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16.日清戦争

海戦も圧勝した日清戦争

陸戦も海戦も圧勝した日本軍。

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 明治27年(1894年)~明治28年(1895年)の日清戦争で日本軍は陸戦で連戦連勝しました。海戦でも9月17日の黄海海戦で北洋艦隊を撃滅。清国の残存艦隊は威海衛に集結したため日本軍は陸海より攻撃することとし、明治28年(1895年)1月末に陸軍第二軍の一部が山東半島の栄城湾に上陸。威海衛の砲台を占領しました。海軍は2月初旬に、水雷攻撃で清国の旗艦・定遠をはじめとする諸艦を撃沈しました。北洋艦隊は2月12日に降伏し、17日に日本軍は軍港威海衛を占領しました。

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると海戦は清国が断然有利と世界の専門家が予想していました。清国には定遠、鎮遠という本格的戦艦があるのに対し、日本艦隊は巡洋艦が主力であり、大艦巨砲が勝利の決め手になるという絶対原則から当然そう考えられていました。ところが米海軍の少将ジョージ・E・ベルナップは日本海軍の全面勝利を予想しました。ベルナップ少将は日本の司令官が22隻の艦隊を連動させているのを見て、英国艦隊となんら遜色がないことから、練度の低い清国艦隊が相手であれば、結果がどういうものか容易にわかると述べました。実際結果はその通りとなりました。

 日清戦争前の明治19年(1886年)、清国海軍の定遠、鎮遠が長崎に寄港しています。その威容に日本国民は戦慄しました。東郷平八郎は呉でこの艦隊を見ています。そして
「こんな国怖くない」と断言しました。呉に寄港中、清の兵士たちは洗濯物を戦艦の大砲に干していたというのです。

 日本海軍は定遠、鎮遠に対抗するため松島型防護巡洋艦三隻を建造しています。これにはちょっとしたエピソードがあります。それぞれ松島(まつしま)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)と日本三景にちなんで命名し、三景艦といわれました。なんだか強そうな名前の付け方ではないですね。この三景艦はフランスからエミール・ペルダンという造船技師を招いて建造しました。ところが、排水量に比べて定遠を上回る32センチ砲を一門添えて一点豪華主義のようになっており、実戦には疑問がつきました。しかも松島の主砲は後ろ甲板につけるという???でした。実は前甲板と後ろ甲板に32センチ砲をつけた2隻ずつ合計4隻造るつもりで、定遠、鎮遠の砲門と排水量に対する数合わせでした。しかし、こういう妙な設計は特別な戦術や訓練も要するわけで、さすがに海軍首脳部はおかしいと気づき、三隻でエミール・ペルダンとの契約を解除し、エミール・ペルダンの顔をたててあげるため「三景艦」と名づけて、「もともと三隻を予定していた」ということにしたわけです。他人の名誉をも重んじる日本人らしい気遣いです。三景艦は海戦で主砲は役に立ちませんが、副砲である速射砲と高速の運動性能により大活躍しました。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「松島型防護巡洋艦」「鎮遠 (戦艦)」

添付画像
 松島型防護巡洋艦(PD)

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情報を重視した日清戦争

国家の風格は”情報”にあり。

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 明治27年(1894年)、朝鮮半島で農民の反乱である東学党の乱が勃発し、6月12日に清国は出兵しました。日本へは天津条約に基づいて出兵を通告してきましたが、通告文の中に「属邦保護」の文字がありました。日本の対韓政策は朝鮮の独立ですから、清国の兵力との均衡を保つため、出兵し、朝鮮半島の共同改革を提案しました。

 清国の出兵は6月1日に朝鮮政府から派兵要請があったからですが、日本は翌6月2日に在留邦人保護のために派兵を閣議決定しています。すばやい動きです。これは参謀次長・川上操六や外務大臣の陸奥宗光がしっかりとした情報網をもっており、どうせそうなるだろうと準備万端だったからです。この頃は政治家が個人で情報網を作っており、伊藤博文などは情報網を持っていなかっため日清開戦に慎重だったようです。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると川上はプロシャ主義に基づき、「平和」なときからの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を知っておかなければならないと考え、明治17年(1884年)からベトナムで清の軍隊の実情を調査させています。調査は福島安正、小島正保、小沢徳兵、小沢豁郎らに命じ、さらに青木宣純を南支に3年間潜伏させています。義和団の乱で活躍した柴五郎も北支に潜入させています。明治20年(1887年)には朝鮮の調査を行い、上陸地や輸送、戦略目標の選定などを行っています。国家国民の安全を考えるなら当たり前の行動でしょう。

 日清開戦後、日本軍は成歓の戦い、平壌の戦い、旅順の戦いと連戦連勝。日本軍は開戦前から清国は眠れる獅子というのは真っ赤なウソであり、精強な兵士はせいぜい3,4万、それでも国家のために命をささげようなどというのはほとんどいない、ということを知っており、戦えば楽勝だということを知っていたのです。
 清国軍は若い男性を拉致して兵隊に仕立てています。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあり、兵に良民なしとも言いました。散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなります。逃亡してしまうのです。だから督戦隊の監視下で団塊の状態で戦わされていました。かたまっていますから日本軍が砲撃しようものならひとたまりもありませんでした。また、清国兵は逃げれないように足を鎖で縛られたりしていました。こういった情報も持っていたことでしょう。

 なぜ、当時このように情報を重視したのか。御茶ノ水女子大の藤原正彦名誉教授はその答えを「危機感」と述べています。江戸末期の黒船来襲から始まる、西洋の脅威。そして大陸から清国やロシアの脅威があり日本人は危機感を肌で感じ取ってきていたわけです。

 今の日本はどうでしょうか。中華人民共和国、北朝鮮から核ミサイルを突きつけられていますが、どれくらい「危機感」を持って情報収集につとめているでしょうか。国民の意識はどうでしょうか・・・



参考文献
 歴史通WiLL2010・1月「国家の風格は”情報”にあり」藤原正彦
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「川上操六」

添付写真
 川上操六(PD)

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文明国を意識した日清戦争

国際法を守った日本。

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 明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で独立の志士・金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)による甲申政変は失敗に終わり、日本と清の間で天津条約を結びました。
 それから10年後の明治27年(1894年)、農民の反乱である東学党の乱が勃発。東学党は平等主義を掲げ、李朝の打倒を呼びかけます。李朝は鎮圧に乗り出しますが、東学党の勢力に押され、清国に応援を求めます。日本も出兵し、日清朝の交渉と睨み合いが続き、遂に日清戦争へと発展します。

 日清戦争では日本は文明国として強く意識していました。背景としてアメリカとの不平等条約改正を交渉中だったことがあげられます。陸軍大臣・大山巌は
「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を出し、兵士たちにジュネーブ条約解説書を配り常備携行させ、国際法学者を従軍させるなどの試みを世界に先駆けて行っています。明治天皇の宣戦の詔勅にも「いやしくも国際法にもとらざる限り」一切の手段を尽くすべしと仰せられ、国際法尊重を強く求めています。そして日本軍は国際法を尊重し、清国兵捕虜の処遇は実に懇切にしていました。

 ところが、旅順戦において。『タイムズ』や『ニューヨーク・ワールド』が
「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じ、アメリカの上院が動き出しました。日本側もこの対応には苦慮しており、日本のマスメディアも反論につとめました。また、ベルギーの駐日大使のダネタンは

「その場(旅順)に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」

と、事実を報告し日本を援護しています。

 ダネタンの「日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸」というのは日清戦争では日本兵士は清国軍に捕らえられると虐殺され食われています。シナ人にはカニバリズムという人肉を食べる習慣がありました。鼻や耳をそがれた日本兵の生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されたりしたのです。清国軍は国際法を守ることはしないどころか、非人道的な行為を行っていたのです。

 フランスの国際法学者フオーシーユは次のように日本軍を称賛しています。

「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘わらず、自らはこれを尊重した」


 フランスのフィガロ紙の記者カレスコーとイリュストラシオン紙の記者ラローの従軍記には
「大日本帝国が世界に対して誇るに足る名誉を有する」とし、栄城湾(山東半島)上陸は「毫末の乱るるなくして」整然と行われたことに感心し、上陸した村はずれの某家に「産婦あり。入るべからず」の掲示が出ているのを発見して、予想もしなかったことであると感嘆しています。

 こうした史実にもかかわらず、3年前のNHK「坂の上の雲」で日本軍が支那の村を掠奪し、従軍記者に「兵隊さん、ありがとうと言っている。と書け」と強要したシーンがあったそうで、原作にはない非常に残念な捏造シナリオです。こうして我々は印象操作されているわけです。




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『人道を愛した日本軍』桜林美佐
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「旅順虐殺事件」

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 平壌の戦い(PD)

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異国の地で涙し、恐怖を知った日清戦争

支那の残虐さを知った日清戦争

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 朝鮮半島で東学党の乱がおこり、清国は「属邦保護」のため出兵。日本は清国に強行に抗議し済物浦条約(さいもっぽじょうやく)に従い出兵します。朝鮮の李朝、閔氏一族は逃亡しました。そして閔氏一族の反対勢力であった大院君が李朝に復権します。大院君は清韓宗属関係(清国が宗主国で韓国が従う国)の破棄を宣言し、駐屯の清国軍の排除を日本に依頼します。明治27年(1894年)8月1日、日清両国は宣戦布告を交わします。

「朝鮮は帝国(日本)が始めに誘って列国と交際を始めた独立国である。清国は常に朝鮮を属邦としてしか扱わない」(布告文)

 日本は朝鮮の独立をかけて戦うことになります。本来、独立国家となるなら朝鮮が戦うべきですが、李朝には戦う力はなく、日本が戦うことになります。もちろんこれは日本の国益にもかなっており、半島の安定と日本との友好関係は日本の安全保障の基礎です。

 7月25日の朝鮮西岸の豊島沖の遭遇海戦以来、陸戦、海戦ともに日本軍の連戦連勝でした。後の支那事変でも同様ですが、支那では前線で戦う兵士は各地から拉致したり、募集した若い男子を兵士にしています。要するに烏合の兵士です。ですから士気が低く、まともに戦えば勝負になりませんでした。日本軍は愛国心を持った天皇の軍隊でであり、使命感、練度が全く違います。

 戦闘で頑強に抵抗する清軍の陣地を攻略した日本の兵士は鎖で足を縛られた清国兵士を見て驚き、憐れなその姿に涙を流したと言います。逃げられないよう死ぬまでここで戦うように鎖で縛られていたのです。清軍は督戦隊というのがいて、前線の兵士を監視し、逃げると撃ち殺していました。
 また、清軍の捕虜になった日本兵の無残な姿を見て捕虜の運命を知ります。虐殺され食われていたのです。大陸、半島では食人の習慣があったのです。また支那軍は日本軍の首を取ったものには懸賞金までかけており、200名が首を取られ、銃殺者は計り知れなかったといいます。

「敵はわが軍の屍に向かって実にいうべからざる恥辱を与へたり。死者の首を斬り、面皮を剥ぎ取り、或いは男根を切り取り、胸部を割きて入るるに石を以ってす。この様を見て誰か驚かざらん」(秋山好古騎兵大隊の稲垣副官の手紙)

 清軍は日本兵だけでなく朝鮮住民に対しても掠奪、強姦、虐殺をほしいままにし、清軍のいくところ、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、さすがの清の指揮官も「髪、天を指す」と打電するほど激怒しました。

 この清軍のあまりの残虐ぶりに山県有朋第一軍司令官は次のように布告します。
「(敵に対しては)軍人といえども降るものは殺すべからず、然れどもその策術にかかる勿れ。かつ敵国は古(いにしえ)よりきわめて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遇はば、必ず残虐にして死にまさる苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以って身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して敵の生捕りする所となるべからず。むしろ潔く一死を遂げ、以って日本男児の名誉を全うすべし」

 日清戦争は大陸の生死の過酷さを日本人に教え、負けて捕虜になったときの脅迫観念を植え付けました。これは後の大東亜戦争時の戦陣訓「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」につながっています。

 清軍の蛮行の一方、日本軍は終始、国際法を忠実に守りました。フランスの国際法学者フォーシーユ。
「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、自らはこれを遵守した」


参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著

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 平壌の戦い(PD)

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明治27-28年(1894-95) 日清戦争
http://www.youtube.com/watch?v=vifS8jWKs9M

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