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2013年2月

世界に衝撃を与えたマレー攻略、シンガポール陥落

白人植民地主義の長い歴史の終焉。

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 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地のマレーの人たちです。

「星港攻略記」筑紫二郎(著) 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 日本軍が占領した飛行場の修理の場面
「私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に『早くシンガポールを陥してくれ』という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった」

 マレーのラーマン王子は自らマイクの前に立ち、「マレー人よ、日本軍に協力せよ!」とラジオ放送を行っていました。

「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった。
 彼らも進撃する戦車の上に、バナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて声援していた。現地に来てから、単なる掛け声でなく、これらマレー人のためにも、イギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければと考えたのだった」

  日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。

 現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)
「オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉がかかれていた」

 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日には日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍は降伏しました。

  この難攻不落の要塞といわれたシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。

 フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

 アメリカ歴史学者 ヘレン・ミアズ
「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 - (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った - の戦であることが判明したのである」

 マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」

 マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏
「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」

 マレーではイギリスにくっついて商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。戦後、日本人がマレーに調べにきたことがあり、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ」などと情けないことを言っていたといいます。これを聞いた元上院議員のラジャー・ダト・ノンチックは驚き「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と答えました。ノンチック氏は「日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした」と述べています。

 マレーシア元外務大臣 タンスリー・ガザリー・シャフィー元外務大臣
「日本の政治家の冒頭の挨拶は、ハンで押したように決まって次のような、『過ぐる大戦において我が国は貴国に対してたいへんご迷惑をおかけし申しわけありません』というお詫びです。
 私は、そのたびに、なぜそのような挨拶をなさるのですか。あの戦争で日本は立派なことをなさったではないですか。日本軍がイギリス軍を追い払ってくださったからこそ我々は独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアも、インドネシアも、シンガポールも、その他インドを含めた東南アジア諸国の独立は考えられません」

 シンガポール陥落は日本軍とマレー人が協同して成し遂げたことであり、世界に衝撃を与え、白人による植民地支配の歴史を終わらせたのが歴史の真実です。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 日本教育新聞社「日本人よ ありがとう」土生良樹(著)
参考サイト
  教科書が教えない歴史
      アジアにおける日本と大東亜戦争 マレーシア編 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_3.html
  WikiPedia「マレー作戦」

添付画像
  クアラルンプールに突入する日本軍部隊(PD)

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敵軍遂に白旗揚ぐ http://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI

歴史を変えたマレー沖海戦

有色人種でもやればできるという自信を与えた。

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 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。日本軍はマレー半島のコタバルに上陸します。マレー半島はイギリスの植民地でした。9日、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を旗艦とするイギリス東洋艦隊主力Z部隊は日本船団を攻撃するため出撃します。日本軍の伊号第六十五潜水艦がZ部隊を発見。日本第一航空部隊が索敵に出動しましたが、この日は天候が悪く補足できませんでした。

 10日、朝から再び第一航空部隊が索敵攻撃に出撃します。11時13分、元山空が駆逐艦「テネドス」を発見。ついで「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を発見します。美幌空の96式陸攻8機、元山空の96式陸攻16機、鹿島空の最新鋭機一式陸攻26機が爆撃、雷撃を加えました。

-「空の少年兵戦記」(昭和18年10月 GHQ焚書図書開封3より)-----
 敵は真下だ。艦橋や甲板の上から、見張り員が眼鏡で上を見ている。我が機が爆弾を投下したと見れば、大急ぎで変針して避けようというのだ。
「用意、打テッ!」
 指揮官機から命令が来た。窓から見ていると、爆弾は黒い尾を引いて刻々に小さくなりながら、敵艦に吸いつけられていく。敵艦はジグザグに蛇行しながら逃げ回る。
 弾着を見届けなければならない。敵の戦闘機、そんなものはお構いなしだ。俺は窓に頭を突っ込んむようにして覗いていると黒い煙が上がった。艦尾の左舷に命中したのだ。
    (中略)
 俺たちが第二撃目に移った頃は、すでに味方の雷撃隊が肉迫していて、敵は気息奄奄(きそくえんえん)と言った形だった俺たちが帰途についた時だ。レパルスだか、ウエルズだかわからなかったが、戦艦が一隻、我が雷撃隊の挟撃を受けていた。雷撃隊は右から左から左から右から、入れ代わり立ち代り攻撃していた。
    (中略)
 魚雷は白い航跡を描いて追いかけている。中(あた)るか?中ってくれ!ひやひやしながら見詰めていると、水煙があがった。黒煙もあがった。一緒だったかもしれぬ。はっきりと命中するのが見えたのだ。思わず喝采を叫んだよ。

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 レスパルスは午後2時20分轟沈。プリンス・オブ・ウェールズは午後2時40分に轟沈しました。これまで「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない」というのが常識でしたが、それを覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえました。戦略的なものだけでなく精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えています。

 イギリス首相チャーチル
「12月10日、私の部屋で電話が鳴った。それは軍令部長であった。彼の声は変だった。咳をしているようでもあり、こみあげてくるものをこらえているようでもあり、はじめは明瞭に聞き取れなかった。『総理、プリンス・オブ・ウエールズとレパルスが、両方とも日本軍に沈められたことを報告しなければなりません・フィリップス(極東艦隊司令長官)は水死しました』『その通りかね』『全く疑う余地はありません』私は受話器を置いた。私はひとりきりであることが幸だった。戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」

 インドの元大統領であるラグ・クリシュナン 昭和44年(1969年)時
「(イギリスの植民地であった)インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは、想像もできなかった。それを、我々と同じ東洋人である日本が見事にも撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって、東洋人でもやれるという気持ちが起きた

 イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビー 毎日新聞 昭和43年(1958年)3月22日付
「英国最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである」

 プリンス・オブ・ウェールズの撃沈は白人にとっては悲痛な出来事でしたが、アジアのマレー人、タイ人、インドネシア人、インド人は飛び上がって喜び、白人は絶対ではない、有色人種でもやればできる、という自信を与えたのでした。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  学研「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
  展転社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
参考サイト
  WikiPedia「マレー沖海戦」
添付画像
  日本軍機の猛攻撃を受け轟沈するプリンス・オブ・ウェールズとレパルス(PD)

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マレー沖海戦「攻撃」 Sinking of Prince of Wales and Repulse 3/3 - Attack http://www.youtube.com/watch?v=vE6_s1Tg0Ps

ミッドウェー敗北を知らなかった東條英機

本当に反省すべきことは何か。

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 大東亜戦争時、東條内閣の農相だった井野碩哉(いのひろや)氏は戦後、A級戦犯容疑で大森の収容所に入れられました。そこに東條英機がおり、そのとき東條と会話したことを、後に民法のテレビで語っています。

「東條さんが一切の戦況を把握していたものとばっかり思っておりました。ところが、戦後、大森の収容所に一緒にいた東條さんから『井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ』と言われたときはびっくりしました。総理大臣がミッドウェーの敗北を知らなくて、戦争に勝てるはずがないじゃないか、という気持ちになりました」

井野氏は「そんなこと信じられませんよ」と重ねて確かめたところ、

「私がもしミッドウェーの敗北を知っておったらインパール作戦はやらなかった」

と答えたといいます。ミッドウェー海戦は昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー島をめぐって日米激突した海戦で、日本海軍は空母4隻を失うという大敗を喫しました。この事件を総理が知らなかったというのですから誰でも驚く話でしょう。全く知らなかったというより、作戦中止ぐらいは知っていたでしょうが、海戦によってどれくらいの損害が生じたか知らなかったということだと思います。いかに内閣と統帥がわかれていたかが良くわかる話です。「統帥」、つまり「軍」は内閣から独立していたのです。真珠湾攻撃について東條英機は「陸軍大臣としてその概要は聞いていた」と証言していますが、他の閣僚は事前に何も知らなかったのです。もし、東條英機が陸軍大臣を兼務していなければ結果が出るまで知らなかったかもしれません。

 支那事変より大本営が設置されましたが、総理は加われず、連絡機関(大本営政府連絡会議)が設置されました。しかし、陸軍大将、陸相を兼ねた総理にミッドウェーが伝わっていないのですから、大本営自体が陸海バラバラで連絡会議は機能していなかったと思われます。。

 東條英機は昭和19年(1944年)、戦局の悪化にともない参謀総長を兼任するといいだし、首相、陸相、内相、参謀総長、軍需相を兼任します。これを独裁者とする評価もありますが、東條英機は「一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限の無いような国柄で、戦争に勝てるわけがない」と言っています。これは正論でしょう。ただ、東條英機は官僚的な人であり、政治に不向きであったのと、憲兵を使った強引なやり方をしており周囲からの協力が得にくかったといえます。東條英機の主張を効果あるものにするには日露戦争のときの児玉源太郎のような人でないと成し得ないでしょう。

 東條英機は東京裁判のときの尋問で統帥権について尋ねられたとき、「統帥権の独立は戦闘だけを考えていればよい、という場合に限りよい物である。しかし、今日、戦争も政治の一部になっている現代の状況では、政治的に見て、統帥権の独立は一考を要する」と述べています。(裁判では強調したくないということを添えている) また、教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)師経由で残した遺言にも統帥権について述べており「統帥権独立の思想は間違っている。あれでは陸海軍一本の行動がとれない」と統帥権に苦しんだことを物語っています。

 戦後、日本は侵略国家で共同謀議の戦争犯罪があり、東條英機は独裁者だった、あの戦争は最初から無謀だったなどというデマが撒き散らされましたが、統帥が独立していて共同謀議が成り立つわけがなく、独裁者がミッドウェーの敗北を知らないはずがありません。あの戦争を反省するといってもデタラメの歴史を反省しても何の意味もなく、こうした統帥の問題や外交、戦略的国防などの観点で点検し、反省しなければ意味がないでしょう。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 朱鳥者「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
  WikiPedia「井野碩哉」「大本営」「大本営政府連絡会議」

添付画像
  ミッドウェー海戦で爆撃される蒼龍(そうりゅう)(PD)

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戦後を席巻した「青い山脈」的思考

GHQが埋め込んだ爆弾は3年半前爆発した。

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 5年程前、大東亜戦争日米開戦時の首相、東條英機の終戦直前の手記が国立公文書館で発見されたというニュースがありました。。全文は読めておりませんが政府のポツダム宣言受諾に対して「新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰を抜かし・・・」「もろくも敵の脅威に脅え、簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及び国民の無気魂なりとは、夢想だもせざりしところ」と書かれています。多くの人は“東條という人は戦争をはじめて日本を焦土にしたにも関わらず、まだこのようなことを言っていたのか”と思うことでしょう。「東条英機」を書いた太田尚樹氏もそういっており、「読むに堪えない」と述べています。しかし、それは戦後、GHQによるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)で洗脳されているからそういう思考になるのだと思います。当時の国民は抗戦意識が非常に強く、東條英機の言葉は国民感情と一致しています。

 陸軍中将・石原莞爾は戦後、米、英、ソの検事の臨床尋問を受けたとき、東條英機と意見が対立していたというではないか?という問いに対し「東條には思想も意見もなく、意見のない者と対立はない」と言っています。陸相だった宇垣一成も似たようなことを言っていますので、東條英機は組織の目的に忠実に生きることを主とした人だったのでしょう。だから聖戦完遂(せいせんかんすい)の意識が強かった、国民も同じように強かっただけのことです。そして終戦に際しても国民は米に対して不服従の意思でした。

 国民の心に変化が現われはじめたのは評論家の西尾幹二氏(昭和10年生まれ)によると昭和23年頃でアメリカは憧れの国に変化したと述べています。チューインガム、ホットドッグ、映画「ターザン」、ヒッチコックの映画、西部劇、大リーガーなどがもてはやされるようになりました。厳しい検閲焚書公職追放、東京裁判、GHQ憲法、神道指令、などの政策にはまっていったのと、食べるものをはじめとする物資は米国に頼らざるを得なかったし、もともと日本人には異邦人を憎むという感覚は持っていなかったのもあるでしょう。

 そしてこんな歌がヒットします。

 青い山脈(昭和24年)作詞:西條八十 作曲:服部良一

  若く明るい歌声に なだれは消える花も咲く
  青い山脈 雪割り桜
  空の果て 今日もわれらの 夢を呼ぶ

  古い上衣よさようなら 寂しい夢よさようなら
  ・・・

 「青い山脈」は昭和22年(1947年)、新聞小説として“朝日新聞”に連載され、昭和24年(1949年)には映画化され、主題歌の「青い山脈」も大ヒットしました。京都大学名誉教授の中西輝政氏は、この「青い山脈」は「悲しいことは全部人生からなくしていける、『憧れ』というか、過剰なまでに膨らんだ『脱歴的期待感』というか、“理想の日本”がいますぐ、そこまできているという気分が横溢(おういつ)しています」と述べ、「『戦後理想主義』の偽らざる姿」「その裏には『反戦』と結びついた社会主義礼讃の風潮が隠されていた」と指摘しています。日本人は大東亜戦争以前のことは「古い上衣」「悲しい夢」として“さよなら”し、新たな「理想主義」に転向したのです。その日本人のナイーブさに社会主義的理念が入り込んでいったわけです。「青い山脈」の向こうに「赤い星」を見ていたのです。それはベルリンの壁が壊れるまで続きました。ベルリンの壁が壊れても埋め込まれた「戦後理想主義」は団塊世代が最も影響を受けており、その世代が国や経済の中心としての位置を占めたとき、政権交代がおこったわけです。それは3年半前のことでした。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
参考サイト
 WikiPedia「青い山脈 (歌)」

添付画像
 映画『青い山脈』の杉葉子と原節子(右)(PD)

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青い山脈 (1949)
http://www.youtube.com/watch?v=bAKmKJxtWZg

東京裁判の判決

国家に殉じた7人。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。判決は昭和23年(1948年)11月12日に出され、そのときの宣告の模様がYutubeにあります。子どもの頃にも何かで見た記憶があります。

 日米開戦時の首相だった東條英樹は「ウンウン」と頷いているようです。弁護人の清瀬一郎氏は「アアこれは立派に解脱したなと感じたくらい悟りすましたものであった」と述べています。広田弘毅はカメラ側に一礼していました。奥さんは既に自決しており、誰に向かって別れを言ったのか・・・

■絞首刑(死刑)
板垣征四郎
 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)

木村兵太郎
 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)

土肥原賢二
 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)

東條英機
 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)

武藤章
 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)

松井石根
 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))

広田弘毅
 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

 判決は理由を付することになっていましたが、偏った日本の政治史、軍事史を羅列しただけで各被告の有罪を断じ、判決の理由になる事実と証拠の提示ありませんでした。量刑についてはオランダ判事のレーリンクの回想によると投票による多数決であり、11人中の判事6人で多数派として決まったと述べています。パール判事は全員無罪としたので投票には加わらず、ソ連判事は死刑反対を理由に加わりませんでした。あと、フランスのベルナール判事も加わらず、驚いたことにオーストラリアのウェッブ裁判長も死刑には反対の立場でした。「平和に対する罪」というのは事後法であるから死刑は適当ではない、と述べていたのです。投票は7対4ということになります。レーリンク判事は広田弘毅を無罪としたので、6対5で死刑になりました。主席検事のキーナンは「なんというバカげた判決か。(略) 松井、広田が死刑などとは、まったく考えられない」と漏らしていました。

 この判決の日、昭和天皇のご様子を側近の村井長正氏はこう語っています。

「陛下は顔を泣きはらして真っ赤な顔をしておられた。生涯忘れられないお顔である」
「私は恐れおののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして用件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」

 刑の執行は昭和23年(1948年)12月23日の午前0時21分。意図的に皇太子殿下(今上天皇)の誕生日を狙ったものでした。刑場で東條英機は「天皇陛下万歳」と叫びます。そして東條の左右にいた大柄な米軍曹長に「ご苦労さん、ありがとう、ありがとう」と声をかけると、後ろにいた米軍将校4,5人が寄ってきて握手を求めたといいます。城山三郎の「落日燃ゆ」で広田弘毅は「万歳」をやらなかったとなっているそうですが、死刑囚につきそった教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)によると板垣、木村と3人で「万歳」を三唱したとしており、「落日燃ゆ」は捏造したと思われます。

 絞首刑となった遺体は粗末な木製の棺に入れられ横浜の火葬場で火葬に付せられました。遺族からの遺骨引取りの請求を占領軍はゆるしませんでした。遺骨は飛行機で撒き散らすことになっていたようですが、後の昭和30年(1955年)に進駐軍の命ということで白木の箱に入ったものを遺族へ渡されています。火葬当時は撒き散らされてはいかん、と思った三文字正平という弁護士が、火葬場より進駐軍が処理したあとの残りを盗みだしています。そして日本の主権回復後、松井大将の郷里である愛知県幡豆郡旗豆町の町長の好意により、三河湾公園内に埋葬されました。この碑には荒木貞夫元大将の筆で「殉国七士之碑」と大書しました。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
 WikiPedia「広田弘毅」「A級戦犯」
添付画像
 判決を聞く広田弘毅

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Glow of the sunset -02 http://www.youtube.com/watch?v=ykAHWDmV8rQ

石原莞爾不在の東京裁判

石原莞爾が起訴されなかったわけ。

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 石原莞爾と言えば、満州事変を思い浮かべる人が多いでしょう。戦後のWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって戦争についての罪悪感を植えつけられている日本人は日本軍が満州事変を起こして侵略したと思っているでしょう。ところが石原莞爾は戦後の東京裁判で裁かれていません。同じ満州事変に関わった板垣征四郎は死刑になりました。WGIPに洗脳されていてもこういう不整合に気づいている人もいるかもしれません。実は私もその一人でした。実際には満州国は正当な国家であり、日本の侵略ではなく、満州と支那はそもそも別ものです。東京裁判はインチキ裁判でした。

 石原莞爾は昭和16年(1941年)には予備役になっており、終戦は講演先で玉音放送を聴いています。昭和20年(1945年)9月以降、全国に講演旅行を続けています。アメリカのジャーナリストのマーク・ゲインは関係者を取材し「日本は新しき救世主以上のものを得つつあった」と評しています。

 昭和21年(1946年)1月以降は持病が悪化し、入院しています。米、英、ソの検事が臨床尋問した際には「戦犯の中で第一級は、空襲、原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし、開国させ、日本を台湾、朝鮮、満州に赴かせたペリーである」と答えました。東条英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、「東條には思想も意見もなく、意見のない者と意見の対立はない」と答えています。
 石原莞爾は「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判など始められようか。私のいない東京裁判など滑稽である」とも言っていましたが、昭和21年(1946年)4月には石原莞爾は戦犯リストから削除されました。

 石原はそれでも昭和22年(1947年)5月に東京裁判酒田出張法廷へ板垣征四郎の弁護側証人として出廷し「満州事変は支那軍の攻撃に起因し、本庄繁関東軍司令官の決断による自衛権の発動である」と強調します。石原は、連合国の判事、検事を相手に一歩も退かず、堂々たる論陣を張り、ときには彼らを翻弄しさえしました。その見事な弁論と驚異的な頭脳は彼らを驚愕させ、最後には彼ら心に深い感激を与えるとともに、なぜ日本の戦争指導部は石原を遠ざけて用いなかったのか?と疑問に思ったといいます。

 石原莞爾が戦犯リストからはずされたのは病気を患っていたことが理由とされていたようですが、石原は「もし、証言台に立てるのであれば裁判官や検事たちに堂々と“日本の言い分”を述べてやるのだが」というようなことを言っており、日本陸軍最高の理論家が法廷に出現することを連合国側が避けたとも言われています。石原は言論で対抗しましたがGHQは新聞各紙に圧力をかけ、石原の言論を封じ、所属していた東亜連盟の解散を命じました。それでも石原はトルーマンとマッカーサー軍政を批判し続けました。

 石原莞爾は板垣征四郎が死刑判決を受けたとき、「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください、道案内は自信がありますから」と伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納める、法華経を上げての簡素な葬式を手配しました。

 石原は昭和24年(1949年)8月15日、終戦からちょうど4年目に生涯を閉じています。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 新潮45・2009.8「石原莞爾『終戦日記』で読み解く日本再建への執念」早瀬利之
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
  WikiPedia「板垣征四郎」「石原莞爾」

添付画像
  石原莞爾 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より(PD)

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東條英機 VS キーナン検事 ~ 東京裁判

キーナン敗れたり。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。日米開戦時の首相であった東條英機は戦犯として訴追されました。

 昭和22年(1947年)12月22日から裁判の東條部門は山場を向かえ、日米開戦についてキーナン検事の追求が始まります。12月31日は東條英機とキーナン検事は一騎討ちが行われています。

キーナン「あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛することをあなた方に知らしめたと言っているが、これは正しいか」
東條「もちろん正しい」

キーナン「そうしてまた、日本臣民たるものは何人たるも、天皇の命令に従わないということは考えられないと言った。それは正しいか」
東條「それは私の国民としての感情を申し上げた。天皇の責任とは別の話です」

キーナン「しかし被告は、実際、米英蘭に対して戦争したではないか」
東條「私の内閣において戦争を決意しました」

キーナン「その戦争を行わなければならない。行え、というのは裕仁天皇の意思であったか」
東條「ご意思と反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが事実です」

 東條英機は開戦という国政に関する一大事は、内閣と統帥部の責任で為した最後の決定であって、天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も慣行上もないことを理路整然と言い切ります。

キーナン「首相として戦争を起こしたことを道徳的にも、法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか、被告としての心境を聞きたい」
東條「間違ったことはない。正しいことをしたと思っている」

キーナン「それでは無罪放免されたら、同僚とともに同じことをまた繰り返す用意があるのか」

ここでブルーエット弁護人が「これは妥当な反対尋問ではない」と異議を申し立てウェップ裁判長が容認し、質問を却下しました。キーナン検事は検事席に戻らず、さっさと退場しました。キーナン敗れたり、です。

 東條英機は自殺未遂で国民の評判を落としていましたが、これである程度回復しました。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。
「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」

 東條英機は大東亜戦争は「自衛戦争」であること、天皇陛下に責任はないこと、大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったこと、を主張しました。これはもともとの日本の立場、主張です。当時の国民は厳しい検閲でモノ言えぬ中、東條英機がはっきりと日本の主張を述べたことによって溜飲を下ろしたのではないでしょうか。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)

添付画像
 法廷で証言する東条英機(PD)

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東條英機大将の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」
http://www.youtube.com/watch?v=Wtain67qJyM

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