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33.沖縄

ひめゆりよ永遠に

沖縄県民斯く戦へり

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  昭和20年(1945年)4月、大東亜戦争沖縄戦で沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の先生、生徒で編成された「ひめゆり学徒隊」は南風原(はえばる、ふぇーばる)の陸軍病院で勤務していましたが、5月25日に戦局の悪化をうけて移動します。翌26日、摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置となります。ここは運命の分かれ道でした。伊原第三外科壕(現在のひめゆりの塔がたっている壕)が6月19日に米軍の襲撃を受け、職員は全滅、40名の生徒のうち生き残ったのわわずか5名でした。

  6月18日、本部から解散命令がきます。生徒に最後の食料が分配されます。みな従軍服を脱ぎ、制服に着替え白百合の校章と桜の徽章(きしょう)を胸につけます。分散会が催され「海ゆかば」などが歌われました。

  6月19日、ガス弾が壕に投げ込まれます。

生き残った大城好子さん・山城信子さんの手記より
  ------------
  轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、パッと青い光が眼に映じた。先生!先生!と叫ぶ声。お母さん!お母さん!と叫ぶ声。兵隊の怒号も入り混じった。
  安江千江子が、
「親泊先生!外へ出ましょう。逃げましょう」
とかすれた声。外間安子の声。
「ああ苦しい。玉代勢先生!東風平先生!」
「助けて!新垣先生!奥里先生!」

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  何人かは生き残りましたが、壕を出たところで機銃攻撃を受けます。この頃、米軍は軍人だろうと民間人だろうと区別なく殺戮しまくっていました。

守下ルリ子さんの手記より
  ------------

  ドカンというものすごい爆音と同時にもうもうと真っ白い煙が立ち込めて一寸先も見えない。
「ガスだ!ガスだ!」「水はどこ!水は!」
と叫ぶ声。
  そのうちに息がだんだんつまって苦しくてたまらない。あちこちから、
「おかあさーん」「おかあさーん」「おとうさーん」
と呼ぶ声。

  (中略)

  隣では又吉さんが、
「苦しいよう、姉さん!」
「敵は中頭から上陸したのだから、私の父母も、きっとこんなに苦しんで死んだに違いない」
という。
「何を言っているの。そんなことをいったらますます苦しくなるばかりだ。しっかりしてよ」
と励ます。
「お姉さんお先にね。ああ苦しい。天皇陛下万歳!」
  この声を聞いて、こんなところで死んでたまるものか、生きるのだ!生きるのだ!絶対に死なないと自分にいいきかせているうちに、いつの間にか意識を失ってしまった・・・

  ------------

  この又吉さんも生きて壕を出ましたが、助かっていないので壕の外で機銃を浴びたと思われます。玉代勢先生も壕を出ましたが、同じ運命をたどったと思われます。

  ひめゆり学徒隊 240名(教師含む) 生存104名、戦死136名。

  ひめゆり学徒隊は戦後、「軍国主義にだまされつづけてきた短い生涯」(ひめゆりの塔)「戦場にむりやりひきずり出されながら、生き延びることの可能性については客観的にも、主観的にもそれを想像する力をうばわれている者たちとして、酷たらしく死んだ沖縄の娘たち」(沖縄ノート)と刷り込まれてきましたが、ひめゆり学徒隊の手記を読んでも彼女たちはそんなこと言っていませんし、誰かを恨んだり、自分たちを被害者としているような印象も持ちません。見えてくるのは国家のために働こうと死地にも飛び込む勇気、劣悪な環境でも健気に職務を果たそうとする姿であり、生死の狭間にあっても他人を思いやり仲間同士助け合う姿です。国家、国民、県民、家族、友、師のための公の精神です。戦後の歪んだ見方を正し、ほんとうのひめゆりの姿が人々の心に永遠に残ることを切に願います。



参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  岩波新書「沖縄ノート」大江健三郎(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html

添付画像
  ひめゆりの塔(画角 2) Author:A-gota

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  発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左の電xx次官に御通報方取計を得度

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信が無く三二軍司令部又通信の余力無しと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代して緊急御通知申上ぐ
沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど(ほとんど)顧みるに暇なかりき
然れ(され)ども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に(わずかに)身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃のがれx中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり
而も(しかも)若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦(ほうすいふ)は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり
所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思はれず
更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり
是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂にxxxx与へ、xことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形x一木一草焦土と化せん糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ

沖縄県民斯く戦へり(おきなわけんみんかくたたかえり)
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを

ひめゆりを支えた人たち

上原婦長ほど勇敢に自分の職責を果たした者はなかったろう。

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  大東亜戦争沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」は南風原の沖縄陸軍病院に配属されていました。5月12日~18日にかけてのシュガーローフの戦いにより日本軍は首里の防衛も困難な状態となり、24日には陸軍病院付近に米兵が出現します。そして25日には移動することになります。しかし、3,000余名におよぶ患者を全員移動させることは収容の壕もなければ輸送力もなく絶望的でした。そして重症患者には最期の処置をすることになりました。

  ひめゆり隊の一人に胸部と大腿部を負傷した渡嘉敷という生徒がいましたが、担架は壕内が狭くて使えず、おぶって連れて行こうとすると痛みにたえかねておぶろうにもおぶれない。とうとう断念し、渡嘉敷さんは「そのままにしていってください」と言い残します。引率教官の仲宗根政善氏は呆然とします。

「死!義!死!生!師弟!
  頭はかきむしられ、しめつけられるような苦悩で、私は全身がぶるぶる震えた。凡夫の身、一片の肉として散らず、教え子をおきざりにして生きようというのか、教壇での言葉はうそだったのか、教訓は口先だけだったのか。渡嘉敷の母にあったらなんと答える。
  渡嘉敷、渡嘉敷、許してくれ」

  この後、仲宗根氏は渡嘉敷さんを救出に行こうとしますが、既に米軍が壕まできており、不可能と知り絶望します。しかし、この渡嘉敷さんは生きていました。自決用の青酸カリには手をつけず、何とか壕を這い出て倒れているところを親切な米軍の救護班に助けられたのでした。終戦直後の9月に師弟は宜野座病院(ぎのざ)病院で涙の再会を果たします。

  ひめゆり隊は婦長4名、看護婦86名の下で看護業務にあたっていましたが、テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていた人に上原貴美子婦長がいます。次々と倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などの一切が、ほとんど婦長の指揮にたよったといいます。軍医は4日に一度の診療しかしませんでしたが、婦長は看護婦を激励しながら、毎日毎晩ガーゼのつけかえに回ったといいます。上原婦長を仲宗根氏は著書の中でこのように評しています。

「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責を果たした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でも極めて希だったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護に使いはたしてたおれた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかになかったろう」

  上原婦長は病院の解散後、山城の丘で直撃弾を受けて戦死しました。

  仲宗根氏は喜屋武(きゃん)の海岸まで追い詰められ、米兵に包囲されたとき、手榴弾を手に自決しようとする生徒を必死に制止し、米兵と話をして安全を確かめ投降しました。ひめゆり隊を引率した教師18名。生存5名、戦死13名。とうとう耐え切れず10名の生徒とともに自決した先生もいましたが、極限の状態の中でがんばり抜いた末の尊厳ある死といえましょう。生と死の狭間のなかで先生、看護婦さん方々、立派に職務を果たされました。


参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
        『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html

写真
  上原貴美子(PD)

  平成18年日本テレビ「最後のナイチンゲール」は上原婦長をモデルとしている。
  イデオロギー色の強い番組構成だったようで、親族からは「がっかりした。言語同断」「あの番組が放映されてから、マスコミの取材にはもう一切答えたくなくなった」という声が聞かれた。

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島唄 - 夏川里美
http://www.youtube.com/watch?v=MTl9YuhuDYk

語られていた特攻 ~ 沖縄戦

今は特攻が語られていない。

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  大東亜戦争で海軍は沖縄を決戦場と考えていたため多数の特攻機を投入しています。昭和20年(1945年)4月6日より菊水作戦が開始され、海軍は約1000機、陸軍も900機投入しています。その前にも第一神雷桜花隊(桜花15、一式陸攻(母機)18)が出撃しており(戦果なし)、3月27日には台湾へ向かうはずだった武剋隊が特攻攻撃をしています。

  特攻隊のことが当時沖縄でどう捉えられていたか知りませんでしたが、ひめゆり隊の学校長、野田貞雄がこの特攻の様子を目撃していたことが仲宗根政善著「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」に少し書かれていました。野田校長は軍より参謀部勤務を命じられていましたが、断って生徒と壕で寝食をともにしておられました。(6月21日戦死)校長は首里の崩れ落ちた城壁より海を見ていました。

「ここは観戦場なんだ。今朝未明に慶良間沖に特攻隊が出た。壮絶そのものだ。実にみごとなもんだよ。轟沈あっけない。煙がぽっと上がったかと思うとそのまま艦船は沈み、ただ煙だけが宙に浮いている」

  野田校長は丹念に日記を記しておられ、撃沈艦船の数を示しながら、今朝の特攻隊の壮絶さを繰り返して語られたといいます。必死の特攻を伝えて生徒を勇気付けようとした心が伝わってきます。
  このほか同著には一緒だった新婚の軍医が「この戦いは負ける」と口癖のようにいっているのに毎日艦船撃沈の数を数えていたことが書かれており、特攻隊に一縷の望みを持っていたことが伺えます。
  また、ひめゆり隊が喜屋武(きゃん)まで追い詰められたとき、もう最期だ、どうしようか、兵隊と行動をともにして死ねれば本望だと思ったところ、兵隊が
「いま盛んに特攻機を送るように通信しているのだ。きっと来るよ。もうしばらくの辛抱だ。勝つぞ」と励まされ、心強く思い、その日までどうしても生き延びよう、と思った手記が掲載されています。

  仲宗根政善氏の著書は戦艦大和の特攻のことが書かれていないので、おそらく情報が入ってこなかったのでしょう。戦艦大和には民生品である歯磨、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分を積んでいたといわれています。
  沖縄一中鉄血勤皇隊は大和特攻出撃の報を漏れ聞いており
「海岸線に乗り上げ、艦そのものが大砲台となり、形成は一気に逆転する」「いや発電機が使えないから無用の長物になる」などとカンカンガクガクで、大和沈没の悲報が流れると「日本海軍は全滅だ」「いや連合艦隊は桂島沖にあり、乾坤一擲(けんこんいってき)の反撃を狙っている」と言い争っています。

  沖縄特攻の戦果は沈没15隻、損傷174隻ありましたが、沈没艦船は駆逐艦以下の小型船で米の作戦を阻止するほどには至りませんでした。しかし沖縄県民の精神的な支えになり、それによって生き延びた人がいたということであれば、特攻で命を捧げた英霊もよろこばれることでしょう。

  戦後は特攻で散った人たちの思いも特攻に一縷の望みを託し勇戦した沖縄県民の歴史は抹殺され、沖縄には被害者史観が吹き荒れ「軍隊は住民を守らない」が合言葉のようになりました。

  鹿児島の知覧から第二十三振武隊長として特攻出撃した伍井芳夫中佐の娘・臼田智子さんは平成4年(1992年)から毎年慰霊の日には沖縄に訪れています。

「最近、ようやく沖縄の一部の人達が、父がなぜ戦死したのか分かってくれるようになった」

  沖縄を守るために特攻を敢行した父親の思いを理解してもらうには何年もかかったと言います。


参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『沖縄戦における軍官民関係』原剛
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  「歴史通」 WiLL2009.7月号『歴史教科書に大和が載った』藤岡信勝
  角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)
  光人社「沖縄一中鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
参考サイト
  沖縄戦史 武剋隊隊長 中尉 広森達郎 http://www.okinawa-senshi.com/hiromori.htm
  WikiPedia「特別攻撃隊」「菊水作戦」
添付画像
  神風攻撃機の攻撃を受け炎上する5月9日英航空母艦ビクトリアス(PD)

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【英霊に】 神風特別攻撃隊 魂のルフラン 【捧ぐ】
http://www.youtube.com/watch?v=ge78OW-rYdA

戦艦大和特攻、沖縄へ

沖縄へ向かった戦艦大和。

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  昭和20年(1945年)4月6日、天一号作戦(菊水作戦)により戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻が山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃しました。
  この大和特攻は沖縄島残波岬に突入し、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるという作戦計画でしたが、実際には主砲が使えなくなるから無理と言われ、「一億総特攻の魁(さきがけ)」の作戦であるといわれています。しかしながら、燃料は3往復半分積んでいたという説や大和に積み込む沖縄県民のための民生品、歯磨き、歯ブラシ50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド15万人分を調達したという証言もあり、まだまだ謎は多いです。

  以前、「男たちの大和」という映画を見て、その後に原作の本を読みましたが、原作本は沈没時の壮絶さが印象に残りました。戦艦大和は爆弾五発、魚雷十本を受け、機械室一箇所を除き、全部運転不能に陥り、速力は10ノットの激減し、設計上の安全最大限傾斜である22度以上に傾斜しました。そして「総員最上甲板」(総員退去のこと)の命令がでます。ここから沈没までわずか20分。

  大和が沈没すると多くの乗組員はその渦に巻き込まれて海中へ飲み込まれていきます。海中で大和が大爆発を起こし、これで水面へ押しあげられ助かった人が多くいます。海上は重油が浮き、浮遊物にしがみつこうと我も我もと生き残った兵士たちが争います。固まっていると米軍機が卑劣にも機銃掃射をかけてきました。駆逐艦が救助にきてロープを投げると一本のロープに数人が群がります。重油ですべってなかなか上れなかったといいます。
  高射長の川崎勝巳少佐は日ごろ
「軍人精神とは死ぬべきとは死ぬことだ。敵機必殺撃墜につとめよ」といっていました。大和が沈没したとき、海上に浮遊しながら「これにつかまれ」と配下のものに円材を渡し、「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ、ばんばっていきるんだよ」と励ましました。駆逐艦が救助に来ると皆が救助されるのを見届け、駆逐艦とは別の方向へ向かうように姿を消したといいます。

  沈没直後、艦長の有賀大佐は生きていました。防空指揮所にいて、沈没のときに海上に投げ出されたようです。乗組員の高橋弘氏が二、三人と漂流していると、ひとりが「艦長じゃないか!」と声をあげます。「艦長!艦長が生きとる」と高橋氏は大声をあげました。このとき有賀艦長と高橋氏の目が合い、その瞬間、有賀艦長は海に潜り、それっきり浮かんでこなかったといいます。高橋氏は「艦長は自殺したんじゃな。わしがこの目つきで艦長じゃないかと言うたし、周囲にいた者も言うたんで非難されたと思うたんじゃろう」と悔いています。

  昭和20年4月7日14時23分、北緯30度43分07秒、東経128度04分25秒、大和沈没。沖縄北部の屋我地島の海岸には「中城湾行き」と記された戦艦大和所属の破損品が多数流れ着きました。
  ちょうど4月7日は鈴木貫太郎内閣の親任式が行われていました。新内閣の軍需大臣豊田貞次郎の娘婿、山本祐二大佐は大和に乗りこんでおり、沈没後、漂流中に死亡しています。海軍大臣の米内光政は、皇居に参内し、天皇陛下に第二艦隊の戦況を奉上しました。

「陛下、連合艦隊は、もはや存在しません」


参考文献
  ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
  歴史通WiLL2009.7「歴史教科書に『大和』が載った」藤岡信勝
  歴史通WiLL2009.7「技術の粋が生んだ『大和』の美」原勝洋
  WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
参考サイト
  WikiPedia「大和(戦艦)」

添付画像
  戦艦大和(PD)

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大和 帰還セズ ~運命の特攻作戦~
http://www.youtube.com/watch?v=5XEnAoC7ujg

ひめゆり学徒召集

ひめゆりの本当の姿。

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  大東亜戦争の沖縄戦では師範学校および中学校の男子は防衛招集規則によって召集されました。そして二等兵に任命されます。女子師範学校および女学校上級生は軍属として陸軍病院・師団野戦病院に配属され、看護婦としての業務に従事します。男子生徒は1780人、女子生徒は581人です。有名なひめゆり学徒隊は沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名で志願によるものです。ひめゆり隊のほかにも「白梅学徒隊(県立第二高等女学校)」「なごらん学徒隊(県立第三高等女学校)」「瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校)」「積徳学徒隊(私立積徳高等女学校)」「梯梧学徒隊(私立昭和高等女学校)」があります。

白梅学徒隊 中山きくさん

「家族に入隊するというと『行くな』と引き止められました。那覇市外が全焼した十・十空襲の直後だし、家族としては私を手元から離したくなかったのでしょう。でも、小学校から『お国のために』と教えられてきた愛国少女でしたから、こんなときに私たちが行かなくてどうする、と思っていました」

ひめゆり学徒隊 宮里春子さん 艦砲射撃が始まった日

「先に年寄りを非難させ、父を防衛隊に送った母が、乳を飲んでいる妹をおんぶし、米一升を荷物にして、私にこうおっしゃるのであった。『お願いだから山原までいっしょについていっておくれ』と泣きそうになっては母はおっしゃっていた。
私は生徒です、ときっぱり答え、心の中では私は両手をあわせてわびながら、母と別れたのであった」


  ひめゆり学徒隊は南風原(はえばる、ふぇーばる)の沖縄陸軍病院に配属されました。当初は患者数も少なくそれほど多数の女学生を必要とせず、さらに生徒壕が超満員になったため、次々と生徒が集まってきますが、受け入れに窮し、とうとう先生がはせ参じた生徒に
「あなたがたが国難にはせさんじる気持ちはよくわかる。しかし、壕はこの通り超満員だ。帰ってはどうか」と勧めます。言われた生徒は学友といっしょに働けない寂しさがこみ上げて、立ち去ろうとしなかったといいます。

  ひめゆり隊を待っていたのは地獄のような光景でした。病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。

比嘉園子さん

「肩から指先までギブスをまかれている兵隊、気管をやられてたえずピーピーのどをならす兵隊、脳症を起こして真っ裸になってわめきちらす兵隊、およそ百人近く収容された薄暗い壕の中で、身の毛のよだつ思いであった」

  しかし、患者のやさしい言葉に、どんなつらいことでもしのぼうと思ったと述べています。

「こんなになると(両手が不自由)、みんながうるさがって食事のせわしてくれる人もいないのです。学生さんが来てくれて自分はほんと助かりますよ」
「学生さんは親切でよい」
「ご苦労様、しっかりたのみますよ」
「あなたがたにまでこんな心配をかけてすまんですな。あとしばらくの辛抱です」


  治療が数日に1回となってくると患者も気が立ってきて
「治療班のバッカヤロウ!いったい幾日になると思うんだ。包帯も腐っちまったじゃないか。手榴弾を投げてやろうか、ほら二個も持っているぞ」と正気の沙汰ではない様相をみせるものも居ましたが、包帯を取り替えた後、「やっと人心地つきましたよ。先刻はどうも失礼なことを言ってすみませんでした」とあっさり謝ったりしていました。

  現在、ひめゆり学徒隊は「かわいそうな犠牲者」、日本軍=犠牲を強いた加害者というイメージが刷り込まれています。しかし、ひめゆり隊の生き残りの方の手記からはそのような構図は見えてきません。



参考文献
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
      『沖縄戦における軍官民関係』原剛
      『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
参考サイト
  ひめゆり平和祈念資料館 http://www.himeyuri.or.jp/top.html
  WikiPedia「ひめゆり学徒隊」


添付画像
  映画「ひめゆりの塔」のスティール写真(PD)

  ひめゆり隊の生き残りの方の声「当時は恋愛どころじゃなかった。戦争ってそんな呑気なものだったのかと思われるのは心外」「映画にしても半分見てもうイヤだと思ったんです。川で水遊びするシーンなど、少なくとも私の記憶にはありません。あんなにキレイなものではありませんでしたよ」

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沖縄に迫る米軍

迫り来る恐怖。

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  昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。9月15日、米軍がペリリューに上陸。10月10日、沖縄空襲。この空襲は十・十空襲と呼ばれ沖縄本島だけではなく、八重山諸島、宮古島を含め沖縄全域に及びました。最も被害の大きかったのは旧・那覇市(現在の那覇市の一部)で、市街地の9割が焼失して同市は壊滅し、市内の死者は255名にのぼりました。日本軍は米艦隊の集結はキャッチしていましたが、目的地はつかめず、当日レーダーで敵を捕捉していましたが、レーダーの精度が低く、報告は信頼されませんでした。

沖縄師範学校女子部教諭 仲宗根政善氏の記録
「10月10日の朝、ヨウジをくわえて井戸ばたに立っていると、高射砲の煙が西空の朝もやの中にポンポンあがった。朝っぱらから演習かなと思っていると、けたたましくサイレンがなりひびく。
  空襲だ!子供の手をひっぱって家庭防空壕に飛び込むや、たちまちズシンズシンと地響きが伝わる。正子、民子がおびえて私の顔を見つめていた。今の爆弾は1キロと離れていない。『学校へ出かけるぞ』と言ったが妻の返事はなかった。妻子を壕に残して思い切って門を出た。飛行機がひっきりなしに飛んで、道は歩けない」

  10月10日は軍でちょうど図上演習があり、指揮官は一箇所に集まっており、兵たちには単に「演習」と伝えられていた為、朝からすごい演習と思ったようです。渡嘉敷の赤松部隊の赤松大尉は兵棋教育で那覇におり、旅館で空襲にあいました。
「女中に防空壕はどこかと聞くと、無いと答う。兵隊さん、どうしたらよいかと泣き顔なり。防空壕無ければ、詮方なし。勿論、逃げるところも不明。女中には、蒲団を被って大きな部屋で伏せているよう教えて、玄関に出てみれば、将官や佐官、5,6名立っていられる」・・・米軍の攻撃に対する準備が整っていなかったことが伺えます。

  添付の写真は米国のライフという雑誌に掲載されたもので、ボーイフレンドが送ってきた日本兵の頭蓋骨を机上において、それを眺めながら手紙を書いているアメリカの少女です。10・10空襲の少し前に日本でも知られるようになりました。

「奇怪なるこの写真、これこそ肉を食い、骨をしゃぶる米鬼の正体・・・怒りの眼をかっと見開いて野獣の正体を正視しよう」

  当時、米の残虐性はインディアン虐殺やフィリピン虐殺など知られており、ライフの雑誌やサイパン玉砕の報、そして十・十空襲の無差別攻撃によって沖縄県民の恐怖は募っていったことでしょう。そして恐怖を克服するにはそれを上回る敵意、戦意を持つしかありません。

  沖縄のマスコミ
「敵米獣にたいする憎しみ、憤りは日本一であるはずだ」
「県民の戦闘はナタで鍬でも竹槍でも・・・」
「鉄砲が無ければ竹槍でいこう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう」

  年末の県議会の採択した宣誓
「われら一同協心、特攻精神を以って敵米英を撃滅」

  米軍がやってきたのは翌昭和20年(1945年)3月でした。前掲の仲宗根政善氏の記録では米軍の沖縄上陸前に卒業式を済ませています。主事室には戦局の推移を示した太平洋の地図を貼っており、職員の一人がサイパンを指でさし、手を震わせて「もうすぐですよ。いまにきますよ」と沖縄にサイパンから線を引いていたといいます。


参考文献
  角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(著)
  WAC「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」曽野綾子(著)
  PHP「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の謎と真実」秦郁彦(編)
        『集団自決問題の真実 - 同調圧力に屈した裁判所』秦郁彦
添付画像
 LifeMag日本兵の頭蓋骨(PD)
参考サイト
  WikiPedia「十・十空襲」

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Battle of Okinawa 1 沖縄戦 1
http://www.youtube.com/watch?v=a7u7zdR8Sbs

沖縄県民斯ク戦ヘリ

沖縄県民は勇敢に戦った。

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 昭和20年6月23日、大東亜戦争沖縄戦が終結しました。沖縄戦でなくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。今ある平和は英霊の方々の犠牲の上に成り立っており、私たちはこの平和を守っていかなければならないと感じます。

 沖縄学の父と言われる伊波普猷(いは ふゆう)氏は沖縄戦時に次のような寄稿をしています。

「勇猛の気性を持った琉球人が今こそ、その愛する郷土を戦場として奮戦していることを想うと私も感慨切なるものがある」
「今や皇国民としての自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を迎撃しているであろう。勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く」


 伊波氏が言っているのは死にいくことをを助長するとか、命を落とすことに何も感じないとか、そういうことではありません。郷土愛です。郷土がアメリカに蹂躙されようとしているとき沖縄県民が立ち上がり、戦う沖縄県民を誇りに思っているのです。戦った歴史には意義があります。

 大田実中将は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と言いました。戦った歴史には誇りがあります。誇りある沖縄の歴史なのです。

 現代では沖縄戦については悲惨さばかり語られ被害者意識ばかりが誇張され、戦った人を犬死のように言うでしょう。現代の戦後平和価値観によって当時のことが語られています。時代によって価値観は変わりますが、今の価値観がすべて優れているとは限りません。戦後価値観に染まっていない当時の人々の声にも耳を傾けるべきでしょう。

 沖縄一中・鉄血勤皇隊、武富良浩さん

「篠原先生※1をはじめ、宮城辰夫君らの多くの戦没学友は皆、自分の使命に精一杯取り組み、国に殉じた、純粋で、心の綺麗な人ばかりでした。置かれた状況の中で人間の誠意、倫理を身に賭して貫くことは容易にできることではありません。特に近年、政界、官界、財界、民間ともに信義に悖る(もとる)行為や、我利我利亡者が平気でまかり通る世の中だけに、その感をいっそう深くします。しかし、そんな綺麗な生きざまがイデオロギーによって犬死のように言われ、弄ばれるのは、人間の世の中が薄汚くなった裏返しでしょう。篠原教官のような立派な人格が、軍人だった、配属将校だった、ヤマトンチュウ(本土人)だったという理由で、これまで顕彰されなかったのは人間としてはずかしいことです」

 海軍航空少年兵合格 座間味島・郷土防衛隊 宮平秀幸さん

「沖縄県民斯く戦へり。あのお言葉どおり、座間味もそうです。沖縄本島も軍民協力して一体になって、向かってくる米軍に対して戦いをやってきたのです。民間人は命も惜しまない、食糧も惜しまない、軍のために、国のために一生懸命真心尽くして戦ってきた」

「だけど戦争が負けてしまってあとはどうなってきたかというと掌を裏返したようになって、沖縄県民、どこと戦争していたのかわからないようになった。日本軍との戦争だったのか、アメリカ軍との戦争だったのか。もっぱら日本軍を悪く言っていますけど、そうじゃない。アメリカ軍と戦うために日本軍もいたし、日本軍は沖縄県民を守るためにここまで来ているんですよ。それを沖縄県民みな全員総動員で戦っているのに、戦争に負けてから全部日本軍が悪かったと言ってます。これは私、常識不足だと思います」

「批判するのはいいですよ。物書きの方々は人が傷つかないように書くのが常識です。真実とかけ離れて、ウソを書き上げていく、面白半分に書き上げていく。これは絶対許しがたい問題です。これは日本人ではありません



※1 勤皇隊隊長・篠原保司中尉。人格者として生徒に人気があった。


参考文献
 オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」
  『激論版 ゴーマニズム宣言 沖縄とアイヌ、同化をどう考えるか?』小林よしのり
 光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
参考サイト
 3/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] http://www.youtube.com/watch?v=HgZmKMHMMBE
添付画像
 首里城(PD)

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発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

左ノ電xx次官に御通報方取計を得度

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信が無く三二軍司令部又通信の余力無しと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代して緊急御通知申上ぐ

沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど(ほとんど)顧みるに暇なかりき

然れ(され)ども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ僅に(わずかに)身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃のがれx中風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり

而も(しかも)若き婦人は卒先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦(ほうすいふ)は元より砲弾運び挺身切込隊すら申出るものあり

所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生別れ娘を軍衛門に捨つる親あり

看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し身寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思はれず

更に軍に於て作戦の大転換あるや夜の中に遥に遠隔地方の住居地区を指定せられ輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり

是を要するに陸海軍部隊沖縄に進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只々日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ遂にxxxx与へ、xことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形x一木一草焦土と化せん

糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ

沖縄県民斯く戦へり(おきなわけんみんかくたたかえり)

県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを


※文中のx部分は不明

日本のナイチンゲール・上原貴美子

沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。

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 大東亜戦争の終盤、昭和20年(1945年)4月1日、沖縄本島へ米軍が上陸しました。沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校(一高女)より志願した222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊、いわゆる「ひめゆり隊」は沖縄陸軍病院(通称・南風原(はえばら)陸軍病院)に看護要員として動員されました。

 沖縄陸軍病院では婦長4名(うち県外から2名)、看護婦86名が学徒たちを統率しながら看護にあったっていましたが、上原貴美子婦長の話が良く知られています。テキパキとした働きぶりと優しい心遣いで尊敬を集めていました。ひめゆり隊の証言を読んでいると「気丈な人」という言葉がでてきます。
 婦長の仕事は多忙で、次々倒れる看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事の世話などいっさいが婦長の指揮でした。軍医の回診は4日に1度でしたが、上原婦長は看護婦達を激励しながら、毎日毎晩ガーゼのつけかえに回りました。各壕の見回り時に傷病兵たちは「婦長がきた」と手を叩いて喜んだそうです。

 婦長は糸満の出身で、地元の招集兵の入院患者には糸満の方言で話かけたそうです。「いがーちょーが」と声をかけたといいます。「どうしているか」という意味です。
 あるとき、婦長は麻酔なしの外科手術で痛みに泣く下士官に「帝国軍人がそんな弱音を吐いて、どうするんですか!」と喝をいれたといいます。

 第一外科の14号に配属されていた与那覇百子さんは、連絡のため壕を出ている間に自分の壕が艦砲射撃の直撃弾を受け、戻ってみると患者や同級生の頭は吹っ飛び、手や顔も無い胴体だけが壁にくっつき、脳みそや肉片が飛び散っているのを目撃してしまいました。気持ちを落ち着かせようとして上原婦長の壕にたどります。婦長は与那覇さんの報告を聞くと、
「これが戦争とうものよ。人間の命って、紙一重ね」と答え、「上地(旧姓)さん、疲れたでしょう。私の寝台に横になっていいのよ。しばらく寝ておきなさい」と勧めました。戦場の中で気を保ち、かつ心配りを忘れない、並大抵のことではないでしょう。

 沖縄師範学校の教諭だった仲宗根政善氏は生き残った生徒達の手記を集め本にしていますが、上原貴美子婦長のことを
「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。いや、日本の女性の中でもきわめてまれであったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護につかいはたしておられた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれた者はほかにはなかったであろう」と述べています。

 沖縄戦が終わる直前の6月19日、ひめゆり学徒隊は解散。それでも上原婦長は艦砲の合間をぬって各民家をめぐり歩き、たおれふした勇士をねんごろにいたわっていました。しかし、その日、山城の丘の上で、軍医と二人の看護婦とともに直撃弾を浴び、戦死。四人の中で生き残ったのは大城静子看護婦一人でした。

大城静子さん
「私は意識を失いましたしばらくして気が付くと婦長さんが私をだきかかえるようにして、私の上に折り重なっていました。・・・即死の状態でした」

 婦長がとっさに大城さんをかばったものと思われます。
 
 数年前に上原貴美子婦長をモデルとした2時間ドラマ「最後のナイチンゲール」が放送されたようです。テレビを見ない私は知らなかったのですが、戦場ではありえないような性描写があり、史実も捻じ曲げられていたといいます。ひめゆり隊にしてもそうですが、いくらフィクションとは言え、つい数十年前に純粋な心で日本のために命を捧げた人を、現代の利己主義、フェミニズム、3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス)におぼれた世にあわせて貶めるようなドラマはやめて欲しいものです。



参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」『ひめゆり伝説を再考する』笹幸恵
 角川文庫「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(編)
参考サイト
 WikiPedia「ひめゆり隊」「上原貴美子」

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 上原貴美子(PD)

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鬼畜米英の所業 ~ 沖縄戦

鬼畜米英というスローガンは的を射ていた。

Slifemag

 大東亜戦争終盤、昭和20年(1945年)3月26日より沖縄地上戦が始まりました。圧倒的な兵力と火力を前に日本軍は沖縄本島の南に追い詰められていきます。

 6月15日、沖縄戦も終盤。沖縄上陸米軍最高指揮官バックナー陸軍中将は日本軍に降伏を勧告します。ここでバックナー中将が戦闘観望中に真栄里(まえさと)付近で日本兵に狙撃され死亡してしまいます。(日本軍の榴弾が落下して爆発し被弾説もある) 戦闘を優位に進めている軍の最高指揮官が戦闘観望中に死亡するのですから、米軍の護衛の失態でしょう。
 勝手に憤慨した米軍は以降無差別攻撃に入ります。※1 喜屋武半島の三集落に対して砲爆弾を倍にして攻撃します。避難豪を見つければ投降勧告を行い即座に応じなければ、洞窟の頂上からドリルで穴をあけ、青酸ガスを容赦なく注入したり、豪の入り口から火炎放射器による攻撃を行います。戦闘員・非戦闘員の区別などなく片っ端から殺戮していきました。毒ガスも非戦闘員への攻撃も当然、戦時国際法違反です。空からガソリンを撒き、火をつけ焼き殺し、逃げ出す住民を機銃掃射するという残酷な殺戮方法まで行っています。この所業、まさに鬼畜です。

 米軍は嘉数で住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺しました。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものでした。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺されたといいます。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼりました。

真栄里 玉城千代さん

「若いものは(壕)の奥に入って、老人は前に並んでいたが、アメリカの兵隊に壕が囲まれて手を挙げたんですけど、手榴弾を投げられて、老人は揃って亡くなったんです。みんなで13名でした」

 この証言の日付がわかりませんが、民間人の投降も許さない掃討戦の時期と思われます。

真栄里 島袋勝子さん

「これは聞いた話ですけれど、アメリカ兵に壕の中にいるのを撃たれて、他は死んでしまって二人は残ったのがいますけれども、この人たちは壕の入り口にいたので助かって、奥にいるのは全部銃でやられていたそうです。それでこの人たちの話を聞いて見たら、このアメリカが事務所(役所)の方から上がってきたところは全部やられたわけですね、壕を全部あさって」

 これは伝聞を証言しているので、信憑性は弱いです。沖縄戦関係資料閲覧室の証言集を読んでいても真栄里や国吉の虐殺状況ははっきりしません。生存者が少ないというのが影響しているのかもしれません。毎日新聞社の「ドキュメント沖縄」を見ますと次のように書いています。


「前線に立った米軍司令官・バックナー中将が倒れ、戦死した。真栄里付近である。戦況に影響はなかった。ただ、米軍が報復で近くの住民を殺戮したともいわれるが、今になってははっきりしない。あったとしても『勝者』は、常に自己の『暗部』に寡黙である」

 どうやら、このあたりは伏せられており、住民が大量に死亡したという事実以外ははっきりしないようです。アメリカ兵の証言が一つだけ見られます。日と場所がわかりませんが、おそらく掃討戦の頃だと思われます。

アメリカ軍兵士クリス・ドナーの証言『ネメシス 日本との戦い 一九四四―四五年』(マックス・ヘイスティングス著、ハーパース・プレス社、ロンドン)

「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
『地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、『あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!』と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」


 こうした米軍の所業は語られず、いつの間にか「日本軍悪玉論」にすりかえられて沖縄戦は語られてしまっています。



※1 バックナー中将の死亡は関係ないという説がある。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之介
 藤原書店「ドキュメント沖縄1945」毎日新聞編集局 玉木研二(著)
参考サイト
 沖縄戦関係資料閲覧室 証言集 http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html
 加藤秀明コラム http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi
   杜撰な沖縄集団自決論  Date:2008/02/08 (Fri)

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 アメリカ=ライフ誌1944年5月22日号に掲載された日本兵の頭蓋骨を送ってくれた海軍のボーイフレンドに礼状を書いている写真。(PD)

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アメリカ軍の戦争犯罪
http://www.youtube.com/watch?v=4nxOqeW4nCo

海上特攻、沖縄へ向かった戦艦大和の使命

大和の使命は何だったのか。

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 昭和20年(1945年)4月7日、大東亜戦争、菊水作戦において米軍機動部隊の延べ380機以上の航空機による猛攻撃を受け沈没した戦艦大和ですが、なぜこの作戦が行われたか、本当に片道燃料だったのか、諸説あるようです。一億総特攻の魁(さきがけ)として作戦が立てられた、沖縄突入はハナから無理だがムードに押し切られてで作戦が決まったとか、沖縄県民を救えという機運の高まりから発案されたとか色々聞きます。
 
 沖縄県出身のジャーナリストの恵隆之介氏は防衛大学校時代に帝国海軍将校だった教官から
「大和は犬死だったといわれているが、実は崇高な使命を帯びていたのだ。この事実を忘れてはならない。お前にだけは言っておく」と聞かされたそうです。この教官は大和に乗り込むはずだったが、直前になんらかの事情で取りやめになったそうです。
 そして恵氏は昭和58年8月の「中央公論」に掲載された市橋立彦氏の文章を見つけます。市橋氏は塩野義製薬の原料課の係長でありながら「海軍大尉待遇嘱託」として軍でも働いていました。そのとき軍の療品廠長(軍の医療品調達部門)より命令を受けます。
「本日より一週間以内に、歯磨、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド(生理用品)15万人分を調達するために、協力してほしい。理由はいえない。直ちにカカレ」
 軍需品ではなく、民生用品であることは明らかです。そして市橋は物不足の時代の中なんとか掻き集めます。

 ・・・そして大和沈没。療品廠長がこう言います。
「市橋君、われわれが共に一週間たたかったあの四品目は、大和に積んだそうだ。沖縄県民のために残念なことをした。市橋君、本当にご苦労だった」

 この話を裏付ける証言や物証が今のところ無いので歴史の観点から確かなこととはいえませんが、作り話か?と考えると、昭和58年当時このような話を作っても意味がなさそうで、作るなら民生品という発想はないでしょう。真実と考えてもいいと思っています。そうするとやはり大和は沖縄にたどり着くことを前提においた作戦だったのか。
 草鹿参謀長が伊藤司令官に作戦の説明をしたときに伊藤司令官が
「援護の飛行機も無く、しかも片道燃料程度で作戦が成功すると思うのか」とつめよったとき、三上参謀が「本作戦は陸軍の総反撃に呼応して敵の上陸地点にのし上げ、陸兵になるところまで考えております」と回答しています。

 大和出撃の4月6日、午後6時、乗組員に正式な作戦伝達が行われます。特攻作戦だということが乗組員に知らされたのです。乗組員の海軍少尉・細田久一さん。

「(命令が伝達されたそのとき)顔色が変わりましたよ。真っ青になりました。私が前にいますから、見えますから、兵隊の顔が。ボクもなったかもしれません。それがね、若干しますとね、真っ赤に変わりました。よし、やったろうと。やるんだと」

 沖縄一中、鉄血勤皇隊の証言にも大和の話が出てきます。
「大和は沖縄本島の海岸線に乗り上げ、艦そのものが友軍の大砲台となるから、形勢は一気に逆転する」
「乗り上げたとたんに発電機が止まり、砲塔には弾一つ込められず、無用の長物となる。乗組員が上陸して戦おうにも舷側が海面上だけで40メートルもあり、どうして降りるのか」

 大和特攻は軍事機密ですが、勤皇隊は陸軍兵ですから、軍関係者からなんらか聞いたのかもしれません。

 軍事機密であるため大和乗組員もごく一部の高級将校しかしらない話なので真相はなかなかわからないかもしれません。戦艦大和を引き揚げる話がありますが、もし、この民生品あるいはこれ以外の民生品が出てくれば沖縄戦の見方も結構変わるかもしれません。




参考文献
 ワック出版 歴史通 2009.7月号別冊「歴史教科書に大和が載った」藤岡信勝
 ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
参考サイト
 WikiPedia「大和 (戦艦)」
 戦艦大和 悲劇の不沈艦 3/5  http://www.youtube.com/watch?v=1awMHFpT_J8
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 戦艦大和(PD)

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大和 帰還セズ ~運命の特攻作戦~
http://www.youtube.com/watch?v=5XEnAoC7ujg

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