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2013年1月

東京裁判で東條英機の頭をはたいた大川周明

本当に発狂していたのか?

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 昭和21年(1946年)4月から始まった極東国際軍事裁判(以降、東京裁判)では思想家の大川周明も起訴されました。この人は政治家でも軍人でもありません。 法廷で奇声を発したり、東條英機の頭をはたいたことで有名です。梅毒による精神障害と診断され、その後の精神鑑定では異常なしとされましたが、法廷でには戻りませんでした。大川は昭和5年(1930年)ロンドン軍縮会議での日本の弱腰外交を見て、このままでは戦争になる、と予見しており、かなりの見識を持っています。さて、この精神異常は演技だったのでは?という説がありますが、どうでしょうか。

 実は大川は東條英機の頭を2度はたいています。大川は水色の異様なパジャマに素足でゲタをつっかけ法廷に現れたりしています。大川は法廷で「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! “これは茶番だ”)」と叫んだりしています。この行為を「芝居小屋から脱出するため自ら演出して脱出に成功した」と見る人もいます。

 東京裁判で東條英機の弁護をした清瀬一郎は次のように述べています。
「大川君の頭脳が敏感であればあるほど、このショック(裁判で起訴されたこと)は大である。これがため精神に異常を呈することはありうることである。大川君は平素服装には意を用いる人である。パジャマをまとうて法廷に出るということが既におかしい。
(中略)
もともと本質的な発狂ではなかったので、2,3年の療養で治癒することができた。その時は東京裁判が終結していたという偶然の事柄が発生したのではないか。
ある人が帰宅後の大川君に、ああやったのは(東條のあたまをはたいたこと)気が狂ったのではないかと聞いたところ『いや、やっぱりおかしかった。二日酔いのような気分だったね』と答えたと伝聞した」

清瀬一郎弁護人は一時的な発狂だったという認識のようです。

 オランダの判事レーリンクもこの大川氏のことは印象深かったようで、後の回想で以下のように述べています。
「大川は『この裁判は正義の実現ではない、戦争の継続である』といったのだそうです。そういう意見を持つものは正常ではないと医師たちは言ったわけです!個人的には、私は、大川は非常に頭の良い人物だったと確信しています。頭が良すぎて精神の異常を宣告されたのです。彼は裁判の終わりごろに療養所から出てきました。彼は誰よりも頭が良くて、頭が良かったから患者を演じることができたのです」

 レーリンク判事は演技だと見ていたようです。それにしても「正義の実現ではない」という発言が正常ではないと捉えるとは連合国の認識が伺えます。

 東京裁判の速記者の寺戸満里子さんの話があります。
「いきなりパジャマ姿で法廷に現れたり、場違いに飄々(ひょうひょう)とした表情で検察官や裁判官の発言に耳を傾けたり、突然奇声を上げたりしていました。丸メガネ姿は有名ですが、私が見たときはメガネはかけていなかったかな。なんだか背骨が無いタコかクラゲのような、変な動きもしていました」
「私は今でも、『芝居だったのでは』と考えています。だって、すごく頭のいい人だったわけだし・・・どこかに計算があったのではないでしょうか」

 歴史学者の福井雄三氏が大川を診察した主治医の内村裕之博士に会ったことがあり、当時の話を聞いています。
「世間では、大川周明が戦犯の罪を逃れるために仮病で精神病を装い、裁判が終わるとたちまち正気に返った、などと噂されているが、自分が診察した限りでは、あれは紛れもなく脳梅毒の進行麻酔症状だった」

どうやら本当に病気だったようです。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 「新潮45」2009.8『速記者は見た!東京裁判 土壇場の人間学』菊地正憲
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)

参考サイト
 WikiPedia「極東国際軍事裁判」「大川周明」

添付画像
 大川周明(動画より)

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東京裁判 - 東条英機の頭をはたく大川周明
http://www.youtube.com/watch?v=DiXcg36Oa-M

東京裁判で原爆投下を追及したブレークニー弁護人

意外にもアメリカ人弁護人は大活躍した。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判で原爆投下を追及したのは梅津美治郎被告、東郷茂徳被告の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニーで、アメリカ陸軍軍人・弁護士です。彼が原爆投下について言及すると同時通訳が停止したというのは有名な話です。

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している・・・」

 ブレークにーはスチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしました。これにはイギリスの検事コミンズカーが驚き、異議を申し立てます。

コミンズカー「連合国において、どんな武器が使用されたかということは本審理に何の関係もない」
ブレークニー「もし検事がハーグ条約第四をご存知なら、そのうちの陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(注=毒ガス、細菌など非戦闘員にも損害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存知のはずである」

ウエップ裁判長「かりに原子爆弾の投下が戦争犯罪であると仮定して、それが本件の何の関係があるか」
ブレークニー「それに対していはいくつかの返答ができると思う。その一は報復の権利である」(国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復の権利が生ずる)

ウエップ裁判長「しなしながら、報復はこの行動が行われた後に起こるものだ」
ブレークニー「この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されている」

ウエップ裁判長「あなたのいっていることは、議論の余地がある。私はそうは思わないが、原子爆弾が二個投下されたことにより、その後の日本のやった行為のあるものが、正当化されるかもしれない。あなたはハーグ条約第四条が死文化されたということに基礎を置いているようだが、その他の点はどうなるか」
ブレークニー「原子爆弾使用以前のことは、ほかの証拠で立証する。それ以降のことは報復的手段として正当化できると私は主張する」

ウエップ裁判長「それはわずか三週間(8/6から9/2)でも被告のだれかを無罪にすることができるかもしれない」
ブレークニー「三週間の期間にかかるところの検事側の証拠書類は、たくさんあった。たとえばマニラ事件・・・」

 東京裁判ではブレークニーのほか、ローガン弁護人は「日本からまず手を出すように彼ら(連合国)が予期し、希望したとおり、(日本が)自己の生存そのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と述べたり、デービット・スミスという広田弘毅の弁護人が裁判長より尋問の範囲を干渉されたことを不当だと抗議し、法廷を立ち去りました。スミスは以降も「不当な干渉」だとガンとして譲らず法廷には戻ってこなかったものの、法廷の外で広田被告の弁護活動を行い、弁護が終わったとき帰国しています。東條英機の日本人弁護人である清瀬博士はこれらの米国人弁護人は「なかなか気骨があり、場合によればアメリカ自身の過ちでもこれをあぐるに躊躇しなかった」と述べています。

 オランダの判事だったレーリンク卿の回想によると、日本人弁護人は国家の名誉、天皇と日本の名誉を守るために裁判に臨んでおり、米の弁護人は依頼人の個人のためならその他の犠牲やむなしというスタンスだったと述べています。おそらくこうしたスタンスの違いが米国人弁護人の「ズバッ」とした弁護として際立たせたのではないかと思います。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)

参考サイト
  WikiPedia「ベン・ブルース・ブレイクニー」

添付画像
 法廷でのブレークニー弁護人(動画より)

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大東亜戦争は戦争犯罪ではありません
http://www.youtube.com/watch?v=kd96pZzEKEM

東京裁判で捏造された南京虐殺

南京虐殺をデッチ上げ、松井石根は死刑にされた。

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 作家の早坂隆氏は中共の南京へ行き、南京大学のキャンパスに近い料理店の一席で学生に「松井石根は日本陸軍きっての『日中友好論者』だった」と言うと、学生は「それは信じられない。日本人はもっと歴史を学ぶべきだ」と返してきたといいます。松井石根(まつい いわね)・・・昭和12年(1937年)の第二次上海事変から南京戦にかけて方面軍司令官だった人です。戦後、東京裁判で「南京大虐殺」の罪で死刑となりました。

 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わっていました。OSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。戦後、連合国はナチス・ドイツのユダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出来ると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環としてOSSが任されることになります。

 その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当でマルクス主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を内部から破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたもので、日本を破壊し、共産革命をおこすためのものです。

 GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年(1945年)12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」というプロパガンダ記事として前もって作られていたものでした。
 この南京虐殺のもととなったのは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。

 東京裁判では南京虐殺を陳述しても証人が出廷せず、反対尋問が行えないような証拠が多量に採用されました。しかし、さすがにナチスのような共同謀議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。逆に、松井石根は軍紀を厳しくするよう命令を出しています。検察側もこれには参り、司令官だった松井石根の訴因第1から第54までは無罪とし、第55(俘虜および一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)のみ有罪として死刑としたのです。

 松井被告に対して多数判決は「・・・これらのできごとに対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。

 南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
 東京裁判の南京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられ、松井石根は死刑になったのです。




参考文献
 「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
参考サイト
 WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
 松井石根(PD)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

東條英機の素顔

東條英機はどういう人だったのか。

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 日米開戦時の総理大臣だった東條英機は戦後、戦犯指名を受け、自殺を試みますが、未遂に終わっています。このとき、頭を撃たずに胸を撃ちました。このため色々な憶測が飛びましたが、連合軍が遺体を写真にとったり醜い姿を世間に示すであろうから、向かいに住んでいた鈴木医学博士に相談し、心臓を撃つ事として心臓のところを墨でしるしをしてもらっていたものでした。しかし、東條英機は左利きだったため左で左からの心臓は撃ちにくく、右で撃ったためわずかに心臓をそれて未遂になりました。

 東條英機はこの後、横浜の米野戦病院で治療を受け、大森の収容所に入れられます。巣鴨プリズンはまだ建設中でした。このとき、陸軍軍曹だった飛田時雄さんはC級戦犯で収監されており、収容所の掃除係りになっていました。東條英機の部屋の掃除のとき、東條英機は部屋の外で待機し、掃除が終わると「ありがとう、ご苦労様」とねぎらいの声をかけてくれたといいます。他の閣僚クラスや軍幹部クラスの人はそのようなことはなかったそうです。

 飛田さんは収容所の風呂に入っていたとき、嶋田元海相が「君、ちょっとすまんが閣下を一緒に入れてやってくれんか」といわれ、すぐ同僚を呼んで二人で両脇を抱えるようにして東條英機を風呂に入れています。東條英機は病み上がりでまだ足元がおぼつかない状況でした。そして背中を流そうとすると、背中に500円玉大の傷跡が残っていました。自殺未遂のときの弾が貫通した痕です。東條英機はここでも「いやすまん、君、すまん。ありがとう」と謝礼の言葉を述べ色々と励ましの言葉をかけてくれたといいます。

 この後、巣鴨プリズンに移ることになり、飛田さんは東條英機に記念の言葉を書いてください、と頼み「一誠排萬艱」と書いてくれました。「一誠、万難を排す」・・・単純に読めば誠を貫けば難はない、ということですが、これから始まる東京裁判で信念を貫き通すぞ、という心情でしょうか。巣鴨プリズンでも飛田さんは東條英機としばしば顔をあわせ「飛田君、これえ吸ってくれんか。毎日もらうので、余って困る」といって時折、タバコをもらったといいます。

 東條英機という人は一個の人間に対しては非常に優しかったといいます。心が優しく気配りの人で首相時代は多忙な一日が終わると漫才師や講談師や歌手を官邸によび側近たちを慰めていました。「満州の甘粕」と言われた甘粕正彦元大尉が次のように語っています。

「東條さんは自分からは冗談一つ言えない律儀な人で、それが却って世間には誤解されているんだな。本当は心が優しくて、気配りの人なんだよ。東條さんは多忙な一日が終わると、よく漫才師や講談師、歌手を官邸に呼ぶんだ」

 歌手の高峰三枝子が東條らの前で「湖畔の宿」を歌ったことがあります。そのときのことを高峰三枝子は戦後、テレビで次のように語っています。
「私は戦時中、内地、外地の兵隊さんの慰問によく出かけましたが、特攻基地の若い隊員さんから一番リクエストが多かったのがこの歌でした。
 それに私、東條さんの前でも『湖畔の宿』を歌ったことがあるんです。唄い終わったとき、一番大きな拍手をしてくれたのが東條さんです」

 山の寂しい湖に
 ひとり来たのも悲しい心
 胸の痛みにたえかねて
 昨日の夢と 焚き捨てる
 古い手紙の 薄煙り

 昭和18年(1943年)、ビルマの行政府長官のバー・モウ、ビルマ国防軍司令官アウン・サンが来日し、東條英機と会談しましたが、このときのエピソードでアウン・サンが下手な日本語でダジャレを言った時、その席にいた日本人は誰も笑わなかったのに、東條英機が一人、その駄洒落を受け取って大きく笑ったといいます。これも東條英機が気配りの人であったことがよくわかるエピソードでしょう。

 戦後は東條英機は「独裁者」だったという誤った批判が行われ、日米戦争を「最初から無謀だった」「自殺行為だった」と結果から導き出したプロパガンダが生まれ、その責任を日米開戦時の首相である東條英機に押し付けてしまっています。そして人間・東條英機というものは隠蔽されていました。このような言論は健全とは言えないでしょう。人間・東條英機、そして大東亜戦争は最初から無謀だったのか、という点検が必要であるように思います。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
  角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
  WILL2010.1 「私が獄中で見た東條さんの背中の傷跡」岡村青
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
添付画像
  東条英機と、妻の勝子、孫の由布子(昭和16年 PD)

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元首相から戦争を知らない日本人へ 1 http://www.youtube.com/watch?v=y_McUDz1v04



元首相から戦争を知らない日本人へ 2 http://www.youtube.com/watch?v=2H63kaj_4ac

百人斬りというウソ

嘘は明白。

S19371213



「ちょっと待てよ、」


 これは昭和46年(1971年)11月5日「朝日新聞」に掲載された本多勝一「中国の旅」に南京事件における「競う二人の少尉」の百人斬りのくだりについて、ノンフィクション作家の鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」という著の最初に書いた言葉です。

 百人斬りとういのは二人の日本陸軍将校に、ある上官が殺人ゲームをけしかけたというもので、南京郊外の句容から湯山までの数十キロの間に百人のシナ人を先に殺した方に賞を出そう・・・という話です。これが真の話のように朝日新聞が書いており、鈴木氏でなくても誰でも「ちょっと待てよ」といいたくなるような話です。ドイツ式の最新装備の支那軍に日本刀で立ち向かうわけですから。

 この話は昭和12年(1937年)11月30日の朝日新聞で、向井少尉と野田少尉の百人斬り競争の記事が載った事から始まっています。もともとは戦闘中の話だったのが伝えられていくうちに平時の話であるとか上官命令があったとか、三ラウンド繰り返されたとか、どんどん拡張していきました。この元の記事は浅海一男記者が書いたものですが、浅海記者は自身が取材したものではなく、光本記者が取材したものを載せたことになっています。

 東京日々新聞 佐藤振寿カメラマンの回想
「私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田のほうは当番兵が向井が斬った人数を数え、野田のほうは向井の部下が数えると(浅海記者)が言っていました。よく聞けば野田は大隊副官だから、支那兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです」

 しかし、向井少尉と野田少尉は南京裁判で有罪となり処刑されてしまいます。向井少尉は戦後、養子になっており、姓が変わっていたため、警察が向井少尉を捜しあてたとき「姓も違うし、もし、本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に勧めましたが、向井少尉は「僕は悪いことはしていないから出頭します」と言って出頭してしまいます。
 裁判で浅海記者が「ウソでした」と証言すればよかったのですが、浅海氏は「向井、野田両氏より聞き取って記事にした。現場は見ていない」「両氏の行為は住民、捕虜に対する残虐行為ではない」と肝心なことを証言しなかったため「反証を提出できなかった」として死刑となりました。

 南京軍事裁判向井敏明他判決主文
「向井敏明・野田石(毅)・田中軍吉は、戦争中捕虜および非戦闘員に共同で連続して虐殺を行った。よって各人、死刑に処すものとする」

 百人斬りについては本多氏、山本七平氏らが論争をしましたが、本多氏は「捕虜の据え物斬りを競争したのだ」と何の証拠もなく主張をずらしました。
 平成15年(2003年)、野田・向井の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損で朝日、本多氏らを訴えましたが、裁判所は「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」として違法性はなく、原告の主張を棄却しました。どう見ても一見して明白に虚偽です。おかしな裁判です。




参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
  青木書店「南京事件資料集 中国関係史料編」南京事件調査研究会(編訳)
参考サイト
 WikiPedia「百人斬り競争」

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 1937年12月13日東京日日新聞(PD)

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ウ将軍をなぐらなかった男

BC級裁判もデタラメ。

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 東京裁判の弁護人を務めた清瀬一郎博士は東條英機の弁護人でしたが、BC級戦犯で逮捕されたA中尉の無実証明に一役買っています。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。

 BC級というのは極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士らです。ABCは罪の重さではありません。BC級戦犯として起訴された中にA中尉がいました。A中尉は台湾の俘虜収容所にいた米軍のウェーンライト将軍を殴ったということで起訴されていました。俘虜収容所でブタか何かを飼う仕事が将軍に割り当てられましたが、将軍は老兵であり、そんな仕事をしたことがない。監視兵がもどかしがって、将軍の顔をピシャリとやったというものです。

 清瀬博士はA中尉はからの切々たる訴えによって巣鴨に出向き面会します。
A中尉「自分は台湾で俘虜監視の仕事にたずさわったのは事実であるが、ウ将軍を殴ったという事実はない。これは人違いか何かだ。このことを米軍調査官にふたたび三度訴えたが、取り上げてもらえない。このまま私は無実の罪で死ななければならないのであろうか」

 清瀬博士はA中尉と面会していてあることに気がつきます。A中尉は右手が無いのです。戦闘でやられて失ったため、俘虜の監視の仕事に回ったのでした。そこで同じ弁護人のブルーエット氏の名前でウ将軍に手紙を出してもらいます。将軍の顔面を殴ったとすればそれは右頬であったか、左頬であったか?ウ将軍からの返事は左頬を相手の右手の手のひらで強打された、というものでした。右手がないのに右手のひらで相手の左頬は叩けません。これでA中尉の無実が証明され、釈放されることになりました。

 これはめでたし、めでたし、というお話ですが、BC級戦犯と呼ばれる人の中には無実の罪で刑を受けた人は多かったと思われます。国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多いといいます。

 各国、各地より戦犯として証拠のあげられるものを集めて戦争犯罪局というところが、リストにしていましたが、もとが聞き取り調査などで不正確のものが多く、結構デタラメなものでした。リストは以下のように記述されました。

「フクダ、兵、マニラ、1943年5月(5フィート7インチ、160ポンド、左腕上部、肩のすぐ下に半ば削り取られた入墨、左上の第三歯に金冠、しゃがれ声、頬にかすかな傷)」

「カラジュウチ、ロス、ビノス飛行場、1943年9月~1944年9月(身長5フィート7インチ、体重170ポンド、ゴリラのような身体つき、黒髪、頬骨高く赤ら顔)」

とまあ、こんな感じです。中には「イワサ、マオジ、真珠湾」と特殊潜航艇で戦死した岩佐中佐まであげられており、何かの名簿を書き写しただけではないか、というような杜撰さです。

 BC級戦犯約5,600人が各地で逮捕投獄され、横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約千名がインチキ軍事裁判の結果、死刑に処されました。これは虐殺行為です。



参考文献
  中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
  新潮社「創られた東京裁判」竹内修司(著)
参考サイト
  WikiPedia「BC級戦犯」
添付画像
  巣鴨プリズン(PD)

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東京裁判を傍聴し、日本人の光を見た人

最後まで戦った日本人の姿があった。

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 以前、雑誌「正論」に神奈川県の白鳥誠一さんという方が東京裁判に傍聴に行ったときのことを寄稿されていました。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。白鳥さんは東京裁判で清瀬弁護人が「国際法、国際慣行に照らして、当法廷で戦争犯罪人を裁く権限はない。しかも日本は自存自衛のために戦ったもので、起訴状に該当するものがなく全員無罪」と弁じた姿を鮮明に記憶していると述べています。

 白鳥さんは物事には「光」と「闇」が表裏一体となっていて、古今の歴史は常に勝者の歴史観で綴られ、敗者にも光があることを抹殺されてしまうと述べて検閲によって東京裁判は正しいと日本人は洗脳された言っています。白鳥さんは清瀬博士は「日本人の光」と気づき、「日本国の日本人」を意識して今日まで過ごすことが出来たと述べています。
 白鳥さんは非常にいい機会に恵まれ「光」を見たと言えます。しかしながら多くの日本人は「影」ばかり見せられたばかりか捏造と歪曲の事実を刷り込まれ日本人として誇りを失ってきていると思います。

 清瀬一郎弁護士(「秘録・東京裁判」より)
「この裁判の最中に、毎日流されていった法廷記事なるものは、半分は嘘であった。司令部が新聞を指導し、いかにも日本が悪かったのだ、日本軍人は残虐行為ばかりをしておったのだと、日本国内はむろんのこと、世界のすみずみにまで宣伝した。しかもわが方としては、これに対抗する手段は封ぜられていた。判決は下されても、判決批判はいっさい禁ぜられていた」

「それゆえ、世間では日本の旧軍人は、戦時中敵国俘虜の虐待や婦女の陵辱ばかりしておったのかしら、日本政府は強盗やギャングのような侵略戦争の共同謀議ばかりしておったらしい。マッカーサーは偉い。マッカーサーのおかげで、天皇陛下は戦犯ともせられず、お助かりになったのだ、というような感想を深く国民に植え付けてしまった。ほんとうは、かかる感想は大いにあやまっておるのだが、しかしこれが誤解だといっても、今では世間は信用しない」

 我々は東京裁判で捏造されたウソの歴史を次の世代には残すべきではありません。誇りある歴史、清瀬博士のような毅然とした日本人がいたことを伝えたいものです。

 東京裁判弁護側冒頭陳述「結語」より
「われわれがここに求めんとする真理は、一方の当事者が公然と正しく、他方が絶対不正であるということではありませぬ。人間的意味における真理は、往々人間の弱点に包まれるものであります。われわれは困難ではありませうが、しかし、公正に近代戦争を生起しました一層深き原因を探求せねばなりませぬ。平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるものであろうか、資源の不公平配分により来るのであろうか、関係政府の単なる誤解に生ずるのか、裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲、また貪婪(どんらん)にあるのであろうか、これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。
 起訴状によって示されたる期間中の戦争ないし事変の真実にして奥深き原因を発見することにより、被告の有罪、無罪が公正に決定されるのであります。これと同時に、現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するでありましょう」



参考文献
  産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
添付画像
  極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷大法廷(PD)

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プライド~運命の瞬間~ 特報・予告編 ・・・日本人すべてがこの映画を見るべき http://www.youtube.com/watch?v=PaHw8Vq69-Y

狂気が先行した東京裁判

東京裁判は文明の裁きではない。

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 昭和20年(1945年)日本敗戦後、東京裁判が行われました。正式には「極東国際軍事裁判」と言います。昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われました。戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。

 東京裁判では昭和天皇は訴追されていません。これは天皇・マッカーサー会談で連合国最高司令官マッカーサーが昭和天皇の態度を見て感激し、天皇を残すことを決めたという話があります。そういう部分はあったと思いますが、実際はOSSというアメリカ戦略情報局によってほぼ決まっていた規定路線だったことがわかっています。マッカーサーはこれに従っているだけです。天皇を利用して日本統治を進めようとしたのです。

 しかし、ソ連とオーストラリアは昭和天皇を裁くべきと主張しました。ソ連は日本国内を混乱に落としいれ共産化したかったと思われます。オーストラリアは人種差別的意識からではないかと思います。ウェッブ裁判長(豪)も同調していました。

 オーストラリアは昭和21年(1946年)1月に62名の戦犯リストを提出しています。この中に昭和天皇の名前がありました。これにはオランダ、ベルギー、ニュージーランドが同調し、イギリス、中華民国、ノルウェーは反対しています。

 この前年の昭和20年(1945年)11月に米国の統合参謀長会議はマッカーサーに極秘通達を送っています。

「天皇は戦争犯罪人として逮捕、裁判、処罰から免れていない、というのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行し得ると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう」

 規定路線として天皇を利用して統治を進めるものの、それが軌道にのれば天皇訴追を考えてもいいのではないか、というものです。しかし、マッカーサーは東京裁判に対してかなりの部分で否定的だったので、オーストラリアが天皇を訴追すべきとしたとき「そのような証拠は何もない」とし、「もし天皇を裁判に付そうとすれば、占領計画に大きな偏向を加えなければならず、占領軍の大幅増強が絶対不可欠となるだろう。最小限にみてもおそらく百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」と反論し、この議論には終止符がうたれました。

 これらの話もドイツを裁いたニュルンベルクの憲章自体も、それを東京裁判に持ち込んだりするのも、この頃は文明とは思えない狂気が先行していたと感じますが、意外にもマッカーサーはこの点では比較的冷静だったようです。

 東京裁判の判事・インド法学者パール博士は「パル判決書」というのを書き上げています。日本語に訳して88万5000字あまりの大文章です。堂々と「日本無罪」を主張した「パル判決書」は次の言葉で締めくくられています。

 時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
 また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、
 そのときこそ、正義の女神は、
 その秤を平衡に保ちながら、
 過去の賞罰の多くに、
 そのところをかえることを要求するだろう。

 われわれ日本人はあの東京裁判が正義はあったのか。パール博士の言葉に耳を傾け、東京裁判とは何だったのかを正しく後世に伝えて行かなければなりません。




参考文献
 新潮選書「創られた東京裁判」竹内修司)(著)
  中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
  裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂(PD)

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東京裁判は梅毒のようなもの

反日国家による歴史攻撃の元凶。

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 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は東京裁判は梅毒のようなものだ、と述べています。東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。

 渡部氏は靖国に関する支那問題、教科書問題、同じ問題がその時々で問題化するたびに、問題自体がより悪質化し、根が深くなっていると述べています。この「だんだん悪質化する」ことを例えるのに「梅毒」という例を挙げています。梅毒はまず硬いしこりや発疹ができますが、自然に消滅します。3ヶ月ほどして発熱から関節痛、全身発疹等の症状が出ます。3年後、全身に硬いコブのようなゴム腫が現れ、10年以上放置すると中枢神経が冒され死に至ります。

 東京裁判は言うまでもなく、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法であり、偽証罪もなく、管轄権もありません。インチキ裁判です。

 日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を受け入れたというのはウソで、諸判決(Judgments)を受け入れたのであって、裁判を受け入れたわけではありません。そしてサンフランシスコ条約は判決を停止できる条件があり、日本はこれに基づいて諸判決を廃止しました。どこの国からも文句は言われていません。昭和28年(1953年)の特別国会で改正遺族援護法が成立し、東京裁判で戦犯とされた人も通常の戦死者として扱うことを社会党、共産党を含む全会一致で決定しています。

 しかし、戦後の公職追放によってできた空席に共産主義者が潜入し、梅毒を撒き散らしていきました。具体的には敗戦利得者である政治家、朝日新聞をはじめとするマスコミ、日教組といった教育界が撒き散らしていきました。渡部氏はこの梅毒を根治するために三段階にわたる治療の提案を行っています。

1.独立回復記念日を制定すること(4/28)
 日本に独立がなかったときがあったことを国民がよく知るというもので、国旗も国歌斉唱もできなかった。主権がないときに憲法が作られた。そして東京裁判が行われた。

2.東京裁判の実体を国民がよく知ること
  前述したような事後法で裁かれたこと、偽証罪もなく、管轄権もなかったことなど。

3.マッカーサー証言を日本に知らしめること
 昭和26年(1951年)の米国議会乗員の軍事外交合同委員会の答弁です。
「日本は絹産業以外は国有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

 最近、このマッカーサー証言を学校教育に取り入れているところがあると聞きます。日本人はすべて知るべきでありましょう。この梅毒はわが子の世代までには絶対に根治しておきたいものです。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  WAC「日本は侵略国家だったのか 『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
参考サイト
 msn産経ニュース 「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm
添付画像
  サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団(PD)

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東京裁判が創られた経緯

偽善欺瞞、文明の抹殺、それが東京裁判。

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 昭和20年(1945年)8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは厚木飛行場に降り立ちました。そして横浜のホテルに着くと対敵諜報部長のソープ准将を呼びます。

「東條を逮捕させ、監禁させろ!ただちに戦犯名簿を作成せよ!」

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は戦勝国が作った事後法によって裁くというインチキ裁判ですが、意外なことにマッカーサーは「事後法」の発想などなく、宣戦布告なしに戦争を開始した行為など戦時法や国内法が念頭にあり、その後も「平和に対する罪」「人道に対する罪」には反対していました。つまりマッカーサーの意思に反してワシントンからの指示があったということです。

 昭和20年(1945年)11月7日マッカーサーから副参謀長に命じて作らせたメモランダムの一部
「もし我々が『戦争犯罪人』というはっきりしない表現の下に誰かを捕らえ監禁しながら、裁判なしに釈放してしまうような結果となったら、後世から見て擁護のしようもない立場に置かれかねない。現在の国内、国際規約に反するような行動は、将来にとっての危険な先例となりかねない・・・」

 昭和19年(1944年)に入って、米国では戦争勝利後を見越して「戦後委員会」を組織。このときに日本に課すべき条件として戦争犯罪を犯したとするものを逮捕することが述べられます。しかし、「戦争犯罪」は定義されていませんでした。一方、ナチスに対しては「共同謀議」という概念を取り入れ、裁判なしに即刻処刑することが提唱されています。この後、「極東小委員会」が立ち上げられ、対日政策はこの小委員会が具体案を練り、三省調整委員会(SWNCC)と大統領の裁可を経て連合国最高司令官に指示する形をとっていきます。
 昭和20年6月から8月にかけて「ロンドン会議」が開かれ、「ニュルンベルク裁判」の憲章が定められ、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が定義されます。ここで極東小委員会の議論の中に以下のようなくだりがあります。

「極東では、ナチスのユダヤ人に対する行為のような組織的迫害は存在しなかった。日本の従属国に対する政策は、奴隷化や絶滅を究極とする征服や人種優越を指向するものではなく、少なくともある部分は『白人の搾取』からの『解放者』で、『護民官』としての日本に対する忠誠の絆によってすべての極東アジア人を結束させようと努める政策を指向していた」

 ほう、米国が、と思います。少なからず普通の常識的認識です。しかしながらこの後は強引にニュルンベルクと同様の採択がとられます。政治的な動きがあったと思われます。これに対してマッカーサー配下の法務担当者は「厳密には、戦争犯罪としては知られていなかった行為を含めることはヨーロッパにおける合意(ロンドン会議を指す)の革命的な特徴だ」と皮肉っています。こうして東京裁判は創られました。

 C・A・ウィロビー将軍(米GHQ参謀第二部長)
「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。日本がおかれていた状況と同じ状況におかれたならば、アメリカも日本と同様に戦争に訴えていたに違いないと思うからである」

 東京裁判判事・インド法学者パール博士
「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時に殺戮した昔のわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである」

 東京裁判は欺瞞と偽善、そして文明の抹殺だったのです。



参考文献
 新潮選書「創られた東京裁判」竹内修司(著)
 新潮45 2009・9「東京裁判はいかに創られたか」竹内修司
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
  WAC「日本は侵略国家だったのか 『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
添付画像
  ダグラス・マッカーサー(PD)

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日本兵がマッカーサーに敬意を表して背を向けて立っていた。
http://www.youtube.com/watch?v=vuB1n6JcTgI

マスターズ・カントリーがない日本

高い文化資本がその秘密だった。

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 「一度も植民地になったことがない日本」の著者、デュラン・れい子さん(アーティスト)はオランダのアムステルダムの画廊で版画の個展をやったとき南米のスリナムというオランダの植民地だったところから来た掃除係の女性にこう聞かれました。

「私は日本について何も知りません。日本のマスターズ・カントリーはどこなんですか?」

 れい子さんは何のことかわからずキョトン。マスターズ・カントリーは支配していた白人の国のことですが、日本人としてはすぐには何のことかわからないでしょう。スリナムの女性はオランダに来るまでアーティストとうい職業があること知らなかったといいます。先進国以外の国は食べることが優先で、そのような職業は公認されていないのでしょう。れい子さんはスリナムの女性は同じ有色人種なのに、なぜ日本人はマスターズ・カントリーが無く、白人らと同等に生活ができるのか不思議に思ったのではないか、と述べています。オランダでは外国からの労働者、特に旧植民地から働きに来た人をオランダ国籍の取得有無を問わず「ゲスト・ワーカー」と呼びます。でもキャノンやトヨタで働く日本人はそう呼ばれません。

 メキシコのチャバスというマヤ文明の名残のある街があります。もともとの住民はスペイン人によって男は皆殺しにされ、女は強姦され、メスティーソという白人とラテンアメリカの先住民の混血がほとんどになってしまいました。純粋なマヤ族の女性は「なぜ先祖はスペイン人と結婚しなかったのか」と言って恨んでいるといいます。メスティーソなら都会に出れたのに、と。メスティーソはスペインに行くと「父の国に来られた」と喜ぶそうです。植民地になり、文明を抹殺されるということはこういうことなのです。

 白人の植民地だった国は今は独立したとは言え、まだまだ発展途上国の地位は低いものです。日本人が他の有色人種と異なり、白人と肩を並べて渡り合えるのは明治維新以降、近代化を遂げ、独立を維持し、白人を相手に日露戦争、大東亜戦争を戦い、敗れても経済大国になったからです。

 日本の近代化がなぜ成功したのか?比較文化学者の金文学氏(満州の韓国系三世 日本に帰化)は日本の文化資本の強さをあげています。知識、知性、教養、マナー、伝統的なものを指し、それは社会資本よりも強いというものです。明治期の識字率は50%を超えていました。それは当時の世界最大の国、イギリスの20%を超えていました。ジャポニズムブームを起こした精錬された美、こうした高い文化資本を持っていた国だから西洋文明を吸収していくことが可能であったといいます。

 元自衛隊一佐の池田整治氏の父は軍人で、日本敗戦後シンガポールに抑留されました。イギリス軍との交渉の席上、部下に清書するようメモを渡すとイギリス軍将校が「日本の兵隊(下士官以下)は文字が書けるのか」と質問してきました。池田氏の父は「日本人なら誰でも読み書きソロバンはできる」と答えるとイギリス人たちはびっくりしました。池田氏の父は「部下を無事に日本に連れて帰れば日本は必ず復活する」と確信したといいます。日本の高い文化資本に気がついたわけです。そしてその通り日本は廃墟から立ち上がり経済大国となりました。

 こうした日本の高い文化資本は一朝一夕にできたものではなく、我々の先人が2600年もの年月をかけ育ててきたものです。そのお陰で日本はマスターズ・カントリーを持たない稀有な国として現在の地位にいれるわけです。われわれは先人に感謝しなければなりません。



参考文献
 講談社α新書「一度も植民地になったことがない日本」デュラン・れい子(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之共(著)
 南々社「広島人に告ぐ!我々は平和を叫びすぎる」金文学(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)

添付画像
  鈴木春信の絵(PD) 江戸時代、日本の識字率は高かった。

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先人たちの創り上げた国、日本
http://www.youtube.com/watch?v=y-gK3jT0bNU

日本なかりせば

日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。

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 昭和30年(1955年)、アジア・アフリカ二十九カ国が集まり、バンドン会議が開催されました。日本は招待されました。敗戦後間もない日本でしたから慎重論が多かったのですが、高崎達之助経済審議庁長官や外務省参与の加瀬俊一氏らが出席しました。加瀬氏は日本はいいこともしたけど、わるいことをしなかったわけじゃないので、あまり気が進まなかったと回想しています。ところが、日本は大歓迎を受けました。

「よくきてくれた!」
「日本のおかげだ!」
「日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった!」
「大東亜共同宣言がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた」
「アジア民族のために日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く」

 平成17年(2005年)、バンドン会議50周年を記念して開かれたアジア・アフリカ会議・小泉首相(当時)は次のように演説しました。
「わが国はかつて植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」・・・まったく的外れな演説をしたものです。

 平成4年(1992年)10/14 香港にて マレーシア マハティール首相のスピーチの一部
「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
 もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」

 このマハティール首相の演説は暗に大東亜戦争のことも含まれています。この演説を聞いた白人は怒って席を立ち会場を出て行った人もいたといいます。
 マハティール首相は「ルック・イースト」政策(日本を見習え)を実施し、東アジア経済会議(EAEC)を提唱しており、この「日本なかりせば」演説はアメリカをを警戒させました。クリントンの圧力によって河野洋平が走り回り、「白人も華僑も入れよ」などとほざきました。

 平成6年(1994年)にマレーシアに訪問した村山富市首相(当時)、土井たか子衆院議長(当時)は型どおり謝罪するとマハティール首相はこう述べました。

「日本が五十年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ」
「日本に対して今さら戦後賠償を求めるようなことは、わがマレーシア国民にはさせない」

 このマハティール首相の言葉に村山総理は何の言葉も返せませんでした。しかも村山総理はシンガポールで華僑ゲリラの慰霊碑に謝罪を述べています。死者に対して慰霊するのは構いませんが、違法であるゲリラに謝罪するなどキチガイ行為です。東南アジアは華僑を追い出すのに多大な苦労してきており、ゴキブリのように侵入してくる華僑をブロックしたい思いがあります。

 マハティール氏
「日本は、いつまでアメリカの言いなりになり続けるのか。なぜ欧米の価値観に振り回され、古きよき心と習慣を捨ててしまうのか。一体、いつまで謝罪外交を続けるのか。そして、若者は何を目指せばいいのか。日本人には、先人の勤勉な血が流れている。自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」

 麻生元総理は日本がリーダーシップをとる「自由と繁栄の弧」を主張しました。ところが、3年前半の政権交代で鳩山総理(当時)はシナ様を盟主とする東アジア共同体構想を出してきました。小沢幹事長(当時)が人民解放軍野戦司令官になるというのですって???

 「ルック・イースト」政策から30年。もはやマレーシアでは日本から学ぶものは「先端技術」のみであるという声さえ聞かれます。昨年末、新政権が誕生し、日本は新たな門出を迎えました。再び立ち上げれ、ニッポン!



参考文献
 桜の花出版「アジアが今あるのは 日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
 WAC「自らの身は顧みず」田母神俊雄(著)
 小学館「アジア人と日本人」大前研一(著)
 オークラ出版「反日マスコミの真実2010」『誰のための東アジア共同体か』高山正之
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
 読売新聞10月31日朝刊「マレーシア『日本流』岐路」
参考サイト
 「日本なかりせば」演説
   http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/maha.htm
 WikiPedia「マハティール・ビン・モハマド」

添付写真
 マハティール・ビン・モハマド(PD)

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江戸時代の天皇と庶民

江戸時代、天皇は庶民にとってどのような存在だったか。

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 江戸時代は「将軍」がいた時代ですが、庶民は「天皇」をどれほど意識していたのでしょうか。

 天皇は京都御所にいらっしゃいましたが、臨時、恒例の儀式や行事の際、庶民でも禁裏御所の中に入ることができました。恒例では「節分」、一月の「後七日御修法」「左義長」、7月の「禁中御燈籠」、12月の「御神楽」があります。臨時では「即位礼」「御能」、亡くなった人の法要にあたる「御懺法講(おせんぽうこう)」「御八講」などがあります。「即位礼」のときに庶民が御所に入れたとは驚きで、かなりの人が詰めかけたと記録に残されています。「節分」では「来る正月内侍所え参詣人の儀、元日昼八つ時より七つ時までのうち参詣いたし候ように申し聞くべき事」というお触れが出されており、禁裏御所内が時間を限って開放され、かなり混雑するほどの参詣人だったようです。このほか、牡丹拝見や御能拝見でも庶民は御所の中に入ることができ、地方から上京してきた人々も地下官人そのほかの手ずるを使って御所を拝見することが可能でした。御所は民衆に閉ざされた空間ではなかったわけです。

 職人は「受領名」というのを持つことができました。例えば神社の銅製の燈籠の後ろ側には「従五位下越後守藤原為次」というように国名に「守(かみ)」「介(すけ)」などが刻まれているのがそうです。刀鍛冶で「和泉守兼定」が有名でしょう。筆師や絵師、小細工、などなどいろいろな職人が受領名を持っており、明和5年(1768年)には1088名の職人が受領名を持っていました。これは朝廷に申請し、関白が内覧して、天皇の裁可を得ます。ただ正規な手続きを経ないで受領名を名乗る職人が多かったようです。

 暦の作成は古来より天皇・朝廷が行うべき国家事業で唐の宣明歴がずっと使われ続けましたが、天文学者の渋川春海が授時暦を研究し朝廷がこれを採用し、貞享元年(1684年)に改暦を宣下しています。この後、暦作成の実権は幕府に移りますが、形式的手続きは朝廷に残されています。農村では伊勢の御師が配った「伊勢暦」が使われており、それには当然元号が書かれています。改元のときは「年号改元之儀京都より仰進められ、文化予(と)御治定遊ばされ候。右之趣公儀より仰出られ候間」というふうにお触れが出されました。京都の朝廷と江戸の幕府ははっきり区別されていました。

 天皇・上皇や将軍・大御所が死去すると「鳴物停止令」「普請停止令」というのが出され、歌舞伎音曲や建築土木の大音響が一定期間(7-50日地域差あり)止められました。お触れはただちに全国津々浦々に届いています。もちろん琉球にも届いており、天皇崩御の際は日本全国で喪に服しました。

 外国人の観察でも天皇は庶民の尊敬を受けていたことがわかります。

 オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」

 百姓一揆では天皇と百姓の関係が明らかに意識されました。「姓」は天皇から与えられるもので、「百姓」は多くの「姓」という意味で公民の総称です。直接天皇に徳政や年貢減免を訴えた一揆も多く、文政4年(1821年)の一揆で逮捕された林八右衛門の「観農教訓録」に、「然れば上御一人より下万人に至るまで人は人というに別はなかるべし」と「天皇のもとの平等」を訴えています。

<嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆>
 百姓どもカラカラと打ち笑い、
 汝等百姓などと軽しめるは
 心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、
 士農工商天下の遊民
 源平藤橘の四姓を離れず、
 天下の庶民皆百姓なり、
 其命を養う故に
 農民ばかりを百姓というなり、
 汝らも百姓に養るなり。
 此道理も知らずして
 百姓杯と罵るは不届者なり

 天下の庶民みな百姓、おのれら武士の命をも養っているのだ、カラカラと笑っているところが記録されています。農民は天皇の権威のもと強い存在でした。

 江戸幕府が倒れ明治の時代になると、武家の頭領である「将軍」がいなくなったわけですから、祭司王である「天皇」が軍服も着なければならなくなりました。この新しい天皇の姿、大君の姿は江戸庶民には捉えにくかったかもしれません。明治5年(1872年)、新橋・横浜間鉄道開業式に向かう天皇の馬車を見物する人々を見て、イギリスの画家・漫画家のワーグマンは「畏敬の念を持つ様子もなく、ただじろじろ見ているだけだった」と自ら書いた絵に解説を入れています。それから18年後、フランス人の画家・漫画家ビゴーが明治23年(1890年)の内国勧業博覧会開会式に出席する天皇の馬車が到着した絵を書いています。これには威儀を正して見ている庶民の姿がうかがえます。この頃になると憲法も発布され、近代国家の元首としての「天皇」という意識が浸透してきたようです。



参考文献
 講談社「江戸時代の天皇」藤田覚(著)
 SAPIO 2009/11/11「天皇論追撃編」小林よしのり
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「ビゴーが見た明治ニッポン」清水勲(著)

添付写真
 第11代 霊元天皇像(泉涌寺蔵)(PD)

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謹賀新年

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


(c) .foto project


 当ブログは歴史を中心に書いております。歴史を書くきっかけとなりましたのは、私自身が学校教育で教えられた歴史やマスコミが報道する歴史認識はおかしいと気付き、そして自分で調べてみて、日本の言論空間を支配している歴史観というものが捏造や歪曲の上に成り立っていることを知ったからです。そこで自分が調べたことを、同じように「何かおかしい」と思っている方の参考になればと思って書いております。

 私は広島出身で、広島の人なら広島の歴史を学びます。毛利元就から福島正則、浅野藩、近代の発展、原子爆弾、戦後の復興、広島カープの歴史、マツダの歴史・・・広島が好きなのは生まれ故郷だから、という理由だけでなく、歴史を知っているからでしょう。毛利兄弟の三本の矢という有名な話。原子爆弾で潰滅した街を復興させたという歴史、市民の球団から始まった広島カープの歴史などは広島人の誇りです。
 現在、私は横浜に20年住んでいるのですが、これまで単なるベッドタウンに過ぎず、何の愛着も持っていませんでした。昨年、横浜の歴史、特に開港の歴史を調べ、関内や山の手を実際に歩き調べた結果、すっかり横浜に愛着を持つようになりました。
 ですから、日本の歴史を知ることは日本人が日本という国に愛着を持つという大きな意味があると思っています。ですが悪意ある歴史の捏造や歪曲は戦後GHQが植え込んだもので、この歴史を学んでいたのでは日本という国に愛着がわきません。日本人が日本という国を愛せなくすること、これがGHQの狙いだったわけです。ですので捏造された歴史を正し、歪曲された歴史をまっすぐにして、隠された歴史を掘り起こすことが必要になります。

 歴史を正したとしてもそこには光もあり影もあります。両面見ることは必要ですが、どこかの角度で見ると「虹」が見えるはずです。「虹」を見ることが「国史」にとっては必要でありましょう。「虹」がきちんと見え、光も影も映し、日本人の心を描くことを中心にして本年もブログを書いていきたいと思います。



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