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09.東京裁判

東京裁判の判決

国家に殉じた7人。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。判決は昭和23年(1948年)11月12日に出され、そのときの宣告の模様がYutubeにあります。子どもの頃にも何かで見た記憶があります。

 日米開戦時の首相だった東條英樹は「ウンウン」と頷いているようです。弁護人の清瀬一郎氏は「アアこれは立派に解脱したなと感じたくらい悟りすましたものであった」と述べています。広田弘毅はカメラ側に一礼していました。奥さんは既に自決しており、誰に向かって別れを言ったのか・・・

■絞首刑(死刑)
板垣征四郎
 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)

木村兵太郎
 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)

土肥原賢二
 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)

東條英機
 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)

武藤章
 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)

松井石根
 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))

広田弘毅
 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

 判決は理由を付することになっていましたが、偏った日本の政治史、軍事史を羅列しただけで各被告の有罪を断じ、判決の理由になる事実と証拠の提示ありませんでした。量刑についてはオランダ判事のレーリンクの回想によると投票による多数決であり、11人中の判事6人で多数派として決まったと述べています。パール判事は全員無罪としたので投票には加わらず、ソ連判事は死刑反対を理由に加わりませんでした。あと、フランスのベルナール判事も加わらず、驚いたことにオーストラリアのウェッブ裁判長も死刑には反対の立場でした。「平和に対する罪」というのは事後法であるから死刑は適当ではない、と述べていたのです。投票は7対4ということになります。レーリンク判事は広田弘毅を無罪としたので、6対5で死刑になりました。主席検事のキーナンは「なんというバカげた判決か。(略) 松井、広田が死刑などとは、まったく考えられない」と漏らしていました。

 この判決の日、昭和天皇のご様子を側近の村井長正氏はこう語っています。

「陛下は顔を泣きはらして真っ赤な顔をしておられた。生涯忘れられないお顔である」
「私は恐れおののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして用件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」

 刑の執行は昭和23年(1948年)12月23日の午前0時21分。意図的に皇太子殿下(今上天皇)の誕生日を狙ったものでした。刑場で東條英機は「天皇陛下万歳」と叫びます。そして東條の左右にいた大柄な米軍曹長に「ご苦労さん、ありがとう、ありがとう」と声をかけると、後ろにいた米軍将校4,5人が寄ってきて握手を求めたといいます。城山三郎の「落日燃ゆ」で広田弘毅は「万歳」をやらなかったとなっているそうですが、死刑囚につきそった教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)によると板垣、木村と3人で「万歳」を三唱したとしており、「落日燃ゆ」は捏造したと思われます。

 絞首刑となった遺体は粗末な木製の棺に入れられ横浜の火葬場で火葬に付せられました。遺族からの遺骨引取りの請求を占領軍はゆるしませんでした。遺骨は飛行機で撒き散らすことになっていたようですが、後の昭和30年(1955年)に進駐軍の命ということで白木の箱に入ったものを遺族へ渡されています。火葬当時は撒き散らされてはいかん、と思った三文字正平という弁護士が、火葬場より進駐軍が処理したあとの残りを盗みだしています。そして日本の主権回復後、松井大将の郷里である愛知県幡豆郡旗豆町の町長の好意により、三河湾公園内に埋葬されました。この碑には荒木貞夫元大将の筆で「殉国七士之碑」と大書しました。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
 WikiPedia「広田弘毅」「A級戦犯」
添付画像
 判決を聞く広田弘毅

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Glow of the sunset -02 http://www.youtube.com/watch?v=ykAHWDmV8rQ

石原莞爾不在の東京裁判

石原莞爾が起訴されなかったわけ。

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 石原莞爾と言えば、満州事変を思い浮かべる人が多いでしょう。戦後のWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって戦争についての罪悪感を植えつけられている日本人は日本軍が満州事変を起こして侵略したと思っているでしょう。ところが石原莞爾は戦後の東京裁判で裁かれていません。同じ満州事変に関わった板垣征四郎は死刑になりました。WGIPに洗脳されていてもこういう不整合に気づいている人もいるかもしれません。実は私もその一人でした。実際には満州国は正当な国家であり、日本の侵略ではなく、満州と支那はそもそも別ものです。東京裁判はインチキ裁判でした。

 石原莞爾は昭和16年(1941年)には予備役になっており、終戦は講演先で玉音放送を聴いています。昭和20年(1945年)9月以降、全国に講演旅行を続けています。アメリカのジャーナリストのマーク・ゲインは関係者を取材し「日本は新しき救世主以上のものを得つつあった」と評しています。

 昭和21年(1946年)1月以降は持病が悪化し、入院しています。米、英、ソの検事が臨床尋問した際には「戦犯の中で第一級は、空襲、原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし、開国させ、日本を台湾、朝鮮、満州に赴かせたペリーである」と答えました。東条英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、「東條には思想も意見もなく、意見のない者と意見の対立はない」と答えています。
 石原莞爾は「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判など始められようか。私のいない東京裁判など滑稽である」とも言っていましたが、昭和21年(1946年)4月には石原莞爾は戦犯リストから削除されました。

 石原はそれでも昭和22年(1947年)5月に東京裁判酒田出張法廷へ板垣征四郎の弁護側証人として出廷し「満州事変は支那軍の攻撃に起因し、本庄繁関東軍司令官の決断による自衛権の発動である」と強調します。石原は、連合国の判事、検事を相手に一歩も退かず、堂々たる論陣を張り、ときには彼らを翻弄しさえしました。その見事な弁論と驚異的な頭脳は彼らを驚愕させ、最後には彼ら心に深い感激を与えるとともに、なぜ日本の戦争指導部は石原を遠ざけて用いなかったのか?と疑問に思ったといいます。

 石原莞爾が戦犯リストからはずされたのは病気を患っていたことが理由とされていたようですが、石原は「もし、証言台に立てるのであれば裁判官や検事たちに堂々と“日本の言い分”を述べてやるのだが」というようなことを言っており、日本陸軍最高の理論家が法廷に出現することを連合国側が避けたとも言われています。石原は言論で対抗しましたがGHQは新聞各紙に圧力をかけ、石原の言論を封じ、所属していた東亜連盟の解散を命じました。それでも石原はトルーマンとマッカーサー軍政を批判し続けました。

 石原莞爾は板垣征四郎が死刑判決を受けたとき、「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください、道案内は自信がありますから」と伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納める、法華経を上げての簡素な葬式を手配しました。

 石原は昭和24年(1949年)8月15日、終戦からちょうど4年目に生涯を閉じています。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 新潮45・2009.8「石原莞爾『終戦日記』で読み解く日本再建への執念」早瀬利之
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
  WikiPedia「板垣征四郎」「石原莞爾」

添付画像
  石原莞爾 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より(PD)

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東條英機 VS キーナン検事 ~ 東京裁判

キーナン敗れたり。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。日米開戦時の首相であった東條英機は戦犯として訴追されました。

 昭和22年(1947年)12月22日から裁判の東條部門は山場を向かえ、日米開戦についてキーナン検事の追求が始まります。12月31日は東條英機とキーナン検事は一騎討ちが行われています。

キーナン「あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛することをあなた方に知らしめたと言っているが、これは正しいか」
東條「もちろん正しい」

キーナン「そうしてまた、日本臣民たるものは何人たるも、天皇の命令に従わないということは考えられないと言った。それは正しいか」
東條「それは私の国民としての感情を申し上げた。天皇の責任とは別の話です」

キーナン「しかし被告は、実際、米英蘭に対して戦争したではないか」
東條「私の内閣において戦争を決意しました」

キーナン「その戦争を行わなければならない。行え、というのは裕仁天皇の意思であったか」
東條「ご意思と反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが事実です」

 東條英機は開戦という国政に関する一大事は、内閣と統帥部の責任で為した最後の決定であって、天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も慣行上もないことを理路整然と言い切ります。

キーナン「首相として戦争を起こしたことを道徳的にも、法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか、被告としての心境を聞きたい」
東條「間違ったことはない。正しいことをしたと思っている」

キーナン「それでは無罪放免されたら、同僚とともに同じことをまた繰り返す用意があるのか」

ここでブルーエット弁護人が「これは妥当な反対尋問ではない」と異議を申し立てウェップ裁判長が容認し、質問を却下しました。キーナン検事は検事席に戻らず、さっさと退場しました。キーナン敗れたり、です。

 東條英機は自殺未遂で国民の評判を落としていましたが、これである程度回復しました。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。
「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」

 東條英機は大東亜戦争は「自衛戦争」であること、天皇陛下に責任はないこと、大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったこと、を主張しました。これはもともとの日本の立場、主張です。当時の国民は厳しい検閲でモノ言えぬ中、東條英機がはっきりと日本の主張を述べたことによって溜飲を下ろしたのではないでしょうか。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)

添付画像
 法廷で証言する東条英機(PD)

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東條英機大将の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」
http://www.youtube.com/watch?v=Wtain67qJyM

東京裁判で東條英機の頭をはたいた大川周明

本当に発狂していたのか?

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 昭和21年(1946年)4月から始まった極東国際軍事裁判(以降、東京裁判)では思想家の大川周明も起訴されました。この人は政治家でも軍人でもありません。 法廷で奇声を発したり、東條英機の頭をはたいたことで有名です。梅毒による精神障害と診断され、その後の精神鑑定では異常なしとされましたが、法廷でには戻りませんでした。大川は昭和5年(1930年)ロンドン軍縮会議での日本の弱腰外交を見て、このままでは戦争になる、と予見しており、かなりの見識を持っています。さて、この精神異常は演技だったのでは?という説がありますが、どうでしょうか。

 実は大川は東條英機の頭を2度はたいています。大川は水色の異様なパジャマに素足でゲタをつっかけ法廷に現れたりしています。大川は法廷で「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! “これは茶番だ”)」と叫んだりしています。この行為を「芝居小屋から脱出するため自ら演出して脱出に成功した」と見る人もいます。

 東京裁判で東條英機の弁護をした清瀬一郎は次のように述べています。
「大川君の頭脳が敏感であればあるほど、このショック(裁判で起訴されたこと)は大である。これがため精神に異常を呈することはありうることである。大川君は平素服装には意を用いる人である。パジャマをまとうて法廷に出るということが既におかしい。
(中略)
もともと本質的な発狂ではなかったので、2,3年の療養で治癒することができた。その時は東京裁判が終結していたという偶然の事柄が発生したのではないか。
ある人が帰宅後の大川君に、ああやったのは(東條のあたまをはたいたこと)気が狂ったのではないかと聞いたところ『いや、やっぱりおかしかった。二日酔いのような気分だったね』と答えたと伝聞した」

清瀬一郎弁護人は一時的な発狂だったという認識のようです。

 オランダの判事レーリンクもこの大川氏のことは印象深かったようで、後の回想で以下のように述べています。
「大川は『この裁判は正義の実現ではない、戦争の継続である』といったのだそうです。そういう意見を持つものは正常ではないと医師たちは言ったわけです!個人的には、私は、大川は非常に頭の良い人物だったと確信しています。頭が良すぎて精神の異常を宣告されたのです。彼は裁判の終わりごろに療養所から出てきました。彼は誰よりも頭が良くて、頭が良かったから患者を演じることができたのです」

 レーリンク判事は演技だと見ていたようです。それにしても「正義の実現ではない」という発言が正常ではないと捉えるとは連合国の認識が伺えます。

 東京裁判の速記者の寺戸満里子さんの話があります。
「いきなりパジャマ姿で法廷に現れたり、場違いに飄々(ひょうひょう)とした表情で検察官や裁判官の発言に耳を傾けたり、突然奇声を上げたりしていました。丸メガネ姿は有名ですが、私が見たときはメガネはかけていなかったかな。なんだか背骨が無いタコかクラゲのような、変な動きもしていました」
「私は今でも、『芝居だったのでは』と考えています。だって、すごく頭のいい人だったわけだし・・・どこかに計算があったのではないでしょうか」

 歴史学者の福井雄三氏が大川を診察した主治医の内村裕之博士に会ったことがあり、当時の話を聞いています。
「世間では、大川周明が戦犯の罪を逃れるために仮病で精神病を装い、裁判が終わるとたちまち正気に返った、などと噂されているが、自分が診察した限りでは、あれは紛れもなく脳梅毒の進行麻酔症状だった」

どうやら本当に病気だったようです。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 「新潮45」2009.8『速記者は見た!東京裁判 土壇場の人間学』菊地正憲
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)

参考サイト
 WikiPedia「極東国際軍事裁判」「大川周明」

添付画像
 大川周明(動画より)

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東京裁判 - 東条英機の頭をはたく大川周明
http://www.youtube.com/watch?v=DiXcg36Oa-M

東京裁判で原爆投下を追及したブレークニー弁護人

意外にもアメリカ人弁護人は大活躍した。

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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判で原爆投下を追及したのは梅津美治郎被告、東郷茂徳被告の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニーで、アメリカ陸軍軍人・弁護士です。彼が原爆投下について言及すると同時通訳が停止したというのは有名な話です。

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している・・・」

 ブレークにーはスチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしました。これにはイギリスの検事コミンズカーが驚き、異議を申し立てます。

コミンズカー「連合国において、どんな武器が使用されたかということは本審理に何の関係もない」
ブレークニー「もし検事がハーグ条約第四をご存知なら、そのうちの陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(注=毒ガス、細菌など非戦闘員にも損害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存知のはずである」

ウエップ裁判長「かりに原子爆弾の投下が戦争犯罪であると仮定して、それが本件の何の関係があるか」
ブレークニー「それに対していはいくつかの返答ができると思う。その一は報復の権利である」(国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復の権利が生ずる)

ウエップ裁判長「しなしながら、報復はこの行動が行われた後に起こるものだ」
ブレークニー「この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されている」

ウエップ裁判長「あなたのいっていることは、議論の余地がある。私はそうは思わないが、原子爆弾が二個投下されたことにより、その後の日本のやった行為のあるものが、正当化されるかもしれない。あなたはハーグ条約第四条が死文化されたということに基礎を置いているようだが、その他の点はどうなるか」
ブレークニー「原子爆弾使用以前のことは、ほかの証拠で立証する。それ以降のことは報復的手段として正当化できると私は主張する」

ウエップ裁判長「それはわずか三週間(8/6から9/2)でも被告のだれかを無罪にすることができるかもしれない」
ブレークニー「三週間の期間にかかるところの検事側の証拠書類は、たくさんあった。たとえばマニラ事件・・・」

 東京裁判ではブレークニーのほか、ローガン弁護人は「日本からまず手を出すように彼ら(連合国)が予期し、希望したとおり、(日本が)自己の生存そのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と述べたり、デービット・スミスという広田弘毅の弁護人が裁判長より尋問の範囲を干渉されたことを不当だと抗議し、法廷を立ち去りました。スミスは以降も「不当な干渉」だとガンとして譲らず法廷には戻ってこなかったものの、法廷の外で広田被告の弁護活動を行い、弁護が終わったとき帰国しています。東條英機の日本人弁護人である清瀬博士はこれらの米国人弁護人は「なかなか気骨があり、場合によればアメリカ自身の過ちでもこれをあぐるに躊躇しなかった」と述べています。

 オランダの判事だったレーリンク卿の回想によると、日本人弁護人は国家の名誉、天皇と日本の名誉を守るために裁判に臨んでおり、米の弁護人は依頼人の個人のためならその他の犠牲やむなしというスタンスだったと述べています。おそらくこうしたスタンスの違いが米国人弁護人の「ズバッ」とした弁護として際立たせたのではないかと思います。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)

参考サイト
  WikiPedia「ベン・ブルース・ブレイクニー」

添付画像
 法廷でのブレークニー弁護人(動画より)

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大東亜戦争は戦争犯罪ではありません
http://www.youtube.com/watch?v=kd96pZzEKEM

東京裁判で捏造された南京虐殺

南京虐殺をデッチ上げ、松井石根は死刑にされた。

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 作家の早坂隆氏は中共の南京へ行き、南京大学のキャンパスに近い料理店の一席で学生に「松井石根は日本陸軍きっての『日中友好論者』だった」と言うと、学生は「それは信じられない。日本人はもっと歴史を学ぶべきだ」と返してきたといいます。松井石根(まつい いわね)・・・昭和12年(1937年)の第二次上海事変から南京戦にかけて方面軍司令官だった人です。戦後、東京裁判で「南京大虐殺」の罪で死刑となりました。

 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わっていました。OSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。戦後、連合国はナチス・ドイツのユダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出来ると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環としてOSSが任されることになります。

 その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当でマルクス主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を内部から破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたもので、日本を破壊し、共産革命をおこすためのものです。

 GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年(1945年)12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」というプロパガンダ記事として前もって作られていたものでした。
 この南京虐殺のもととなったのは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。

 東京裁判では南京虐殺を陳述しても証人が出廷せず、反対尋問が行えないような証拠が多量に採用されました。しかし、さすがにナチスのような共同謀議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。逆に、松井石根は軍紀を厳しくするよう命令を出しています。検察側もこれには参り、司令官だった松井石根の訴因第1から第54までは無罪とし、第55(俘虜および一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)のみ有罪として死刑としたのです。

 松井被告に対して多数判決は「・・・これらのできごとに対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。

 南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
 東京裁判の南京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられ、松井石根は死刑になったのです。




参考文献
 「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
参考サイト
 WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
 松井石根(PD)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

ウ将軍をなぐらなかった男

BC級裁判もデタラメ。

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 東京裁判の弁護人を務めた清瀬一郎博士は東條英機の弁護人でしたが、BC級戦犯で逮捕されたA中尉の無実証明に一役買っています。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。

 BC級というのは極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士らです。ABCは罪の重さではありません。BC級戦犯として起訴された中にA中尉がいました。A中尉は台湾の俘虜収容所にいた米軍のウェーンライト将軍を殴ったということで起訴されていました。俘虜収容所でブタか何かを飼う仕事が将軍に割り当てられましたが、将軍は老兵であり、そんな仕事をしたことがない。監視兵がもどかしがって、将軍の顔をピシャリとやったというものです。

 清瀬博士はA中尉はからの切々たる訴えによって巣鴨に出向き面会します。
A中尉「自分は台湾で俘虜監視の仕事にたずさわったのは事実であるが、ウ将軍を殴ったという事実はない。これは人違いか何かだ。このことを米軍調査官にふたたび三度訴えたが、取り上げてもらえない。このまま私は無実の罪で死ななければならないのであろうか」

 清瀬博士はA中尉と面会していてあることに気がつきます。A中尉は右手が無いのです。戦闘でやられて失ったため、俘虜の監視の仕事に回ったのでした。そこで同じ弁護人のブルーエット氏の名前でウ将軍に手紙を出してもらいます。将軍の顔面を殴ったとすればそれは右頬であったか、左頬であったか?ウ将軍からの返事は左頬を相手の右手の手のひらで強打された、というものでした。右手がないのに右手のひらで相手の左頬は叩けません。これでA中尉の無実が証明され、釈放されることになりました。

 これはめでたし、めでたし、というお話ですが、BC級戦犯と呼ばれる人の中には無実の罪で刑を受けた人は多かったと思われます。国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多いといいます。

 各国、各地より戦犯として証拠のあげられるものを集めて戦争犯罪局というところが、リストにしていましたが、もとが聞き取り調査などで不正確のものが多く、結構デタラメなものでした。リストは以下のように記述されました。

「フクダ、兵、マニラ、1943年5月(5フィート7インチ、160ポンド、左腕上部、肩のすぐ下に半ば削り取られた入墨、左上の第三歯に金冠、しゃがれ声、頬にかすかな傷)」

「カラジュウチ、ロス、ビノス飛行場、1943年9月~1944年9月(身長5フィート7インチ、体重170ポンド、ゴリラのような身体つき、黒髪、頬骨高く赤ら顔)」

とまあ、こんな感じです。中には「イワサ、マオジ、真珠湾」と特殊潜航艇で戦死した岩佐中佐まであげられており、何かの名簿を書き写しただけではないか、というような杜撰さです。

 BC級戦犯約5,600人が各地で逮捕投獄され、横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約千名がインチキ軍事裁判の結果、死刑に処されました。これは虐殺行為です。



参考文献
  中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
  新潮社「創られた東京裁判」竹内修司(著)
参考サイト
  WikiPedia「BC級戦犯」
添付画像
  巣鴨プリズン(PD)

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東京裁判を傍聴し、日本人の光を見た人

最後まで戦った日本人の姿があった。

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 以前、雑誌「正論」に神奈川県の白鳥誠一さんという方が東京裁判に傍聴に行ったときのことを寄稿されていました。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。白鳥さんは東京裁判で清瀬弁護人が「国際法、国際慣行に照らして、当法廷で戦争犯罪人を裁く権限はない。しかも日本は自存自衛のために戦ったもので、起訴状に該当するものがなく全員無罪」と弁じた姿を鮮明に記憶していると述べています。

 白鳥さんは物事には「光」と「闇」が表裏一体となっていて、古今の歴史は常に勝者の歴史観で綴られ、敗者にも光があることを抹殺されてしまうと述べて検閲によって東京裁判は正しいと日本人は洗脳された言っています。白鳥さんは清瀬博士は「日本人の光」と気づき、「日本国の日本人」を意識して今日まで過ごすことが出来たと述べています。
 白鳥さんは非常にいい機会に恵まれ「光」を見たと言えます。しかしながら多くの日本人は「影」ばかり見せられたばかりか捏造と歪曲の事実を刷り込まれ日本人として誇りを失ってきていると思います。

 清瀬一郎弁護士(「秘録・東京裁判」より)
「この裁判の最中に、毎日流されていった法廷記事なるものは、半分は嘘であった。司令部が新聞を指導し、いかにも日本が悪かったのだ、日本軍人は残虐行為ばかりをしておったのだと、日本国内はむろんのこと、世界のすみずみにまで宣伝した。しかもわが方としては、これに対抗する手段は封ぜられていた。判決は下されても、判決批判はいっさい禁ぜられていた」

「それゆえ、世間では日本の旧軍人は、戦時中敵国俘虜の虐待や婦女の陵辱ばかりしておったのかしら、日本政府は強盗やギャングのような侵略戦争の共同謀議ばかりしておったらしい。マッカーサーは偉い。マッカーサーのおかげで、天皇陛下は戦犯ともせられず、お助かりになったのだ、というような感想を深く国民に植え付けてしまった。ほんとうは、かかる感想は大いにあやまっておるのだが、しかしこれが誤解だといっても、今では世間は信用しない」

 我々は東京裁判で捏造されたウソの歴史を次の世代には残すべきではありません。誇りある歴史、清瀬博士のような毅然とした日本人がいたことを伝えたいものです。

 東京裁判弁護側冒頭陳述「結語」より
「われわれがここに求めんとする真理は、一方の当事者が公然と正しく、他方が絶対不正であるということではありませぬ。人間的意味における真理は、往々人間の弱点に包まれるものであります。われわれは困難ではありませうが、しかし、公正に近代戦争を生起しました一層深き原因を探求せねばなりませぬ。平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるものであろうか、資源の不公平配分により来るのであろうか、関係政府の単なる誤解に生ずるのか、裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲、また貪婪(どんらん)にあるのであろうか、これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。
 起訴状によって示されたる期間中の戦争ないし事変の真実にして奥深き原因を発見することにより、被告の有罪、無罪が公正に決定されるのであります。これと同時に、現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するでありましょう」



参考文献
  産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
添付画像
  極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷大法廷(PD)

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プライド~運命の瞬間~ 特報・予告編 ・・・日本人すべてがこの映画を見るべき http://www.youtube.com/watch?v=PaHw8Vq69-Y

狂気が先行した東京裁判

東京裁判は文明の裁きではない。

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 昭和20年(1945年)日本敗戦後、東京裁判が行われました。正式には「極東国際軍事裁判」と言います。昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われました。戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。

 東京裁判では昭和天皇は訴追されていません。これは天皇・マッカーサー会談で連合国最高司令官マッカーサーが昭和天皇の態度を見て感激し、天皇を残すことを決めたという話があります。そういう部分はあったと思いますが、実際はOSSというアメリカ戦略情報局によってほぼ決まっていた規定路線だったことがわかっています。マッカーサーはこれに従っているだけです。天皇を利用して日本統治を進めようとしたのです。

 しかし、ソ連とオーストラリアは昭和天皇を裁くべきと主張しました。ソ連は日本国内を混乱に落としいれ共産化したかったと思われます。オーストラリアは人種差別的意識からではないかと思います。ウェッブ裁判長(豪)も同調していました。

 オーストラリアは昭和21年(1946年)1月に62名の戦犯リストを提出しています。この中に昭和天皇の名前がありました。これにはオランダ、ベルギー、ニュージーランドが同調し、イギリス、中華民国、ノルウェーは反対しています。

 この前年の昭和20年(1945年)11月に米国の統合参謀長会議はマッカーサーに極秘通達を送っています。

「天皇は戦争犯罪人として逮捕、裁判、処罰から免れていない、というのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行し得ると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう」

 規定路線として天皇を利用して統治を進めるものの、それが軌道にのれば天皇訴追を考えてもいいのではないか、というものです。しかし、マッカーサーは東京裁判に対してかなりの部分で否定的だったので、オーストラリアが天皇を訴追すべきとしたとき「そのような証拠は何もない」とし、「もし天皇を裁判に付そうとすれば、占領計画に大きな偏向を加えなければならず、占領軍の大幅増強が絶対不可欠となるだろう。最小限にみてもおそらく百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」と反論し、この議論には終止符がうたれました。

 これらの話もドイツを裁いたニュルンベルクの憲章自体も、それを東京裁判に持ち込んだりするのも、この頃は文明とは思えない狂気が先行していたと感じますが、意外にもマッカーサーはこの点では比較的冷静だったようです。

 東京裁判の判事・インド法学者パール博士は「パル判決書」というのを書き上げています。日本語に訳して88万5000字あまりの大文章です。堂々と「日本無罪」を主張した「パル判決書」は次の言葉で締めくくられています。

 時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
 また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、
 そのときこそ、正義の女神は、
 その秤を平衡に保ちながら、
 過去の賞罰の多くに、
 そのところをかえることを要求するだろう。

 われわれ日本人はあの東京裁判が正義はあったのか。パール博士の言葉に耳を傾け、東京裁判とは何だったのかを正しく後世に伝えて行かなければなりません。




参考文献
 新潮選書「創られた東京裁判」竹内修司)(著)
  中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
  裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂(PD)

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東京裁判は梅毒のようなもの

反日国家による歴史攻撃の元凶。

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 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は東京裁判は梅毒のようなものだ、と述べています。東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。

 渡部氏は靖国に関する支那問題、教科書問題、同じ問題がその時々で問題化するたびに、問題自体がより悪質化し、根が深くなっていると述べています。この「だんだん悪質化する」ことを例えるのに「梅毒」という例を挙げています。梅毒はまず硬いしこりや発疹ができますが、自然に消滅します。3ヶ月ほどして発熱から関節痛、全身発疹等の症状が出ます。3年後、全身に硬いコブのようなゴム腫が現れ、10年以上放置すると中枢神経が冒され死に至ります。

 東京裁判は言うまでもなく、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法であり、偽証罪もなく、管轄権もありません。インチキ裁判です。

 日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を受け入れたというのはウソで、諸判決(Judgments)を受け入れたのであって、裁判を受け入れたわけではありません。そしてサンフランシスコ条約は判決を停止できる条件があり、日本はこれに基づいて諸判決を廃止しました。どこの国からも文句は言われていません。昭和28年(1953年)の特別国会で改正遺族援護法が成立し、東京裁判で戦犯とされた人も通常の戦死者として扱うことを社会党、共産党を含む全会一致で決定しています。

 しかし、戦後の公職追放によってできた空席に共産主義者が潜入し、梅毒を撒き散らしていきました。具体的には敗戦利得者である政治家、朝日新聞をはじめとするマスコミ、日教組といった教育界が撒き散らしていきました。渡部氏はこの梅毒を根治するために三段階にわたる治療の提案を行っています。

1.独立回復記念日を制定すること(4/28)
 日本に独立がなかったときがあったことを国民がよく知るというもので、国旗も国歌斉唱もできなかった。主権がないときに憲法が作られた。そして東京裁判が行われた。

2.東京裁判の実体を国民がよく知ること
  前述したような事後法で裁かれたこと、偽証罪もなく、管轄権もなかったことなど。

3.マッカーサー証言を日本に知らしめること
 昭和26年(1951年)の米国議会乗員の軍事外交合同委員会の答弁です。
「日本は絹産業以外は国有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

 最近、このマッカーサー証言を学校教育に取り入れているところがあると聞きます。日本人はすべて知るべきでありましょう。この梅毒はわが子の世代までには絶対に根治しておきたいものです。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  WAC「日本は侵略国家だったのか 『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
参考サイト
 msn産経ニュース 「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm
添付画像
  サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団(PD)

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