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01.大東亜戦争

硫黄島決戦

決死の敢闘、硫黄島玉砕。

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 昭和20年(1945年)2月19日、米軍が硫黄島に上陸します。よく、「沖縄は日本唯一の地上戦」といわれますが、これは誤りです。テレビでもよく間違ったまま報道されます。もう少し言うと南樺太や千島列島でも戦闘があります。日本領という定義だとペリリュー島も該当するでしょう。

 小笠原方面最高指揮官・栗林忠道中将は昭和19年(1944年)5月に父島へ赴任し、米軍は硫黄島に来ると予見して、全長28キロに及ぶ地下陣地構築を指示します。サイパンの水際作戦は艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えたからです。地下陣地の有効性はペリリューで実証されました。

 19日、米軍は上陸したものの一発の銃弾も飛んでこないのを不思議に思いました。島南部の飛行場占拠を目指し進みます。上陸地点の海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時頃、遂に日本軍の隠蔽陣地から猛射を浴びます。海岸では塹壕も掘れず米軍の死傷者は続出しました。進めばいつの間にかどこからともなく猛射を浴びます。ロケット弾が「ヒュー」という音を立てて飛んできて米兵の四股はバラバラになって吹き飛びました。あまりの惨状に発狂する米兵が続出したといいます。栗林戦法は恐ろしい程の効果を発揮しました。米軍は平文で電報を打ちます。

「われわれはかつて見たこともない精強な日本軍に遭遇し、1ヤード、1ヤード血の進撃を続けている。病院船を回航せよ、病院船を回航せよ」

 21日、木更津からは神風特攻隊「第二御楯隊」が組織されます。

 定森中尉
「敵艦に体当たりする一瞬は二百七十分の一秒ぐらいだという。敵艦の二百メートル前からが二秒、自分は何とか笑って突っ込めそうだ。単機で巨艦上の敵兵一千以上に挑むのは男冥利につきますわ」

 第二御楯隊は空母サラトガ、護衛空母ビスマルク・シーに突入。サラトガは大破戦場離脱、ビスマルク・シーは轟沈。護衛空母ルンガ・ポイントほか輸送船らも大火災を起こします。これに硫黄島の守備隊が呼応して米砲兵陣地を猛射し、夜間には米爆薬庫を襲撃し爆破に成功しました。硫黄島の兵士たちは息を飲んで特攻を見つめていました。

「きたぞ。俺たちのために死んでくれるんだ」

南海岸のほうから軍歌が高唱されます。全滅を待つばかりの陸軍残存部隊高唱しているのです。(歩兵の本領)

 万朶(ばんだ)の桜か襟の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
 散兵戔(さんぺいせん)の花と散れ

軍歌は次第に島の北にも広がっていき、全島を揺さぶる大合唱となっていきました。

 栗林戦法は米軍に大打撃を与えましたが、日本軍も次第に戦力を消耗していき、翌月の3月17日「帝国海軍万歳、勝利を確信す」の電文が海軍の最期になります。3月18日には栗林中将から最期の電文が大本営に入電されます。
 3月16日、米軍は硫黄島の占領を正式に発表。「26日と9時間の戦いで海兵隊戦死傷者24,127人、その歴史168年で最も厳しかった」

 3月26日、栗林中将、市丸少将らは最期の突撃を敢行。この奇襲は成功し、米軍の戦闘機整備隊と工兵大隊を殺傷し、建設大隊や野戦病院、米軍トラック30両を爆破炎上させました。結局斬込隊262名が戦死。翌27日までに栗林中将を初め陸海軍の司令官と幕僚は自決して果てました。

「硫黄島」を書いたビル・D・ロス
「硫黄島は集団の勇気および個人の勇気が問われたランドマーク(画期的事件)であった。その戦いは、人類がおそらく二度と目撃するとは思えないほど強烈なものであった」



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 新潮文庫「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯久美子(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」

添付画像
 硫黄島戦闘の様子(米軍撮影 PD)

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硫黄島決戦 ~暁に祈る~ http://www.youtube.com/watch?v=LSB2JmV5r9s

ブラック・デス・アイランド ~ 硫黄島

硫黄島の戦い。

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 昭和20年(1945年)2月19日 ~ 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845~18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだといいます。

 昭和19年(1944年)秋になるとマリアナが陥落したせいで、硫黄島は最前線となり、将兵も「任地硫黄島」といわれただけで、顔から血が引くようになっていました。

 硫黄島の戦いは過酷な戦闘がよく言われていますが、米軍上陸前からさながら地獄の様相でした。まず硫黄島には水がない。雨以外の飲料水はゼロです。そこに二万の将兵がいるわけです。50メートルほっても水は出てきません。海岸近くを掘ると硫黄混じりの塩水が出て来て炊事はこの水で行いました。地下壕を掘ると中は40度から50度の温度になります。さらに米上陸前からも米軍機や米潜水艦の攻撃によって本土からの輸送も困難になってきて、食料も不足し、度重なる空襲の恐怖も加わり、発狂するもの、自殺するもの、逃亡するものが現われました。中には自分の銃で自分の足を撃ち、内地に送還してもらおうとするものもいて、「敵前従軍免脱」として銃殺刑になったものもいます。

 米軍が上陸してくるほんの10日ほど前の昭和20年(1945年)2月10日、根本正良少尉らの一式陸攻隊は硫黄島へ緊急強行輸送を行います。硫黄島に着陸し、荷物を下ろすと何気なしに折り詰め弁当を3/4食べて残りをすてると、滑走路の補修工事をしていた現地兵が、それを拾い上げ、飯粒を一粒一粒集めはじめました。根本少尉はそれをみて愕然とします。そして機内に戻ってありったけの帰路のための弁当をかき集めて現地の兵士たちに差し出しました。兵士は弁当を将校に渡すと、将校は「俺はいい。皆でいただけ」といい、それを見ていた根本少尉の眼に涙がにじみました。

 硫黄島へ食料を運んだ輸送艦に荷揚げ作業のために現地の兵士が艦上にあがってきたとき、船の乗組員は思わず息をのみます。どの現地兵士も真っ黒で皮膚につやが無く、手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていたからです。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていてました。船の乗組員は「火星人だ。まさしく人間ではない。火星人だ」と思ったそうです。

 2月11日、11万の大兵力を満載した486隻の米大艦隊はサイパンに集結していました。13日、米機動部隊が北上。14日硫黄島作戦牽制のため本土を直撃する別働隊が北上。日本側は米軍は沖縄に来ると予想していました。16日になって硫黄島に来ることを知ります。
 硫黄島の兵士たちは妻子の写真を焼き払い、決戦に備えてました。16日午前7時、米艦隊は硫黄島に向け、いっせいに砲門を開きます。17日午前10時半頃砲撃が止まり、米駆逐艦と大型砲艦艇約20隻海岸に急進してきます。島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)砲台は米の集中砲爆撃で崩壊寸前となっていました。「敵を揚げて叩く」栗林戦法を守っていたのでは自滅の恐れがあり、一矢報いることを決断します。健在な砲を米艦艇に向け砲撃を開始。米艦艇は無数の命中弾を受け、火を吹き、沈み、乗組員多数が吹っ飛びました。

 17日夕刻から続々と米船団は集結します。硫黄島は南の島だというのにさんご礁の砂浜も緑の椰子もなく、異様な形の摺鉢山と低く黒い断崖と砂浜が続いているだけの島です。島へ砲撃すると島から吹き上がるのは茶褐色の土煙だけでした。上陸を前にした米兵はこう言いました。

  ブラック・デス・アイランド



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫 「硫黄島玉砕」多田実(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」

添付画像
  硫黄島地上作戦を支援する米F6Fヘルキャット(PD)

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実録 硫黄島玉砕 http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY

近衛上奏

共産主義を警戒していた近衛文麿。

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 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後に行われています。

 2月19日、硫黄島に米軍が上陸。

 2月に入ってから重臣たちが昭和天皇にそれぞれ拝謁を行っています。7日に平沼騏一郎、9日に広田弘毅、14日に近衛文麿、以降、若槻礼次郎、岡田啓介、東條英機と続いています。近衛文麿は3年ぶりの昭和天皇への謁見でした。
 近衛は昭和天皇に「近頃お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」と言うと玉座の前にある椅子の前まで進みます。こうした行為は普通の臣下のものには出来ない行為で、近衛家という「五摂家」ならではであり、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろしました。昭和天皇は「近衛はいかがか」と声をかけると、近衛は「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」と答えました。そして起立すると、モーニングのポケットから和紙を取り出し読み上げます。

「敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必死なりと候。
 以下、この前提の下に申し述べ候。
 敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん 小さな傷のこと)たるべきも、英米の興論は今日までのところ、国体の変更とまでは進みいらず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)したがって敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こるであるべき共産革命に候」

「つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於いては、ソ連の異常なる進出に御座候」「特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有・・・」

 近衛文麿は勝利の見込みの無い戦争は一刻も早くやめ、共産主義革命に備えるべきとしています。これは戦況と内外政治情勢をみた的確な判断といえますが、米国は講和に応じる気はさらさらないこと、陸軍の動揺など重要な部分が欠けています。昭和天皇は近衛文麿の上奏にある程度同調されるものの、陸軍の動揺を考慮して「もう一度戦火を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と述べられています。近衛は「そのような戦果が挙げられるとはとても思えません」と述べます。ここで陸軍の動揺を抑える元帥にすべき人物として、阿南惟幾(あなみ これちか)大将の名前があがりました。

 この後、近衛上奏文がもとで吉田茂が逮捕されています。上奏文の準備は吉田らのグループが行い、近衛を説得したものでした。近衛文麿も結構危ない橋を渡ったといえます。

 このほか広田弘毅はソ連との戦争を回避するよう上奏しており、東條英機は断固たる抗戦論を述べます。梅津参謀総長は台湾に敵を誘導して一撃する論を上奏しています。

 こうした近衛文麿の動きは評価する向きもありますが、どうもこの人の言動はふらふらしており、終戦直後に昭和天皇の責任を口にしたり、東條英機の責任を強調したり、マッカーサーと二度会見し、憲法改正に乗り出したり、ということを行っています。そして反共の近衛はGHQ共産主義者のターゲットになり、戦犯指名され逮捕状がでると出頭を拒否して自殺しました。昭和天皇は近衛文麿の自殺の報を聞き、たった一言「近衛は弱いね」とおっしゃったといいます。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「昭和天皇論」小林よしのり(著)

添付画像
 近衛文麿(PD)

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昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941)
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow

捷一号作戦

海軍は戦争する気がなかった?

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 捷一号作戦は昭和19年(1944年)10月23日から同25日にかけて米軍のレイテ上陸を阻止する日本軍の作戦名です。おとり作戦とよく言われますが、日本海軍の機動部隊(小沢部隊)が米機動部隊を牽制し、戦艦を中心とした水上砲撃部隊(栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊)を米軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃して米のフィリピン奪還を頓挫させる作戦です。

 10月23日、戦艦大和、戦艦武蔵を擁する栗田艦隊は米潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦の愛宕が沈没。このため指揮システムを新たに構築しなければならず、通信不備の原因となります。
  10月24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は米艦載機延べ246機の攻撃を受け、戦艦武蔵は沈没。栗田艦隊はレイテ突入を断念し、反転します。しかし、連合艦隊司令部から激励電文が飛び、また反転してレイテへ向かいます。

 おとりとなった小沢機動部隊は米機動部隊(ハルゼー艦隊)を発見し、少ない艦載機で攻撃を開始。ハルゼー米機動部隊はおとりに食いついてきます。しかし、小沢艦隊の旗艦・瑞鶴の通信設備に不具合があり、攻撃機発進の電報は栗田艦隊にも連合艦隊司令部にも打電できませんでした。栗田艦隊はおとり作戦がうまくいっていることを知ることがでなかったのです。

 10月25日未明、西村/志摩艦隊はレイテ湾へ突入し、オンデンドルフ艦隊に迎撃され、ほぼ全滅しました。(スリガオ海峡海戦)

 栗田艦隊は25日夜明けにサマール島沖に進出し、米護衛空母艦隊(スプレイグ艦隊)を発見。米艦隊は速力が18ノットで逃げ切れることができず、全滅は時間の問題でした。戦艦大和、長門、金剛、榛名が護衛空母艦隊を蹴散らした後、レイテに揚陸中の米輸送船団約80隻を撃滅する予定でした。しかし、栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈したところで反転北上。謎の大反転といわれるものです。この後、主砲射撃指揮所旋回手は敵主力艦(テネシー、カリフォルニア、ペンシルバニア)を発見し、主砲射撃準備までできていました。しかし、艦橋からは何の指令も無く、無言だったといいます。なぜレイテに突入せず、反転したのか?栗田長官は昭和52年(1977年)、亡くなるまで沈黙を守りました。

 この戦闘ではちょっとしたエピソードがあり、米駆逐艦ジョンストンは総員退艦して海上に投げ出されたとき、迫り来る日本の駆逐艦を見て、機銃掃射されると思い、もうこれまでと覚悟したそうです。しかし、振ってきたのは缶詰などの食糧と水であり、艦橋には不動の姿勢で立つ艦長が沈み行くジョンストンに向かって敬礼していたといいます。

 栗田艦隊はレイテの米輸送船団を攻撃することなく、米第7艦隊と決戦することもなく、レイテから消えていきました。栗田艦隊がレイテに突入していても日本の降伏が遅れただけだったという意見もありますが、数日後の米大統領選に影響を与えたかもしれず、戦争が長引けば厭戦気分、または共産主義の脅威の台頭など情勢を変える材料もありました。

 結局、連合艦隊は戦力を集中させて総力で米軍を攻撃したことは一度もありませんでした。航空戦力と海上部隊を効果的に連携させて攻撃したことも一度もありませんでした。ガダルカナルでもミッドウェーでも戦艦大和を使うことはありませんでした。これは「温存艦隊」といって戦力を維持して敵に脅威を与え続け敵の侵攻を遅らせるという考えがあったのかもしれません。しかし、戦力を逐次投入していた結果、レイテにおいてその機能さえも無くしてしまいました。



参考文献
 「歴史街道」2009.9『マッカーサーが震えた日』吉田一彦
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
 WAC「『太平洋戦争』こう戦えば・・・」三野正洋(著)
参考サイト
  WikiPedia「レイテ沖海戦」

添付画像
 アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る(駆逐艦「磯風」から撮影)(PD)

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小磯内閣誕生

小磯内閣は戦争を終わらせることができなかった。

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 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。東條内閣は崩壊し、小磯内閣が誕生しました。日本は条件付降伏をアメリカに打診し、アメリカでも日本へ降伏勧告を行う案が持ち上がりましたが、ルーズベルト大統領は拒否しました。
 そして戦局は好転せず、9月15日に米軍はペリリュー島へ上陸。小磯内閣は何ごとも動きが遅く、「木炭自動車」と揶揄されます。昭和天皇はこう回想されています。

「この内閣は私の予想通り、良くなかった。改造問題にしても、側から言われると直ぐ、ぐらつく。云う事が信用できない。その代わり小磯は私が忠告すると直ぐ云う事を聞く。それでいて側から云われると直ぐ、ぐらつく。つまり肚(はら)もなく自信もない。その為しばしば米内を煩わせて小磯に忠告した」

 この小磯内閣は小磯國昭の政治基盤が弱いことから近衛文麿の提案によって米内光政との連立内閣という形になっています。陸相に東條英機の推す杉山元が陸相となっていることから、近衛文麿に何か考えがあったものと思われます。依然として東條英機の影響力は残っており、部下だったものに対して「小磯は3ヶ月もすればつぶれるから、自分が帰ってくるまでがんばれ」と励ましていることが周囲に伝わり、近衛文麿、鳩山一郎、細川護貞、松野鶴平ら、反東條勢力は警戒を強めています。

 そしてついに米軍はレイテにやってきます。レイテで決戦し、一撃を与えてから講和への道筋をつけようとしましたが、陸海軍意見が一致せず、陸軍内でも山下泰文大将はルソン決戦を主張し、寺内南方総司令官と意見があいません。結局、陛下の御意志ということで、レイテで戦うことになりましたが、連合艦隊はレイテに突入せず、残念な結果に終わってしまいました。

 講和への道筋がなんらたたないまま昭和19年(1944年)は暮れていきますが、以前『新・平成日本のよふけ』という番組に元大本営作戦参謀の瀬島龍三氏が出演しており、昭和19年のクリスマスにモスクワへいくため東京を発っています。youtubeにも番組録画がアップされています。

瀬島龍三談
「モスクワについたのは1月19日でした」
「大使に戦局の実体の説明をして・・・」

 番組はここで一旦切って編集されています。5日滞在したといいますから、何かほかにも活動していたのでしょうが分かりません。何をしてきたのか?指示したのは誰か?梅津美治郎か?
 このとき瀬島氏はソ連がドイツにいた兵力を東、満州方面へ転戦させているのを目撃し、百個師団を満州に集めるとして、昭和20年(1945年)8月の後半から9月が極めて危ない、と判断したと述べています。8月8日にソ連は日ソ不可侵条約を破り満州、樺太、千島列島へ攻め込んできたわけですから、後世の我々からすれば「もっと早くなんとかできなかったのか」と思うところです。

 昭和20年(1945年)3月、支那重慶国民政府の密命を帯びて来日した繆斌(ぼく ひん/みょう ひん/びゅう ひん)は小磯内閣に日支単独の和平交渉を提案しました。(繆斌工作) 小磯国昭首相はこの提案に飛びつきましたが、繆斌は蒋介石の親書を持っておらず、信用できない、と反対の声が強く、それでも小磯国昭は繆を通じての交渉にこだわり続け、遂には行き詰まり、4月7日、内閣総辞職となりました。既に沖縄には米軍が上陸していました。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)
参考サイト
  WikiPedia「ペリリューの戦い」「小磯内閣」

添付画像
  小磯内閣(PD)

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新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第6回 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=4q98IHjCgPw

東條英機暗殺計画

東條英機暗殺計画があった。

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 昭和19年(1944年)5月、大東亜戦争の戦局が悪化してくると東條内閣にかげりが見えてきます。岸信介国務相(軍需次官 戦後、内閣総理大臣)は東條英機に対し「軍需産業に責任を持っている次官の立場から言うと、サイパンが取られればどうにもなりません。B-29が連日空襲をかけてくれば、大都市の軍需産業は壊滅してしまうという、現実の問題ですから」と述べます。岸は東條内閣を見限っていました。

 海軍では東條英機暗殺計画が持ち上がります。倒閣へ向けた正攻法を用いなかったのは、嶋田海軍相が東條英機と懇意であるのと、東條英機の憲兵を使った強引な手法、戦局悪化のあせりと思われます。高木惣吉海軍少将、神重徳大佐、三上卓元海軍中尉らが暗殺計画を練り、7月14日を決行の日とします。ところが、神重徳大佐が連合艦隊参謀として転出することになり、さらに7月7日にサイパンが陥落。東條内閣更迭が現実味を帯びてきたため、計画を中止することになりました。

 陸軍内でも暗殺計画がありました。大本営参謀の津野田知重少佐が中心となって暗殺計画をたて、決行日は7月25日となっていました。東條英機が乗ったオープンカーを襲撃して手榴弾を投げる予定でした。計画は山形に隠遁していた石原莞爾に持ち込まれ、献策書を読んだ石原は「総理にする人間を誤らないことだね」と答え、献策書の表紙に「全然同意す」と記しました。さらに計画は大本営参謀の三笠宮に持ち込まれ賛同を得ました。秩父宮にも持ち込まれ「後継者は小畑敏四郎(陸軍中将)がいいだろう」と賛同しました。しかし、陸軍は東條英機の守備範囲内だったため情報は漏れ、計画者は逮捕されました。

 このほか陸軍の参謀本部戦争指導班の松谷班長は正攻法で東條英機に直接進言しています。

「7月1日 午後より市谷分室において班長以下昭和20年春季頃を目処とする戦争指導に関する第一案を研究す。今後逐次『ジリ』貧に陥るべきを以って、速やかに戦争終結を企図するの結論に意見一致せり」(戦争指導班の日誌)

 しかし、松谷班長は、すぐ前線へ飛ばされます。陸軍省の戦備課の主任だった塚本大佐も東條英機に面会を求め終戦を説得したため突然グアムに飛ばされ、戦死してしまいます。

 この状況に重臣らは危機感を募らせ、近衛、岡田、若槻、米内、阿倍、広田が平沼邸に集まり、東條不信任の結論を出し、東條英機に伝えます。岸信介の離反とこの重臣会議の結論により、東條英機は7月18日総辞職を奉上し、東條内閣は瓦解しました。

 東條英機は親しい人には本音を漏らしていましたが、昭和18年頃にこんなことを言っています。
「戦というものはね、山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチかせいぜい一メートルぐらい転がったときなら、数人の力でとめることもできるが、二メートルさらに五メートルとなれば、もう何十人か何百人かで止めなければとめることは出来ない。それ以上になれば結局谷底まで、行き着くところまで行かねば始末はつかないんだよ」

 この後、小磯内閣が誕生し、講和論が台頭してきますが、レイテ決戦で大失敗し、時期がつかめず、東條英機の言葉どおり、坂道を転がることを止めることは容易ではありませんでした。後に鈴木貫太郎、阿南惟幾による策略によって大きな力を引き出し、谷底寸前で止めることになります。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)

添付画像
 東條内閣 昭和16年10月18日(PD)

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学徒出陣

様々な思いを胸に。

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 大東亜戦争最中の昭和18年(1943年)10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。それまでは兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されており、次第に徴兵猶予の対象は狭くされ、ついには理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃することとなりました。戦場に行くことはないと思っていた学生たちの気持ちは複雑なものがありました。

丸山昴(兵科四期・対潜・東大・防衛事務次官)
「戦局がこんなに切迫しているのに、俺たちだけ大学の中で特権に甘えていていいのだろうか」

香田一郎(兵科四期・対空・東京トヨタ自販)
「いずれ当然来るべきものが来たまでだ」

宮井仁之助(飛行要務十四期・東大・日本生産性本部理事長)
「軍国主義もここまで来たか」

吉田満(兵科四期・電測・東大・日銀幹事)
「今この祖国が騒然としている中で、大学で勉強していても前途に何があるか。学問をやりたかったら舞台が転換してからでも遅くはない。参戦は決して学生の本分ではないが、来るべきものは迎えよう」

藤森耕介(兵科四期・対空・湖北工業常務)
「若干二十二歳、国家も俺とともに終焉が近いのか」

 “俺たちが始めた戦争ではない”などさまざまな思いから批判する学生も多かったといいます。しかし、運命を受けいれるほかはありませんでした。「戦争が始まった以上、選択の余地はない、時代の運命だな」(上記 宮井仁之助)

 昭和18年10月21日、東京神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開かれました。朝から雨がシトシト降っていました。

東條英機の演説一部
「茲(ここ)に明治神宮外苑の声域におきまして、征途に上がらんとする学徒諸君の装容に接し、所懐(しょかい)を申し述ぶる機会を得ましたることは私の最も欣幸(きんこう)とする所であります。(中略) 諸君は胸中深く決する所あり、腕をして国難に赴く烈々たる気迫、将に勇敢なるものがあることを、私はその諸君の輝く眸(ひとみ)に十分これをお察しし得るのであります・・・」

  この東條首相の演説を聞いた学生の感想。
「忠君愛国を叩き込む話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりですね」
「国の考え方が正しいという前提に立っていますから、頼むよという首相の言葉に対し、死を持って報いようと思いましたね」
「『生還を期せず』をことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感がありました。戦争だから死ぬことはあるが、だからといって、死ぬことにこだわるのはおかしいと思いましたね」

 案外、学生は冷静に捉えています。戦前は真っ暗な時代であり、若者はみな教育を通して忠君愛国ガチガチに洗脳されていたというイメージからは程遠いです。イメージは戦後創られたものでしょう。

 壮行式の一般スタンドでは女学生たちがいっせいに紺の上衣を脱ぎ、白いブラウス姿に変わり、無限の連帯と哀惜の意思表示を行います。雨の中、誰一人傘をさす生徒はいませんでした。最後の隊列がゲートを出ようとするときスタンドの人波は崩れ、女学生が出口にどっとなだれを打って駆け寄ってきました。これは当時は不謹慎なことでしたが、「一期一会」、これで終わりだと思ったゆえのタブー破りでした。
 スタンドの女学生の中には東條英機の三女、幸枝さんがいました。幸枝さんは家では見せたことのない、大きな苦悩を抱えた父の姿を見て、涙が流れてしかたなかった、やむにやまれず学徒出陣という手段をとったものの父も悲しかったに違いないと思いながら、直立不動で父、東條英機を見つめていたといいます。



参考文献
 角川学芸出版「東條英機」太田尚樹(著)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
参考サイト
  WikiPedia「学徒出陣」

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 出陣学徒壮行会(1943年10月21日)(PD)

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学徒出陣 昭和18年 1943年
http://www.youtube.com/watch?v=rohZy17TL_I

ミッドウェー敗北を知らなかった東條英機

本当に反省すべきことは何か。

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 大東亜戦争時、東條内閣の農相だった井野碩哉(いのひろや)氏は戦後、A級戦犯容疑で大森の収容所に入れられました。そこに東條英機がおり、そのとき東條と会話したことを、後に民法のテレビで語っています。

「東條さんが一切の戦況を把握していたものとばっかり思っておりました。ところが、戦後、大森の収容所に一緒にいた東條さんから『井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ』と言われたときはびっくりしました。総理大臣がミッドウェーの敗北を知らなくて、戦争に勝てるはずがないじゃないか、という気持ちになりました」

井野氏は「そんなこと信じられませんよ」と重ねて確かめたところ、

「私がもしミッドウェーの敗北を知っておったらインパール作戦はやらなかった」

と答えたといいます。ミッドウェー海戦は昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー島をめぐって日米激突した海戦で、日本海軍は空母4隻を失うという大敗を喫しました。この事件を総理が知らなかったというのですから誰でも驚く話でしょう。全く知らなかったというより、作戦中止ぐらいは知っていたでしょうが、海戦によってどれくらいの損害が生じたか知らなかったということだと思います。いかに内閣と統帥がわかれていたかが良くわかる話です。「統帥」、つまり「軍」は内閣から独立していたのです。真珠湾攻撃について東條英機は「陸軍大臣としてその概要は聞いていた」と証言していますが、他の閣僚は事前に何も知らなかったのです。もし、東條英機が陸軍大臣を兼務していなければ結果が出るまで知らなかったかもしれません。

 支那事変より大本営が設置されましたが、総理は加われず、連絡機関(大本営政府連絡会議)が設置されました。しかし、陸軍大将、陸相を兼ねた総理にミッドウェーが伝わっていないのですから、大本営自体が陸海バラバラで連絡会議は機能していなかったと思われます。。

 東條英機は昭和19年(1944年)、戦局の悪化にともない参謀総長を兼任するといいだし、首相、陸相、内相、参謀総長、軍需相を兼任します。これを独裁者とする評価もありますが、東條英機は「一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限の無いような国柄で、戦争に勝てるわけがない」と言っています。これは正論でしょう。ただ、東條英機は官僚的な人であり、政治に不向きであったのと、憲兵を使った強引なやり方をしており周囲からの協力が得にくかったといえます。東條英機の主張を効果あるものにするには日露戦争のときの児玉源太郎のような人でないと成し得ないでしょう。

 東條英機は東京裁判のときの尋問で統帥権について尋ねられたとき、「統帥権の独立は戦闘だけを考えていればよい、という場合に限りよい物である。しかし、今日、戦争も政治の一部になっている現代の状況では、政治的に見て、統帥権の独立は一考を要する」と述べています。(裁判では強調したくないということを添えている) また、教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)師経由で残した遺言にも統帥権について述べており「統帥権独立の思想は間違っている。あれでは陸海軍一本の行動がとれない」と統帥権に苦しんだことを物語っています。

 戦後、日本は侵略国家で共同謀議の戦争犯罪があり、東條英機は独裁者だった、あの戦争は最初から無謀だったなどというデマが撒き散らされましたが、統帥が独立していて共同謀議が成り立つわけがなく、独裁者がミッドウェーの敗北を知らないはずがありません。あの戦争を反省するといってもデタラメの歴史を反省しても何の意味もなく、こうした統帥の問題や外交、戦略的国防などの観点で点検し、反省しなければ意味がないでしょう。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 朱鳥者「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
  WikiPedia「井野碩哉」「大本営」「大本営政府連絡会議」

添付画像
  ミッドウェー海戦で爆撃される蒼龍(そうりゅう)(PD)

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東條英機の素顔

東條英機はどういう人だったのか。

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 日米開戦時の総理大臣だった東條英機は戦後、戦犯指名を受け、自殺を試みますが、未遂に終わっています。このとき、頭を撃たずに胸を撃ちました。このため色々な憶測が飛びましたが、連合軍が遺体を写真にとったり醜い姿を世間に示すであろうから、向かいに住んでいた鈴木医学博士に相談し、心臓を撃つ事として心臓のところを墨でしるしをしてもらっていたものでした。しかし、東條英機は左利きだったため左で左からの心臓は撃ちにくく、右で撃ったためわずかに心臓をそれて未遂になりました。

 東條英機はこの後、横浜の米野戦病院で治療を受け、大森の収容所に入れられます。巣鴨プリズンはまだ建設中でした。このとき、陸軍軍曹だった飛田時雄さんはC級戦犯で収監されており、収容所の掃除係りになっていました。東條英機の部屋の掃除のとき、東條英機は部屋の外で待機し、掃除が終わると「ありがとう、ご苦労様」とねぎらいの声をかけてくれたといいます。他の閣僚クラスや軍幹部クラスの人はそのようなことはなかったそうです。

 飛田さんは収容所の風呂に入っていたとき、嶋田元海相が「君、ちょっとすまんが閣下を一緒に入れてやってくれんか」といわれ、すぐ同僚を呼んで二人で両脇を抱えるようにして東條英機を風呂に入れています。東條英機は病み上がりでまだ足元がおぼつかない状況でした。そして背中を流そうとすると、背中に500円玉大の傷跡が残っていました。自殺未遂のときの弾が貫通した痕です。東條英機はここでも「いやすまん、君、すまん。ありがとう」と謝礼の言葉を述べ色々と励ましの言葉をかけてくれたといいます。

 この後、巣鴨プリズンに移ることになり、飛田さんは東條英機に記念の言葉を書いてください、と頼み「一誠排萬艱」と書いてくれました。「一誠、万難を排す」・・・単純に読めば誠を貫けば難はない、ということですが、これから始まる東京裁判で信念を貫き通すぞ、という心情でしょうか。巣鴨プリズンでも飛田さんは東條英機としばしば顔をあわせ「飛田君、これえ吸ってくれんか。毎日もらうので、余って困る」といって時折、タバコをもらったといいます。

 東條英機という人は一個の人間に対しては非常に優しかったといいます。心が優しく気配りの人で首相時代は多忙な一日が終わると漫才師や講談師や歌手を官邸によび側近たちを慰めていました。「満州の甘粕」と言われた甘粕正彦元大尉が次のように語っています。

「東條さんは自分からは冗談一つ言えない律儀な人で、それが却って世間には誤解されているんだな。本当は心が優しくて、気配りの人なんだよ。東條さんは多忙な一日が終わると、よく漫才師や講談師、歌手を官邸に呼ぶんだ」

 歌手の高峰三枝子が東條らの前で「湖畔の宿」を歌ったことがあります。そのときのことを高峰三枝子は戦後、テレビで次のように語っています。
「私は戦時中、内地、外地の兵隊さんの慰問によく出かけましたが、特攻基地の若い隊員さんから一番リクエストが多かったのがこの歌でした。
 それに私、東條さんの前でも『湖畔の宿』を歌ったことがあるんです。唄い終わったとき、一番大きな拍手をしてくれたのが東條さんです」

 山の寂しい湖に
 ひとり来たのも悲しい心
 胸の痛みにたえかねて
 昨日の夢と 焚き捨てる
 古い手紙の 薄煙り

 昭和18年(1943年)、ビルマの行政府長官のバー・モウ、ビルマ国防軍司令官アウン・サンが来日し、東條英機と会談しましたが、このときのエピソードでアウン・サンが下手な日本語でダジャレを言った時、その席にいた日本人は誰も笑わなかったのに、東條英機が一人、その駄洒落を受け取って大きく笑ったといいます。これも東條英機が気配りの人であったことがよくわかるエピソードでしょう。

 戦後は東條英機は「独裁者」だったという誤った批判が行われ、日米戦争を「最初から無謀だった」「自殺行為だった」と結果から導き出したプロパガンダが生まれ、その責任を日米開戦時の首相である東條英機に押し付けてしまっています。そして人間・東條英機というものは隠蔽されていました。このような言論は健全とは言えないでしょう。人間・東條英機、そして大東亜戦争は最初から無謀だったのか、という点検が必要であるように思います。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
  角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
  WILL2010.1 「私が獄中で見た東條さんの背中の傷跡」岡村青
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
添付画像
  東条英機と、妻の勝子、孫の由布子(昭和16年 PD)

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元首相から戦争を知らない日本人へ 1 http://www.youtube.com/watch?v=y_McUDz1v04



元首相から戦争を知らない日本人へ 2 http://www.youtube.com/watch?v=2H63kaj_4ac

日米開戦の「最後通牒」手交の遅延は大使館の怠慢だった

最後通牒はなぜ遅れたのか。

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 昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃は「宣戦布告前」に行った日本の騙まし討ちといわれたのは対米覚書「最後通牒」の手交が遅れたことが原因とされています。外務省はワシントンの野村大使に対米覚書を14項にして発信し、機密保持のため「タイピスト」を使わないように指示がでていました。そのため奥村書記官がタイピングを行い、緊張のため平時より速度が遅い上、間違いも多く、作業を終えたのは外務省の交付を指示した午後1時をまわり、午後1時50分となってしまいました。

ワシントン時間昭和16年(1941年)12月

  • パイロットメッセージ・・・・・・・・・・・・・・・5日「明日から外交電文を送る」
  • 13項まで解読?・・・・・・・・・・・・・・・・・6日午後11時?
  • 14項が到着・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午前7時頃
  • 大使館の電報に海軍武官が気づく・・・7日午前9時
  • 真珠湾攻撃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午後1時20分頃(ハワイ時間7時49分頃)
  • タイプ作業終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7日午後1時50分
  • ハル国務長官に手渡す・・・・・・・・・・・・7日午後2時20分

 実は米側はパイロットメッセージからすでに傍受しており、14項目中13項目はワシントン時間6日午後4時には英訳に書き換えられ、午後9時30分にはルーズベルト大統領に手渡されました。ルーズベルトはこう言いました。

「これは戦争を意味する」

 残りの1項目と書類を米側に手渡す時刻の電報もワシントン時間7日午前10時には解読を済ませていました。スターク海軍作戦部長はこういいました。

「何だって!これは戦争ということだ」

ですので、野村大使がハル長官に覚書を手渡したときはハル長官は読んだフリをしたようなもので、「過去9ヶ月間における貴官との全会談中、自分は、一言も嘘を言わなかった。(中略)50年の公的生活を通じ、自分はこれ程不名誉な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない」と言ったのは完全な演技でした。

 パイロットメッセージがきて「訓令があり次第、いつでもアメリカ側に手交できるよう準備しておくこと」と指示され、6日中には電文が届いているのになぜ、日本大使館は解読、タイピングに手間取ったのか?これは6日の夜に大使館員の一人の送別会があり、皆、帰ってしまっていたためです。ですので、7日朝に覚書の手交時刻を“貴地時間七日午后一時”という電報を読んで震え上がったわけです。予告電報が来ているのに送別会を優先させ、しかも7日午後1時に間に合わなかったということです。このことを隠すため東京裁判でも関係者は口を閉ざし、戦後ずっと伏せられてきました。上智大学名誉教授の渡部昇一氏は当時を知る外交官にこの事実を確認しています。渡部氏は「もし、この時の外交不手際の外交官が切腹でもして詫びていたら対米戦はもっと早く終わっていたかもしれない」と述べています。

 ハル長官回想
「日本政府が午後一時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間取ってまごまごしていた。だが、野村はこの指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正一時に私に会いに来るべきだった」


参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 国立公文書館 「帝国政府ノ対米通牒覚書」(いわゆる「最後通牒」)関連資料
  http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
 第二次世界大戦資料館 対米覚書全文
  http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/taibeikakusho.html
添付画像
 真珠湾で攻撃を受ける米戦艦ウェストバージニア(PD)

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