白人の行いを憎んでいたのでしょう。

 明治5年(1872年)、上海からシナ人を船に乗せてアメリカ大陸で奴隷として売り飛ばすペルー船籍のマリア・ルス号が修理のために横須賀港に入港したとき、脱走したシナ人がイギリス軍艦に助けを求めました。イギリス在日公使からの要請をうけ、副島種臣外務卿(外務大臣)はシナ人救助を命じています。ペルー側は怒りましたが、ロシア皇帝が仲裁裁判を行い、日本側が勝訴しています。(マリア・ルス号事件)

 日本の歴史の中で国家的に奴隷制度を敷いたというようなことは見当たらず、シナの魏志倭人伝に日本人が奴隷を連れてきたと書かれていますが、シナの史書はそもそも政治のために「造る」ものですから怪しい。日本の人種平等的、人道的な考え方は2000年の歴史によって醸造されたものでしょう。

 大正8年(1919年)のベルサイユ条約で日本は「人種平等案」を提出しました。この提案は17票中11票の賛成を得ましたが、アメリカ大統領のウィルソンとオーストラリアが組んで潰されました。ウィルソンは議長であり、全会一致を主張して不採択としたのです。

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「日本の提案の真意は、移民に関する諸問題を国際連盟の支配下に置かんとするものにして、斯くの如きは国家の威厳を害し、主権を毀損せしむるものなり」

 日本は伝統的な考えに基づき人種平等を提唱したわけですが、日本の台頭は奴隷制度によって国家を成り立たせている白人にとって危険な存在となっていました。大東亜戦争はこのとき既に始まっていたと言えるかもしれません。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 平凡社「江戸参府随行記」C.P.ツュンベリー(著) / 高橋文(訳)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

参考サイト
 WikiPedia「カール・ツンベルク」

添付画像
 奴隷船 1869年のもの(PD)

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ラサ蜂起、ダライ・ラマの亡命とチベット亡命政府

ラサ蜂起、血塗られた金曜日。

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 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始します。当初、中共人民解放軍はチベット人に対して親切にふるまいましたが、やがてその本性を現していきます。こうした中共にいちはやくカンパ(カム地方の人)が抵抗を開始し、ゲリラ戦を展開するようになります。中共への抵抗は全国的な機運となっていきました。共産党政府はこうした状況に苛立ち、チベット人の指導者であり象徴であるダライ・ラマ法王の身柄拘束に動きました。

 昭和34年(1959年)3月、中共はダライ・ラマ14世に「人民解放軍司令部での観劇」に招待します。ラサの中共軍の駐屯地です。しかも「警護をつけない」「出発の際、儀式をしない」ことを条件とする異様な“招待”でした。法王側が断っても中共軍は執拗に要請し、徐々に脅迫の色合いを帯びてきます。
 3月10日、中共が法王の「拉致」を企んでいると察知したチベットの民衆は迎えにきた中共のジープの進入を阻むため、ノルブリンカ宮殿の周囲に集合。チベット全土から民衆が集結し、30万人にも及びました。人々は法王が招待に応じないよう叫びながら「チベット独立」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールを続けました。11日、1万2千人の女性がポタラ宮殿前をデモ行進しました。共産党政府は武力制圧を示唆し、チベット駐留軍を増強し始めました。

 19日、人民解放軍がノルブリンカ宮殿へ向けて一斉に砲撃を開始。宮殿は徹底的に破壊され、周囲にいた民衆は木っ端微塵に吹き飛ばされました。「血塗られた金曜日」です。9万人に及ぶ犠牲者が出ました。中共側はダライ・ラマ法王の命を狙っていましたが、法王は3日前に極秘裡に脱出し、インド国境へ向かっていました。

 そして4月20日、8万人の民衆とともにインドへ政治亡命したダライ・ラマ14世は、チベット亡命政府を樹立し、中共に強制的に結ばされた「17条条約」の破棄を宣言したのです。この宣言についてジュネーブの国際司法委員会(ICJ)は法学的見地から次のように結論づけています。

「中国が17条条約に違反したことで、この条約の拘束力は失効し、チベットは条約下で失われた独立国としての主権を回復したと見なすことができる」


 チベット亡命政府は昭和35年(1960年)5月にインド北西部のダラムサラに移ります。正式には中央チベット行政府 CTA (Central Tibetan Administration)と言います。13万人に及ぶ亡命チベット人の福祉を守っています。
 チベット亡命政府には憲法があり、自国の建国について「釈尊(ブッダ)の教義に基づいて建てられた」としててダライ・ラマを最高首長としていますが、完全な信教の自由を保障しています。そのほか「戦争と武力行使の放棄」があります。
 チベット亡命政府は三権分立があり、立法、行政、司法機関があります。立法はチベット亡命会議があり、亡命チベット人の直接選挙によって選ばれる46名の議員で構成されています。行政は宗教文化省、内務省、財務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、厚生省があります。司法は「亡命チベット最高司法委員会」という裁判所がありますが、亡命チベット人は滞在国の法律に従って生活しているので、亡命チベット人社会の民事問題を裁くのが主な役割のようです。

 ダライ・ラマが亡命してもチベットではアメリカのCIAの援助を受けて、ゲリラ部隊が抵抗を続けていました。しかし、アメリカは泥沼化していたベトナム・インドシナ情勢打開のためにソ連と関係が悪化していた中共と手を組んでしまいました。チベットへの支援は打ち切られました。チベット人ゲリラ部隊は人民解放軍とネパール軍に挟み撃ちにされる危機に瀕する事態に陥り、まずネパール軍と戦う決意をします。そこにダライ・ラマ法王からのメッセージを録音したテープが届きました。

「祖国防衛のためにチベット国内で中国人と戦うのはやむを得ないが、他の民族の地で血を流す権利はどこにもない。我々が幸せになるために他の民族の幸せを踏みにじっていいということもない」

ゲリラ部隊は涙ながらにネパール軍に投降しました。チベットの武力抵抗は終了しました。



参考文献
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『胡錦濤への聖火は許せない』櫻井よし子
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   中央チベット行政府 http://www.tibethouse.jp/cta/government.html

添付画像
 2010年4月チューリッヒで大聖堂-ヤードの上 Author:Roland zh

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【暴れる中国人】チベット旗を暴力で奪い取る【気味悪い】
www.youtube.com/watch?v=4K1XctEI0DU


残虐非道!チベット大虐殺

支那の虐殺手口は残忍無比。

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 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始します。当初、中共人民解放軍はチベット人に対して親切にふるまいましたが、やがてその本性を現していきます。世にも無残な手口で大虐殺へと発展していったのです。

 52歳の農民の証言によると、彼が住むパタン、アガ村で、裕福な男たちが磔にされるのを見るよう支那人に命じられたといいます。25人の男たちが磔にされ、その下には火が焚かれます。火は磔にされた男たちの身体に燃え移り、生きながらにして焼かれました。さらに彼は24人が眼球にクギを打ち込まれて殺されるのを目撃したと言います。

 アムド・レコン出身の商人は次のように証言しました。
「数多くの人々が財産を公開しなかったという理由で処刑された。新しいリーダーたち(多くは元乞食たち)は、人々の中に武器や財産を放棄していない者がいることを知っていた。これらの人々は逮捕されて6人が殺され、残りのものは鉄道工事現場に送られた・・・ある男はたったままの姿勢がいいか、横になったままの姿勢がいいかと尋ねられ、立ったままの姿勢がいいと答えた。すると穴が掘られ、男は穴のなかに入れられた。穴には泥が入れられ、泥は男が死ぬまで続々と押し込まれた。男の顔から眼球が飛び出すと、中国人はその眼球を切り取った・・・」

 中共は「富裕層」「地主」「地域の指導者」に属する人々を続々と処刑していきました。そして次のターゲットは宗教破壊でした。僧侶は捕らえられ次々と処刑されていきました。カム地方で最も有名な高僧の一人であるドゾルチェン・リンポチェは、四股に杭を打たれて身動きできないようにされた上で、腹を上から下まで切り裂かれたといいます。60歳の牧畜業者は同じ村出身の75歳の「活仏」といわれる高僧が逮捕され、多額のカネを所持していた罪で告発された場面を目撃しました。

「中国人は彼の髪を引っ張り、頭に煮えたぎる湯を浴びせかけた。その結果、彼は死亡した。また、もう一人の僧侶が撲殺される様子も目撃した。僧侶たちは大便を食べたり、尿を飲むように強制され、人々はその様子を見るように強要された」

 僧侶は生きたまま焼き殺されたり、生体解剖されたという証言もあります。また、「奇跡を起こせるなら皆の前で飛んでみろ」と言われて、高い場所から蹴り落とされた僧侶もいました。
 尼僧は繰り返し強姦され、特に尊敬されている僧は狙い打ちにされます。尼僧との性交を強いられたりします。売春婦をつれてきて僧に性交を強要し、僧が拒否すると腕を叩き切られ「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑されたといいます。大勢のチベット人が手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されました。

 性的暴力のひどさを尼僧でインドに亡命したケンサン・ペモさんは以下のように話しています。
「つかまった尼僧たちがひとつの部屋に集められ、服を調べられました。顔を伏せたままでいると、服を一枚一枚脱がされ裸にされました。その部屋は窓が多く、外には大勢の一般囚が見ていました。そして、大勢の見るなか、警官の一人が頭を、もう一人がお尻を棒で殴り続けました。やがて、あまりの痛さに恥ずかしさも忘れ、私は床に転げまわりました。そしてついに気絶したのです。気付くと水をかけられてびしょ濡れになっていました。再び拷問が始まりました。電気棒を口や肛門、女性器に押し込んできました。私はあまりの痛みとひどさに再度気を失いました」

 電気棒は家畜に用いる電気ショック棒です。80年代から使われたようです。民族浄化作戦で女性が子供を産めないようにする目的でも使われたようです。

 28年間獄中で過ごしたアマ・アデ女史
「私が逮捕されたのは26歳のとき。300人ほどの女性が一緒に連行されましたが、その中から私を含めて4人が豚の世話をし、看守の服を洗濯する役を言いつけられました。しかし、実際には看取の性欲処理係でした。私たちは舌を噛んで死ぬことまで考えました。でも思いとどまりました。豚の世話係という立場上、盗んだ豚の餌を独房にいる活仏や高僧のところにこっそり持っていくことが出来たからです。私たちの行為がなかったら、彼らは一ヶ月と生きられなかったでしょう。刑務所内の食糧事情はひどいものでした」

 日本のメディアはケンサン・ペモさんの証言を報道したことがありますが、性的暴力のところは隠蔽して報道しました。朝日新聞と岩波書店の月刊誌「世界」です。このチベットの事実を女性の人権問題として声を上げようとすると妨害をうけるといいます。



参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」
   『チベット人権弾圧クロニクル』岩田温
   『私が見た真実のチベットの姿』大高未貴
   『シナチズムという民族浄化』若杉大
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『国境あり人権団体のチベット女性見殺し』酒井信彦
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   「テールズ・オブ・テラー チベットでの拷問」- 電気ショック http://www.tibethouse.jp/human_rights/human25.html

添付画像
 パルデン・ギャツォがチベット脱出の際、持ち帰った拷問器具 http://www.tibethouse.jp/human_rights/human25.html より

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【醜い中国人】チベット抗議デモ者を笑いながら個人攻撃【気味悪い】
www.youtube.com/watch?v=2ztWwTyGTps

チベット大虐殺はどう始まったのか

最初は親切そうに近づいてきた。

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 昭和25年(1950年)1月、中華人民共和国共産党政府(中共)は「人民解放軍の基本的課題は、本年中にチベットを帝国主義国家の手から"解放"することにある」という声明を出します。そして10月にはチベットへ侵攻しました。チベット軍は蹴散らされ、チベット東部はあっという間に制圧されてしまいました。昭和26年(1951年)5月23日、北京の旧日本大使館で中共とチベットの間で会談が行われ17箇条の協定を強要され偽印を使って結ばされてしまいました。

 チベットを侵略した中共軍は当初はチベット人民に対して親切で礼儀正しかったといいます。農業を手伝ったり、仏像に敬意を表していました。人を傷つけるようなことはせず、女性に触れたり、物を破壊することは一切なかったそうです。そして病院を建て、学校を建設し、道路を舗装しました。しかし、学校では子供たちにチベットは「中華民族」の一部であると教え、チベット人は中国の歴史、文化、慣習を学び、本来のアイデンティティに回帰すべきと教えます。チベット人の文化、歴史は恥ずべきものである、と。中共が当初親切にしたのはチベット社会の中にもぐりこみ、チベット社会の中の社会階層を見分けるためであり、財産を誰が所有しているかを見分けるためでした。

 昭和30年(1955年)から宗教活動が禁止されはじめ、昭和31年(1956年)にはタムジンという人民裁判の仕組みが作られました。公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾するのです。それから「密告制度」を作りました。住民同士に密告させて人間不信の社会を作り出すのです。そして社会的弱者とされた人に制服をあたえ、彼らには不当に搾取され続けたのだと説き、チベット人の間で憎悪の感情が生まれるように仕向けていったのです。

 中共の侵略に対して昭和29年(1954年)、チベット・ゴロク族が蜂起し、中共軍が殲滅作戦を展開します。昭和31年(1956年)、リタン、デルゲ、カンゼ、ニャロン、ポなど、各地で蜂起がおこります。昭和32年(1957年)にはカム地区で初期から中共へ抵抗し、戦ってきたゲリラの英雄、ゴンボ・タシがラサに入り、反中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成。米国CIAの援助を受け、チベット独立をかけて全国的な戦いを展開します。昭和33年(1958年)3月には青海アムド地区で13万人が参加する反中民衆決起が勃発。中共軍は鎮圧作戦を行って、11万6千人を殲滅したといいます。

 パンチェン・ラマ10世
「青海省での残虐行為をすべて撮り収めた映画があれば、観客は大きな衝撃を受けるに違いない。ゴロク地区では多くの人たちが殺され、死体は丘の上から濠に向けて転げ落とされた。解放軍兵士たちは遺族に向かって、反乱が一掃されたのだからお祝いしろと言った。あるいはむりやり死体の上で躍らせ、最後には機関銃を掃射した」

 毛沢東
「青海反動派の反乱は大変結構。勤労人民解放のチャンスがやってきたのだ。(中略) チベットでも全国的な反乱がおこりうるからそれに備えなければならない。チベット反動派が全国的反乱を起こせば、そこの人民はそれだけ早く解放を勝ち取れるのだ」

 青海チベット人地区では反乱を防ぐ目的で5万人あまりが逮捕され、牧畜区に住むチベット人、モンゴル人の1割が逮捕され、蜂起のない地区でも全人口の21%が捕らえられます。84%は誤認逮捕で拘留中にその半分が死亡しました。



参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『チベット人権弾圧クロニクル』岩田温
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 WikiPedia「カム反乱」

添付画像
 フリーチベットクリップアート John from Normal Illinois, USA

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胡錦涛は1989年チベット虐殺の張本人
http://www.youtube.com/watch?v=7TGGJ1UvTDk


チベット!チベット!チベット大虐殺の真実

フリーチベット!

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外出しても、何を叫んでも、殺されないこと

 これがチベット人が望んでいる「自由」です。

 昭和24年(1949年)9月1日、中華人民共和国(中共)成立の1ヶ月前、新華社通信は「チベットは中国の領土であり、いかなる外国の侵略も許さない」「人民解放軍は必ずチベット、新疆、海南島、台湾を含む中国の全領土を解放する」と決意を表明しました。何からの解放かというと帝国主義からの解放なのですが、この頃、チベットは独立しており、帝国主義国家の従属下にあったわけではありません。チベットには3名の英国人、2名のオーストラリア人、1名のロシア人の外国人がいたのみでした。

 昭和25年(1950年)1月、中華人民共和国共産党政府は「人民解放軍の基本的課題は、本年中にチベットを帝国主義国家の手から"解放"することにある」という声明を出します。チベット国内は中共の侵略を目前として騒然となり、「チベットがかつて中国の一部であったことは一度もなく、チベットを支配する外国勢力など存在せず、したがって解放される必要はまったくない」という声明を出します。イギリス、アメリカ、インド、ネパール諸国へ緊急アピールすべく代表団を送ることを決定し、先立って電報を打ちますが、期待する返事はありませんでした。同年10月7日、中共軍は東チベットチャムドへ侵攻し、圧倒的な武力で占領。「人民解放軍は300万のチベット人民を帝国主義者の圧政から解放し、中国西部国境の守りを強化する」と宣言しました。

 同年11月、チベットは国際連合に提訴します。しかし、同年6月、朝鮮半島で北朝鮮軍が38度線を越え、朝鮮戦争が始まっており、インドは独立して間もなく、イギリスはアジアから後退していた時期だったため国際情勢はチベットに極めて不利で、イギリスもインドも同情はあったものの中共の行動に対して「平和的解決」をうたうだけで、チベットは世界から見捨てられました。

 昭和26年(1951年)5月23日、北京の旧日本大使館で中共とチベットの間で会談が行われ17箇条の協定草案がおかれていました。チベットの代表団はチベットが独立国であることを一貫して訴えましたが、中共は一切耳を傾けず、脅迫を行い、ダライ・ラマに問い合わせることも禁じられ、中共が印を偽造して調印を強行しました。

ダライラマ14世
「私たちは名誉ある条約を締結しようという望みを抱いて、北京に代表団を送ったが、主権を放棄するための協定に無理やり署名を強要された。わが政府は、この強制された協定を絶対に批准しようとしなかったけれども、もし、それを拒否すれば、より以上の流血と破壊が避けられないことは、私たちのすべてに明らかだった。
 わが国民を、一層ひどい災難から救うために、私とわが政府は、不法極まりない協定であっても、それを忠実に守ろうと務めた。にも関わらず、中国は、その協定で誓った約束をことごとく破ったのである」

 協定には現在のチベットの政治制度を変更しない、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの地位・職務・権限に干渉しない、などの保証がなされていました。チベットには自治権を与え、宗教と伝統を尊重し、また、内政改革についても、チベット指導者の意見を入れて強制はしない、としていましたが、ことごとく破られていき、120万人にもおよぶ大虐殺が行われていったのです。


参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『チベット人権弾圧クロニクル』岩田温
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   1949年10月 共産党軍、中国全本土を掌握 - http://www.tibethouse.jp/history/19491001.html
   1950年11月 チベット政府「共産中国による侵略」を国連に提訴 http://www.tibethouse.jp/history/19501111.html
   1951年5月 中共・チベット17ヶ条協定 http://www.tibethouse.jp/history/19510523.html

添付画像
 チベット国旗(PD)

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中国軍チベット巡礼者殺害映像(日本語字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA

日本のパスポートの実力、国家のありがたさ

世界に冠たるわが日本。

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 先月、コンサルタント会社ヘンリー&パートナーズが「パスポートの能力」ランキングを発表していました。日本はアジア最上位の5位です。ビザなしで入国できる国の数を反映した「ビザ規制指数」から決められたと報じています。デンマークが1位。スウェーデン、フィンランド、ドイツが同列で2位。3位はイギリス、オランダ、フランス、ベルギー。4位はルクセンブルク、イタリア、アメリカです。

 実感として日本のパスポートの実力はどうなのでしょう。台湾出身の評論家・金美齢さんは日本国籍を取得しました。自身の子供たちには早くから日本国籍をとらせたものの自分たち夫婦は台湾籍(中華民国)のままでした。しかし、平成20年(2008年)の民進党の敗北により、これまでの努力や矜持、そういうものが一気に弾けたような気がした、と述べています。

 金さんは「日本のパスポートはミシュランガイドの星三つより実力がある。五つ星といえる価値がある」と述べています。中華民国籍だったときはビザを取るのに非常に苦労されており、外国で足止めをくったりしました。
 スペインのビザでポルトガルへ行こうとしたときのことです。イミグレーション(出入国管理)がないだから大丈夫だろうと思っていたところ、飛行機内でイミグレーションを通るようアナウンスがありました。同じラテンの国だから何とかなるだろうと期待していましたが、やはりイミグレーションで止められ、オフィスに連れていかれました。

「私たちはフォルモサ(台湾の別称)の人間です。かつてポルトガル船が台湾を通った時に、台湾を"フォルモサ"(美しい国)と呼んだんですよね」

金さんはこう説明しましたが、台湾とは国交がないとして帰るよう命じられました。

 イタリアのビザをとるときも、現金から通帳まで見せなければならなく、職業欄に「作家」と書いても、在日イタリア大使館の窓口で「作家かどうか、どうやって証明するんですか?」といわれて完全に頭に来ました。「どうして真面目に生きてきた私が、こんな屈辱的な目に遭わされるのか」と思ったそうです。

 上智大学名誉教授の渡部昇一さんは50年前にアジア・アフリカ学生会議に日本代表として参加したときのこと、当日にもなってこない国があったそうで、国境からなかなか先に入れなくて足止めを喰らっていたのだそうです。鉄のカーテン下のブタペストで開催された書物の学会に参加すべく、入国審査をすると他の国の人は手荷物の中まで調べられているのに、自分はパスポートひとつでどこでもスイスイと通れたと述べています。前述の金さんは「日本人はパスポートのありがたみを知るべきです。そのありがたみがわからない人は『国家』というものがわからないでしょう」「日本という国に生まれたことを日本人は感謝すべき」と述べています。

 先人たちの知恵と努力によって築かれたわが国日本は世界に冠たるものです。現在を見れば経済大国、技術大国としての日本があります。日本独自の優れた文化も評価されていることでしょう。民度の高さも評価されているでしょう。そして日露戦争、大東亜戦争で白人とがっぷり四つで戦い、「カミカゼ」を生んだという歴史も世界は畏敬の目を持っていることでしょう。ローマ法王と並ぶかそれ以上の権威である天皇陛下の存在も大きいでしょう。

 日本国内を良く見てみると長寿の国であり、娯楽もあり食べ物もあります。教育も充実しており、セーフネットも生活保護年収約300万(障害2級、3人家族の場合)と充実しており、障害者福祉も充実しています(現在負担になっていますが)。そして世界一治安がよい国です。マスコミのいう犯罪の急増、凶悪化、低年齢化は統計を見ればウソということがわかります。保険証さえあれば自己負担3割ですむ健康保険制度は世界でも珍しい優れたものです。月額自己負担が8万円超えればストップするシステムも大したものでしょう。

 日本はすばらしい国です。世界が認めています。しかし、日本のマスコミは悲観論、自虐説ばかり流してウケを狙います。「格差」だ、「貧困」だ、姥捨て山だ、学級崩壊だ・・・等など。NGOセーブ・ザ・チルドレン調査(07年)「子どもの発達指標」137カ国中1位。「環境的にすみやすい国」(米リーダーズダイジェスト調査)12位、英BBCの「世界によい影響を与えている国」は常時ベスト3入り、今年は第一位。・・・こうしたことは一つも報道しません。

 「国というものがわからない」というトボけたことをいう政治家や自分は"地球市民"などとほざくような人、国旗掲揚、国歌斉唱に反対する"あんぽんたん"は一度日本国籍を捨ててみるといいでしょう。日本国家の良さ、ありがたさが良くわかるでしょう。


参考文献
 ワック出版WiLL2010.3「国家とは何か、国民とは何か」渡部昇一・金美齢
 WAC「戦後の日本人の忘れ物」金美齢(著)
 小学館「SAPIO」2009/7.8
  『なろうと思えばホームレスにもなれることこそ日本の”豊かさ”だ』日下公人
  『犯罪、急増、凶悪化、低年齢化、はマスコミの嘘』浜井浩一
  『生活保護の年収300万は果たして弱者に厳しい国だろうか』SAPIO編集部
参考サイト
 「パスポートの能力」ランキング、1位はデンマーク、日本は5位―中国メディア:2012年9月10日 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=64497

添付画像
 2006年3月以降の日本のICパスポート 10年用 Auth:Muttley(CC)

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世界各国のホテルで、最も評価が高いのは「日本人」 www.youtube.com/watch?v=vKc0QtBg0_c

日韓合邦による米産拡大

日本が搾取して韓国人が栄養不足になったというのは大嘘。

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 韓国では日韓合邦時代に米が大量に内地(日本)に移出され、朝鮮人の栄養状態が大幅に悪化した、といわれているそうですが、これは真っ赤なウソです。

 朝鮮半島のコメは三年に一作が限界で、品質も極めて粗雑でしたが、日韓合邦後は朝鮮総督府は米穀生産性向上の努力によって、土地改良、品種改良が進み、小作農の制定、低利融資、米穀清算奨励などが実施され、年々増産を重ねました。米の生産高は昭和17年(1942年)には合邦当初の2倍になり、朝鮮人全体のコメ消費は1.5倍に増えています。

 内地でコメが不足したのは事実で、移出されましたが、生産者の買取価格は1石50円で、消費者価格は43円(昭和16年)という具合に逆サヤ制度が実施されていました。昭和18年(1943年)には奨励金も加算すると1石あたり62円の買い取り価格で標準売り出し価格は43円です。とにかく儲かったということです。ですから、満州からの穀物や野菜、果物、缶詰などの補助食品まで考えれば栄養状態が悪くなったなどということはないのです。「当時の朝鮮人が草の根や木の皮を食べて命をつないだ」とか、怪しい学者が一人当たりの米消費量が減っていったという怪しい統計を持ち出したりするのは大嘘ですので騙されてはいけません。

 フランスの人文地理学者ジャーク・ブズー・マサビュオー
「朝鮮は日本の植民地政策と組織的な経済近代改革の影響を受けた後、再び独立の機会を得て、千年以上の間、農民の宿命であった不安定な境遇を改善することができた」

 朝鮮総督府による食糧事情や衛生事情の好転によって朝鮮の人口は急増し、李朝時代は750万人(1753年)でその後100年かかって増加したのはわずか20万。しかし、日韓保護条約後の明治39年(1906年)は980万だったのが、合邦直後の大正元年(1912年)は1400万人に急増しています。昭和元年(1926年)には1866万人、昭和13年(1938年)には2400万人、大東亜戦争最中の昭和17年(1942年)には2552万人に達しています。

 私の祖父は戦中戦前は朝鮮半島に居ましたが、終戦でなんとか内地に戻ったとき、内地に居た者にこういわれています。
「外地で旨い事をしていたのだから、これ位辛い目にあったらよいのだ」

 祖父は激怒しそうになりますが、祖父の記録にはこう書いてあります。

「内地のやつらは、食糧が足らなくて毎年250万トンもの米を朝鮮から送ってもらって食っておきながら生意気なことを抜かすな」

 内地にしてみれば朝鮮では儲かっただろうし、朝鮮半島の財政はいつも赤字で内地から補填しています。コメに関しては朝鮮総督府と内地の間(農家の利害)で対立もあったようで、小憎い思いがあったようです。実際祖父は億万長者になりました(終戦で郵貯が引き出せなくなり超インフレでパーになった)。祖父としては米を送ってやったという思いがあったでしょう。内地も外地も日本であり、朝鮮人だけ冷遇したということはなく、日本のなかの話なのです。



参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李榮薫(著) / 永島広紀(訳)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著) / 荒木 和博・荒木 信子 (訳)
 祥伝社黄金文庫「歴史再検証 日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実」崔 基鎬(著)

添付画像
 全州神社 国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)

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韓国の言論弾圧と日本の言論弾圧

韓国の言論弾圧のすさまじさ。そして日本の言論弾圧。

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 平成16年(2004年)3月に韓国では「日本強占下の親日反民族行為真相究明に関する特別法案」が国会を通過しました。ソウル大学教授の李榮薫(イ・ヨンフン)氏はテレビ討論会に出席しました。氏はこの法律が多くの間違った事実認識に基づいているのみならず、歴史学が追求すべき正しい方法による過去史の清算ではなく、批判と自由を拘束する違憲的要素があることに懸念を持っていました。
 李教授は60年も経過し、場合によっては100年も過去のことを政治的に清算することの不当さ、既に物故している自らを弁護する能力のない彼ら(親日派)をグルーピングして責任を擦り付けることの不当さ、慰安婦の話の事実誤認を主張しました。

 ところが、李教授に待っていたのは激しい弾圧でした。実際には言ってもいない発言を派手に報道され、イデオロギー団体から糾弾され、国立大学の教授職を辞さなければならない、といわれました。抗議の電話が鳴り止まず、罵詈雑言が書き込まれた電子メールが頻繁に押し寄せ、研究室のドアに卵を投げつけられ、遂に李教授は屈し、ナヌムの家(従軍慰安婦の合宿所)に行かされ「真意が間違って伝わった。軍隊慰安婦は反人類的な犯罪行為だ」と本意でない謝罪をさせられました。ジャーナリストの金完燮(キム・ワンソプ)氏はこの事態について「どんな知識人も歴史問題は良心のままに発言できない」という教訓を与えたとして、「ガリレオの宗教裁判」と同じだと述べています。金完燮氏は屈服することなく良心のまま発言していますが、家族を外国に逃避させています。氏は「屈服しない限り、いつまでも逃亡者でいるしかない」と言っています。

 韓国では「親日」は売国奴の意味です。前出の金完燮氏は『親日派のための弁明』という本を出して韓国の捏造歴史に触れ、青少年有害図書に指定され、逮捕されました。
 拓殖大学国際学部教授の呉善花さんは『「日帝」だけで歴史は語れない』、『攘夷の韓国 開国の日本』(山本七平賞受賞)などを書き、論説の一部において、韓国併合を全否定しないこと、日本の自虐史観の改善等への言及があったことから、親日派とされ、済州島在住の母の葬儀で母国に帰郷しようとしたところ、韓国当局から入国禁止措置が取られました。

 「竹の森遠く」というヨーコ物語は日系米国人作家が終戦時に体験した朝鮮半島北部の羅南からソウル、釜山を経て日本へ帰国する際、また帰国後の、悲惨な状況を描きましたが、韓国では出版後、販売禁止。

 これらは韓国の話で「韓国はひどいなあ」と思うかもしれませんが、日本も五十歩百歩なのです。前述のヨーコ物語は日本では出版されていません。訳了直後に出版翻訳権契約解除の申し入れがあったといいます。記憶の新しいところでは三年前の元航空自衛隊の田母神氏の8月6日の講演があります。広島市長から圧力が入りました。明らかに異論を排除する言論弾圧です。
 沖縄でも小林よしのり氏の講演に協力した人は職場で出世を断念するよう言われたり、プロジェクトに居れなくなり弾圧されました。小林氏と知らずに観光案内をした女性ガイドは小林氏だと気づくと「自分が案内したことを書かないでくれ」と言ってきたといいます。日本もまだまだ言論弾圧はあるのです。


参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李榮薫(著) / 永島広紀(訳)
 「正論」2009.10『観念的平和論に安住するヒロシマの閉ざされた言語空間』安藤慶太
 小学館「誇りある沖縄へ」小林よしのり(企画編集)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『全米で起きたヨーコの物語弾圧の真相』加藤久哉
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著) / 荒木 和博・荒木 信子 (訳)
 扶桑社「親日派のための弁明2」金完燮(著) / 星野知実(訳)
参考サイト
 WikiPedia「金完燮」「呉善花」「竹の森遠く」
 独占インタビュー 「親日派のための弁明」の著者、金完燮(キム・ワンソプ)氏
  http://nishimura.trycomp.net/works/002.html
 msn産経ニュース「呉善花さん 母の葬儀で“帰国”拒否される」

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日本人は子供を可愛がった

日本人は子供を神聖なものとして見ていた。

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「江戸の街頭や店内で、はだかのキューピットが、これまたはだかに近い頑丈そうな父親の腕に抱かれているのを見かけるが、これはごくありふれた光景である。父親はこの小さな荷物を抱いて見るからになれた手つきでやさしく器用にあやしながら、あちこちを歩き回る。ここは捨て子の養育院は必要でないように思われるし、嬰児殺しもなさそうだ」イギリス公使 オールコック 安政6年(1859年)来日

「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断していると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」エドワード・S・モース 考古学者 明治10年(1877年)来日。

「私はこれほど自分の子供に喜びをおぼえる人々を見たことがない。(中略)他人の子供にもそれなりの愛情と注意を注ぐ」イザベラ・バード 女性旅行家、紀行作家 明治11年(1878年)来日。

 英国人ジャーナリスト エドウィン・アーノルドは「街はほぼ完全に子供たちのものだ」といい、スイスの外交官アンベールは「日本人の暮らしぶりで一番利益を受けるのは子供たちである」、イギリスの書記官オリファントは「子供の虐待を見たことがない」と述べています。

 民俗学者の宮本常一氏(故人)はエコノニミー(子供本位の呼称法)のあるところは非常に子供を大事にする風習がある、と述べています。一郎くんのお父さん、花子さんのお母さん、という具合に本人の名を呼ばずに子供中心の呼び方をするのがそうだといいます。

 西尾幹二著「GHQ焚書図書開封」を読んでいると焚書された戦前の本の中に日本軍兵士が現地の子供に注意引く様子が出ています。以下、マレー攻略の話です。

「避難民は日本軍の幕舎の傍らを通ると、腰をおろして動こうともしない。兵隊は攻撃準備のために目がまわるくらい忙しいのであるが、可愛い子供など見ると、つい手をとってあやしたりする。開戦当初は日本兵を見ると逃げ回っていた住民たちも、今では規律正しい日本軍にすっかり慣れて、日本兵の傍らにおれば一番安心だと考えるようになっていた。そして何やかやと、兵隊の手伝いさへ自分からするようにまでなっていた」
星港攻略記(昭和17年5月)

 上海事変の書でも日本兵が孤児となった支那の子供と遊んでいて情が移り別れが辛かったということが書かれています。日本人の子供好きは戦前まで受け継がれていました。大正9年(1920年)に日本はシベリアからポーランド孤児を救出していますが、八紘一宇の精神のほか、子供好きの日本人の心を揺り動かしたがための行動だったのかもしれません。

 長岡藩城代家老の家柄だった稲田家の六女の杉本鉞子(えつこ)(明治五年生まれ)のエッセイに鉞子が初めて子供を生んだとき、母から絵本が贈られてきたときのことが書かれています。この絵本は鉞子が子供の頃に母から絵にまつわる話を聞かされたもので「剣の山」のところに印がありました。「剣の山」の話はわが子ばかりに愛情を注ぎ、他者への愛情や思いやりを忘れることを戒める話でした。母から子へ伝承していっていたのです。また、江戸時代は子育て論を書いた本は男性が男性向けに書いたものがほとんどだったといいますから驚きです。

 日本人は非常に子供が好きでとても大切にしていました。他人の子供にも愛情を注いでいました。子供を中心にそえて生活していました。今はどうでしょう。個人主義で人生は自己を中心におくような時代になりました。子供の虐待がニュースを賑わす世の中になってしまいました。戦後に失われてしまった日本のよき伝統の一つでありましょう。


参考文献
 小学館新書「明治人の姿」櫻井よし子(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 平凡社ライブラリー「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 平凡社ライブラリー「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」宮本常一(著)

参考サイト
 WikiPedia「イザベラ・バード」「エドワード・S・モース」

添付画像
 「日本兵と中国人の子供」江南地方(昭和12年11月6日) ~ 日新報道「南京の真相」より

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江戸時代にやってきた最後の宣教師

最後の伴天連、シドッティ。

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 豊臣秀吉の天下統一時、秀吉はキリスト教を認めていましたが、一転して禁止します。スペイン大帝国との対決が見えてきたからといわれています。白人は宣教師を尖兵として非白人の土地を植民地化していくのです。徳川時代に入り、家康も秀吉の政策を継承しキリスト教を厳しく禁止しました。

 時を経て1708年、徳川六代将軍家宣の時代。イタリア人のカトリック司祭、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)が日本にやってきます。フィリピンのマニラから日本に船できたのですが、日本の着物を着て、ちょんまげを結って、日本刀を差して、日本人に変装して屋久島に密入国しています。日本語もマニラの日本人町に住む日本人の子孫に学びました。シドッティは目も黒く、髪も黒かったのですが、当時の日本人からすれば180センチの長身は異様ですし、話すと「その言葉、この国のものにあらず」とすぐバレてしまいました。マニラの日本人の子孫の日本語は代を重ねてどうも怪しかったようです。そして長崎へ送られ、江戸に送られました。

 シドッティは過去日本侵略を試みたイエズス会ではなく、1622年にグレゴリウス15世がたちあげた布教聖省に所属する司祭でした。スコラ哲学、地理学、天文学、科学、人文学など多方面の学問をおさめるという優秀な頭脳をもち、そして日本がキリスト教を禁止しているのを知りながら殉教の覚悟で日本にやってきたのです。

 シドッティははイタリア人ですからイタリア語ができます。長崎ではオランダ語がわかるものはいてもイタリア語はわかりません。シドッティはラテン語がある程度できたので、ラテン語ができるオランダ人に通訳してもらい、そして日本の通訳(通詞)今村源右衛門はラテン語を猛勉強して、シドッティとともに江戸へ行きました。

 このシドッティを尋問したのが、新井白石です。まずはラテン語を通じて尋問をし、シドッティはラテン語と日本語を織り交ぜて話ました。シドッティは家族のことなど素直に話し、地理や天文学のあらん限りの知識を披露します。白石は非常に感心し、さまざまな西洋の事情を聞き出しました。後に白石は「西洋紀聞」を書き上げています。

 しかし、宗教の話になると白石はあきれてしまいます。あれほど科学的思考で受け答えしていたシドッティは天地は作られ、川は二つに裂け、男女の道をあずからずに子が生まれ、死んだ人間が生き返る、という聖書の話をしだし、そのあまりにも非科学的説明に白石は落胆しました。

「知遇たちまちに地を易(か)へて、二人の言を聞くに似たり」

日本では「神」は人であり、徳性の高い人、尊ぶべき人を「神」というのですが、シドッティがいう「神」(GOD)は全能の神ゼウスで万物を創造したというのです。ゼウスがイエス・キリストになりこの世に生まれたなどとは、西洋紀聞に「嬰児の語に似たる」と書いています。やはりキリスト教は眉唾だと考えたようです。ただ白石はキリスト教は一宗教に過ぎないことを理解しました。

「謀略の一事はゆめゆめあるまじき事と存ぜられ候事」

 白石の尋問が終わると、シドッティをどう処置するかが問題になります、これまでキリシタンは処刑するか、拷問して転ばせる(棄教)のが掟でしたが、白石は幕府に三案提示しました。最も推奨は「本国送還」でしたが、第二案の「拘禁継続」となりました。三案目は「処刑」でしたが、白石はこれを愚策としていました。

 シドッティはこの後、キリシタン屋敷に監禁されます。シドッティの世話は"長助"と"はる"というものが行いました。この二人はキリシタン崩れか、その子孫だったようで、シドッティに請うて洗礼を受けてしまいます。二人が役人にこのことを告白したため、即捕らえられ、シドッティともども地下牢へ閉じ込められました。やがて3名は衰弱し死亡しました。シドッティが日本に上陸して6年の歳月がながれていました。この後、明治の足音が聞こえるまで宣教師は日本にやってきませんでした。


 

参考文献
 新人物往来社「最後の伴天連シドッティ」古井智子(著)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(校注)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 「歴史通」2010.1月号『中国五千年の嘘』宮脇淳子

参考サイト
 WikiPedia「ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ」

添付画像
 カルロ・ドルチ作 聖母像(親指のマリア) シドッティが所有していたもの
 「画像提供:東京国立博物館」http://www.tnm.jp/

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日本軍側の暗号解読

なぜか語られていない日本軍の暗号解読。

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 大東亜戦争で日本軍の暗号は完全に解読されていた、それを日本軍は気づかなかった、という話を聞いたことがあるでしょう。実際、日本海軍の暗号は解読されていました。それではこの逆、日本軍は米軍の暗号解読しなかったの?こういう観点は抜けているように思います。

 ビルマ航空戦の兵士の記録(加藤隼戦闘隊)を見ていると昭和18年(1943年)ぐらいからはイギリスの暗号解読が進み、イギリス軍の暗号からイギリス空軍の部隊の名前と隊長の名前がだんだんわかってきています。チンタゴン基地の中隊長ダッケンフィールド大尉が勇敢で日本兵パイロットの間にも知られており、日本兵パイロットは「今日はダッケン氏、出てくるかな」などと思っていました。

 ビルマ方面の日本軍は支那軍の漢字の暗号解読は行えており、支那軍の戦術的移動は兵団単位で動きを把握していました。ここからイギリス軍の戦闘命令も掴めたことがアメリカ陸軍の情報局(MIS)の資料でわかっています。ただ、支那軍は米軍の指導下でうごいており、イギリス軍の情報は少なかったようです。日本軍がイギリス軍の暗号を直接解読していたことがわかる資料はないのですが、前述の加藤隼戦闘隊の記録には直接解読していたと思われるような内容です。

 日本軍による米軍暗号の解読は、昭和11年(1936年)から昭和17年(1942年)ごろまで米国務省の外交暗号、武官用暗号は解読はできていました。ところが、米軍は暗号を変えてしまったのです。その後、なかなか解読は進まず、昭和18年(1943年)になって数学者をの協力を仰いでいます。それまで暗号は軍の機密事項なので民間人を入れるのはタブーだったのです。協力を要請されたのは東大数学科の名誉教授・高木貞治という世界的権威の数学者で、高木教授は天才学者らメンバーを集めて暗号解読に取り組んでいます。昭和19年には米軍の暗号を解き始めていました。
 しかし、時すでに遅く、通信傍受により暗号文の先頭に来るコールサインによってアメリカ本土からテニアン経由で特殊な目的をもってB-29が日本に向かっていることまではわかっていましたが、それが何かまではわかりませんでした。それは結局、原爆機だったわけですが、米軍の暗号解読で「ヌクレア(核の)」という文字が出たのは原爆投下後の8月11日のことでした。陸軍情報部は地団駄踏んで悔しがったといいます。陸軍の暗号少佐の釜賀一夫さんは戦後、「あと二年早く昭和16年から数学者を使い始めていたらあんなに簡単には負けなかった」と悔しがりました。

 実は山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビルで戦死したのも日本軍の暗号が読まれていたからです。山本長官が戦死した地点から米軍のガダルカナルのヘンダーソン基地までの間は米軍機P-38の航続距離とぴったり同じでした。そんな劇的な遭遇は万が一にも考えられません。日本陸軍はこれに気づいたので民間の数学者を入れる決断になったのです。海軍も暗号が読まれていることに気がついたようです。しかし、どうも事なかれ主義で口をつぐんだか、情報に対する重要性の認識不足で黙っていたようです。もしかしてと思いますが、海軍内に米軍の協力者がいて握りつぶしたか?

 現在、数学の世界では整数論と代数幾何というのがあり、この分野で日本は世界のトップレベルだといいます。そしてこれは暗号に使う数学なのだそうです。世界各国は同盟国といえど潜在的には敵であり、裏では諜報合戦をやっているのですが、今の日本はトップレベルの数学力を国家のために使うことなく、緊張感も危機感もないノー天気な政治家がノホホンと政権中枢に居座って国家のことではなく自分の党のことばかり心配しています。


参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010年1月『国家の”風格”は情報にあり』藤原正彦
 文春文庫「大本営参謀の情報戦記」堀栄三(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略」山本武利(著)

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 米軍暗号機M209(PD)

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戦後の日本とタイ

友好関係を続ける日本とタイ。

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 タイといえばお米、東洋のデトロイトと思い浮かべる人が多いでしょう。それから仏教の国。あとはクーデターが多く政情不安、国王の権威が高いなどでしょうか。

 戦後の昭和23年(1948年)、タイでは米英に宣戦布告したピブンが首相に返り咲いています。冷戦が深刻化してきており、反共を前面に出すことによって米英の信頼を得たためです。昭和27年(1952年)に鳩山一郎総理と会談し、国交回復を行います。ピブン首相は昭和32年(1957年)のクーデターにより失脚し、日本に亡命しています。

 ピブン政権のあと政権は混乱しますが、サリット政権とその後のタノーム政権が「開発」を旗印にかかげ「権威主義体制」を確立します。タイ式民主主義とは国王を元首とした民主主義であり、国王、王室の権威高揚につとめます。このときの権威高揚の結果が現在の国王の高い権威につながっています。

 昭和38年(1963年)からのタノーム政権時代、「開発」によって急速な日本企業の進出と日本製品の氾濫は学生運動のターゲットとなり、「反日」運動となります。この頃、日本企業は500社ぐらいが進出していましたが、日本企業は規制を受けるようになります。日本企業は随分困惑したようで、タイ政府は日本企業にもっと進出するようにいいますが、学生はエコノミックアニマル、経済侵略だと批難します。知識人は公害反対といいますが、タイ政府は工業化、工業化といいます。合弁相手の華僑資本家は再投資を嫌い、資本を海外に逃避させます。タイ政府は日系企業に働く日本人の削減を要求しますが、合弁相手の華僑資本家は日本人に帰らないでくれといいます。政府は民衆の顔を見ながらも華僑資本と一体をなしているわけで、矛盾というか複雑というか何とも難解なタイの国の事情があります。タイに詳しい東京外国語大学(当時)田中忠治氏は「タイ社会というのはどう理解したらよいのでしょうか」と日本企業から質問を浴びせられて即答に困ったと述べています。

 タイ王室との関係は、昭和38年(1963年)5月にプミポン国王陛下と妃殿下が来日されており、天皇陛下(昭和天皇)と会見され、友好を深められています。日本からはその答礼として皇太子殿下(今上天皇)ならび同妃殿下が、天皇陛下(昭和天皇)のご名代として昭和39年(1964年)12月にタイを訪問されています。現在は秋篠宮殿下がタイ王室と深くご交流されており、昨年、タイを訪問されています。ニュースで流れたのをご存知の方も多いでしょう。チェンマイ大学で名誉博士号を授与されました。
 昭和18年(1943年)の大東亜会議にタイ代表として出席されたのはタイ国首相ではなく、ワンワイタヤーコーン親王殿下で、この方は日本の国連加盟に尽力されています。

 タイの学校では「国土、資源小国で、敗戦による荒廃を経験した日本が、なぜ経済大国としてよみがえったのか」「他国民は日本にもっと関心を持って研究すべき」と教えています。

 さて、一般に目を向けると、「メナムの残照」という日本軍人「コボリ」とタイ人女性のラブストーリーが大ヒットしたことがあり、昭和48年(1973年)に映画化されてから何度も映画やドラマの題材にされました。タイで最も有名な日本人は「コボリ」といわれるほどで、タイへ行き、日本人とわかると「コボリ」を知っているか、とよく聞かれるそうです。

 ウルトラ兄弟を扱った映画が大人気だった頃もあったそうで、「ハヌマーンとウルトラ兄弟」というタイトルでした。ハヌマーンはタイの守護神で、それが危ないときウルトラ六兄弟が助けにくるというものです。ウルトラ兄弟の編隊が飛んでくるシーンは真珠湾攻撃をモデルにしており、タイが困ったときは日本が助けに来ることを仄めかしているといいます。
 「ドラえもん」をはじめとするアニメ、ゲーム、ファッション、「たまごっち」「厚底サンダル」などはタイでも流行り、若者向けサブカルチャの"ふるさと"としての"日本"という認識もあるようです。



参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 めこん「タイのこころ」ククリット・プラモート/チット・プーミサック(著)/ 田中忠治編(訳・解説)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
 転展社「歴史通」2009.7月号『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
参考サイト
 秋篠宮さまが訪タイ、国王夫妻と会見 http://www.newsclip.be/news/2011308_030259.html
 WikiPedia「ナラーティップポンプラパン」

添付写真
 バンコクの夜景 Auth:Alter(PD)

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身を殺して仁をなした日本 ~ タイから

タイは同じアジアとして大東亜戦争を評価していた。

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 大東亜戦争時、日本とタイは攻守同盟を結んでいました。緒戦の日本の連戦連勝にタイ国民は酔いしれましたが、やがて戦況は悪化していき、タイは動揺していきました。そして連合国で結成された「自由タイ」がタイ国内の反ピブン勢力と連動し、昭和19年(1944年)7月24日、米英と開戦したピブン政権は総辞職することになりました。続いてクアン・アパイウォンが後継者に指名されます。クアン内閣は裏では自由タイの活動を支持し、連合国に協力しました。
 日本がポツダム宣言を受諾した後のすぐの昭和20年(1945年)8月16日にタイは摂政3名揃わず2名だけ署名した米英に対する宣戦布告は無効と宣言し、日本の強制下のやむをえないものであったと国際社会に訴えました。これにアメリカが受け入れを表明したことからタイは親米政権を立ち上げイギリスを牽制することに成功します。

 タイでは大東亜戦争の終わり方が反日方向だったので、日本への感情がよくないものかといえばそうではありません。終始反日寄りとされたディレック外相は戦後、東京にきたとき、タイ方面軍最高司令官であった中村明人中将を訪ね、旧交を暖めています。抗日組織である「自由タイ」の幹部たちは戦後タイの各界の指導的立場にたつようなりました。彼らは戦後、タイへ進出してきた日本人と接触の機会をよく持つようになりましたが、だれ一人として過去にこだわることなく、親近感をもって日本人に接したといいます。反日親日という二元論では語れない小国タイが生き残りをかけた苦悩がそこにあったのです。

 タイとの国交は昭和27年(1952年)のサンフランシスコ講和会議後に復活しました。しかし、日本とタイの間には大きな問題が残っていました。日本は戦時中、タイに20億バーツの借款を行い、そのうち4億バーツは金塊で返済していましたが、戦局悪化にともない金塊の輸送が困難になり、16億パーツが残っていたのです。タイの国家予算が約2億パーツですから、8倍もの金額です。戦後、タイはお金の返済を日本に求めましたが、日本は財源が乏しく、ディスカウントを求めました。するとタイは了承してくれたのです。このときタイ返済交渉団の顧問にいたソムアン・サラサス氏はこう述べています。

「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に『こんな気の毒な日本を見ていられるか』と言いましたよ。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです」

「『国に帰ったら、殺されるかな』とフッと思った。けれど、『まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから』と自分に言い聞かせました」

 戦後間もなくのころ、タイから象の花子さんが贈られました。この象はソムアン氏の父、プラ・サラサスさん(元タイ経済大臣)が私費で贈ってくれたものです。

 それからタイは大東亜戦争を否定するようなことはしていません。タイ首相のククリット・プラモート氏の言葉は有名でしょう。

「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話しができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身と賭して重大な決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはいけない」

 タイ北部のバーイ川には昭和17年(1942年)に架設された鉄橋が残されています。日本軍の建設によるもので、プミポン国王が保存を命じたのではないかと言われています。泰緬鉄道も保存され、日本の機関車も保存されています。日本製の海防艦「トンブリ」軍艦「メコン」もスクラップにせず保存しているといいます。メーホンソンにはクンユアム旧日本軍博物館があります。


参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
 クンユアム第二次大戦戦争博物館 http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/index.html

添付画像
 プーミポン・アドゥンラヤデート国王を讃える肖像画(Adam Carr所有)

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大東亜戦争の中で苦悩するタイ

小国タイは生き残りをかけて苦悩した。

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 第二次世界大戦の同盟国(枢軸国)というと日独伊(日本、ドイツ、イタリア)を思い浮かべる人が多いでしょうが、同盟国側には多数の国が連携しています。欧州ではフィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどがあげられ、アジアでは自由インド仮政府、フィリピン第二共和国、ビルマ国、満洲国、中華民国南京政府があげられます。

 タイは昭和16年(1941年)12月21日に日本と攻守同盟を結び、翌年1月8日、イギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に25日にイギリス、アメリカへ宣戦布告しました。

 緒戦は日本軍が快進撃を続けたので、タイの国営放送は日本軍の戦果を伝え、連合国を非難します。タイの人々は酔いしれていきました。そのような中でプリーディー摂政とディレック外相は慎重で日本が負けた場合のことを考え、密かに支那国民党に接近しておこうと画策します。また、海外の抗日組織である「自由タイ」運動との連携を模索しました。これらのタイの表裏の動きは「親日」「反日」といった二元論で語れるものではなく、小国ゆえの生き残りをかけたかけひきであるといえましょう。

 戦局が悪化してくるとタイも徐々に動揺してきます。ディレック外相は日本に非協力的な態度でしたので、ピブン首相は煙たがって、日本へ大使として飛ばしましたが、昭和18年(1943年)末に再び呼び戻して外相の座につけます。日本敗戦のことを考えだしたのです。
 それからタイには日本軍が駐留していましたが、彼らはタイの習慣に疎く、クリークや河川で裸になって水浴したり、タイ人を殴ったり、僧侶に不敬を働くものがいたので、戦局の悪化に加えてタイ人の心が日本から離れていくことになりました。昭和17年(1942年)12月にバーンポーン事件というのがおこっており、連合国捕虜にタバコを恵んだ僧侶がおり、この僧侶を日本兵が殴って騒ぎになりました。これで日本軍の鉄道第九連隊の一隊とタイ警察が銃火を交えるまでに至って日本軍側は軍医1名死亡、兵数名の負傷者を出しています。

 戦局悪化によるタイの動揺とバーンポーン事件を重視した日本南方総軍司令部はタイ方面軍司令部を編成して、最高司令官に「ホトケの中村」と呼ばれる中村明人中将を任命しました。中村中将はタイの朝野からたいへんな信頼をうけたといいます。戦後の昭和30年にタイの警視総監パオ大将ら政府要人に中村中将らは招待されましたが、中村中将は「まるで竜宮上にいった浦島太郎のような思いだ」と語ったほど大歓迎されています。タイでは「メナムの残照」(原題:Khu Kham)という日本軍人「コボリ」とタイ人女性の物語がヒットしましたが、コボリのモデルとなったのが中村明人中将なのだそうです。

 昭和18年(1943年)暮れに連合国側が日本軍の施設を空爆します。翌年1月にも満州国公使邸や日本大使館が空爆を受けました。昭和19年(1944年)7月にはサイパンが陥落。東條英機は失脚します。タイも大きく動揺し、ピブン内閣は総辞職してしまいました。

 ピブン内閣の次はアパイウォン内閣が発足しました。アパイウォン内閣は日本への借款引き受けを増やすなど表面上は日本に協力的でしたが、抗日地下組織「自由タイ」を密かに支援しました。日本軍ではこの動きを察知しており、参謀の中にはタイ軍を武装解除させ、軍政を敷くべきという強硬派もいました。
 自由タイは不穏な動きをみせ、タイ軍もいつでも交戦できる準備をはじめました。連合国侵入に備えるという名目でバンコク市内の要所にトーチカが作られ始めました。日本軍も要所要所に砲座や陣地を構築したので、両軍の間に緊張した空気が流れました。しかし、「ホトケの中村」こと中村中将は「自由タイは戦局を左右するものではない」こと、「長い目で日タイ関係を見ると相互に戦争や占領という汚点は残すべきでない」として軍部内の強硬派を抑えました。このお陰で終戦まで日タイ間で血を流すことはありませんでした。この中村中将の決断は戦後タイで随分好評価されたといいます。

 こうしてタイは表と裏で巧に動き、終戦を迎え、それから必死の外交を展開して独立を保っていきます。終戦後アパイウォン首相は次のように述べました。

「国の外交は全く複雑多岐である。われわれは白を欲しながら、あたかも黒を欲しているように振る舞い、終局において白を獲得することに成功した」



参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
参考サイト
 WikiPedia「中村明人」
添付画像
 爆破される泰緬鉄道(PD)

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