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40.皇室

江戸時代の天皇と庶民

江戸時代、天皇は庶民にとってどのような存在だったか。

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 江戸時代は「将軍」がいた時代ですが、庶民は「天皇」をどれほど意識していたのでしょうか。

 天皇は京都御所にいらっしゃいましたが、臨時、恒例の儀式や行事の際、庶民でも禁裏御所の中に入ることができました。恒例では「節分」、一月の「後七日御修法」「左義長」、7月の「禁中御燈籠」、12月の「御神楽」があります。臨時では「即位礼」「御能」、亡くなった人の法要にあたる「御懺法講(おせんぽうこう)」「御八講」などがあります。「即位礼」のときに庶民が御所に入れたとは驚きで、かなりの人が詰めかけたと記録に残されています。「節分」では「来る正月内侍所え参詣人の儀、元日昼八つ時より七つ時までのうち参詣いたし候ように申し聞くべき事」というお触れが出されており、禁裏御所内が時間を限って開放され、かなり混雑するほどの参詣人だったようです。このほか、牡丹拝見や御能拝見でも庶民は御所の中に入ることができ、地方から上京してきた人々も地下官人そのほかの手ずるを使って御所を拝見することが可能でした。御所は民衆に閉ざされた空間ではなかったわけです。

 職人は「受領名」というのを持つことができました。例えば神社の銅製の燈籠の後ろ側には「従五位下越後守藤原為次」というように国名に「守(かみ)」「介(すけ)」などが刻まれているのがそうです。刀鍛冶で「和泉守兼定」が有名でしょう。筆師や絵師、小細工、などなどいろいろな職人が受領名を持っており、明和5年(1768年)には1088名の職人が受領名を持っていました。これは朝廷に申請し、関白が内覧して、天皇の裁可を得ます。ただ正規な手続きを経ないで受領名を名乗る職人が多かったようです。

 暦の作成は古来より天皇・朝廷が行うべき国家事業で唐の宣明歴がずっと使われ続けましたが、天文学者の渋川春海が授時暦を研究し朝廷がこれを採用し、貞享元年(1684年)に改暦を宣下しています。この後、暦作成の実権は幕府に移りますが、形式的手続きは朝廷に残されています。農村では伊勢の御師が配った「伊勢暦」が使われており、それには当然元号が書かれています。改元のときは「年号改元之儀京都より仰進められ、文化予(と)御治定遊ばされ候。右之趣公儀より仰出られ候間」というふうにお触れが出されました。京都の朝廷と江戸の幕府ははっきり区別されていました。

 天皇・上皇や将軍・大御所が死去すると「鳴物停止令」「普請停止令」というのが出され、歌舞伎音曲や建築土木の大音響が一定期間(7-50日地域差あり)止められました。お触れはただちに全国津々浦々に届いています。もちろん琉球にも届いており、天皇崩御の際は日本全国で喪に服しました。

 外国人の観察でも天皇は庶民の尊敬を受けていたことがわかります。

 オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」

 百姓一揆では天皇と百姓の関係が明らかに意識されました。「姓」は天皇から与えられるもので、「百姓」は多くの「姓」という意味で公民の総称です。直接天皇に徳政や年貢減免を訴えた一揆も多く、文政4年(1821年)の一揆で逮捕された林八右衛門の「観農教訓録」に、「然れば上御一人より下万人に至るまで人は人というに別はなかるべし」と「天皇のもとの平等」を訴えています。

<嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆>
 百姓どもカラカラと打ち笑い、
 汝等百姓などと軽しめるは
 心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、
 士農工商天下の遊民
 源平藤橘の四姓を離れず、
 天下の庶民皆百姓なり、
 其命を養う故に
 農民ばかりを百姓というなり、
 汝らも百姓に養るなり。
 此道理も知らずして
 百姓杯と罵るは不届者なり

 天下の庶民みな百姓、おのれら武士の命をも養っているのだ、カラカラと笑っているところが記録されています。農民は天皇の権威のもと強い存在でした。

 江戸幕府が倒れ明治の時代になると、武家の頭領である「将軍」がいなくなったわけですから、祭司王である「天皇」が軍服も着なければならなくなりました。この新しい天皇の姿、大君の姿は江戸庶民には捉えにくかったかもしれません。明治5年(1872年)、新橋・横浜間鉄道開業式に向かう天皇の馬車を見物する人々を見て、イギリスの画家・漫画家のワーグマンは「畏敬の念を持つ様子もなく、ただじろじろ見ているだけだった」と自ら書いた絵に解説を入れています。それから18年後、フランス人の画家・漫画家ビゴーが明治23年(1890年)の内国勧業博覧会開会式に出席する天皇の馬車が到着した絵を書いています。これには威儀を正して見ている庶民の姿がうかがえます。この頃になると憲法も発布され、近代国家の元首としての「天皇」という意識が浸透してきたようです。



参考文献
 講談社「江戸時代の天皇」藤田覚(著)
 SAPIO 2009/11/11「天皇論追撃編」小林よしのり
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「ビゴーが見た明治ニッポン」清水勲(著)

添付写真
 第11代 霊元天皇像(泉涌寺蔵)(PD)

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皇室は質素

西洋の王室の大富豪とは次元が違う日本の皇室。

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 私の妻は皇室は大金持ちで一流のものを食べ、一流のものを身に付け、優雅な暮らしをしている、と思っています。これは大きな誤解ですが、マスコミなどが欧州の王室のような報道の仕方をするから、そう思い込んでしまうのでしょう。

 戦前の皇室は御料地といって全国に土地を持ち、有価証券など莫大な財産がありました。ですが、主に国策会社で不動産も96%は材木を得るための林野でしたから私有財産というより国庫とあまり変わらない位置づけでした。そもそも皇室は無私の存在です。戦後、GHQは財閥などの力を弱めるため一回限りの財産税法を課し、皇室財産も90%は国庫におさめ、さらにGHQ憲法によって資産のほとんどは国に納めました。原則的に皇室には私有財産というものは認められていません。

 皇室のための予算は「宮廷費」「内廷費」「皇族費」があり、宮廷費は宮内庁管理のもと国事行為や儀式、行幸啓、外国訪問、宮殿の補修に使われます。内廷費は天皇および皇族方の日用の費用に当てられ、平成21年度は3億2千万円です。いわゆるプライベートマネーですが、3割は祭祀などの人件費にあてられています。ですので、本当の意味で皇室が自由に使えるお金はさほどありません。昭和天皇は生物関係の研究書を買うときに侍従に「少し高価だが、経費に差し支えなかったら買ってもらいたい」と新聞広告を示して相談されたというエピソードもあります。皇太子殿下(今上天皇)の初等科卒業のお祝いに写真機をプレゼントしましたが「あまり立派なものや高価なものを与えては将来のためにならん」とおっしゃられて宮内庁写真部の中古品を利用したといいます。

 皇室は戸籍がないため、保険にも加入できません。宮内庁病院を利用すれば皇室は無料ですが、最新の医療技術が整っているわけではないので、宮内庁病院で手に負えない病気になると一般の病院で治療するため高額となります。宮内庁病院は老朽化が進んでおり、雅子妃殿下がご出産のために入院されたとき、米紙は「設備がボロボロ」「なぜロイヤルベビーが質素な病院で生まれなければならないのか」と報じたそうです。

 食事もごく普通の家庭料理を召し上がり、食材も御料地の牧場と築地の水産会社から仕入れます。高級食材など購入するゆとりはありません。毒見役というのはいません。侍医や調理スタッフが味付けや栄養素に問題がないかチェックする程度です。御用達制度は悪用、乱用する者が現れたからできた制度で、昭和29年に廃止されています。

 このように皇室は欧州の王室のような大富豪とはまったく異なります。雅子妃殿下がご病気になられたとき、欧州のマスコミは「プリンセスは因襲だらけの皇室に閉じ込められ病気になった。ヨーロッパの王族のようにもっと自由に、週末はヨットで海に出たり、夜はいろいろなレストランやナイトクラブで楽しむことを、日本の宮廷は許すべきだ」などと言い、日本のマスコミが「そうだ、そうだ」と報じるようなことをするから国民の間に誤解が生じるのだと思います。



参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
参考サイト
  WikiPedia「財産税法」「御用達」

添付画像
  雅子妃殿下 平成21年12月23日の一般参賀(PD)

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天皇陛下の稲作と働くことの美徳

天皇陛下の稲作には大きな意味があった。

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 毎年、天皇陛下が田植え、稲刈りをされるニュースが流れます。皇居内にはちょっとした水田があり、コメ作りが行われています。このコメは11月23日に行われる新嘗祭で神前に供えられます。陛下の稲作りが報道陣に公開されるのは春の「種もみまき」と初夏の「田植え」、と秋の「稲刈り」の3回あります。
 宮内庁によると稲作は昭和天皇によって始められたとなっているそうですが、明治より前は不明なものの、明治天皇が明治の初めに赤坂御苑内に水田を作らせ、陛下自ら耕されたと伝えられています。歴史的に見て天皇陛下は農耕民族の代表者であり、五穀豊穣、国民の安寧を祈る祭司王ですから伝統として何らかの形で現在に引き継がれていると考えることができます。日本書紀では天照大神(あまてらすおおみかみ)が自ら神田を営み、新嘗の祭りを行ったとあります。

 見方を変えると神話では天照大神が田畑仕事をしており、現在の天皇陛下も田畑仕事をしており、仕事・労働は尊いもの、"徳"であるとうい考え方を日本人は持っていると見ることができます。

 麻生太郎元総理が総理になる前にこんなことを言っています。
「日本人の底力の一つは労働を美徳とするところではないか」

 麻生元総理は「旧約聖書」と「古事記」の違いを述べています。旧約聖書は神様が人間に罰を与えて働かせた。だから7日目には安息の日曜日がある。古事記は天照大神が自ら畑に出たり、機(はた)を織って働いたと書いてある。神様が働いているのだから日本人は働くことは良いことだ、と思っている、というものです。

 この話はなるほど、と思いました。西洋では休暇をとるために働くといいますが、日本にはそのような考え方はありません。政権交代前、麻生総理が「老人は働くことしか能がない」と言ったのをマスコミは騒ぎ立てましたが、何のことはありません。働くことは美徳なんですから、褒め言葉であり、失礼でもなんでもありません。麻生元総理は日本人の持つ徳性を理解していたとのに対して、マスコミは理解できなかったのです。

 たしかに日本人は労働を美徳だと無意識に考えていると思います。私の両祖父は老後も絶えず何かしら家のことや地域のことをやっていましたし、現代の日本人も夜遅くまで働きます。外国からも日本人は働きすぎとか勤勉と言われます。"働きすぎ"というのは批判としてありますが、だいたいそれは労働は罰と考えるキリスト教国の白人からの批判でしょう。ルック・イーストを叫び日本を範としたマレーシアのマハティール元首相は「日本人には勤勉な血が流れているのだから誇りに思うべき」と言っています。
 定年を迎えた人もまだまだ労働意欲があると聞きます。戦前の教育勅語にも「広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)」というのがあります。以前、私が勤める会社で管理職の研修があって、「10億円もらったらどうするか」というテーマがありましたが、みな「それでもやっぱり働くんだろうなあ」という答えが返ってきました。やはり日本人はどこかしら労働を"美徳"と思っているようです。

 こうしてみると今上天皇が伝統を受け継がれて稲作を行われるのは大変大きな意義があることに気づかされます。労働は美徳であること。これを天皇陛下が御身をもって国民に示しているのです。そしてその勤勉さが底力となって日本を過去から現在まで支えてきたわけです。どんな激動の時代も乗り越えてきました。そして国体が変わらない限り、日本人は"勤勉"さを底力として今後も幾多の困難を乗り切っていくことでしょう。


参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 PHP文庫「日本の『神話』と『古代史』がよくわかる本」日本博学倶楽部(著) / 島崎普(監修)
 祥伝社「日本人の覚悟」日下公人(著)
 新潮社「立ち上がれ日本人」マハティール・モハマド(著)/ 加藤暁子(訳)

添付画像
 平成23年の稲刈りのご様子 宮内庁提供 
  http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110928-2128.html

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皇居勤労奉仕団

奉仕の精神を育てる。

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 皇居勤労奉仕団とは皇居や東宮御所・各宮家の邸宅のある赤坂御用地の敷地内の清掃などをボランティアで行うものです。15人以上で60人までの団体(15歳以上70歳以下)を組めば年間を通じて誰でも応募、参加できます。平日の4日間連続で作業します。このとき陛下がご会釈されることがあります。会釈(えしゃく)というのは非公式に会うという意味です。陛下が人に会う行事は「会見」「引見」「拝謁」「会釈」「お茶」「お茶会」に別れています。「会見」は国家の元首級に使われる言葉です。No2級だと「引見」と言います。マスコミはときどきNo2級でも「会見」と言ったりするので注意が必要です。

 昭和20年(1945年)終戦後、空襲で草が生い茂った皇居の草刈をさせてくれと、宮内省(当時)に申し出た国民がおり、これが皇居勤労奉仕の起源です。62名の男女が自主的に上京してきて3日間奉仕しました。このとき昭和天皇は大変喜ばれて勤労奉仕団の前に姿をお見せになりました。これが口コミで全国に広がります。昭和26年(1951年)には4万人に達しました。
 この勤労奉仕をみて宮内府(当時)が昭和23年(1948年)に「一般参賀」を認めました。それまでは位階勲等がない人は皇居には入れなかったのです。元日には7万人、翌2日には14万人が参賀に訪れました。これを昭和天皇が宮内府の屋上からご覧になられたのが現在行われている「一般参賀」の起源になります。

 勤労奉仕団は学校や赤十字といった団体が取りまとめて申し込みしています。平成16年(2004年)の数字を見ると291団体9241人が参加しており、17年~19年も200団体台、6000~7000人で推移しています。
 参加者は期間中、皇居に通える近い場所に自費で宿をとります。交通費も自費です。勤労奉仕作業では、皇居の一般参賀でもはいれないような領域に入って作業ができ、その期間中、天皇皇后両陛下が地方訪問や外国賓客との会見といった行事と重ならなければ「会釈」の機会があって、参加者は間近で両陛下に対面できます。
 「ご会釈」は主に毎週火曜と金曜の午前に皇居内の宮内庁庁舎脇にある蓮池三集所で行われます。参加者が待つ中、御所から車で天皇皇后両陛下が到着すると、まず陛下からねぎらいのお言葉があります。団体の代表者には直接、お言葉をかけられます。「どちらからいらっしゃいました」などとお声をかけられ、その地域に訪問したことがあれば「○○(地域)には○○(施設の名など)がありましたね」といったお話もされます。その地域が自然災害などの被害にあっていたりすると、たとえば「台風で大変だったようですが、作物のほうは大丈夫ですか」といったことも聞かれるといいます。そして最後に奉仕団が「天皇陛下、皇后陛下、万歳」と万歳三唱して終わるようです。

 このほか、回数は少ないものの「賢所勤労奉仕団」というのもあり、宮中三殿で大きな皇室祭儀が行われる際、準備や片付けなどを行う奉仕団があります。これは神社関係の数団体があります。これも天皇皇后両陛下は「ご会釈」をされます。11月23日の新嘗祭での「献穀者」という米や粟(あわ)を献上した農家の方々に対しても「ご会釈」が行われます。公務ご多忙の中でも常に国民を気遣う両陛下の御心を伺い知ることができます。


参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)

参考サイト
 宮内庁 皇居勤労奉仕のご案内 http://www.kunaicho.go.jp/event/kinrohoshi.html

添付画像
 皇居(JJ太郎撮影 PD)

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天皇皇后両陛下の被災地お見舞いと福祉施設ご訪問

大御心はありがたい。

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  天皇皇后両陛下は国内に災害などがあると災害後間もない被災地にお見舞いに行かれます。東日本大震災では平成23年3月31日、東京武道館に避難している被災者のもとを訪問され慰問されたのを皮切りに各地の被災地を訪問されています。武道館ご訪問の報道によると両陛下はすべてのグループをお声がけされ、時間が50分もオーバーしています。両陛下のスケジュールは分刻みですので、侍従は何度も陛下に耳打ちしたと思いますが、こういうケースでは陛下はお聞き入れにならないそうです。食事の時間を削ったりして調整されるといいます。

  平成23年4月14日には千葉県旭市を訪問され、初めて被災地に入られました。両陛下はいつもの通り、膝をついて被災者の方々と同じ目線でお言葉をかけられます。こうした光景は平成に入ってから見られるようになりました。昭和の時代は少し違い、戦災を受けた国民を励ますための全国巡幸が行われています。


  両陛下の被災間もない現地ご訪問 ()は災害発生日
  ・平成  3年  7月10日    雲仙普賢岳の大火砕流被災地へ(6月3日)
  ・平成  5年  7月27日    北海道南西沖十進で津波の被害にあった奥尻島へ(7月12日)
  ・平成  7年  1月31日    阪神淡路震災の被災地へ(1月17日)
  ・平成16年11月  6日    新潟県中越地震の被災地へ(10月23日)
  ・平成19年  8月  8日    新潟県中越沖地震の被災地へ(7月16日)


  この他、災害からしばらくたっているものの、伊豆諸島で続いた地震や三宅島噴火の被災地の復興状況視察やお見舞い、福岡県西方沖地震被災地の復興視察に行かれています。
  両陛下は現地の復興作業に迷惑かけないため、自衛隊のヘリや小型機を使用されたり、マイクロバスをお使いになり車列を短くするなど様々な配慮をされます。警備も最小限にするよう現地警察に申し入れたり、県警本部の本部長の同行を「復旧作業の指揮にあたってほしい」とお断りになることもあります。

  天皇皇后両陛下は被災地ご訪問のほか福祉施設を訪問されます。年3回定期訪問されます。


  子供の日前後・・・児童福祉施設
  敬老の日前後・・・高齢者福祉施設
  障害者週間前後(12月3~9日)障害者福祉施設


  このほか天皇陛下は皇太子時代より特に思いをかけられていることにハンセン病患者のことがあり、昭和50年(1975年)には沖縄の「沖縄愛楽園」を視察されています。両陛下は地方行幸啓の際に周辺に療養所があった場合、必ずと言っていいほど訪問されています。大正天皇の皇后、貞明皇后がハンセン病の予防救済に尽力されていたことを受け継がれているのだと思います。

  こうした皇室の福祉には伝統的なつながりがあり、日本最初の福祉は奈良の大仏を作った聖武天皇の皇后、光明皇后が開いた悲田院、施薬院といわれています。

  明治以降、主に皇后陛下が福祉に力を入れられ、昭憲皇太后は東京府養育院東京慈恵医院に多額のお金を下賜、看護学校の卒業式にご出席されたり災害や事故があると慰問し、お金を下賜しています。また聾学校や身障者の保護にご熱心でした。現在の皇室の福祉の取り組みは昭憲皇太后が原型をお作りになったといわれています。韓国で福祉活動をされた李方子妃殿下もこの影響を受けてのことでしょう。

  赤十字には「昭憲皇太后基金」というのがあり、明治45年(1912年)の第9回赤十字国際会議で昭憲皇太后が寄付した10万円(現在の約3億5000万円)をもとに創設され、その利子は各国の赤十字社に配分して保健衛生事業や災害救護活動に役立てられています。ちなみに美智子皇后陛下は現在、日本赤十字社の名誉総裁をお務めになっています。

  天皇皇后両陛下の福祉への思いは「大御心」であり、それは伝統として受け継がれているものです。常に天皇皇后両陛下は国民とともにあり、大御心は健常者が普段忘れがちな障害者にもちゃんと照らされているのです。



参考文献
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
参考サイト
 WikiPedia「東日本大震災に対する皇室の対応」
 宮内庁
  東北地方太平洋沖地震に伴う避難者をお見舞(東京武道館(足立区))
   http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110330-1820.html
  被災者お見舞(旭市海上公民館(旭市))
   http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110414-1838.html
 両陛下、都内の避難所をご訪問 すべてのグループに声をおかけに+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
  http://ceron.jp/url/sankei.jp.msn.com/life/news/110331/imp11033101240000-n1.htm

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東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば
http://www.youtube.com/watch?v=YhyYGt3F0C0



東日本大震災1周年追悼式
平成24年3月11日(日)(国立劇場) 天皇陛下のおことば

  東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
  1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
  さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
  この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。
  また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆(きずな)を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
  被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
  今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


宮内庁 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h24e.html

聖帝オホサザキと昭和天皇

2000年、伝統は受け継がれた。

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  オホサザキ(仁徳天皇)は日本の第16代天皇(在位:313年2月14日-399年2月7日)です。都市を発展させ善政を敷いたため聖帝として名高い天皇です。

  あるときオホサザキは高い山に登り、山上から国を眺め国情視察を行いました。するといずれの家からも煙が立ちのぼっていません。この情景から人々が貧しいため、煮炊きができないと判断した天皇は3年間、税や使役を免除しました。
  その間、天皇も耐え忍びました。御殿が破損して雨漏りがしても修復せず、桶で雨を受けました。また、天皇自身が雨漏りのない箇所に移るという具合に自ら苦労されています。
  この仁徳天皇のあたりから天皇は宗教的な神に近い存在から、統治上の具体的な解決を示す統治者に変化してきています。そしてその特徴は人民を思いやる慈悲深さであり、天皇自らも体験して分かち合うということにあります。

  仁徳天皇のこの話は昭和天皇に通じるものを感じます。

「朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。」昭和20年8月15日 終戦の勅書 (赤誠・・・少しもうそや偽りのない心 信倚・・・信頼)

「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す」昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書の一文より。(休戚とは喜びも悲しみも、という意味)

「皇太子以下たべ盛りの子供たちはそうもゆくまいが、私の食事だけは国民と同じ配給量にしてくれ」
    ・・・戦後まもなく

「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間ぐらい風呂に入らなくても構わない」
    ・・・昭和21年6月6日 巡幸に際して貨物駅に列車を止めて仮宿泊


「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物着たって当たり前だが、日本は負けて、今みんな着るものも無くてこまっているじゃあないか。洋服なんか作る気になれない」
    ・・・昭和22年夏東北巡幸を前に侍従長に洋服の新調を勧められて。

  昭和天皇は昭和19年暮れより、防空施設として造られた御文庫に住まいを移されますが、終戦後も国民に住居がいきわたるまでは、と吹上御所に戻るのを断り続けました。

「公の仕事をするには手狭なところがあるが、私生活に不自由はない、引揚者や戦災者のことを思うとそんなもの(新居)を別に造るときではないと思います」
    ・・・昭和22年6月3日 文庫の手狭な様子について宮内庁記者の質問に答えて。


「家が建ったね」
    ・・・昭和22年12月広島行幸 広島の街を眺めながら。

  昭和36年12月に新たに建てられた吹上御所に移られました。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」



参考文献
  PHP文庫「日本の神話と古代史がよくわかる本」日本博学倶楽部(著)/ 島崎普(監修)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)

参考サイト
  WikiPedia「仁徳天皇」

添付画像
  大仙陵古墳(「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より)

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昭和天皇香淳皇后その2
www.youtube.com/watch?v=hnOvL2gOPVo

昭和天皇とマッカーサーは親密だったのか

昭和天皇が国民に語りたかったこと。

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  昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやかにご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどというのを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
  訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。

  明らかに昭和天皇はマッカーサーを拒否しています。

  昭和天皇はこのときの訪米を前に外国人記者団とこんなやりとりをしています。
記者
「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下
「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下
「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下
「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下
「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

  私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。

「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
  昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

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【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2 www.youtube.com/watch?v=qw8N_zqbPoQ

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談

伝統によって育まれた品格。

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  添付の写真を見たことのある人も多いでしょう。この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されました。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

  この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。

作家 高見順
「かかる写真はまことに古今未曾有」

歌人 斉藤茂吉
「ウヌ!マッカーサーノ野郎」

  しかし、皇太子殿下(今上天皇)とご学友は奥日光に疎開していましたが、この写真を見るなり口々にこう叫んだというのです。

「日本が勝った!」
「マッカーサーはネクタイもしないで礼儀をしらない!」
「成り上がりの田舎っぺ!」
「アメリカはあの程度の国か!」
「日本は礼節の国だぞ!」

  皇太子殿下の前なのでご学友が気を使ったとも考えられますが、よく考えると皇太子殿下やご学友の感想は的を射ていると思います。といいますのは、日露戦争の旅順戦の水師営で行われた乃木希典・ステッセル会談を思い浮かべるからです。水師営で乃木将軍は敗軍の将にも帯刀を許し、最大限の礼をもって迎えています。会見写真は一枚も撮らせませんでした。このことは世界を驚愕させました。これは明治天皇の指示によるものです。当然、大東亜戦争当時も日本はこの精神を継続しています。ちなみに、マッカーサーの父は旅順戦に観戦武官としていましたので、マッカーサーはこの話を父から聞いているはずですが、何も学習していないと言えます。対して昭和天皇は乃木将軍より教育を受けています。

  日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉えた写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです。マッカーサーは昭和天皇が命乞いにきたと思っていました。

昭和天皇「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(マッカーサー回想記)

 この会見の内容は口外しない約束でしたが、マッカーサーはベラベラしゃべりました。昭和天皇は昭和52年(1977年)に記者からマッカーサーとの会見内容について聞かれ、「マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした」「男子の一言は守らなければならない」とお答えになり、生涯口外することはありませんでした。


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
参考サイト
  WikiPedia「乃木希典」

添付写真
  昭和天皇とダグラス・マッカーサー 第一回会見のときの写真(PD)


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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1 http://www.youtube.com/watch?v=Ux7vS2P18kY

皇室の存在意義

世界に冠たる皇室。日本不動の核、天皇陛下。

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 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は戦後10年目の昭和30年(1955年)ドイツへ留学し、ある家庭へ招待されたときのこと、
「日本にはたしか、"テンノー"という元首がいたはずだが、敗戦後はどうなったのですか?」と訊かれました。そして「今でも天皇は戦前と変わらずに在位していますよ」と答えたところ、ドイツ人は非常に驚いたといいます。欧州では革命や戦争で敗北した元首や帝室が以前と変わらず存在しているということは信じられないことだからです。
  渡部氏はイギリスやアメリカでも日本の皇室は神話の時代から2600年以上も連綿と続いているという話をすると彼らは一様に感心すると述べています。

  世界には日本を含めて28の君主国があります。人口100万以下の君主国は9ヶ国。100万から1千万以下は11ヶ国。人口5千万以上の君主国というと日本、イギリス、タイのわずか3ヶ国となります。人口からすると日本は世界最大の君主国となります。歴史を見てもデンマークの王室が女系を含めて10世紀頃まで行き着くことができ、イギリスのウィンザー家18世紀以来で、さかのぼれば11世紀半ばのノルマン朝になります。タイのチャクリ朝は18世紀後半からの血筋です。日本は2600年の歴史があり、大和朝廷を最初に考えても3世紀半ば以来となります。

  外国人の皇室の観察をあげてみます。

  大正から昭和初期にかけての駐日フランス大使 ポール・クローデル

「日本の天皇は魂のように現存する。彼は常にそこに居るものであり、いつでも居続けるものである。・・・個々の行動を天皇に帰するのは不都合であるし、不敬でもあろう。彼は介入しない。民の問題に労働者のように口をさしはさみしない。だが、彼がそこに居なければ、物事はそれまでのように立ちゆかなくなるであろうこと、たちまち物ごとが頓挫し、逸脱してしまうであろうことは知られる通りである」

  歴史学者 ベン・アミー・シロニー

「歴史が始まって以来、日本の統一された社会、国家を象徴するものといえば天皇制であった。日本の歴代の天皇は政治手腕に欠け、経済、軍事面で非力であったにもかかわらず、他のどんな大勢力も立ち向かうことのできない、ある種の強力な権力を行使していた。他の国々とは違い、歴代天皇が日本の歴史に直接の影響を与えたことはほとんどなかったが、天皇だけが有する威力が日本人を統一させ、日本国にその正統性を与えたのであった。天皇こそが、日本の不動の核なのである」

  なかなか的を射ていると思います。もし、天皇が居なければ、ポール・グローデルの言葉を借りると
「たちまち物ごとが頓挫し、逸脱してしまう」となり国が混乱することになります。ベン・アミー・シロニーの言葉からでも、天皇が居なければ、なんらかの大権力、たとえば独裁的な勢力が出現させる可能性もあるし、日本がバラバラになり不安定になる危険がでてきます。

  こうして見ると皇位継承の問題は、日本という国の権威や日本そのものの存亡に関わような大きな問題といえます。日本人が皇室に対して無知ではいけませんし、反皇室的なメディアは日本を混乱に陥れようとする意図があることを見抜かねばならないでしょう。皇統とは何か、男系とは何か、女性天皇と女系天皇の違い、天皇陛下の祭祀のことなどをよく知っておくべきでしょう。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『世界に冠たる日本の皇室』高森明勅

添付画像
 天皇陛下がカナダのリッチモンドを訪れたときの写真 10 July 2009 Author:Shawnc (CC)

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世界最強の天皇陛下 http://www.youtube.com/watch?v=grusT6J7bXc

昭和天皇の全国巡幸

国民に勇気を与えた全国巡幸。

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 昭和20年(1945年)10月 昭和天皇から宮内府次長へ

「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」

  こうして昭和天皇の全国巡幸が始まりました。

 最初に訪れたのは川崎の工場でした。このとき、アメリカの報道陣は戦勝国の横暴を隠そうともせず、陛下を小突き回し、引っ張りまわしもみくちゃにして写真を撮りました。しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。
 
  警護していた日本人
「なんと雄々しいことだろうか。日本の再建のために、今、国民のために耐え難きを耐えていられるのだ」

  川崎の工場の士気は鼓舞され生産性はたいへん上がったといいます。

  静岡県では巡幸反対を唱える共産党員が居ましたが、昭和天皇はまったく気にせずお言葉をかけられたところ、その共産党員は陛下がお帰りの際にお召車すれすれに顔を寄せて「天皇陛下万歳!」と叫んだといいます。

  軽井沢の駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったとき、婚約者を戦争で亡くした女性教師は
「私は天皇陛下万歳といいません。そういう人間ではありません」と言っていました。しかし、お召し列車が目の前を通り、陛下が手を振っておられたとき、その女性教師は「天皇陛下万歳」を叫び号泣していたといいます。
 
  昭和22年(1947年)12月8日 読売新聞 広島行幸
「80名のいたいけな"原爆孤児"たちがお待ちする市外の観光道路で車から降りられた陛下は日夜読経に明け暮らす谷口義春(15)君など4名の法衣の孤児たちをなぐさめられ”明るく勉強なさい”と励まされると子供たちは"ハイ"と元気に返事する。(略)爆心地に近い護国神社あとの広島市奉迎場で5万人の市民の前にお立ちになった。そして陛下が浜井市長の奉迎の言葉に答えられたお言葉は、巡幸中で一番長いものであった。 - "熱心な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う、みなの受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない・・・"

  昭和24年(1949年)5月28日長崎 朝日新聞 原爆病のため面会謝絶中の永井隆博士を長崎で見舞って
「ベッドに伏したままの永井博士にお近づきになった。”どうです病気は?” "ハイ、おかげさまで元気でおります" "どうか早く回復することを祈っています、著書は読みました" このお言葉に感激した博士は"手の動く限り書き続けます”とお答えした」

永井博士が詠んだ歌
「天皇は 神にまさねば私に 病いやせと じかにのたまふ」

永井博士
「天皇陛下は巡礼ですね。形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、陛下の御心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました」

  鉄道沿線には人垣ができてお召し列車を見送る風景が各地でみられ、昭和天皇は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示され、人が居れば窓からお受けになりました。

 昭和天皇の巡幸は強行日程で行われ、九州巡幸では23日間、お立ち寄りの場所は190箇所にのぼり、三池炭鉱のような過酷な場所までお巡りになりました。最後の方には同行記者やカメラマンがのびている状態だったといいます。四国巡幸ではあまりの強行スケジュールにアメリカ人記者は
「この四国旅行のような、ただただ身体を酷使する旅行によく耐え得る政治家を日本でもアメリカでも知らない」と語りました。

  昭和29年(1954年)、北海道巡幸が行われました。長万部、白老、旭川ではアイヌの伝統衣装に身を固めた長老たちが日の丸を振り、陛下をお出迎えしました。長老のひとりの言葉。
 
「どういっていいか涙が出るほどのうれしさで、長生きしていればこそ、天皇、皇后さまにお会いできた。もういつ死んでも本望です」

  昭和62年(1987年)、沖縄訪問をひかえて、昭和天皇は
「戦没者の霊を慰め、長年県民が味わって苦労をねぎらいたい」と仰られていましたが、慢性膵炎で倒れられました。その思いを陛下はこう詠まれました。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

 昭和天皇のご意思は皇太子殿下(今上天皇)に引き継がれ、皇太子殿下が代わって沖縄を訪問し、天皇陛下のおことばを代読されました。

「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿を変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。(中略) 改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々や遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたい」


 昭和天皇は健康が回復すれば沖縄を訪問するご意思でしたが、もはや体調が許さず、念願の一つを果たせないまま昭和64年(1989年)、崩御されました。



参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。(PD)
 

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昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces

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