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江戸時代の天皇と庶民

江戸時代、天皇は庶民にとってどのような存在だったか。

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 江戸時代は「将軍」がいた時代ですが、庶民は「天皇」をどれほど意識していたのでしょうか。

 天皇は京都御所にいらっしゃいましたが、臨時、恒例の儀式や行事の際、庶民でも禁裏御所の中に入ることができました。恒例では「節分」、一月の「後七日御修法」「左義長」、7月の「禁中御燈籠」、12月の「御神楽」があります。臨時では「即位礼」「御能」、亡くなった人の法要にあたる「御懺法講(おせんぽうこう)」「御八講」などがあります。「即位礼」のときに庶民が御所に入れたとは驚きで、かなりの人が詰めかけたと記録に残されています。「節分」では「来る正月内侍所え参詣人の儀、元日昼八つ時より七つ時までのうち参詣いたし候ように申し聞くべき事」というお触れが出されており、禁裏御所内が時間を限って開放され、かなり混雑するほどの参詣人だったようです。このほか、牡丹拝見や御能拝見でも庶民は御所の中に入ることができ、地方から上京してきた人々も地下官人そのほかの手ずるを使って御所を拝見することが可能でした。御所は民衆に閉ざされた空間ではなかったわけです。

 職人は「受領名」というのを持つことができました。例えば神社の銅製の燈籠の後ろ側には「従五位下越後守藤原為次」というように国名に「守(かみ)」「介(すけ)」などが刻まれているのがそうです。刀鍛冶で「和泉守兼定」が有名でしょう。筆師や絵師、小細工、などなどいろいろな職人が受領名を持っており、明和5年(1768年)には1088名の職人が受領名を持っていました。これは朝廷に申請し、関白が内覧して、天皇の裁可を得ます。ただ正規な手続きを経ないで受領名を名乗る職人が多かったようです。

 暦の作成は古来より天皇・朝廷が行うべき国家事業で唐の宣明歴がずっと使われ続けましたが、天文学者の渋川春海が授時暦を研究し朝廷がこれを採用し、貞享元年(1684年)に改暦を宣下しています。この後、暦作成の実権は幕府に移りますが、形式的手続きは朝廷に残されています。農村では伊勢の御師が配った「伊勢暦」が使われており、それには当然元号が書かれています。改元のときは「年号改元之儀京都より仰進められ、文化予(と)御治定遊ばされ候。右之趣公儀より仰出られ候間」というふうにお触れが出されました。京都の朝廷と江戸の幕府ははっきり区別されていました。

 天皇・上皇や将軍・大御所が死去すると「鳴物停止令」「普請停止令」というのが出され、歌舞伎音曲や建築土木の大音響が一定期間(7-50日地域差あり)止められました。お触れはただちに全国津々浦々に届いています。もちろん琉球にも届いており、天皇崩御の際は日本全国で喪に服しました。

 外国人の観察でも天皇は庶民の尊敬を受けていたことがわかります。

 オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」

 百姓一揆では天皇と百姓の関係が明らかに意識されました。「姓」は天皇から与えられるもので、「百姓」は多くの「姓」という意味で公民の総称です。直接天皇に徳政や年貢減免を訴えた一揆も多く、文政4年(1821年)の一揆で逮捕された林八右衛門の「観農教訓録」に、「然れば上御一人より下万人に至るまで人は人というに別はなかるべし」と「天皇のもとの平等」を訴えています。

<嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆>
 百姓どもカラカラと打ち笑い、
 汝等百姓などと軽しめるは
 心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、
 士農工商天下の遊民
 源平藤橘の四姓を離れず、
 天下の庶民皆百姓なり、
 其命を養う故に
 農民ばかりを百姓というなり、
 汝らも百姓に養るなり。
 此道理も知らずして
 百姓杯と罵るは不届者なり

 天下の庶民みな百姓、おのれら武士の命をも養っているのだ、カラカラと笑っているところが記録されています。農民は天皇の権威のもと強い存在でした。

 江戸幕府が倒れ明治の時代になると、武家の頭領である「将軍」がいなくなったわけですから、祭司王である「天皇」が軍服も着なければならなくなりました。この新しい天皇の姿、大君の姿は江戸庶民には捉えにくかったかもしれません。明治5年(1872年)、新橋・横浜間鉄道開業式に向かう天皇の馬車を見物する人々を見て、イギリスの画家・漫画家のワーグマンは「畏敬の念を持つ様子もなく、ただじろじろ見ているだけだった」と自ら書いた絵に解説を入れています。それから18年後、フランス人の画家・漫画家ビゴーが明治23年(1890年)の内国勧業博覧会開会式に出席する天皇の馬車が到着した絵を書いています。これには威儀を正して見ている庶民の姿がうかがえます。この頃になると憲法も発布され、近代国家の元首としての「天皇」という意識が浸透してきたようです。



参考文献
 講談社「江戸時代の天皇」藤田覚(著)
 SAPIO 2009/11/11「天皇論追撃編」小林よしのり
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「ビゴーが見た明治ニッポン」清水勲(著)

添付写真
 第11代 霊元天皇像(泉涌寺蔵)(PD)

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