無料ブログはココログ

38.チベット大虐殺

チベット大虐殺は現在進行形、加担する日本のODA

今も続くチベット大虐殺。日本政府は加担している。

Sflickr_japan_april_2008authcluster


 平成20年(2008年)のチベットでの騒乱による死亡者数は220名とされています。また、重傷者は1294名、逮捕者は5600名、290名が刑を言い渡され、平成21年(2009年)1月の時点で1000名以上が行方不明です。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では平成22年(2010年)7月にも依然として行方不明である発表がなされています。チベット大虐殺は現在進行形なのです。

 中華人民共和国(中共)は西部開発を進めていますが、これらは独立志向の強いチベット族、ウイグル族に対して漢族資本を押し寄せることで少数民族を経済支配するものです。貧困を軽減し、観光を促進するという名目で支配するのです。道路や鉄道、光ファイバーなどで漢民族の移住を増加させ、チベットの文化とアイデンティティを弱体化させ、チベット武装化を進めています。

 これらを間接的に支援しているのが日本のODAです。チベットを支配するために造った青蔵公路に沿ってラサから青海省の西寧を経て甘粛省の蘭州を結ぶ全長1300余キロメートルの光ファイバーケーブルは日本のODA援助により中共軍によって施設されています。平成10年(1998年)に完成しました。これらは当然軍事目的でも使用されています。このことを指摘する日本の政治家は誰一人いなかったといいます。ODAは空港拡張工事にも使われ、中共軍が軍事利用しています。

 日本のカネはODA以外にアジア開発銀行(ADB)や世界銀行から迂回して中共に支援が回っています。ADBは昭和41年(1966年)に誕生し、総裁はずっと日本の財務省の高官が就任しています。中共が加入したのは昭和61年(1986年)です。中共はADBから約2兆円の融資を受けています。平成20年(2008年)~平成22年(2010年)をみると約5000億円、37案件になります。この85%が中西部の「開発」支援で、これらは道路、鉄道、交通関連のインフラ支援であり、軍事使用が可能が可能なものです。平成20年(2008年)のラサ蜂起でも援助で作られた高速道路を経由して中共軍や人民警察部隊が現地の治安確保(大虐殺)に向かっています。当然、こうした融資はチベット亡命政府もチベット支援団体も抗議しています。

 チベット支援団体
「中国政府の西武開発計画は占領したチベットと東トルキスタンに集中しつつあります。アジア開発銀行(ADB)は貧困を軽減し、観光を促進すると言っていますが、中国政府がチベット掌握を不動のものにするために、この路線が使われようとしています」

 ウイグルでも日本のODAが使われ、なんと漢民族高官向けの温泉施設に化けてしまっています。中共の中日友好協会の名誉会長の王震氏が絡んでいたといわれており、日本の政治家も絡んでいたでしょう。

 日本のODAもADBも日本国民の税金からの援助、出資金です。これらがチベット大虐殺に間接的に使われてそして使い道に対してなんら言及されないのは異常です。お役人のマッサージチェア購入一つでマスコミは「国民の税金を!」と大騒ぎするのに、莫大な中共支援のODA,ADBは何も報じないのは異常なことでしょう。



参考文献
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『チベットを”核漬け”にした中共軍の野望』平松茂雄 
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『中国のチベット侵略に加担する日本のODA』青木直人
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   ラサでの抗議行動で殺害されたチベット人4名の身元判明 http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090818_4.html
   チベット亡命政府、チベット人2名に対する死刑判決を憂慮 ― 政治犯全員の釈放を要求 http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090409_cta_release.html
   2008年のチベット暴動の逮捕者は未だに行方不明 http://www.tibethouse.jp/news_release/2010/100722_arrest.html

添付画像
 河野洋平 河野洋平 原典Flickr: Japan, April 2008 Auth:Cluster Munition (PD)
 対中ODAを積極的に推進した

広島ブログ クリックで応援お願いします。

チベットだけでは無い、中国の侵略と弾圧
www.youtube.com/watch?v=7MO87zOUaRg

チベット大虐殺に加担した日本のマスコミ

日本のマスコミはチベット大虐殺に加担していた!

Sauthorbeger_bruno


 昭和25年(1950年)、中華人民共和国(中共)はチベットを侵略し、今日まで120万人といわれるチベット人大虐殺を行ってきました。このジェノサイドをマスコミはどう報道したのでしょうか。「諸君2000年6月『チベット侵略を礼賛した岩波新書の”迷書”』」潮匡人と岩田温氏のエッセイから新聞報道部分など抜粋してみます。

 朝日新聞(昭和26年6月3日)17条協定
「チベット軍も人民解放軍に編入され、またチベットには軍政委員会と軍区司令部が置かれることになっている。内政自治権は認められたとはいえ軍事的にガッチリ押さえられ、さらに外交権まで失った・・・中共のチベット解放は終わり、残るは台湾だけとなった」

 侵略、占領ではなく「解放」と呼んでいます。

 朝日新聞(昭和31年7月23日)
「チベット暴動説は疑問 亡命者の政治的宣伝か」
「このところネパールのカトマンズ、カリンポンなどから盛んにチベット反共暴動が起こっているとの報道が行われ、当地国府系紙は連日大々的に報じているが、当地観測筋では『針小棒大なもの』として批判的に見ている。
 当地の一般観測筋ではチベット問題の報道はカトマンズ、デリー、カリンボンに亡命しているチベットのラマ教徒の話しに基づいたもので、これをそのまま受け取ることは危険であるとしている」

 ラサ決起前ですが、チベット人の抵抗は大して問題になるものではない、としています。

 ラサ決起1年後、読売新聞は昭和35年(1960年)は以下のような見出しの記事を掲載しています。
「反乱1年後のチベット」「『消えた残酷物語』近代化へたくましい歩み」
本文書き出し
「一年の経過を見るとあの反乱で最もバカをみたのは反乱をおこした者・・・」「反乱のおこる前には、北京政府もチベットに忍耐強い態度をとり・・・」

 ラサ決起を「反乱」といい、反乱者を否定的に見ており、北京政府を肯定的に捉えています。

 同紙
「反乱によって、こうした社会制度の改革を頑強に拒んでいた反動的農奴王、支配者たちが、亡命したり投降してしまったので改革はかえって早められることになった。この改革は民主革命の段階と社会主義改造の二段階にわけてすすめられることになっており、目下すすめられているのは第一段階の民主革命である」

 侵略と大虐殺、拷問、強姦、暴行などなどを「民主革命」と報じています。

 岩波新書 A・L・ストロング著「チベット日記」 1960年安保当時の著

 わしらの太陽

 ダライ・ラマの太陽は
 領主達を照らした。

 毛沢東の太陽は
 わしら人民を照らしてる。

 いま、領主の太陽は沈み、
 わしらの太陽がある。

完全なマルクス主義史観です。

 岩波新書 アラン・ウィニントン著「チベット」
「ひとたびチベット全人民の、政治的にめざめた各階層を代表する自治政府が出来れば、--- そしてこれは極めて間近いであろうが --- その政府は、中国の全国的計画および社会主義の目標に歩調を合わせて、チベット開発計画を立てることができる」

 これらのマスコミ報道は中共によるチベット侵略、大虐殺を隠蔽したのです。日本国民はチベットで何が起きているかほとんどの人が知らされていませんでした。これはマスコミがチベット大虐殺に加担したといっても過言ではありません。まったく反省がないことから確信犯です。平成20年(2008年)3月にラサでおきた大規模な騒乱も日本のマスコミは「暴動」という表現を多く使いました。「暴動」というのは鎮圧する側の視点にたった言葉です。マスコミは「北京」の視点で報道しているのです。我々はこれらマスコミの正体を知っておくべきでしょう。



参考文献
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『チベット侵略を礼賛した岩波新書の”迷書”』潮匡人 
 オークラ出版「反日マスコミの真実2009」『チベットを貶め続けた朝日新聞』岩田温
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)

添付画像
 1938年のチベット。新年の催し。Author:Beger, Bruno

広島ブログ クリックで応援お願いします。


石原都知事 『朝日はチベットについてどう思うんだ!?』 9月14日
http://www.youtube.com/watch?v=4g7zhtDW4sA

共産党によるチベット人への悪魔の洗脳教育

子供の頃から洗脳されるチベット人。

Sauthorantoine_taveneaux


 いうまでもなく、チベットは中華人民共和国(中共)によって侵略されました。そして共産党政府はチベット人にチベットの伝統や文化はほとんど教えず、ダライ・ラマ法王を「国家分裂主義者」と批判しています。西蔵ツワンさんは日本でお医者さんになっていますが、子供の頃、洗脳教育を受け、その後父親に連れられて命がけでヒマラヤを越えて亡命してきた人です。

 西蔵ツワンさん
「前合わせのドテラを帯で巻きつけるようなチベット衣装を着て育った私たちには、人民服は目新しく、真っ赤なスカーフを首にまき、ワッペンをつけて得意になっていました。ワッペンは、ランクごとに一本線から三本線まであり、みんなランクの高い三本を目指して『アメリカ帝国主義反対!』『ダライ・ラマは国家分裂主義者』と競い合って叫ぶのです。私は二本でしたが、三本をつけているのは漢民族の子が多かった」

 プロパガンダ映画というのがあり、昭和34年(1959年)のチベット動乱のニュースフィルムでは中共軍が正義でチベットのお坊さんは悪で描かれていたといいます。満州事変の映画などは中共軍が戦って日本を追い出したことになっていたそうです。映画では悪いやつが出てくると石を投げたといいます。

 西蔵さんはそうしているうちに自然に洗脳されていき、インドに亡命した自分の父親も悪と思うようになったと述べています。

 ソナム・ドルカさんの証言 1967年生まれ
「学校には7年程、ラサの人民学校に通いました。授業はすべて中国語で行われて、生徒はチベット人しかいないというのに、学校でのチベット語の使用は固く禁止されていました」
「毛沢東が死んだ日のこともよく覚えています。どんな小さな子供でも皆毛沢東のことをよく知っていました。毎日、毛沢東を称える歌を歌い、毛沢東語録を暗唱させられていたからです。当日、子供たちは胸に白い花を挿(さ)して、葬儀に参加せねばなりませんでした。泣いていない子は『どうして泣かないのか』と言って先生から殴られました」

「先生に引率されて、ラサにある博物館に行ったこともあります。そこには、皆チベットが『封建社会』だった頃の展示物や写真がたくさんありました。一部の貴族が特権を独占し、民衆からの搾取によって私腹を肥やし、奴隷を虐待している様子。野蛮な刑罰を執行していた様子。そんな蛮行が人形となって並べられていました・・・先生はこう説明しました。『偉大なる中国共産党がチベット人たちを、野蛮な封建主義者たちから解放するまでは、民衆は常に虐げられ、苦しみ続けていた。・・・毛沢東主席のおかげで、今日、おまえたちはこうやって何不自由なく学校に行け、勉強することが出来るのだ・・・』」

 大人の場合も毛沢東や共産党がいかに素晴らしいかという思想教育の勉強会があります。街の広場では公開裁判や公開処刑が行われます。貴族や高僧たちを「われわれ解放軍がチベットに入る前、あなたは人民から搾取し、土地を奪いましたね」。抗弁は許されず、裁判官が判決を告げると立て札に漢字で罪名が書かれ、そのまま連れて行かれて、後頭部にズドンと一発、射殺されておしまいです。それまで敬ってきた高僧の死骸に唾を吐きかけるチベット人がいたといいますから、大人でも洗脳される人がいたのでしょう。あるいは踏み絵のように無理やりやらされていたのでしょう。

 平成8年(1996年)5月に中共の「愛国再教育」キャンペーンが着手され、チベットの僧侶や尼僧たちは政治的忠実を約束するため署名をするよう命じらています。そして、工作隊によって再編されたチベットの歴史と宗教を、何の疑いもなく承知するべきと命じられます。僧侶たちは秘密に監視され2,827名がそれぞれの寺院や尼寺から追い出され、165人が逮捕され、9人が死亡し、35人は自主的に寺院を去りました。工作隊は、「ダライ・ラマの悪事とチベット民族主義の弊害」を教え込むのです。

 大人や僧侶の場合は、ある程度洗脳されたフリができますが、子供の場合は恐ろく、まともに洗脳されていきます。西蔵ツワンさんは昭和37年(1962年)の10歳のときに両親に連れられヒマラヤを越えて亡命しました。日本へやってきたのが昭和40年(1965年)13歳のことで、ここでようやく共産党から受けてきた教育が、いかに強烈なプロパガンダだったか、「反ダライ・ラマ」を刷り込まれたかを知って、洗脳から解かれたのでした。




参考文献
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『私が体験した”洗脳・密告・公開処刑”』西蔵ツワン
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   チベットにおける「政治思想教育」 http://www.tibethouse.jp/human_rights/human21.html
   チベットでの中国の存在と人権の侵害- 意見と表現の自由 - http://www.tibethouse.jp/human_rights/human09.html
 チベットでの中国の存在と人権の侵害-宗教の自由- http://www.tibethouse.jp/human_rights/human08.html

添付画像
 チベットのこども 2009年 Author:Antoine Taveneaux

広島ブログ クリックで応援お願いします。

チベット尼僧 焼身自殺で必死の訴え
http://www.youtube.com/watch?v=bpChB_cf6Z4

チベット同様に日本を侵略せよ!大中華侵略思想

中華人民共和国は侵略国家。

S


 平成7年(1995年)、中華人民共和国(中共)の李鵬首相はAPECでオーストラリアのキーティング首相(当時)に「日本などという国は40年後には消えてなくなる」と発言しました。

北京週報(1989年2月21日)チベット独立論に反論する
「周知のように中国は昔から一つの多民族国家である。(中略) いまの中国は中国領土内に生活する多民族(現在生活している民族および歴史上存在していた民族含めて)がともに築き上げたものである。
 元朝の中国統一は、中国各民族人民の政治、経済、文化の発展に大きく貢献した。蒙古族の支配者が中国統一のために進めていた国内民族統一戦争を、外国民族による征服と考える観点が間違っているのは、中国が多民族国家であるというこの基本的な歴史的事実に背を向けているからである。蒙古族が中国を統一して元朝を建立したことは、その後満州族が中国を統一して清朝を建立したのと同様に、いずれも中国国内の支配民族の交代であり、蒙古人または満州人が『中国を征服した』という問題は存在しないのである」

 これが漢民族の歴史観、国家観です。かつて1911年の辛亥革命のときは中華民国は漢人を植民地支配から解放することを目指しましたが、清朝の版図を継承するため「中華民族」という概念をつくったのです。そしてそれをもとに侵略を正当化してきたのです。中共は社会主義イデオロギーから民族主義は否定しましたが56もの民族を統合、融合する必要に迫られ、大中華民族主義を掲げているのです。

 大中華民族に日本民族は含まれていません。が、ちょっとここで志賀島で発見された「金印」のことを考えなければなりません。「漢倭奴国王」と刻まれていますが「倭」はコビト、「奴」は奴隷のことです。これは冊封体制というのがあり、周辺諸国の王が支那の朝廷に貢物を納め皇帝から王に封じてもらい、その権威で国を治めていたものです。古代日本もその例外でなく、起源57年に朝貢して印綬を与えられたものがこの金印です。そしてその冊封から脱却できたのは聖徳太子の優れた外交戦略によるものです。ここで初めて日本は「天皇」という言葉を使います。

 従って中共の途方もない侵略の正当化を考えれば日本は歴史的にシナに隷属していた時期があり、大中華民族の僕になるのを正当化されてもおかしくない話なのです。中共の要人は来日するたびにわざわざ九州の福岡市博物館に金印を見にいきます。冊封関係の歴史を確認しているのです。平成4年(1992年)に天皇陛下に印章を贈呈しようとしたのも冊封関係をなぞらえたからです。

 「日本などという国は40年後には消えてなくなる」というのは中共のたわごとではないのです。かれらの考えていることは大中華思想からくる侵略です。そして日本は徐々に侵略されてきています。支那のことを「中国」と呼ばされていることは既におかしいでしょう。東夷、西戎、南蛮、北狄の野蛮人を教導するのが「中国」です。東夷は日本です。「中国」と呼んで宗主国をあがめろ、と戦後強要されたのです。民主党政権が進めようとしている「外国人参政権」「1000万人の移民」・・・中共国籍者が日本の内政に干渉するということです。夫婦別姓は中共への同化の一つです。民主党政権が掲げていた日本の主権を国連に移譲、共有するということなども国連の常任理事国に中共がおり、拒否権を持っていますから、日本の主権を中共が持つという意味です。東アジア共同体も同様の考え方です。中共の軍事的戦略区の東部戦略区には沖縄が既に中共の領土として組み込まれています。我々は日本が侵略されてきていることに気付かなければなりません。放置すればいずれ日本もチベットと同じ運命をたどります。


参考文献
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『胡錦濤への聖火は許せない』櫻井よし子
   『シナ人は如何にして侵略主義者となったか』酒井信彦
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 朱鳥社「続・日本人が氏ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 産経新聞社別冊正論Extra.15「南西諸島が、台湾が危ない!・・・」平松茂雄
参考サイト
 WikiPedia「中華思想」

添付画像
 中国から流出したとされる、2050年の日本の地図
 村上よしあき・オフィシャルブログより http://ameblo.jp/yocchi-mura/entry-10412544514.html

広島ブログ クリックで応援お願いします。


止まらぬチベット民族の焼身自殺
http://www.youtube.com/watch?v=4MU0E2iYAuw

「卵管を根元から引き出したときの苦しみといったら・・・」チベットでおこっている悪魔の民族浄化政策

中共はチベット民族の抹殺を画策しているのか。

Sauthorjialiang_gao_wwwpeaceonearth



「卵管を根元から引き出したときの苦しみといったら・・・耐え難いものでした。」

 チベット人女性が無理やり不妊手術を受けさせられた話です。麻酔など使わず、卵管を引っ張り出し、切除して縫い合わせる手術をされたのです。手術後は痛み止めのアスピリンを渡されただけで翌日には自分の面倒を自分で看、必要な点滴も自分で買わざるを得なかったそうです。これは英国のテレビ局チャンネル4が平成20年(2008年)3月以降にチベットへの潜入取材を決行し放送したもので、ジャーナリストの有本香さんはこの女性の体験は「最近の話ではないか」と分析しています。チベットの女性たちが、中共の当局によって不妊手術をさせられたり、避妊具の装着を強制されたとの話は以前より多くの亡命者が語っています。

 平成元年(1989年)2月26日付のワシントンポストに次のような目撃証言が掲載されました。
「"人口抑制隊"は僧院の隣にテントを設営した。村人たちは『すべてのチベット人女性は中絶と避妊手術を受けるためにテントに出頭するように。出頭しなければ重大な結果を招くことになるであろう』との連絡を受けた。拒絶した女性たちは強制的に連行され、手術された上、術後の処置も受けられなかった。妊娠数ヶ月になる女性たちは胎児を摘出された。たくさんの女の子たちが泣き叫んでいた。テントの横には胎児が積み重ねられ、異臭を放っていた」

 男性の場合はパイプカットという手間のかかる手段は良いほうで、性器そのものを切断する方法もあるといいます。支那では宦官が長く存在したせいか性器を切り落としてもなんら憐憫はわかないといいます。
 ラサ蜂起当時のIJC(国際司法委員会)のレポートによると28歳の小作人はアムド地方に派遣されてきた7人の医師たちに、頭をよくし、背を高く、体を丈夫にするための特別な治療を施すと告げられました。支那人医師たちは村人全員にこの治療を受けるように命じ、背いた者は殺されると伝えました。小作人は服を脱いでカウチのようなものの上に横にならされ、先に小さな鉤(かぎ)状の何かが付いた鉗子(かんし)のようなものを尿道へ挿入され、小作人はあまりの苦痛で意識を失いました。
 また、生殖器の検査と治療を受け、退院した後も一ヶ月間、家で寝ていたという23歳の男性の報告もあります。
「この治療を受けた後、彼は性欲が一切なくなり、妻と一緒に暮らしていたが一年間まったくセックスをしなかった。また、頭がボンヤリするようになり、自分の家に戻ろうとして間違って他人の家に行ってしまうこともあった。なお、同じ治療を受けた友人の一人は5ヵ月後に死亡した」

 中共は漢民族をチベットへ大量移住させ、行政も経済も漢民族が握っています。現在、チベットでは、チベット人600万人に対し、支那人は750万人で支那人のほうが多くなっています。チベット人との経済格差は広がり、チベット人の若者は働き口もなく結婚もままならないのでチベット人女性は漢民族の官吏に嫁ぐケースも少なくないといいます。無理やり離婚させられ支那人に囲われたり、強姦によって支那人の子を宿すケースも少なくないそうです。

 チベットでは住民20人に1人の割合で軍人が駐留しています。平成21年(2009年)4月には駐留する軍人の数は倍に増やされたという情報もあります。この監視のもと、チベットの悪魔の民族浄化政策は着々と進められているのです。



参考文献
 WiLL2009・12『中国の悪魔の所業 チベット民族浄化政策』有本香
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」
   『シナチズムという民族浄化』若杉大
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
  ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
     現在のチベットの状況 http://www.tibethouse.jp/situation/index.html#03
     産児制限と中絶・不妊手術の強制 http://www.tibethouse.jp/human_rights/human34.html

添付画像
 チベット人アバ四川省 Author:Jialiang Gao www.peace-on-earth.org

広島ブログ クリックで応援お願いします。


マスコミが報道しない大乱闘シーン! IN長野駅前1/2 Beijing Olympic Torch in Nagano
www.youtube.com/watch?v=tJCinEN6eds

チベット大虐殺に沈黙する平和・人権団体

日本の平和・人権団体は似非だった。平和を叫ぶ広島人はどう思うか?

Sauthoronwardtibetorg


 外出しても、何を叫んでも、殺されないこと

 これがチベット人が望んでいる「自由」であり、この声を日本の平和団体、人権団体はどう捉えているのでしょうか。

 平成20年(2008年)3月10日、チベットのラサで僧侶や尼僧を含む10人がチベットの旗を振り、ビラを配っていたところ、中共の武装警官がやってきて殴るなどの暴力で制圧しました。同日、300人規模のデモも行われましたが、これも数千人規模の武装警官に封じ込まれ50人以上が拘束されました。これを受けて翌日には600人規模のデモとなりました。14日、僧侶を中心とする数十人が座り込みの抗議活動をしていたところ、武装警官が僧侶たちに殴る蹴るの暴行を加え、数人の死者がでてしまいます。そして怒ったチベット人たちによる大規模な騒乱に発展していきました。中共政府はラサ市内に戦車や装甲車まで投入してデモを鎮圧し、大きな寺院を包囲して、事実上の戒厳令を敷きました。しかし、激化する運動は四川省や青海省、甘粛省に波及していきました。この騒乱の中共の弾圧によって多くのチベット人が命を落としました。正確な犠牲者数は不明ですが、少なくとも100人は犠牲になったと言われています。

 このラサの騒乱での中共政府のチベット人弾圧と虐殺について日本の平和団体、人権団体は一様に沈黙を守ったといいます。ジャーナリスト野村旗守氏の記事をみると3月18日になってようやくアムネスティー・インターナショナルの日本支部が中共大使館宛に抗議書簡を送ったとのことです。3月26日に日本ペンクラブ「チベットの事態を憂慮し、言論表現の自由と人権の尊重を求める」という声明を出すに留まっています。ピースボートは4月3日になってようやく声明。なんとも鈍く、アリバイ作りの匂いがします。

 野村氏によるとその理由について日本ペンクラブ「(協議の)時間的に余裕がなかった」「声明は日本国内問題に対して行われることが多く、慣例的に諸外国の事件に対しての発信はあまりおこなっていない」という答えが返ってとのことです。ペンクラブはアフガンの空爆では会長名で積極的に厳しい声明を出していたにも関わらずです。時間的に余裕がないのであれば、今後、会長名でチベット問題について声明を発表するつもりはあるのか?と問うたところ、「その予定はない」という回答が返ってきました。このほか、米兵や自衛隊の不祥事やイラク問題、中東問題にはガンガンに声をあげる日本国民救援会、自由法曹界、九条ネット、日本ジャーナリスト会議、バウネット・ジャパンは沈黙したと述べています。更に、ジャーナリスト水間政憲氏の記事でも反戦共同行動、反戦アクション、ストップ「報復」戦争・市民の会も沈黙したとあります。

 平成7年(1995年)に北京女性会議というのが行われ、亡命チベット人女性がチベットにおける迫害状況を紹介し、世界に伝えて欲しいと強く訴えました。チベット人女性の政治囚に対する激しい拷問は電気棒を用いて性的な拷問を加えるやり方ですから、初めて知った人たちは衝撃を受けたことでしょう。ところが、自由チベット協議会代表の酒井信彦氏によると、この会議は外国人5000人が参加しましたが、日本女性たちはチベット人女性の声を冷淡に無視したと述べています。たまたま会議に参加してチベット問題を初めて知りショックを受けた日本女性が、チベット人の声を日本で伝えようとしたら、周囲の妨害にあったといいます。

 現在進行形の大虐殺、世界を震撼させる現代版ホロコーストに申し訳程度しか声を出さない、あるいは沈黙するこれら平和団体、人権団体が平和や人権を守るためではなく、別の目的で動いていることは明らかでしょう。



参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」
   『日本の人権団体は黙ったままか』野村旗守
   『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『国境あり人権団体のチベット女性見殺し』酒井信彦
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
添付画像
 チベットの若い僧侶 Author:onwardtibet.org

広島ブログ クリックで応援お願いします。

チベットでの衝突 真の元凶は
http://www.youtube.com/watch?v=N9ewtLNtoeY


なぜ中共はチベットにこだわるのか

チベットは資源が豊富。

Ss


 昭和16年(1941年)9月、英領インドの解放工作のために日本陸軍藤原岩市少佐以下10名程からなる特務機関が作られました。F機関といいます。桐蔭横浜大学のペマ・ギャルポ教授はこの藤原岩市少佐に戦後の昭和45年(1970年)に会ったことがあると述べています。藤原氏の自宅にいくと大きな世界地図があり、そこにはチベットの河の河川すべてに線がひかれていて、河川の深さや流れのスピードを測ったり、水量などを計測した数値が事細かに書き込まれていたと述べています。これは何のためなのかと聞くと「チベットにアジア全体に供給できるような水力源を作る考えがあったんだ」と述べたそうです。

 中共がチベットにこだわる理由の一つにこの「水」があるといわれています。インドシナに流れるメコン河、サルウィン川、インドのガンジス川、パキスタンのインダス川とアジアのほとんどの大河がチベット一帯をを水源としています。チベットを押さえることはアジアの蛇口を握ることなのです。命綱を握った上で、ラオス、タイ、ミャンマーの国境「メコンデルタ経済圏」へ投資して経済支配権をとっていこうとしています。また自国の膨大な水の需要をまかなうことも必要であり、雲南省に多くのダムを建設しています。

 それからチベットには莫大な資源が眠っいます。126種の鉱物の存在が確認されており、リチウム、クロム、銅、哲の埋蔵量は世界的に見ても有数だといいます。アムドには油田もあり、ガス田も眠っているといいます。鉱物資源のほか森林資源もあります。しかし中共人には山をもとに戻すための植樹という考えがないらしく、山が丸坊主になれば次を探すという行動パターンのようで、この森林伐採は深刻な環境問題になっています。森林を伐採しすぎると土砂が河に流れ出し、堆積し河底が上昇して洪水がおきやすくなります。中共で、しばしば河川の氾濫があるのは行き過ぎた森林の伐採が原因と言われています。また、森林の伐採は動物の生態系を崩し、ジャイアントパンダなどの希少動物が絶滅してしまう危険を生んでいます。

 あと良く知られているのが軍事拠点としての天然の要塞となりうることと、増えすぎた中共の人口の受け入れにすることがあります。そして今では観光の収入も欠かせないものとなっています。チベット自治区に訪れた旅行者は平成19年(2007年)には400万人を突破(前年比60%増)となりチベットの地域のGDPの70%を占めるといわれています。そしてそこに民族融和政策の「ショーケース」として政治的な利用価値があるのです。それから奪った財宝で「大チベット展」を開き、収益を得て、「チベット文化を大切に保護している」とアピールしています。これに加担しているのが朝日新聞とTBSです。

 さらにチベットは核廃棄物の投棄場になっています。その管理はずさんなもので、安全性の確保は10年しか保証されていないといいます。このため風化作用によって地下水が汚染されていき、その水が飲料や灌漑用に使用されていくのです。中国国家環境保護局は「1980年から1985年に1200人が放射能により健康を害し、20人が死亡した。放射能が漏れたことへの責任は、放射性廃棄物処理の規則に従わなかった管理者にもあるだろう」と発表しています。工場が排出する汚染水もひどく支那人は通告を受けて水を飲まないようにしているのに対し、チベット人は何も聞かされておらず、汚染された水を飲み続けているといいます。

 アジアを支配できるチベットの水、地下資源、森林資源、軍事拠点、観光収入、興業収入、増えすぎた人口の受け皿としての土地、核廃棄物の投棄場・・・中共にとってチベットはどうしても手放せないのです。それでも開発によりチベット人が豊かになればまだ良いのですが、漢民族が搾取しているのが実体なのです。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 WiLL2009・12『中国の悪魔の所業 チベット民族浄化政策』有本香
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   環境問題 Environment 森林 http://www.tibethouse.jp/enviroment/envi01.html
   「聖地チベット ~ポタラ宮と天空の至宝~」展に関して日本の皆様へのお願い http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090928_appeal.html
 WikiPedia「特務機関」

添付画像
 チベット、金箔をかぶせた青銅、サンフランシスコのアジア美術館(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


中国がチベットを手放せない理由
www.youtube.com/watch?v=xWql0K8pI0o


パンチェン・ラマ

拉致されたパンチェン・ラマ。

S9thpanchen


 パンチェン・ラマをご存知でしょうか。チベットの高僧です。ダライ・ラマがチベット人にとって「太陽」であるのに対してパンチェン・ラマは「月」であり、阿弥陀仏の化身と言われています。

 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始しました。中共はパンチェン・ラマ10世を利用してダライ・ラマ14世との対立構造をつくろうとしました。侵略の開始に先立ち、パンチェン・ラマ10世を利用して「チベット解放」はパンチェン・ラマから毛沢東への要請という形にしたのです。そして中共はパンチェン・ラマ10世を確保し続けました。

 パンチェン・ラマ10世は最初はチベットには改革が必要だと思っていました。ところがダライ・ラマ14世がインドに亡命した2年後の昭和36年(1961年)、中共の国内の視察にいくと、中共はやっていることと言っていることが違うということに気づきます。そして昭和37年(1962年)、パンチェン・ラマ10世は毛沢東に7万言の意見書を提出し、中共政府の政策を批判しました。このため投獄され、80年代まで軟禁状態にされます。

 昭和39年(1964年)、中共はパンチェン・ラマ10世にダライ・ラマ14世を批判させようと企みました。そしてラジオで演説させようとしたところ、パンチェン・ラマ10世は原稿を無視してマイクに向けてこう語ったのです。

「私は一日も早くダライ・ラマ法王が玉座に戻り、そのもとでチベット民族が繁栄することを希望しています。ダライ・ラマ万歳」

 パンチェン・ラマ10世は昭和54年(1979年)に漢民族の女性と結婚し、一女をもうけます。中共は「チベット族と漢族の架け橋」と宣伝します。パンチェン・ラマ10世の派の僧は結婚してはならないことになっていましたから、中共の謀略です。
 パンチェン・ラマは恥辱にまみれながらも文化大革命で破壊されたチベットの寺院の再建に力を尽くします。中共はダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係を悪化させようと企みますが、昭和60年(1985年)、モンラム祭をラサで祝う集会の席で、パンチェン・ラマはこう語っています。

「ダライ・ラマ法王と私は、精神的な絆で結ばれています。法王と私は一心同体なのです。世の中には私たちを対立させようともくろんでいる人がいるようですが、それは無駄な骨折りです」

 昭和62年(1987年)3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、パンチェン・ラマは、教育、経済開発、移住、チベット人への差別待遇などについて、中共政府のチベット政策をあからさまに批判します。
 平成元年(1989年)1月24日には、中共によるチベット支配をシガツェで再度非難し「チベットは中共から得た恩恵よりも中共によって失ったもののほうが大きい」と述べます。このときも中共政府が用意した演説原稿を無視して演説したといわれており、この歴史的な反中声明を出してからわずか4日後、パンチェン・ラマ10世は謎の死を遂げました。

 パンチェン・ラマ10世の死後、チベット人僧侶によって平成7年(1995年)に後継者の6歳のニマ少年を探し出し11世を認定します。しかし中共政府は別の少年を転生者として11世としたのです。平成20年(2008年)のチベット騒乱で「愛国的メッセージ」を述べたのは中共の造ったパンチェン・ラマであり、本物のパンチェン・ラマは中共によって両親と共に隔離されています。その生死は現在も不明です。



参考文献
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『中国に操られた朝日のチベット報道』酒井信彦
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   パンチェン・ラマ10世 http://www.tibethouse.jp/history/panchen_lama.html

添付画像
 パンチェン・ラマ9世 1900年(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

チベットにおける中国軍の蛮行
www.youtube.com/watch?v=hTKNENM2WoQ

チベットと日本人

日本と友好の歴史があった。

S1910


 チベットは本来独立国でありながら、中華人民共和国に侵略され、120万とも言われる大虐殺を受けた国です。現在では一部はチベット自治区として中共の版図に組み込まれ、そのほかは青海省、甘粛省、四川省、雲南省に編入されています。チベットは仏教の国であり、歴史をみると日本と友好関係にありました。

 初めてチベットに日本人が訪れたのは明治24年(1891年)のことで河口慧海(かわぐち えかい)というお坊さんです。河口は日本に伝わっていた仏教の経典の内容に疑問を抱き、インドの原典の内容をとどめているというチベット語の大蔵経を入手しようとチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見しています。河口慧海は明治36年(1903年)に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行します。この書は一躍人気となり、本当に彼がチベットへ行ったのか、という真偽論争まで巻き起こったといいます。

 矢島保次郎は明治44年(1911年)にラサに入り日本との提携を説いて回ります。元日本軍人として日露戦争に従軍していた経験を買われ、チベット軍の軍事顧問に招かれ、ダライ・ラマ法王の目にとまって法王の親衛隊長まで務めました。日露戦争がアジア、アフリカに与えた影響は大きく、チベットも例外ではなかったのでしょう。アジアで唯一西洋に対抗できる力を持った国は日本だと見ていたと思います。残念ながら日露戦争の間にイギリスはチベットに影響力を持つようになっており、矢島保次郎はイギリスの圧力により大正7年(1918年)に日本に帰国することになりました。

 青木文教は仏教大学(現・龍谷大学)大学院生のときに西本願寺法主・大谷光瑞の命でチベットに派遣され、大正元年(1912年)にラサ入りを果たします。ダライ・ラマ13世の信頼が厚く、チベット国旗(雪山獅子旗)をデザインしたといわれています。(異説あり) 青木はチベットを離れる前の晩、ダライ・ラマ13世と同室で就寝したほど現地に深く溶け込んでいたといいます。

 多田等観(ただとうかん)は日本に留学していたチベット人僧侶の世話役を務め、彼らに日本語を教え、自らチベット語を習得しました。明治44年(1911年)、ダライ・ラマ13世から留学僧に帰国指示がでます。多田は留学僧に請われてともにインドへいきます。そしてインドでダライ・ラマ13世に謁見すると、多田はチベットのラサへ来るよう要請を受けます。そして1年後、イギリスの官憲の目をかいくぐりヒマラヤ越えへでラサに入りました。ダライ・ラマ13世は多田をチベット三大寺院のひとつ、セラ寺に預けて、国際情勢の説明役の地位を与えました。

 日本がアメリカ、イギリスと対立をして禁輸によって苦しめられた第二次世界大戦の前のころ「同じ仏教国が苦しい思いをしているのは看過できない」としてアメリカに売却予定だった羊毛を日本へ大量に送ってくれたことがあります。日本と連合国の開戦後に連合国から支那への物資輸送ルートを要求したときもチベットは拒否しています。これはチベットへ渡った日本人が肯定的に捉えられたほか、多田等観らが日本にきたチベット僧侶に好印象であったからだといわれています。

 戦後、チベットは中共の侵略を受けました。昭和42年(1957年)、ダライ・ラマ14世がタイ経由で来日されています。このとき、来日に尽力したのが読売新聞社主の正力松太郎でした。東京でチベット展覧会を開催しました。展覧会に置かれた地球儀にはチベットは中共とは異なる国として描かれていました。中共は抗議し、展覧会のガラスが割られるという妨害があり、さらに中共は読売新聞の記者を中共から追放するなどしています。

 日中国交回復がなると日本の政治家は中共に遠慮し、マスコミは中共に対して批判的なことは口にしなくなりました。平和団体も人権は団体もほとんどがチベット問題には沈黙しました。唯一、安倍晋三首相(2006年当時)が胡錦涛主席に向かって「チベットでの人権状況に憂慮している」と述べたのみです。



参考文献
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
参考サイト
 WikiPedia「青木文教」「チベットの旗」

添付画像
 ダライ・ラマ13世1900年(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


【チベット問題】天台宗僧侶の涙ながらの声明【生放送】
www.youtube.com/watch?v=jzAWOmYpoLc

ラサ蜂起、ダライ・ラマの亡命とチベット亡命政府

ラサ蜂起、血塗られた金曜日。

S20104


 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始します。当初、中共人民解放軍はチベット人に対して親切にふるまいましたが、やがてその本性を現していきます。こうした中共にいちはやくカンパ(カム地方の人)が抵抗を開始し、ゲリラ戦を展開するようになります。中共への抵抗は全国的な機運となっていきました。共産党政府はこうした状況に苛立ち、チベット人の指導者であり象徴であるダライ・ラマ法王の身柄拘束に動きました。

 昭和34年(1959年)3月、中共はダライ・ラマ14世に「人民解放軍司令部での観劇」に招待します。ラサの中共軍の駐屯地です。しかも「警護をつけない」「出発の際、儀式をしない」ことを条件とする異様な“招待”でした。法王側が断っても中共軍は執拗に要請し、徐々に脅迫の色合いを帯びてきます。
 3月10日、中共が法王の「拉致」を企んでいると察知したチベットの民衆は迎えにきた中共のジープの進入を阻むため、ノルブリンカ宮殿の周囲に集合。チベット全土から民衆が集結し、30万人にも及びました。人々は法王が招待に応じないよう叫びながら「チベット独立」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールを続けました。11日、1万2千人の女性がポタラ宮殿前をデモ行進しました。共産党政府は武力制圧を示唆し、チベット駐留軍を増強し始めました。

 19日、人民解放軍がノルブリンカ宮殿へ向けて一斉に砲撃を開始。宮殿は徹底的に破壊され、周囲にいた民衆は木っ端微塵に吹き飛ばされました。「血塗られた金曜日」です。9万人に及ぶ犠牲者が出ました。中共側はダライ・ラマ法王の命を狙っていましたが、法王は3日前に極秘裡に脱出し、インド国境へ向かっていました。

 そして4月20日、8万人の民衆とともにインドへ政治亡命したダライ・ラマ14世は、チベット亡命政府を樹立し、中共に強制的に結ばされた「17条条約」の破棄を宣言したのです。この宣言についてジュネーブの国際司法委員会(ICJ)は法学的見地から次のように結論づけています。

「中国が17条条約に違反したことで、この条約の拘束力は失効し、チベットは条約下で失われた独立国としての主権を回復したと見なすことができる」


 チベット亡命政府は昭和35年(1960年)5月にインド北西部のダラムサラに移ります。正式には中央チベット行政府 CTA (Central Tibetan Administration)と言います。13万人に及ぶ亡命チベット人の福祉を守っています。
 チベット亡命政府には憲法があり、自国の建国について「釈尊(ブッダ)の教義に基づいて建てられた」としててダライ・ラマを最高首長としていますが、完全な信教の自由を保障しています。そのほか「戦争と武力行使の放棄」があります。
 チベット亡命政府は三権分立があり、立法、行政、司法機関があります。立法はチベット亡命会議があり、亡命チベット人の直接選挙によって選ばれる46名の議員で構成されています。行政は宗教文化省、内務省、財務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、厚生省があります。司法は「亡命チベット最高司法委員会」という裁判所がありますが、亡命チベット人は滞在国の法律に従って生活しているので、亡命チベット人社会の民事問題を裁くのが主な役割のようです。

 ダライ・ラマが亡命してもチベットではアメリカのCIAの援助を受けて、ゲリラ部隊が抵抗を続けていました。しかし、アメリカは泥沼化していたベトナム・インドシナ情勢打開のためにソ連と関係が悪化していた中共と手を組んでしまいました。チベットへの支援は打ち切られました。チベット人ゲリラ部隊は人民解放軍とネパール軍に挟み撃ちにされる危機に瀕する事態に陥り、まずネパール軍と戦う決意をします。そこにダライ・ラマ法王からのメッセージを録音したテープが届きました。

「祖国防衛のためにチベット国内で中国人と戦うのはやむを得ないが、他の民族の地で血を流す権利はどこにもない。我々が幸せになるために他の民族の幸せを踏みにじっていいということもない」

ゲリラ部隊は涙ながらにネパール軍に投降しました。チベットの武力抵抗は終了しました。



参考文献
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『胡錦濤への聖火は許せない』櫻井よし子
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   中央チベット行政府 http://www.tibethouse.jp/cta/government.html

添付画像
 2010年4月チューリッヒで大聖堂-ヤードの上 Author:Roland zh

広島ブログ クリックで応援お願いします。


【暴れる中国人】チベット旗を暴力で奪い取る【気味悪い】
www.youtube.com/watch?v=4K1XctEI0DU


より以前の記事一覧

2022年2月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28