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30.戦後占領下

昭和天皇の独自外交

昭和天皇は独自外交を展開していた。

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 昭和20年(1945年)、大東亜戦争敗戦後の連合国占領下、昭和天皇はマッカーサーと11回も会見を行っています。特に昭和天皇は日本の安全保障問題に懸念を持っており、第3回会談では憲法九条に対して「世界の国際情勢を注視しますと、この理想より未だに遠い様であります」と述べられています。マッカーサーは「戦争をなくするためには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ」と説得しています。憲法九条の「軍隊を持たない」というのは日本弱体化だけでなくGHQに潜む共産主義者が革命を起こしやすくするために考えたことなのですが、マッカーサーはそれらに素直に従っていたということです。

 昭和22年(1947年)、日本社会党の片山内閣が発足。芦田外相は非武装で国連に安全保障を依存するという方針は非現実的と判断していましたので、講和成立後も米軍が日本の安全保障を確保し、代わりに日本が基地を提供するという特別協定の提案をまとめています。実は日米安保の原型は日本社会党が作っていたのです。しかし、この提案はアメリカ本国には届きませんでした。GHQ内で握りつぶしたようです。

 この頃、冷戦構造が芽生え始めると沖縄の軍事的価値が浮上し、米国では沖縄を米国に併合するべきという論と併合できないので信託統治にすべきという論がでてきます。このとき昭和天皇の「沖縄メッセージ」があります。沖縄は主権を日本に残したまま「長期租借方式」に基づいて行われるべき、というものです。よく反皇室派がこの沖縄メッセージだけつまんで沖縄を切り捨てたとか、基地がどうこう言いますが、赤化懸念や米国の論争といった背景があるのです。
 さらに大陸では共産党が国民党に勝利し、朝鮮半島に緊張が及ぶようになっていくと米国は反共意思を強くし、大統領特使ダレスを日本に送り込みます。マッカーサーべったりだった吉田茂は日本の非武装化を述べたところ、ダレスは国際間の嵐の激しさを述べ、激怒します。そして朝鮮戦争が勃発。ここで昭和天皇からダレス宛てにメッセージが送られます。このメッセージには吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できないので、安全保障問題は彼らをはずして行うべき、というものでした。このメッセージで講和への道筋がついたと言われます。

 このほかにも昭和天皇は日本に長く住んでいたフランス人のヨゼフ・フロジャックというカトリックの神父と接触して昭和23年(1948年)にローマ法王にメッセージを送られています。ローマ法王からも返信メッセージがあったようで、内容は謎ですが、なんらかの外交パイプを持とうとしていたと思われます。また、英国王室にもメッセージを送られています。昭和天皇独自の外交でGHQを牽制しようとしていたのかもしれません。

 昭和28年(1953年)4月、既にサンフランシスコ講和条約の効力が発生した後のことです。昭和天皇は東京裁判の主席検事だったジョセフ・キーナンが帰国するときに歓談していますが、キーナンは「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかからだれを指名すればよいと思いますか」と質問します。そして昭和天皇はこう答えられます。

「いまは政治のことからまったく離れているので・・・」

 戦後まもなくの、政治混乱期に日本の将来を案じ、独自の外交を展開し、サンフランシスコ講和条約までこぎつけ、“ようやく政治から離れられた”というお気持ちだったのでしょう。



参考文献
  新潮45 2009.9「二重外交展開、占領下も『君主』でありつづけた昭和天皇」河西秀哉
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘 畑好秀(編)
参考サイト
  WikiPedia「片山内閣」
  沖縄県公文書館 "天皇メッセージ" http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

添付画像
  昭和21年の昭和天皇 日本国憲法にサインしたときのもの(PD)

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マッカーサーを激怒させた男

マッカーサーを激怒させたパケナム記者。

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 ニューズウィーク東京支局長で英国人のコンプトン・パケナム記者は米軍占領時代に日本を取材し、昭和天皇の信頼が厚かった松平康昌や鳩山一郎、吉田茂、樺山愛輔、白洲次郎、野村吉三郎らと交流がありました。この人の肉筆の日記が発見され、ジャーナリストの青木冨貴子さんが平成21年(2009年)新潮45の8月号よりパケナムの日記をもとに戦後の日米秘史を連載しました。平成23年には本も発売されています。

 昭和23年(1948年)、グルー元駐日大使を名誉会長とし、ドーマンなどの知日派を集めた対日協議会が発足します。活動の中心となったのは、ニューズウィークの外交問題編集局長ハリー・カーンです。カーンは戦前からの日本の指導層と親しいコンプトン・パケナムを東京顧問としました。パケナムは昭和21年夏には日本に入国しており、公職追放された元駐米大使の野村吉三郎に会いにいき、銀行口座も凍結され、収入もなく、病身の妻の薬すら手に入れることができないのを目にし、野村に缶詰やタバコを差し入れするようになります。そして早速「占領は失敗の連続」とニューヨーク本社へ打電。

昭和22年(1947年)1月27日記事
「産業界、金融界、商業界のリーダー25,000から30,000人が職を奪われることになった。・・・要するに日本の経済構造全体を支えている人々が仕事から締め出されようとしている」

「日本でもっとも活動的で能率がよく、経験豊かで教養もあり、国際感覚をあわせもつ層、まさにアメリカに最も協力的な層が切り捨てられることになった」

「日本経済の主導権が新円長者や、ヤミ投機家の手に移り、極左グループに利用されて、隙を狙っているソ連に好都合になる」


 そしてこの追放抗争については占領軍将校のなかにも困惑する勢力があり、実態調査のためにワシントンから日本に調査団を送るべき、と主張しました。

「自分の指揮下にある民政局の行動がどのようなイデオロギー的意味をもっているのかについて、果たしてマッカーサーは気づいているのだろうか」

 ハリー・カーンも来日し、取材してまわり、
「日本で起きている驚くべき危機的状況をはじめて包括的にリポートする」と発表します。

「真に抜本的な対策がとられないかぎり、・・・アメリカの世界再建と共産主義封じ込め政策の一環として日本を『極東の工場』にする機会は消えうせるだろう」

「公職追放があれほど大規模に行われたのは、ひとつには民政局のホイットニーの性格ではないか」

「民政局内でもホイットニーは人気のある人物とはいえない。日本人は”キツネが憑いているのではないか”とさえ言っているいるのだ」

「マッカーサーの孤高を保つ姿勢によって日本人の目には彼が一種の神のように見えていた・・・しかし、その姿勢がかえってその後に起こった多くの出来事からマッカーサーを切り離すことにもなったのだ」


 マッカーサーは激怒し、パケナムを「ファシスト」、カーンを「反動」とののしり、パケナムの記者証再発行を拒否するという異例な事態にまで発展しました。

 この頃のGHQは民政局(GS)と参謀第二部(G2)の対立があり、民政局がアカ系を支持して、公職追放を推し進めていました。参謀第二部はこのやり方に困惑し、反対し、吉田茂の日本自由党に肩入れしていました。ホイットニーは民政局のドンで影の実力者は配下のケーディス大佐です。ケーディスといえばGHQ憲法の仕掛け人です。パケナム記者が「イデオロギー」と言っているのは民政局内のアカ系思想のことで、GHQ内でホイットニー一派を嫌う者たちは彼らのことを「ピンカ-ズ(赤いやつ)」と呼んでいました。GHQ憲法はピンカーズが作ったわけです。

 パケナム記者のバックにはトルーマン大統領がおり、陸軍長官からの命令により、パケナムは日本再入国を果たすことができました。これがマッカーサーとトルーマンの亀裂第一歩となりました。
 昭和23年ごろから民政局の影響力は次第に低下していき、影の実力者ケーディス大佐は失脚し、昭和24年、吉田長期政権が本格的スタートすると占領政策は「反共」へ大転換していくことになります。



参考文献
 新潮45・2009.8「昭和天皇に密かに通じ、マッカーサーを激怒させた男」青木冨貴子
 新潮社「昭和天皇とワシントンを結んだ男」青木冨貴子(著)
 講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
参考サイト
 岡崎久彦 「百年の遺産-日本近代外交史(71)」【「逆コース」を歩む】 占領政策転換、足早に成果
   http://www.okazaki-inst.jp/hyakuisan71.html
添付画像
 「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(PD)
 

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昭和天皇・マッカーサー会談

戦後間もなく昭和天皇独自の外交が行われた。

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 昭和20年(1945年)9月27日敗戦直後、第一回目の昭和天皇とGHQマッカーサー司令官の会見が行われました。場所は赤坂の米大使館。藤田侍従長、石渡宮相、フェラーズ准将らは隣室で控え、会見に立ち会ったのは通訳をつとめた奥村勝蔵外務参事官だけで37分つづきました。

 マッカーサーは当初、昭和天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう自分の立場を訴え始めるのではないかと予想していましたが、昭和天皇の口からは全く想像していなかった言葉が飛び出してきました。

侍従長の回想
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

マッカーサー回想記
「(天皇は)『すべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたに代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねした』と述べた。明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」

 奥村通訳の会見録には上記の責任発言が記載されていないようで東京裁判を控えて発言の重要性から削除したようです。

 昭和天皇は別の会見で皇室財産を差し出すので食糧を緊急輸入して国民を飢餓から救ってくれと申し出て
「私は初めて神のごとき帝王を見た」とマッカーサーは感動しています。誇張した美談ともとれる話しですが、欧米の価値観から考えると王などは国民と対極にあり、私服を肥やすものと相場が決まっていますから事実感動したでしょう。第一回目の会談で昭和天皇が大使館に到着したとき、迎えにもいかなかったマッカーサーは、会談が終わると昭和天皇をお見送りしました。その時のマッカーサーの様子を側近のフォービアン・バワーズは「我々が玄関のホールに戻った時、元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた」と証言しています。マッカーサーはこうして皇室が日本人にとっていかなるものか、欧米のそれとは全く違うことを学習していったのだと思います。

 天皇マッカーサー会談は11回に及んでいます。ストライキなどの労働運動による治安悪化の懸念や憲法九条についても語られています。昭和天皇は国際情勢の実情から考えて九条には難色を示されています。マッカーサーは九条を強く訴えており、日本の安全保障問題が米軍による沖縄の長期貸与、沖縄基地のほうへ流れていきました。このほか講和条約や共産主義台頭の懸念が話し合われています。明治憲法下でも天皇に政治的権限はありませんが、GHQ憲法制定後も会見は行われており、敗戦と混乱という国家の危機に際して2600年の伝統が昭和天皇を動かしたと言えます。

 昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結。翌27年4月28日、効力発生。昭和天皇はようやく政治から解放されました。翌28年に東京裁判の首席検事だったキーナン検事から
「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかから誰を指名すればよいと思いますか」と尋ねられた時、昭和天皇は「いまは政治のことから全く離れているので」と答えられました。



参考文献
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 文春新書「父が子に教える昭和史」『マッカーサー会見』秦郁彦
 新潮45 2009/9 『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』河西秀哉
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)

添付画像
 第一回目の会談で撮影されたもの(PD)
 マッカーサーは国際儀礼上ありえないラフな服装で傲慢不遜な態度をとって撮影にのぞみ、天皇の尊厳を傷つけようとしたと思われる。

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終戦当初の日本人の意識

日本人は洗脳された。

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 昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、大東亜戦争の戦闘は終結しました。終戦当初、GHQは日本占領に乗り込みますが、静かな日本人に驚きをもったといいます。イラク戦争を見るとわかりますが、戦後もテロがかなり抵抗しています。「カミカゼ特攻隊」ほどの抵抗を見せた日本ですから占領軍もかなりの抵抗を予想していたようです。

 やってきた占領軍は新聞やラジオだけでなく、民間の手紙も検閲を行いました。検閲にひかかった手紙を評論家の江藤淳さんが米国のメリーランド大学で調べて本にしています。その中に以下のような手紙があります。

「突然のこと(敗戦)なので驚いています。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」

「昨日伊勢佐木町に行って、はじめて彼等(米兵)を見ました。彼等は得意げに自動車を乗り回したり、散歩したりしていました。
 橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰をおろして、肩にかけた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしない軍隊に負けたのかと思うと、口惜しくてたまりません」


 日本国民は口惜しさを持ち、米国を憎んでいたということです。日本人を無差別に殺戮した米国、日本を破壊した米国に対して憎しみをもつのは順当な感情です。また日本が悪いことしたとも思っていないでしょう。
 評論家の西尾幹二氏によると昭和23年ごろから変化があったが、終戦当時は「日本は負けていない。科学の力に負けた」(原子爆弾を指す)不服従の意志があった、そんな雰囲気があったと述べています。

昭和20年8月29日読売新聞
「もとより大詔を拝して謹まざる国民は一人としてないが、そんな筈はないという気持ちでこの敗戦の事実を受け取る態度は、今日に至るもなお跡を絶っていないのである」

 昭和20年9月5日、東久邇宮首相(ひがしくにのみや)首相は
「戦争終結の決断はひとえに天皇陛下の大御心によるものであって国民は戦争努力の足りなかったことを陛下にお詫びしなければならない。」という趣旨の演説をしています。日本人が静かだったのは天皇陛下が戦争終結を述べたことと、日清戦争後の三国干渉による「臥薪嘗胆」の経験があったからでしょう。

 GHQは日本の静けさを不気味に思い、日本人の不服従を感じ取り、ここから7年間の追撃線をしかけ、日本人に罪悪意識を植え込み、プライドを破壊し、精神をズタズタにしていきます。「焚書」による歴史・文化の抹殺、個人の手紙にまで及んだ「検閲」「真相箱」「太平洋戦争史」による歴史の捏造歪曲、日本解体イデオロギーを注入した「日本国憲法」「公職追放」クエーカー教徒を皇太子の教育係にし、「家族制度」を破壊、「土地改革」「財閥の解体」による日本弱体化、「神道指令」そして「東京裁判」・・・

 昭和21年(1946年)3月20日ダイク代将が報告した「日本人の洗脳」に関する指令
「現在なお、いくさなのです。平時の戦争ではないのです。戦争中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ちなおる前に左のジャブを出すということです。日本人の教育のため、一つの指令を日本人が十分理解してからさらに他の指令を出すという意志は私共にはありません」

 そして日本人は洗脳され、自虐に親しむようになり、国家意識は希薄になり、3S(スクリーン、スポーツ、セックス)といった快楽におぼれ、「今だけ自分だけ金だけ」を求める国民に成り下がっていきました。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)

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 終戦の日の皇居(PD)

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GHQの焚書と検閲

洗脳された日本人。

1950

 戦後、GHQによって焚書が行われました。昭和5年ころから19年頃までに出版された政治、文化、歴史、経済、科学、軍事のあらゆる分野、文学者の従軍記や兵士の体験記、英語やドイツ語の翻訳文献、資源論から精神論まで日本の戦争に直接あるいは間接に関係のあった七千百点の書物を没収して日本の読書人の前から消してしまったのです。言論の自由、出版の自由を推し進めている裏で言論破壊、歴史破壊を平然と行っていたのです。しかし、さすがに図書館や個人所有のものには手をつけられなかったようで、国会図書館には約7割が残っており、評論家の西尾幹二氏らによって分析されてきています。15年もの間の歴史が焚書により抹殺され、戦勝国によって新しい歴史が造られ(※1)、国民は変だなと思いつつどちらが正しいか比較材料すらなくなってしまい、それは時がたつにつれ捏造、歪曲された歴史が本当の歴史だと思うようになっていったと思われます。戦後生まれの人など学校で教えられ、メディアでウソを垂れ流されたら疑いようもありません。

 一方、検閲のほうは原爆の談話を掲載した朝日新聞が発行停止を喰らったり、進駐軍兵士の暴行を非難すると一部残らず押収されました。公に出版されているものだけでなく、個人の手紙まで対象となる徹底的なものでした。手紙は百通に一通ぐらいの割合で開封されます。検閲に関わるのは日本人です。英語ができて翻訳ができる人を集め8,000人から10,000人にのぼったと言われています。戦後、食料がなく困っていた頃でしたから、それを餌に売国行為に走らせたわけです。
 この検閲官の上にまた検閲官がおり、100通中「これはマズい」という手紙を5通発見すると英訳して上位の検閲官に提出します。そして残りの95通から再度抽出し、別の日本人検閲官に調べさせるのです。したたかなシステムです。

 検閲の徹底は「検閲学校」を作ったことから伺えます。採用した日本人検閲官に講義を行い、講義が終わると受講者全員に「検閲テスト」を行うのです。以下一例です。


「国家神道は奨励されるべしと説いている論説は、『新聞遵則』違反である」(正)

「大東亜戦争は世界平和増進のために必要だったと述べている記事論説等は、違反である」(正)

「紙面構成に当たってある新聞が中国人が日本人を射殺した話を取り上げ、第一面の目立つ場所に掲載した。これは違反だとは考えられない」(誤)


 検閲によってマスコミと「GHQとの共犯関係」が出来上がり、記事は「GHQ製」になっていき、一般国民は手紙まで検閲され大いに不安になりました。昭和27年に日本が主権を回復しても、マスコミは「共犯」による「罪」を隠すため、知らぬ顔で「GHQ製」の記事を続け、やがて、それはマスコミの風土になっていきました。学校では「GHQ製」の歴史が教えられ、戦前を知らない世代は「自虐史観」に染まっていったのです。これらはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP 戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づいたものでした。

 昭和23年、CI&E(GHQ民間情報教育局)からCIS(GHQ参謀第二部間諜報局)にあてられて発せられた文書「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の冒頭。

「CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、”ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム”の続行にあたり・・・」

 現代日本人はGHQの呪縛から解かれていません。未だに大東亜戦争は侵略戦争だった、南京虐殺といったGHQ製の捏造歪曲の歴史が主流を占めています。



※1 「太平洋戰爭史」が新聞に連載され、後に高山書店が製本し、発売。多くは学校に配られた。


参考文献
 「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)

<参考>
国立国会図書館では日本占領関係資料の検索が行えるようになっている。
http://opac.ndl.go.jp/

添付画像
 連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(PD)

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GHQ絶対主義

「日本人は12歳」と言ったマッカーサー

日本人は12歳の真意は?

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 大東亜戦争後、占領軍の最高司令官であったのはダグラス・マッカーサーが「日本人は12歳」と言った話はは良く聞きます。戦後占領期のGHQの政策は日本の将来的な弱体化、破壊でしたが、絶対的権力と物資が不足している中、日本人はだんだんアメリカかぶれになっていきました。日本人はマッカーサーを称賛し、マッカーサーの離日後、マッカーサーを「永久国賓にしよう」「マッカーサー神社を建てよう」「マッカーサー記念館を作ろう」という声まであがりました。しかし、この「日本人は12歳」発言によりマッカーサーの差別意識に気がつき、マッカーサー熱は急速に冷え、人々から忘れ去られていったのです。

 この「日本人は12歳」という発言はマッカーサーが帰米直後、日本人のことを「like a boy of twelve」と米上院公聴会で証言したときのものです。教育学博士の若狭和朋氏は著書「続・日本人が知ってはならない歴史」では「たぶんに誤解です。ドイツは成人の悪党だったが、日本人はそうでなかったという反省の弁」と書いています。

 WEB「正論」で東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行氏は東京・永田町の国立国会図書館へいき、公聴記録を調べて述べています。これによると日本は自由主義陣営の一員として留まりソ連側になびくようなことはない、ドイツは悪党だが、日本はそうでない、という日本擁護論の文脈の中で出てきていると書いており、記録を見ますと確かにその通りです。

^^^^^^^^[引用開始]
「そうですね、ドイツの問題は、完全に、そして全面的に、日本の問題とは違っています。ドイツは成熟した人種でした。もしアングロ・サクソンが人間の年齢で、科学や芸術や宗教や文化の面でみて、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人も同じくらい成熟していました。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状況にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳という成熟した年齢であるのに比べると、日本人は言ってみれば 12歳の少年と言ったところでしょう。

 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかったのです。日本では、基本的な考えを植え付けることができます。日本人は、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができるほどに、白紙の状態に近かったのです。

 ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の道徳を怠けてないがしろにしたり、国際的規範を破ったりしたとき、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたことをしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、うっかり、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力を用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮の上での政策として、それを行使したのです」

「ドイツは言うなれば確信犯で、冷徹に国益の損得勘定を考えてああいう悪いことをやった。日本はそうではない。まだ国際社会に出て間がなくて、ちょっと道を踏み外してしまった。でも、自分が占領統治をして良い国になったのだから、大丈夫だ」「日本はまだ12歳の少年で、まだ教育可能で、覚えが早くて優等生だ」
^^^^^^^^[引用終わり]

 日本擁護論の中での「例え」として使われており、多賀敏行氏は日本擁護が真意と言っています。確かに主旨はそうですが、12歳に例えるというところがマッカーサーの心の底にある「日本人差別」意識を物語っているでしょう。
 昭和天皇はマッカーサーが離日するとき、GHQが見送りを要請したにもかかわらず、侍従長を派遣しただけでした。昭和天皇訪米のとき、マッカーサー夫人の再三の案内にもかかわらずマッカーサー記念館に行くことも、マッカーサーの墓参をすることも行いませんでした。



参考文献
 幻冬社「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
参考サイト
 Web正論:<特別企画 遥かなり大東亜戦争>
 若き日本人に伝えたい「日本人は12歳」、マッカーサー発言の真意は侮蔑にあらず
  東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0701/ronbun2-1.html

添付画像
 ダグラス・マッカーサー(PD)

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日本兵がマッカーサーに敬意を表して背を向けて立っていた
http://www.youtube.com/watch?v=vuB1n6JcTgI

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