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2012年12月

南京で海軍は支那人から感謝された

大虐殺があったのなら感謝されない。

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 昭和12年(1937年)の支那事変南京戦では海軍も参加していました。あまり知られていないかもしれません。海軍第11戦隊が揚子江を上り、12月13日には南京に到着しています。陸地から攻撃してくる支那軍に砲撃を加え、揚子江上を敗走する支那軍の舟艇を銃撃しています。

 砲艦勢多艦長 寺崎隆司少佐
「13日の午後3時15分です。中興碼頭には日本陸軍が来ていまして日の丸を振っていました。南京に着いたら陸軍と連絡せよと司令官から命令されていましたので、中興碼頭に向かうと保津に信号しましたら先頭の保津がすぐに中興碼頭に向かったので、勢多が先頭になり、さらに先の下関桟橋に向かいました。
 下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機銃で掃射して近づきました」
(ここまでにジャンクや筏の支那兵に遭遇している)

 寺崎隆司少佐は翌年の7月まで南京にいましたが、もちろん南京虐殺など見ておりません。

 砲艦勢多 次席大尉・関口鉱造 15日の南京偵察
「星条旗を掲げている建物(鼓楼病院)をのぞいたところ、年配の米国人(発音で米国人とすぐ判りました)が出てきたので城内の様子を訊ねました。この人がフィッチ氏であったのでしょう・・・彼の話を要約すると『城内(難民区?)は完全に非武装化され難民が溢れている。しかし、便衣に姿をかえた支那兵が潜入していることは事実である。難民の処理、治安の維持については米・英など第三国が斡旋して日本軍当局と交渉中である』・・・」
「城内(難民区)は女子供でゴッタ返していたが、若い男の姿はあまり見かけませんでした。時折り、窓越しに険悪な眼で注視している男を見かけましたが、便衣兵らしく思われました」
「『虐殺』などという事件は、艦長以下全乗組員とも目撃しておりません」

 南京陥落後、海軍は南京下関から1.8キロ離れた紅卍字会の保国寺難民区(難民と市民二万余り)に対して食料や被服を給与しています。そして敗残兵の掠奪から市民を守っていました。これに尽力したのが土井中佐で、救援物資が到着したとき、市民と難民は「南京下関平和街」の横断幕をはり爆竹をあげ、日の丸を掲げ、歓呼して迎えています。土井中佐に紅卍字会から感謝状が送られました。

 紅卍字会 陳漢森の礼状
「・・・閣下の軍艦は江浜府に停泊する際、閣下は民衆が餓えている状況を察せられ、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また道路の整備と橋架けを命ぜられ、且つ自らご指導に当たられました。・・・」

 土井申二中佐
「私は第三艦隊艦隊司令部にいき、人道上、宝塔橋街をそのままにすることができない、といいました。すると長谷川清司令長官は宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料をくださいました。
(中略)
 平和街が落ち着いた頃、比良(砲艦)は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭を離れました。陳漢森(紅卍字会の代表者)はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感謝したものと思います」

 南京で30万人を虐殺するような日本軍に救援物資をくれただけで感謝してずっと手紙のやりとりをするはずがありません。日本軍は武士道の精神で行動していました。もちろん陸軍も同じで、脇坂部隊(歩兵36連隊)は13日夜、敵の戦死体をねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔いました。18日には陸海軍合同で慰霊祭を行っています。



参考文献
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 偕行社編「証言による南京戦史」

添付写真
 中山門内故宮飛行場戦没勇士慰霊祭における海軍陸戦隊の敬礼(1937年12月18日)(PD)

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南京の国際委員会の実態は「反日」だった

国際委員会は中立ではなかった。

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 昭和12年(1937年)8月の第二次上海事変は支那軍が崩れたことにより、南京への追撃戦へ移りました。11月、南京で国際委員会(ラーベ委員長)というのが作られ、中立地帯が作られます(安全区)。ここは非武装中立地帯ですが、実際は軍事施設があり、国際委員会は蒋介石に軍事施設を撤退するよう求めますが、守られず、日本軍も非武装地帯としては認めませんでした。ですが、松井軍司令官は攻撃しないように厳命し、実際に攻撃は行わず(誤って飛び込んでしまった砲弾はある)、12月13日南京は陥落しました。

 ラーベ委員長 第一号文書 12月14日
「拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります」

 安全区に女性子供を含む民間人は避難しており、南京陥落後も入り口には日本軍の歩哨が立ち無用のものの出入りを禁止しています。南京で民間人が大量虐殺されたなどということは全くありません。

 ところが、ラーベ委員長は支那軍の将校を匿っていました。これは本来問題です。

 ラーベ日記 12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」

龍と周は支那軍の大佐です。安全区のラーベ邸に匿ったのです。安全区は中立地帯ではなかったということです。

 同じく国際委員会のメンバーであるフィッチ師も支那兵を匿っていました。ラーベの裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員でフィッチは妻が蒋介石夫人と親友です。このほかにも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトンズラし、国際委員会の外国人が匿っていたわけです。国際委員会は「反日」であり、安全区は支那軍便衣隊の隠れ家になっていたのです。

 これらの潜伏した支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。委員のベイツ教授は、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後に支那兵が「ならず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていたものもいます。

 大阪朝日新聞 2月27日
皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」

 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」

 国際委員会は日本兵の非行の話を日本側の外交官補の福田篤泰に訴えをいれますが、なんら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう言っています。

「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった」

 これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されています。しかし検証したものはありません(国際委員会書記長スマイス博士証言)。仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い話しです。そしてこの文書は支那国民党の宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にも使われました。これらは支那人に金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったものや隠れている支那軍の便衣隊の仕業を日本軍の仕業にすり替えたものでしょう。国際委員会の実態は「反日」組織であり、支那国民党の宣伝部隊だったわけです。



参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 偕行社編「証言による南京戦史」

添付写真
 南京の街で日本兵が買い物(昭和12年12月17日)(PD)

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南京陥落当時の貴重な映像(1of5)
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8

南京陥落当時の貴重な映像(2of5)
http://www.youtube.com/watch?v=JZQTdOfUlck

南京陥落当時の貴重な映像(3of5)
http://www.youtube.com/watch?v=dS1KEvLgRUs

南京陥落当時の貴重な映像(4of5)
http://www.youtube.com/watch?v=IpYXmyAW_fw

南京陥落当時の貴重な映像(5of5)
http://www.youtube.com/watch?v=r-hCB4O49ms

南京陥落後の支那軍便衣兵の処刑は合法

便衣兵の処刑は虐殺ではない。

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 昭和12年(1937年)8月、支那軍が日本海軍陸戦隊を攻撃し第二次上海事変が始まり、11月に支那軍は総崩れとなり、日本軍は追撃戦に移り、12月に南京戦となります。日本軍は12月13日、南京城内へ突入しました。14日から16日まで掃討戦を行います。しかし、困ったことに支那兵は平服に着替え、便衣兵として安全区と言われる民間人の避難場所に潜伏しまったのです。日本軍から見れば彼らは武器を隠し持ち、戦闘意思を持った集団でした。日本軍が摘発した支那兵の隠匿兵器はトラック50台分に及びました。

 1月4日付 ニューヨーク・タイムズ
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、爆薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
 この元将校たちは、南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」

 戦争時はハーグ陸戦法規という一定のルールがあります。その中に「交戦者の資格」というものがあります。
1)部下の為に責任を負う者に在ること
2)遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること(軍服などのことです)
3)公然兵器を携帯すること
4)その動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること

 南京陥落のとき支那軍の大将・唐生智は兵たちをおいてトンズラしていました。高級将校は安全区の中に隠れました。便衣兵は民間人の服を着て安全区の中に隠れました。武器も隠し持っていました。つまりハーグ陸戦法規に違反していたということです。交戦の資格を有しないものは「捕虜」になることはできません。本来は大将あるいはそれに準ずるクラスの将官が正式に降伏し、武装解除すれば兵士たちは捕虜としての待遇を受けることができます。しかし、支那軍はそれを行わなかったため、停戦なく、戦闘が継続したのです。その中で日本軍は便衣兵を摘発し、一部の反抗的な便衣兵、敗残兵を処刑し、従順なものは捕虜として保護しています。この便衣兵の処刑は合法的であり、虐殺には相当しません。

 当時の法規の認識として日本本土決戦計画の「国民義勇隊」を組織する話の中で南原東京帝国大学法学部長は以下のように述べています。

「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方がないのです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に会います」

 これが当時の法解釈のスタンダードでしょう。南京戦の便衣兵の処刑は法律上問題ないという見方ができます。一方、違法という意見の人もおり、ハーグ陸戦法規の「前文」には、各条文の内容を「人道的見地から運用する必要」というのがあり、「捕虜の処刑に対しては裁判の手続きを要する」という人もいます。ただ、これらは現代感覚に照らし合わせた「人道」であり、当時の感覚ではないように思います。捕虜になっても襲ってくるような支那兵という特質、大将が見捨てて降伏手続きをとらなかったという背景というのも考慮しなければならないでしょう。

 当時の安全区にいた欧米人も国際法上の「判断」に基づく批判はなく、南京の安全区を管理していた国際委員会は便衣兵と思われる処刑を目撃し、「われわれには日本軍の合法的な処刑について抗議する権利はない」と記録しています。また、国民党政府顧問のベイツ教授でさえ、安全区に隠れていた兵士が摘発されたとき「この男がもと兵士だったならば、われわれは手出しはできない」という軍事上の判断を示しています。安全区の記録は国民党の宣伝本「戦争とは何か」にも掲載されており、宣伝本でさえ便衣兵の処刑は合法的と見ており、支那国民党のスパイをも国際法違反という感覚は無かったということです。亜細亜大学東中野教授の研究では国民党の宣伝本の「戦争とは何か」でも日本軍の捕虜の処刑の違法性の部分を削除するなどしており、執筆したベイツ教授は認識していたとし、国民党は国際法上の観点も研究していたはずである、と結論づけています。つまり便衣兵の処刑を虐殺だと誰も認識していないということです。



参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 文春新書「南京事件の探究」北村稔(著)
 草思社「南京事件『証拠写真』を検証する」東中野修道、小林進、福永慎次郎(共著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)

添付写真
 「南京陥落後の街頭にて」(昭和12年12月20日)、林特派員撮影、同25日、朝日新聞に掲載
    ~ 日新報道「南京の真相」

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南京虐殺ニセ写真
東北地方のプロック紙「河北新報」の平成7年(1995年)年5月20日付夕刊に掲載された。
仙台市在住の旧軍人から「日本兵の軍服が当時(昭和12年12月)と異なる」と指摘された。
将校は長靴で帯刀するが、軍刀がないし、日本兵は左肩から右腰にベルトをしないことから日本兵ではない。(H7.3.5産経新聞より)

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南京事件におけるスマイス博士の被害報告はプロパガンダだった

スマイス報告にトリックがあった。

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 昭和12年(1937年)12月、支那事変は南京戦へと移りました。蒋介石はトンズラし、南京防衛軍司令官の唐生智もトンズラし、南京に残された市民は外国人メンバーが構成する国際委員会が保護することになりました。この国際委員会の書記に金陵大学のスマイス博士という人がいます。この人が翌年3月に南京戦の被害調査を行っています。調査はサンプリング方式がとられ、50戸に1戸の割合で調査し、50倍するというものです。これによると死亡者数は以下の通りとなっています。

<死亡原因>(都市部調査)
 軍事行動    800人
 兵士の暴行 2,400人

 30万と言われる大虐殺がわずか2,400人と出ています。虐殺肯定派はこの調査を無視するか、さもなくば「一般住民の死者があまりにも多い点」とだけつまんだり、「数字は過少」と言っているようです。

 大阪学院大学教授の丹羽春喜氏によると被害者となった成年男子の44.3%が「独身・単身者」であることに注目しています。南京の人口のうち「独身・単身者」は5.2%と推計され、これに比べると44.3%は異常に多い数字になっています。これらは本来の南京市民ではなく、多数の便衣兵が含まれていたという判断を下しています。便衣兵の処断は虐殺ではありません。

 南京は都市部と近郊六県があり、スマイス報告では近郊六県は「農村部」として殺害されたもの26,870人としています。この数字には虐殺肯定派は何ら疑問を示さないといいます。立命館大学教授の北村稔氏によるとこの調査の集計方法が都市部と異なる点を指摘しています。3つの村1つを対象に10戸のうち1戸を調査しているので、30倍すればよいわけですが、1家族あたりの平均被害状況に平時の全家族数を乗算しているので、数字が大きくなっているといいます。南京戦当時は住民の多くは避難していましたし、日本軍が通過した地点は限られています。平時の全家族数を乗算すれば数字は大きくなります。また、近郊で被害にあったのは支那軍の焦土作戦による虐殺がほとんどでしょう。北村氏は「日本軍を告発する巧妙なトリック」と断じています。

 実はスマイス博士は国民党宣伝処顧問のティンパーリーの依頼を受けて調査を行っていました。実際、スマイス報告をよくみると注記に「市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、12,000人の一般市民が暴行によって死亡した」と書いています。調査結果、被害数があまりにも少なかったので、このような記載を入れたものと思われます。12,000というのは紅卍字会が埋葬した死体約40,000のうち30%は一般市民であると主張するティンパーリーの数字と一致しています。

 このスマイス報告は日本側も認識しており、昭和15年(1940年)に日本の興亜院政務部が南京の調査を行った報告の中で述べられています。吉田三郎という人の報告です。

「これはその時にもらった資料でありまして南京地方に於ける戦争によるフィールド・リサーチ以下各種の統計的研究であります。こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、所謂(いわゆる)科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく看ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」
「たとえばこういうことをやっている。南京地方に於ける損害の統計を作る場合に、戦争の直接の被害、火災によるもの、日本の軍隊の略奪によるものというような項目が挙がっており、火災の場合についていえば、支那軍が逃げるときに放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。数字としては極めて確かだけれども、これでみると皆日本軍がやったことのように見えるのです。その様に巧妙なる科学戦争というものが世界中にこの機関から通してまかれている事実を見たのであります」

 きっちり見破っています。スマイス報告も結局プロパガンダだったわけです。



参考文献:
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 文藝春秋「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<8>南京事件Ⅰ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
添付画像
 最後まで踏み止っていた南京市民が防空壕から出て来て日本軍の布告に安心する(昭和12年12月14日)(PD)

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南京虐殺の嘘 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=qniP3os-DWw


南京虐殺の嘘 2/3 http://www.youtube.com/watch?v=R89TBP1RavA

南京虐殺の嘘 3/3 http://www.youtube.com/watch?v=J8MFaMq1GTs

南京の便衣兵

便衣兵は民間人と区別がつきにくかった。

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 昭和12年(1937年)8月に支那軍が日本海軍陸戦隊を攻撃して始まった第二次上海事変で、日本軍第三師団が上海に上陸しようとしたとき、桟橋の上に、日本の愛国婦人会のような多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えました。兵士は安心して次々に桟橋に降り立ちましたが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちに消え、支那軍による凄まじい一斉射撃を受けたといいます。

 支那軍というのはこういう軍隊なのです。

 福島民法 箭内正五郎記者(上海戦)
「上海で昼にお金を使って働かせていた捕虜が夜になると謀反を起し、営舎に手榴弾を投げたり火をつけたりしたことがありました。その時、火事になり私もマントが燃えたことがありました。また、便衣兵が手榴弾を投げたのを見つけて殺しています。ですから市民の服を着て死んでいる者もいました」

 同盟通信 細波孝無電技師(南京戦)
「私は国際法で捕虜をやってはいかんというのが念頭にありました。それを見て(下関の死体を捕虜の処断だと推測していた)国際法を考えましたが、戦闘の犠牲者だと思いました。入城式までに城内の大掃除をやりましたからね。中国兵というのは捕虜というのか敗残兵というのか、そういうのがいて、いつ攻撃してくるかわかりませんからね」

 支那兵は捕虜になっても隙をみせたら襲ってくるのです。これはこのときの上海戦だけの話ではなく、昔から支那兵というのは卑怯者だったということです。第一次上海事変のときも捕虜を検査したらピストルを隠しもっており、第二次上海事変でも同様に苦労したのです。南京事件を考察するときはこういう支那軍の特性を頭に入れておく必要があります。

 新愛知新聞 南正義記者(南京戦)
「12月13日ですか、先頭の部隊とともに中山門(南京の城門のひとつ)から城内に入り、中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました。
 あとでわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。それを中山東路につれてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。下から火であぶっていました」

 南方の門付近でも木に縛られて銃殺された日本兵が目撃されています。南京戦で日本軍が支那の敗残兵を処刑したことに対して国際法違反だという人がいますが、もしそうだとして、支那軍に捕らえられた日本兵が処刑されたことも批難しているでしょうか。支那軍は国際法など一切守りません。

 12月13日、南京が陥落後、支那兵は平服に着替え便衣兵となり、一般市民が避難している安全区に逃げ込みました。安全区はドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が管理し、中立非武装の地帯です。ところがこともあろうにジョン・ラーベ自身が支那の高級将校を匿ったのです。

 ラーベ日記12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」

 便衣兵は日本兵の仕業に見せかけ、殺人、略奪、強姦、放火などの悪事を繰り広げ、攪乱工作を行いました。

 飯沼守少将 1月4日陣中日記
「憲兵は南京難民区域或は外国大使館等に潜伏しある不逞徒を捕えつつあり、保安隊長、八十八師副長等、主なる者なり」

 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」

南京で報告されてた日本兵の非行というのはほとんど便衣兵か民間の不逞支那人らの仕業でしょう。そして12月25日に日本軍将校宿舎が便衣兵の集団に襲われるということがおきています。とにかく日本軍は便衣兵には手を焼きました。便衣兵は国際法違反です。



参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 PHP「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」水間政憲(著)
添付画像
 日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日)(PD)

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南京虐殺ニセ写真
「杭に縛り付けた支那人めがけて銃剣術練習の日本兵」としてアメリカに出回ったもので、当時でも虚偽写真であることが明らかになったが、「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」などに使われだした。
当時の日本の軍服は詰め襟。折り襟ではない。また階級を表す肩章がついていない。

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南京大虐殺の大いなる疑問

疑問に答えられないのは大嘘だから。

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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
公開質問状に答えられない中共 ・ 南京事件?嘘です!(4) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11373047544.html

 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺があったとされますが、多くの学者が疑問を述べています。素人が見てもそのようなことがあったとは考えられないのですが、中華人民共和国(中共)は30万の虐殺を主張しています。最近では40万という数字さえ聞かれます。

 こうした疑問について「南京事件の真実を検証する会」 http://www20.tok2.com/home/nanking/ が温家宝国務総理へ公開質問状を出しています。簡単に書くと以下の内容になります。

一、故毛沢東党主席は生涯に一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした
二、1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行ったが、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていない
三、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、ありえない
四、「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです
五、 南京虐殺の「証拠」であるとする写真はその後の科学的な研究によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しない
六、貴国のさまざまな機関が「南京虐殺映画」製作を企画し進めていると伝えられます。こうしたことは日中友好を願うわれわれ日本人にとって耐え難い裏切り行為

 支那事変、第二次世界大戦を通じて、支那共産党も国民党も南京大虐殺について何も言及していません。共産党の軍事雑誌の南京戦について述べたところには「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京・・・」と南京戦の様子と陥落は政治上、軍事上の重要性を述べているだけです。

 国民党には中央宣伝部というのがあり、ここが外国人を使って宣伝してもらおうとしていました。国民党の息がかかった金陵大学のベイツ教授はニューヨーク・タイムズとシカゴ・デイリー・ニューズの記者に南京戦における日本軍の蛮行を伝えるメモを渡し、それが記事になりました。英国の新聞記者ティンパーリに「戦争とは何か」というプロパガンダ本を書かせて世界各国で出版しました。ここまではよくできていたのですが、漢口での記者会見では何も述べていません。中央宣伝部は何か事があると緊急記者会見を開き、深夜であっても電話で記者らを呼び出していました。しかし、南京大虐殺については何も言っていないのです。国民党が外交ルートを使って日本へ抗議するということもありませんでした。わずかに国際連盟で2万人の虐殺と訴えたぐらいですが、各国に無視されました。プロパガンダも一貫性がないとどこかに矛盾が生じるということです。

 南京大虐殺の話は東京裁判になって急にでてきたものでした。罪状をでっちあげたのです。ところが、南京で証言を集めようにも日本軍の残虐行為を申告するものが「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査をすると唖然とするもの、虐殺を否定するまでいました。そして苦労して無理やり証拠もでっち上げたわけです。しかも避難民を管理していた国際委員会のメンバーが目撃した殺人はわずか1件で、それも警備中の日本兵が街路をあるく支那人を呼び止めたところ、逃げ出したので後ろから撃ったというものです。戦地においては正当なケースです。

 日本敗戦の昭和20年(1945年)12月13日は南京事件の9周年にあたりますが、わずか数件だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生き延びた自分の僥倖(ぎょうこう)を願い、涙を流して当時の悲惨なできごとを語る人は殆んど居ない状態であった」と上海のメディア「大公報」は不思議がって「蒋介石集団(国民党)は、日寇の罪状を調査した時、50万という見積もり数字を提出したではないか。それが『わずか数軒』の供養とはどうしたことか」と報じました。南京大虐殺などでっち上げであることは誰の目にも明らかで、毛沢東も国民党を嘲笑っていたことでしょう。

マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
公開質問状に答えられない中共 ・ 南京事件?嘘です!(4) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11373047544.html



参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 明成社「再審 南京大虐殺」竹本忠雄・大原康男(共著)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

支那軍の蛮行に慄然とした日本軍

蛮行は支那軍のほうだった!

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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
蛮行は支那軍・南京事件?嘘です?(3) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11372282025.html

 昭和12年(1937年)12月の南京戦で日本軍が蛮行を働いたとされていますが、蛮行を働いたのは支那軍でした。支那軍は上海から南京へ向かう撤退戦で住民から掠奪し、虐殺していったのです。

 蒋介石日記11月30日の月間総括
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪城と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略) 敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」

 大阪毎日の記者・松村益二という人の「一等兵戦死」(昭和13年10月)という召集で戦地にいった記録、随筆に支那事変のときの支那軍の残虐さが書かれており、「GHQ焚書図書開封3」で紹介されています。

「僕の目にやきついている残虐の場面は記しておかなければならない。具体的には描写することは許されないだろう。簡単に書こう」
「我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです」
「僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ」
「小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう」
「おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・」

 こうした中には父母が支那兵に殺されたり、逃亡したため、行き先の無い子供もおり、日本兵士はついつい子供と遊んでしまい、情が移り、前進命令が出て別れのときに涙してしまっています。

 支那軍というのはほとんど匪賊なのです。銃剣は食券がわりであり、民間人を襲うのです。南京戦のときに住民は難民区という中立地帯に保護されていましたが、これは戦闘からの避難のほか、支那軍が匪賊になって襲うから避難していたのです。

福岡日々新聞・三苫記者の記事(南京で黄という男性と陳という女性にインタビュー)
記者:君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。なぜ避難しなかったのか。
黄 :それは途中に土匪が多いからです。中央軍(蒋介石の軍)もたくさんいます。
記者:中央軍がいた方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄 :いいえ中央軍も土匪も同じです。金や品物を持っていれば、殺したり、強奪したりするのです。
陳 :それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。

 支那軍は撤退のとき焦土作戦といって日本軍に施設を使わせないよう、食料の調達ができないように村々を焼き払い、南京城外15マイルの地点まで焼き払いました。

 ニューヨーク・タイムズ 上海12月22日発 F・ティルマン・ダーディン報告
「日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったこととなった・・・中国の『ウエスト・ポイント』である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから15マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである」

 金陵女史文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」

 そして日本軍がいよいよ南京に到達すると支那軍の大将は兵士、住民をおいてトンズラしました。そして支那軍は暴徒と化したのです。

 前出・ダーディン報告
「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店略奪も珍しくなかった」
「(12日)夕方には、退却の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。指揮官もなく、どうなっているのかさっぱり分からなかった中国軍は、戦闘が終わって、生き延びなければならないことだけは分かった」

 東京日日新聞 南京にとどまった某外国人の日誌抜粋 12月20日報道
「12日、城外の支那軍総崩れとなり、八十七師、八十八師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内になだれ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する三十六師に命じ、これら敗残兵を片っぱしから銃殺するも、大勢如何ともする能わず、唐生智もまた憲兵と共に夜八時ころ何処ともなく落ちのぶ。敗残兵の放火、略奪なさざるはなく、恐怖に陥る・・・」

 米南京副領事エスピー氏の本国報告
「・・・支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行いおれることとなり。・・・支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎとるための殺人も行いしなるべし」

 上海、南京で日本軍の蛮行など虚構であり、もし南京大虐殺というのがあったとしたら、それは支那軍の仕業に他なりません。

マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
蛮行は支那軍・南京事件?嘘です?(3) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11372282025.html


参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 大月書店「南京事件の日々」ミニー ヴォートリン (著) / 岡田 良之助・伊原 陽子 (訳), 笠原 十九司(解説)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)

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南京市民の虐殺などしていないと証言する元日本兵の方々
http://www.youtube.com/watch?v=tU7NYLtqwe0

南京大虐殺の証拠写真は大ウソだった

証拠として通用する写真は一枚もなかった。

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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 証拠として通用する写真は一枚もない ・ 南京事件?嘘です?(2) 
 http://ameblo.jp/lander1208/entry-11367191293.html

 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺が行われたといわれています。これは学校の教科書にも記載されており、多くの人が知っていることでしょう。

 もう一度読む山川 日本史(高校教科書用)
「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。このとき日本軍は、非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」

 中華人民共和国(中共)が主張しているのは30万人虐殺です。それだけの虐殺があればその証拠写真があってもよいはずです。当時、南京には日本の新聞記者、カメラマンが100人以上いましたし、外国の新聞記者、カメラマンも5人いました。「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者、「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者、「パラマウント・ニュース映画」のメンケンカメラマン、「ロイター通信」のスミス記者、「AP通信」のマクダニエル記者です。しかし、証拠として通用する写真は一枚もありませんでした。このことは亜細亜大学教授の東中野修道氏が南京虐殺の証拠写真としてあげられている143枚の写真を検証し、「南京事件『証拠写真』を検証する」という本にまとめています。いくつかあげてみます。

 キャプション「左手に切り落とした中国民衆の首を持ち、右手に軍刀を持つ凶悪な日本兵」

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これは英国マンチェスター・ガーディアンのティンパーリ記者の「外国人の見た日本軍の暴行(戦争とはなにか)」にも登場しています。水兵の襟が白ですが、日本軍の水兵は白線です。ちなみにティンパーリ記者は国民党中央宣伝部顧問です。ようするにプロパガンダをまき散らしたわけです。

 次の写真もティンパーリのプロパガンダ本に掲載されています。キャプションは「南京大虐殺の際、日本軍に殺害された中国民衆」となっています。

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 兵士の襟が折り襟になっているのがわかるでしょう。当時の日本陸軍の襟は詰襟です。ニセ証拠写真です。アイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」では「南京の南の雨花台の虐殺地点。この写真は南京虐殺後すぐに撮られてた」と説明がありますが大ウソです。日本のマスコミも偽写真を大虐殺の証拠として報道したりしているのですから、情けない話です。

 南京で大虐殺が行われたなら記者たちはスクープとして写真は撮るでしょう。南京での日本軍の蛮行を報じたのは「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者と「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者です。ダーディン記者はカメラをパナイ号に置いていたときに船が日本軍の誤爆で沈没してしまい失いました。スティール記者は次のように虐殺を記事にしました。
「南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配ということになる。後者では何千人もの命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった」

しかし、スティール記者は虐殺写真を撮りませんでした。城外の写真は撮っていますが、これは記事に掲載していません。城内の写真を撮らなかった理由を後年のインタビューでは「南京の城内で写真を撮っているのを発見されたら、おそらくカメラは取り上げらていたでしょう」と述べていますが、日本人記者は問題なく撮影できています。また、都新聞の小池記者は城内で二台の車に分乗してきた外人たちがやってきて、おおっぴらに写真を撮っているのを目撃しています。2台ですから、4~5人と推測できます。スティール記者が含まれていた可能性は高いです。誰でも写真は撮ることができたのに一枚もないのはなぜか。実は写真は撮っていて記事にそぐわない写真しかなかったからではないでしょうか。

マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 証拠として通用する写真は一枚もない ・ 南京事件?嘘です?(2) 
 http://ameblo.jp/lander1208/entry-11367191293.html

H24.12.16追記
コメントより新たな情報をいただきました。松尾一郎氏の研究では水兵の写真の原本は線がわかるとのことです。松尾氏によると首を持つところに糸があり、当時の支那軍は斬首したあと、首を吊るすために糸をつないでいるとのことです。http://www.youtube.com/watch?v=4RAewwZGIeU&feature=channel_video_title


参考文献
 草思社「南京事件 『証拠写真』を検証する」東中野修道(著)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
 評伝社「外国人のみた日本軍の暴行」ティンバーリイ(原著) 訳者不詳
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)

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 スティール記者の撮影した写真「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」より(1)~(7)は中華門。
 死体は戦闘によるもの。スティール記者は敗残兵の銃殺は見たと言っているが、民間人の殺害は見ていない。

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 8 支那兵が連行されているとしている。

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 9 掃討戦。日本兵がこちらを見ている。
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10 支那兵がロープをつたって城外へ脱出した跡。

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世紀の大捏造、南京大虐殺

アメリカが捏造し、中華人民共和国が利用する南京大虐殺。

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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 南京事件?嘘です!(1) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11366430366.html

 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で日本軍の蛮行があったと海外メディアは報道しました。戦後、東京裁判で、この南京事件が取り上げられ、中華民国政府が南京に調査へ行ったところ何もでてきませんでした。

 南京地方法院検察処敵人罪行調査報告
「この間、敵側の欺瞞妨害激烈にして民心銷沈(しょうちん)し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際においても、冬の蝉のごとく口を噤(つぐ)みて語らざる者、或いは事実を否認する者、或いは自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり」

 調査の妨害など誰がしたのかわかりませんが、結局目撃証言わずか1件。その後、なんとか500件の調査事実を発掘しましたが、採用できたのはわずか4件。中華民国はこれらと埋葬記録をあわせて34万の大虐殺と申し立てたのです。埋葬記録は完全にでっち上げでした。証人として国際委員会のマギー牧師が出廷していますが実際に目撃した殺人はわずか1件でした。しかも、日本兵が「誰か」と声をかけて逃げた男を撃ったというものです。大量虐殺などデタラメな話です。しかし、南京攻略時の司令官であった松井石根大将は有罪となり死刑となりました。

 こんな南京大虐殺などというバカバカしい話など誰も信じるはずはありませんが、この捏造南京事件を蒸し返したのは日本のマスコミでした。朝日新聞の本多記者の「中国の旅」(昭和46年)が出発点となっています。マスコミや知識人が「南京大虐殺」を叫びはじめます。東京裁判はGHQによる日本弱体計画として南京大虐殺をでっち上げましたが、今度は中華人民共和国(中共)のプロパガンダ攻撃の材料となり、対日外交カードおよび自国の愛国教育に使われたのです。南京大虐殺が中共の教科書に記載されたのは昭和54年(1979年)です(昭和56年とも)。南京戦は昭和12年(1937年)のことですから、42年間も支那人は知らなかったのです。朝日新聞によってそのことを教えられたのです。それまでは国民党が30万殺したとか教えていたそうです。

<支那の教科書変化>「日中再考」古森義久記者 ~ 「南京事件の探究」より
 昭和55年(1980年) 日本の南京占領の残虐性を描写
 --昭和57年(1982年)以降変化
 平成4年(1992年) 「南京大虐殺」という項目が設定される
 平成7年(1995年) 残虐場面を描く挿絵が新たに添付

 本多記者の「中国の旅」に疑問を持って鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」(昭和48年)を出版しています。鈴木明氏は「百人斬り」にも疑問を呈していますが、私などは南京大虐殺があったことに対して疑問を持たずに育ちましたから、GHQの日本弱体化計画である「自虐史観」は世の中にしっかりと根付いていたと言えます。そして中共の情報戦が追い討ちをかけて日本人の心に自虐意識を浸透させたのでしょう。「南京大虐殺のまぼろし」の声を掻き消して教科書を書き換えさせた中共日本支部である大新聞の威力は強大です。

 平成9年(1997年)にはアイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、これで一気に南京大虐殺ホラ話が世界中に広まってしまいます。このときも私はまだ南京大虐殺に何の疑問も持っていませんでした。南京虐殺を否定する本が出版されたことがニュースになったのを覚えていますが、「そんなことを言う人がいるんだ」ぐらいに思ったものです。しかし、あるとき南京虐殺の特集をTVでやっているのを見て兵士の証言が不自然なことに気がつき、ネットが使えるようになると、やがて南京大虐殺はウソだったことに気づきました。

 中共はウソを悪いこととは思っていません。政治にすべてが優先するのです。歴史のウソも許されるのです。「政治掛帥」というのだそうです。中共では弁偽学という学問があり、何がウソで何が正かを研究する学問です。中共の正史(官書)というのはすべて偽史の書であるといえます。中共の知識人は心の中では南京大虐殺なんてありはしない、あるいは虐殺の支那の歴史の中では大した話ではないと思っているはずです。「南京虐殺」は中共にとっては単なる政治の道具なのです。

マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 南京事件?嘘です!(1) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11366430366.html


参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『チベット問題と北京オリンピック』若杉大
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 文春新書「南京事件の探究」北村稔(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 明成社「再審『南京大虐殺』」大原康男・竹本忠雄(共著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 青木書店「南京事件資料集 中国関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)

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参考映像
 朝日が作った歴史
 http://www.youtube.com/watch?v=EoAmItpLGuE

 1971年8-12月 「朝日」本多勝一記者「中国の旅」連載
 ↓
 1972年9月 日中国交回復
 ↓
 1978年 中学歴史教科書に「南京」登場
 ↓
 1979年 中国の歴史教科書にも記載
 ↓
 1985年 南京大虐殺記念館開館
 ↓
 1994年 愛国主義教育実施要領(各地に反日記念館)
 ↓
 2005年 中国・反日デモ多発

 

朝日新聞は南京の虐殺数を特定していない

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南京陥落、そのとき市民はどうしていたか

南京陥落、市民は安全区に避難していた。

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 昭和12年(1937年)8月、第二次上海事変が勃発します。そして戦闘は12月には南京へ移行しました。そして南京大虐殺が発生したと言われています。本当にそうでしょうか。まずはリアルさを見るため、戦後焚書された書物で南京陥落時の様子を見てみます。

「画法躍進之日本」『南京陥落祝賀号』(GHQ焚書図書開封より)
「夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。前方には城壁を取り巻いて幅30メートルほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。城門はすでにピッタリ閉ざされて、泥や砂がいっぱい積んである。クリークの土手の敵は、場内に逃げ込む道はなかった。堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、片っ端から友軍の重機になぎ倒されて、山のように重なって倒れていく」

 南京は城壁で取り囲まれた街で、城壁の周りに堀のように川(クリーク)が流れています。その土手に支那兵がおり、日本軍の攻撃によって支那兵が城門へ走って逃げ込もうとしているところを、日本軍の重機が追い撃ちをかけているわけです。場所は南の中華門あたりです。そして、日本軍はクリークに渡河橋を投げ込み、城壁を爆破します。

「やがて城門を埋めた小山のような泥の坂のところで日章旗がしきりと打ち振られた。戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一斉に進軍した。
『十二時十二分!』
と小林伍長が叫ぶ。ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だった。これを踏み越え踏み越え進むうち
『オイ、女だ!』
と石原上等兵が叫んだ。なんという唐突な言葉だったろう。大南京城が陥落の間際、最高潮の戦場で
『オイ、女だ!』
と叫ぶ。その唐突さにもかかわらず、いや唐突さゆえにか、男性である私はザクッと胸を刺されたように思った。私は石原上等兵をみた。石原上等兵は今一歩踏み越そうとした敵の死体の山をつくづく眺めている。敵の死体に混じって立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つうずまっていた。閉ざされた中華門にすがりついて慟哭するかのような姿で、女が --- 女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた」

 城門が閉ざされており、城内に逃げれず、門にすがるようにして女性兵士が死んでいたのです。日本兵士は衝撃だったでしょう。当時の日本人の常識としては女性を戦場で戦わせるなど考えられなかったわけです。

 さて、東京裁判で言われたように日本軍は大挙、南京城内に乱入して大虐殺を開始したのでしょうか。中華門から入城したのは第六師団の第13連隊と第47連隊のそれぞれ1大隊です(第23連隊も入城の記録あり)。このとき大坂毎日新聞の五島広作記者が一緒に入城しています。

 五島記者へのインタビュー
- 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした。
五島記者「12日12時にはじめて城壁を占領し、13日、一部城内に入りました。私もこの時、第13連隊から選抜した部隊と城内に入りました」

- この時、残虐行為などは?
五島記者「13日、14日は城内掃蕩で、残虐行為などありません」

- 南京には外国の記者が残っていましたが・・・
五島記者「ええ。何人かと会って話をしています」

- その時、日本軍の軍紀について話題になったことがありませんか。
五島記者「彼らとそういう話をした記憶はありません。パラマウントのニュース映画が南京を撮っていて、私もそのニュース映画に映っています。撮ったのはアーサー・メンケンです」

 第47連隊と報知新聞の二村次郎カメラマンが入城しています。
- 城内はどうでした?
二村カメラマン「中国人は誰もいませんでした」

- 南京虐殺ということが言われていますが・・・
二村カメラマン「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです」

 第47連隊の速射砲中隊長の安部康彦氏は城外にいましたが、城内に入った掃討部隊から次のように聞いています。
「掃蕩部隊から聞いた話では、便意の敗残兵は、ほとんど退去した跡であり、掃蕩といっても遺棄された軍需品の収集や跡片づけが主な仕事であったとのことです」

 第23連隊 坂本氏
「残敵を掃蕩するため、連隊主力は城壁に沿い、私の第二大隊はその東方の市街地を北方に向かって前進した。ちょうど12時頃、道路の左側に飲食店が店を開いており、主人らしい一人の男がいたので、支那ソバか何かを注文し・・・一々家屋を点検した訳ではないが、前記の飲食店の男以外には市民も敵兵も見ず、また大した銃声も聞かなかった」

 南京には人がいなかったのです。支那兵は逃げ、市民は国際委員会が管理する中立地帯にいたのです。この地帯は第九師団の第七連隊の受け持ち地区で他の部隊は入ることはできませんでした。第六師団の一部が13日夕方にちょっと立ち寄った程度です。しかし、第六師団の師団長・谷寿夫中将は戦後、南京法廷で有罪判決となりました。

 南京法廷 判決主文
「谷寿夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」

 無人地帯で大虐殺などできようはずがありません。


参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 展転者「南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 偕行社「証言による南京戦史」
 青木書店「南京事件資料集 中国関係資料編」南京調査研究会(編訳)

添付画像
 中華門爆破の瞬間(1937年12月12日午後零時10分 PD)

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日米開戦の「最後通牒」手交の遅延は大使館の怠慢だった

最後通牒はなぜ遅れたのか。

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 昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃は「宣戦布告前」に行った日本の騙まし討ちといわれたのは対米覚書「最後通牒」の手交が遅れたことが原因とされています。外務省はワシントンの野村大使に対米覚書を14項にして発信し、機密保持のため「タイピスト」を使わないように指示がでていました。そのため奥村書記官がタイピングを行い、緊張のため平時より速度が遅い上、間違いも多く、作業を終えたのは外務省の交付を指示した午後1時をまわり、午後1時50分となってしまいました。

ワシントン時間昭和16年(1941年)12月

  • パイロットメッセージ・・・・・・・・・・・・・・・5日「明日から外交電文を送る」
  • 13項まで解読?・・・・・・・・・・・・・・・・・6日午後11時?
  • 14項が到着・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午前7時頃
  • 大使館の電報に海軍武官が気づく・・・7日午前9時
  • 真珠湾攻撃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午後1時20分頃(ハワイ時間7時49分頃)
  • タイプ作業終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午後1時50分
  • ハル国務長官に手渡す・・・・・・・・・・・・7日午後2時20分

 実は米側はパイロットメッセージからすでに傍受しており、14項目中13項目はワシントン時間6日午後4時には英訳に書き換えられ、午後9時30分にはルーズベルト大統領に手渡されました。ルーズベルトはこう言いました。

「これは戦争を意味する」

 残りの1項目と書類を米側に手渡す時刻の電報もワシントン時間7日午前10時には解読を済ませていました。スターク海軍作戦部長はこういいました。

「何だって!これは戦争ということだ」

ですので、野村大使がハル長官に覚書を手渡したときはハル長官は読んだフリをしたようなもので、「過去9ヶ月間における貴官との全会談中、自分は、一言も嘘を言わなかった。(中略)50年の公的生活を通じ、自分はこれ程不名誉な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない」と言ったのは完全な演技でした。

 パイロットメッセージがきて「訓令があり次第、いつでもアメリカ側に手交できるよう準備しておくこと」と指示され、6日中には電文が届いているのになぜ、日本大使館は解読、タイピングに手間取ったのか?これは6日の夜に大使館員の一人の送別会があり、皆、帰ってしまっていたためです。ですので、7日朝に覚書の手交時刻を“貴地時間七日午后一時”という電報を読んで震え上がったわけです。予告電報が来ているのに送別会を優先させ、しかも7日午後1時に間に合わなかったということです。このことを隠すため東京裁判でも関係者は口を閉ざし、戦後ずっと伏せられてきました。上智大学名誉教授の渡部昇一氏は当時を知る外交官にこの事実を確認しています。渡部氏は「もし、この時の外交不手際の外交官が切腹でもして詫びていたら対米戦はもっと早く終わっていたかもしれない」と述べています。

 ハル長官回想
「日本政府が午後一時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間取ってまごまごしていた。だが、野村はこの指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正一時に私に会いに来るべきだった」


参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 国立公文書館 「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)関連資料
  http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
 第二次世界大戦資料館 対米覚書全文
  http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/taibeikakusho.html
添付画像
 真珠湾で攻撃を受ける米戦艦ウェストバージニア(PD)

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大日本帝国の輝かしい歴史

戦後、全否定されたが、よく見れば輝かしい歴史である。

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 「長い三列縦隊の軍艦が三角旗をはためかせ、天皇自身が見守る中、観閲台の前を威風堂々と進んでいったことだろう。中央隊列を行くのは、あわせるとごく短時間で何キロも離れた標的に向けて数千トンの鋼鉄製強力砲弾を舷側斉射する能力を持つ、戦艦十隻と重巡洋艦十八隻であろう。
 中央隊列には戦艦大和が含まれていただろう。世界最大、最重要装備の戦艦で、四十六センチ砲、四十センチの砲塔装甲で、二十七ノットまで速度を上げることができ、世界の主力艦のティラノサウルスである。
    (中略)
 この隊列の後部と殿には、正規航空母艦六隻と軽航空母艦四隻が航行し、それらの堂々たる飛行甲板には、アメリカ軍がすぐに経験することになる何百キロ離れた標的に破壊的空爆を仕掛けることができる数百機もの爆撃機と、その他の戦闘機が上空をうなりあげて飛んでいただろう。それらを操縦するのは空母艦載機の場合と同様、世界で最も厳格に選抜された経験豊富な海軍パイロットたちである・・・」

  これはジェームス・B・ウッド著「太平洋戦争は無謀だったのか」の中で著者が日米開戦を前に天皇陛下の観閲式があったら、と想像して書いているものです。(大和は開戦後に完成したので本当は登場しない) 随分と輝かしい大日本帝国の海軍を描写しています。

 これを読んだとき、米国人が、へえ、と思ったものです。著者は米国ウイリアムズ大学教授で、フランスが専門の歴史学者です。ナチス・ドイツだったらアレルギーがあるのではなかろうか、などと思いました。戦前の日本はナチス・ドイツのファシズムとは異なるということを世界は認識してきているように思います。

  金完燮(キム・ワンソプ 韓国)著の「親日派の弁明」の中で平成13年(2001年)6月、アメリカの「タイム」誌がWEBサイトを通して「日本は過去に行った戦争に対して謝罪しなければならないか」というアンケート調査をしたことが書かれていました。韓国人が大々的に動員をかけて「Yes」をクリックする運動を行いましたが、結果60%以上が、その必要なし、という答えを選択しました。金完燮氏は大東亜戦争が欧州のファシズムとは性格が違うものだったという認識が広まっていると述べています。

 満州の韓国系三世で日本に帰化した比較文化学者の金文学氏は著書「広島人に告ぐ!」で次のように書いています。「アジアで、アメリカをはじめとした西洋文明に、真っ向から立ち向かい、戦ったのは日本人だけです。中国、朝鮮半島、東南アジアの人たちは戦っていません」

「戦争は否定されるべきものですが、実は、すべての事柄に明と暗が存在するように、その中には肯定される面も含まれているのです。例えば、日本軍の進攻によって東南アジアの諸国は西洋の植民地支配から脱することができ、解放した日本軍に感謝しているのです」

金文学氏は満州の瀋陽で生まれ、来日したのが平成3年(1991年)です。中共で生まれ育ったのに大した見識です。

 昨年、アメリカのフーバー元大統領が日米開戦時のルーズベルト大統領のことを「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と言っていたことがニュースになっていました。こうしたものが出てきたとなると更に世界の認識も変わっていくことでしょう。

 いうまでもなく、大東亜戦争は侵略戦争ではありません。自存自衛の戦争であり、白人による植民地支配の打倒という理想がありました。支那事変も日本の侵略ではありません。上海の海軍陸戦隊は2,000名しかいません。大軍で包囲攻撃したのは支那軍です。歴史に対しての謝罪などナンセンスです。われわれの先人が戦った歴史は輝かしい歴史であり、私たち日本人はそれを誇りに思い、世界に対しても堂々としていれば良いのです。



参考文献
 WAC「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著) /  荒木和博・荒木信子(訳)
 南々社「広島人に告ぐ!我々は平和を叫びすぎる」金文学(著)
参考サイト
 「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
  http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n2.htm
添付画像
  1995年にフィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター
      共栄の教え http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message015.htm より
      (「大東亜共栄圏」と記され、日本がアジアを西欧支配から解放したことが描かれている)

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かく戦えり ~ 近代日本史 ~ /戦士よ起ちあがれ!
http://www.youtube.com/watch?v=Pjn2toKjDAw

皇室は質素

西洋の王室の大富豪とは次元が違う日本の皇室。

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 私の妻は皇室は大金持ちで一流のものを食べ、一流のものを身に付け、優雅な暮らしをしている、と思っています。これは大きな誤解ですが、マスコミなどが欧州の王室のような報道の仕方をするから、そう思い込んでしまうのでしょう。

 戦前の皇室は御料地といって全国に土地を持ち、有価証券など莫大な財産がありました。ですが、主に国策会社で不動産も96%は材木を得るための林野でしたから私有財産というより国庫とあまり変わらない位置づけでした。そもそも皇室は無私の存在です。戦後、GHQは財閥などの力を弱めるため一回限りの財産税法を課し、皇室財産も90%は国庫におさめ、さらにGHQ憲法によって資産のほとんどは国に納めました。原則的に皇室には私有財産というものは認められていません。

 皇室のための予算は「宮廷費」「内廷費」「皇族費」があり、宮廷費は宮内庁管理のもと国事行為や儀式、行幸啓、外国訪問、宮殿の補修に使われます。内廷費は天皇および皇族方の日用の費用に当てられ、平成21年度は3億2千万円です。いわゆるプライベートマネーですが、3割は祭祀などの人件費にあてられています。ですので、本当の意味で皇室が自由に使えるお金はさほどありません。昭和天皇は生物関係の研究書を買うときに侍従に「少し高価だが、経費に差し支えなかったら買ってもらいたい」と新聞広告を示して相談されたというエピソードもあります。皇太子殿下(今上天皇)の初等科卒業のお祝いに写真機をプレゼントしましたが「あまり立派なものや高価なものを与えては将来のためにならん」とおっしゃられて宮内庁写真部の中古品を利用したといいます。

 皇室は戸籍がないため、保険にも加入できません。宮内庁病院を利用すれば皇室は無料ですが、最新の医療技術が整っているわけではないので、宮内庁病院で手に負えない病気になると一般の病院で治療するため高額となります。宮内庁病院は老朽化が進んでおり、雅子妃殿下がご出産のために入院されたとき、米紙は「設備がボロボロ」「なぜロイヤルベビーが質素な病院で生まれなければならないのか」と報じたそうです。

 食事もごく普通の家庭料理を召し上がり、食材も御料地の牧場と築地の水産会社から仕入れます。高級食材など購入するゆとりはありません。毒見役というのはいません。侍医や調理スタッフが味付けや栄養素に問題がないかチェックする程度です。御用達制度は悪用、乱用する者が現れたからできた制度で、昭和29年に廃止されています。

 このように皇室は欧州の王室のような大富豪とはまったく異なります。雅子妃殿下がご病気になられたとき、欧州のマスコミは「プリンセスは因襲だらけの皇室に閉じ込められ病気になった。ヨーロッパの王族のようにもっと自由に、週末はヨットで海に出たり、夜はいろいろなレストランやナイトクラブで楽しむことを、日本の宮廷は許すべきだ」などと言い、日本のマスコミが「そうだ、そうだ」と報じるようなことをするから国民の間に誤解が生じるのだと思います。



参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
参考サイト
  WikiPedia「財産税法」「御用達」

添付画像
  雅子妃殿下 平成21年12月23日の一般参賀(PD)

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大日本帝国憲法作成に関わったユダヤ人

大日本帝国憲法もGHQ憲法もユダヤ人がかかわっていた。


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 大日本帝国憲法は伊藤博文らがドイツにいきプロイセン憲法を手本にして作成したものです。伊藤博文はビスマルクに会い、ベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストの講義を受けます。グナイストはローマ法の教授だったことがあり、行政実務の経験もあり、イギリス法にも精通しており、かなりの人物でした。
 グナイストはユダヤ人です。弟子にアルバート・モッセという人がおり、この人もユダヤ人で伊藤への講義はモッセも受け持っています。

 アルバート・モッセは明治19年(1886年)に日本に招かれて4年にわたり滞在しました。モッセは憲法の起草を手伝っただけでなく、市、町、村、郡、府など近代的な行政区画単位を制定するのにあたっても助言して大きな役割を果たしました。

 モッセは日本に魅せられて日本を深く愛するようになります。ドイツ帰国後、以下の詩を書いています。

    私は日本人を心から深く愛する。

    日本の風土を心から愛する。

    まるで、わたしにとっては母国のように思われる。

    日本での仕事は、毎日、忙しかった。

    だが、いつも日本人の笑顔によって囲まれていたから、快かった。

    そして、日本を去る日が巡ってきた。

    日本はすばらしい、身近な、大切な思い出として、片時だに忘れることができない。


 
モッセは1925年に生涯を閉じました。

 第二次世界大戦がはじまったころ、駐日ドイツ大使を務めたW・ゾルフの未亡人が、ベルリンの街でモッセの娘マーサに出会います。ワイマール時代に二人は日本関係のパーティでしばしば顔を合わせていたのでした。マーサはまもなくユダヤ人収容所に送られると語りました。そこでゾルフ婦人はその足で日本大使館を訪れ、マーサとその娘エバを保護するように訴えました。日本大使館はアルバート・モッセのことはよく知っていたので、ドイツ政府に特別な配慮を与えるように要請しました。このためマーサもエバも収容所に送られることなく、日本大使館からの食糧、医療の援助を受け、大戦を乗り切ることができました。

 ちなみに現在のGHQ憲法もユダヤ人が関わっています。ホロコーストを免れるために東京へきていたピアニストのレオ・シロタの娘ベアテ・シロタという人です。作曲家の山田耕作が一家を救い出して日本に招いていました。
  ベアテ・シロタさんは、GHQ民政局に通訳要員として採用され、ホイットニー准将はベアテさんをはじめ25人に9日以内に憲法を作るように命じました。ベアテさんは驚いて途方にくれたといいます。もちろん、骨子は決まっていましたが、細部のところや整合性などはここで共産主義者らが作成した憲法案や世界の憲法をもとにして25人の素人によって憲法が作られたのでした。実をいうとシロタさんはアメリカ共産党員でした。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史 戦後篇」若狭和朋(著)
参考サイト
  WikiPedia「アルバート・モッセ」

添付写真
  アルベート・モッセ(PD)

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