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17.日露戦争

黄禍論を吹き飛ばした「金子堅太郎」

アメリカ世論を味方にした金子堅太郎。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争当時は黄禍論(おうかろん/こうかろん)と呼ばれる主に日本人並びに支那人を蔑視する思想がありました。こういった国際情勢でロシアと戦うのは不利であり、これを打破する任を負ったのが金子堅太郎(かねこ けんたろう)です。

 金子はハーバード大学に留学した経験があり、その同窓にアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいました。金子はボストンの上流階級WASPと呼ばれるイギリス系白人プロテスタント社会で人脈を築きあげた実績がありました。そこで金子にアメリカの世論を親日に変えさせる任が下りたのです。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると伊藤博文からその任を言い渡された金子は
「ロシア相手に戦うなどとても無理です。そういう役目は御免こうむりたい」といったん断っています。伊藤が「万一の場合、自分も銃をとって一兵として戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか」と言われ引き受けています。

 日本は当時も今と変わらず宣伝下手で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」では外国観戦武官や記者に対して秘密主義をとったため、
「われわれは豚のように扱われた」と憤慨した観戦武官がおり、遼陽会戦で「日本軍は負けている」と思われ「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけだ。ロシア軍は堂々と撤退した」という内容の記事が世界にばら撒かれてしまったことが書かれています。これによって日本の戦費にあてる公債の応募が激減してしまったのです。

 その一方、金子は主要なマスメディアの本社があるニューヨークを活動拠点に選びます。ここでマスコミを味方に付けようと考えたのです。あるパーティのスピーチで金子は日露戦争の目的を以下のように語ります。

「日本はペリー提督によって開国の道を歩み始めて以来、アメリカにはさまざまなことを教えていただきました。その恩を忘れることなく、アメリカが教えてくれたすばらしい文化を今度は支那や韓国へ紹介するのが私たちにほんの役割だと思っています。
 ところが残念なことに、その使命を果たそうとしただけなのにヨーロッパ最強国と敵対することになってしまいました。日本がロシアと戦うのは領土拡大の野心があるからではなく、アメリカに教えられた文化をアジアのほかの地域にも広めたいと願っているからです」


 アメリカは支那大陸への門戸開放を狙っていましたから、日本に野心はない、アメリカをよいしょして同調するスピーチをしています。また金子は旅順港で戦死したロシアのマカロフ提督へ追悼の言葉を述べており、これもアメリカ人の心を揺さぶりました。翌日の新聞で金子を絶賛する記事が掲載されたといいます。金子は母校ハーバード大学でも日本の正当性を詳細なデータを用いて熱弁します。こうしてアメリカの黄禍論からおこる反日感情を抑制し、徐々にアメリカ世論は日本に同情的になっていきました。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「黄禍論」

添付写真
 金子堅太郎(PD)

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20万の兵に匹敵する戦果をあげた明石元二郎

明石元二郎のスパイ大作戦。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において明石元二郎(あかしもとじろう)大佐のスパイ活動は有名です。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、
「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えました。

 明石元二郎は運動神経が鈍かったといいます。また外見に無頓着だったといいます。しかし語学力はずば抜けており、あるパーティで外国人から
「何語なら話せるか?」とフランス語で問いかけられて「フランス語が少し話せる程度です」と答えて、風采の上がらぬ明石を見て安心したのか、その外国人は隣の人間とドイツ語で密談を始め、明石はそしらぬ顔で彼らの会話を聞き貴重な情報を収集したといいます。

 明石元二郎は100万円(現在の40-50億円)の工作資金を持たされ、大国ロシアの不満分子、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどをたきつけて内乱を起させ、ロシアを内部から揺さぶる使命を帯びます。
 日露開戦によってロシアのペテルブルグ日本公使館はひきあげとなり、明石を含む公使館員はスウェーデンのストックホルムへ移動しました。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると、ストックホルム駅に着くと、ホームには多数の紳士や軍人が集まっていました。明石らは
「これは何か?」と怪訝に思っていましたが、自分たちを歓迎する人たちだと知り驚嘆します。スウェーデンにとってロシアの侵略は脅威であり、隣国のフィンランドは既にロシアに占領されていました。スウェーデンの人々は小国日本がロシアに対して開戦した勇気に驚き、讃え、ひそかに支持し、集まってきていたのでした。明石はストックホルムを拠点に活動を開始しました。明石の活動は「坂の上の雲」(六)『大諜報』に詳しく描かれています。

 明治38年(1905年)1月におきた「血の日曜日」(民衆のデモに対して軍が発砲した事件。ロシア革命の幕開けともいわれる)のデモを指揮したゲオロギー・ガポン神父やフィンランドの独立運動活動家のコンニ・シリアスク、さらにはレーニンとも面識があったといいます。(最近はレーニンとは面識がなかったという論が強いようです)
 明石は100万円を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことにより、帝政ロシアの根幹を揺るがします。ロシアが日露戦争継続可能であったにもかかわらず、日本と不本意な講和をせざるを得なかったのは国内の反体制勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことが大きく関係しており明石の活躍が大きいと評価されています。
 
 明石は100万円すべてを使い切れず27万円を残して帰国し返納しました。使ったお金の受領書や使途の書付はきちんと残しておいたそうです。
 明石は後に第7代台湾総督に就任し、大正8年(1919年)、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務めています。ちなみにご先祖は関が原、大阪の陣で奮戦した明石掃部頭全登(あかしかもんのすけたけのり)といわれています。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「明石 元二郎」
添付画像
 明石 元二郎(PD)

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日露戦争は日本の心を世界に知らしめた

世界が称賛した武士道精神。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争は小さな黄色人種が大きな白人をやっつけたことにより、有色人種に希望と勇気をもたらしました。それと同時に日本の心も世界に知らしめたといえます。

 旅順攻防戦終結後の明治38年1月5日、水師営で行われた乃木希典とステッセルの会見は、日本の武士道精神の精髄を世界に知らしめ、日本の精神文化に世界が驚倒した事件でした。勝者と敗者の会見でしたが、
「武人の名誉を保たしむべし」という明治天皇の希望によって敗軍の将・ステッセルに帯剣が許されたのです。また、外国の記者から写真撮影の申し出がありましたが、「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道精神が許さない」として断り、「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい」として両軍の幕僚が並ぶ写真だけが撮影されました。
 旅順戦には観戦武官といって外国の武官も数多く参加していましたが、乃木将軍と接するとことごとくその魅力の虜になったといいます。イギリスのハミルトン将軍などは退役後、エジンバラ大学の総長になってからも
「自分がもしも日本人だったならば、乃木将軍を神として仰ぐだろう」と学生たちに語り続けたといいます。
 ダグラス・マッカーサーも父のとともに観戦武官として乃木将軍とともに過ごしており、大東亜戦争の日本空襲で乃木神社は爆撃対象からはずさせたといいます。

 米海軍のニミッツ提督は東郷平八郎を敬愛し、大東亜戦争後、戦艦三笠の復元を訴えました。沖縄戦のときに慶良間諸島の日本軍に医薬品を届けたというエピソードもあります。

 日露戦争後のロシア革命においてシベリアにポーランド人の孤児が取り残される事態がおきます。ポーランド系移民協会は欧米諸国に保護を求めますが反応は冷淡でした。このとき委員のひとりがこう述べます。


「私の叔父は10年前の日露戦争に召集されて日本軍の捕虜になり、日本に連れて行かれた。でも叔父は数ヶ月の捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされたことをよく私に話して聞かせてくれた。」


 日露戦争時、ポーランドはロシアの属領となっており、ポーランド人は満州の前線に出されていました。日本は捕虜をとても大事に扱いましたから、そのことが伝わっていたのです。そして白人の国ではない見知らぬ日本に援助を求めることになりました。これが日本とポーランドを結ぶ友好の第一歩となりました。

 イスラエル建国の志士とあがめられているトランペルドールはユダヤ人地位向上のためロシア軍に志願し、日露戦争を戦います。旅順守備軍にいました。しかし、明治38年(1905年)1月1日に日本軍に降伏したため、大連から日本の大阪浜寺へ移送され捕虜生活を送ります。ここで彼は日本を学び、日本人の規律の正しさ、勤勉さ、私欲をすてて公のために協力し合うとか、愛国心などを知り、日本人の精神に心酔します。
 トランペルドールは後にイスラエルに戻り、ユダヤ人自衛組織をつくり、ユダヤ人集落をアラブ人の襲撃から守ります。しかし、大正9年(1920年)10月29日にアラブ人の武装集団の弾にあたり致命傷になります。彼はこう述べて息をひきとりました。


「アイン・ダバル!トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」(俺にかまうな。国のために死ぬほど名誉はない)

これは捕虜時代に大阪の浜寺で日本兵士に教えられた言葉でした。彼の遺品は記念館に展示されており「新生ユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と手記が残されています。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『世界に愛された乃木将軍』福井雄三
    『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」

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 水師営での会見に際し、乃木、ステッセル両将軍が幕僚たちと撮った写真 ~ 国立公文書図書館より

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ユダヤ人も狂喜した日露戦争の日本の勝利

世界が熱狂した日本の勝利。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争ではユダヤ人ロスチャイルド、ジェイコブ・シフをはじめとする世界のユダヤ人が日本を金銭的に支援しました。他方、ロシアの外債は暴落を続けます。ユダヤ人の妨害によるものです。

 明治37年8月、9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦の後の11月10日には第二回外債1200万ポンドが売り切れます。(第一回は1000万ポンド) 明治38年(1905年)3月10日、奉天海戦で日本軍が勝利を収めます。3月25日の第三回外債3000万ポンドが売り切れます。5月28日、日本海海戦で連合艦隊が圧勝。7月8日第四回外債3000万ポンドが売り切れます。これらの外債の半分はユダヤ人の引き受けによるものでした。この四回に及ぶ外債で日本は日露戦争を戦い抜くことができました。

 日露戦争の日本人勝利の報にアジア民族は狂喜しました。
「新京では支那人が日本人と中心街を練り歩き、花火がいつ果てるとのなく夜空をまった。」(ニューヨーク・タイムズ)
 親日国トルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を
「トーゴー」と名づけました。「ノギ」「ジャポンヤ」も付けたといいます。
 支那革命の父と呼ばれる孫文はヨーロッパから支那へ帰る途中、スエズ運河でアラビア人が嬉しそうに
「お前は日本人か?」と問いかけてくるので「違う支那人だ。何があったのか、なぜそんなに嬉しいのか」と尋ねるとロシアのバルチック艦隊を日本が全滅させたというのを「自分が勝ったようなものだ」と言って喜んでいたといいます。
 インド建国の父、ジャワハルラル・ネルーは16歳の少年で、
「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍をたくさん買い込んで読もうと努めた」と自伝に書いています。

 日本を支援したユダヤ人も子供に「トーゴー」と名づけることが流行します。トーゴー・ミッズラヒというユダヤ人の中では有名な俳優、作家、映画監督がおり明治38年(1905年)の生まれなのだそうです。イスラエルの国歌「ハティクバ」(希望)の歌詞を書いた詩人のナフタリ・インベルは明治天皇と日本国民を称える詩を発表しました。
悪い「ロシアのおばさん」善い「ニッポンのおじさん」の喜劇なんてものもあったそうです。
 ロシアでは明治14年(1881年)と日露戦争の前年明治36年(1903年)に、ロシア政府の黙認の下で全国規模でユダヤ人街や、ユダヤ人部落の襲撃が行われ、「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)が行われていました。そこでユダヤ人は日本および、レーニンを始めとする過激派革命組織を支援し、日本勝利に熱狂したのです。

 ユダヤ人最大の功労者ジェイコブ・シフは民間の外国人では初めて明治天皇に招待され、謁見し、旭日大綬章を授けられました。午餐会では明治天皇の健康のために乾杯することをこっそり提唱すると明治天皇は破顔一笑され、快諾され、シフの乾杯が終わると明治天皇からシフの健康を祝って親しく乾杯の音頭を取られました。シフは大山巌元帥、東郷平八郎元帥にも招待され、日光、箱根、京都、瀬戸内を案内され、韓国の仁川に行き、そこでも日韓あげての歓迎をうけたといいます。




参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 「歴史通」WILL10月『乃木神話はなぜ生き続けるのか』中山彰彦・山内昌之
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 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠 ~ 国立公文書図書館より

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弱小日本を救った科学の力 ~ 下瀬火薬

今も日本を支える科学の力。

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 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において、日本海海戦で連合艦隊に勝利をもたらした大きな要因のひとつとして下瀬火薬があげられます。結構有名な話でしょう。
 発明者の下瀬雅允は広島藩の出身で海軍の技師です。兵器製造所に勤務しました。その時の製造科の長が原田宗助という人で、東郷平八郎らとともに英国に留学した人でした。ニューカッスルのアームストロング会社で造兵技術実習しました。

 原田は下瀬に対し
「わが日本は弱国である。弱国にしてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸薬を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示します。
 下瀬は火薬の研究中に爆発事故で手を負傷し、不自由となりましたが、研究を続け、明治26年(1883年)下瀬火薬を完成させます。日清戦争のときはまだ使われませんでしたが、海軍少尉の伊集院五郎が鋭敏な「伊集院信管」を開発したことにより、日露戦争で威力を発揮します。

 下瀬火薬は金属に触れると激しく反応して大量の熱を発するピクリン酸を主原料としています。炸裂威力が圧倒的で、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散し、三千度もの高熱ガスを発生させます。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦上の人間の動きを封殺してしまいます。ロシアの艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、隊列を乱し、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されました。

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると日本海海戦に先立つ黄海海戦で、ロシア水兵は口々に
「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言うものもいたそうです。下瀬火薬の砲弾を受けた艦船は沈まなくても完全な廃艦になってしまいました。諸外国の新聞はこの火薬について報道します。「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。」(1904年7 月31日ニューヨーク・タイムズ)

 明治38年(1905年)5月27日、延々と航海して日本海にたどり着いたバルチック艦隊はこの下瀬火薬の洗礼を浴びます。

「坂の上の雲」よりバルチック艦隊旗艦スワロフの様子

「最初の鞄(下瀬火薬の砲弾のこと)は、スワロフを飛び越えて海中に落ちた。こういう場合、ロシアの砲弾なら長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭敏な伊集院信管によって海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦隊には命中しなくても弾体は無数の破片になって艦上を襲った」・・・「ついで第四弾が、艦尾左舷の6インチ砲塔に命中し、相次いで大火災がおこった・・・前部煙突のあたりに巨大な火柱が立っており、艦尾も燃え始めた」
「戦艦アリョール上の艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プリボイは『まるで飛んでくる水雷のようだ』と言い、また巡洋艦オレーグの艦上にいたS・ポソコフという士官は、『これは砲弾というより機雷である。炸裂すると不消散質の煙をぱっと撒き、海中に落ちてさえ破片がとんでわれわれに被害をあたえた』」


 日本海海戦は下瀬火薬の強力な火力が大いに貢献し、ロシアの艦船は早い段階で猛火に包まれて戦闘力を失いました。戦闘力を奪えば艦が沈んでいなくてもあとは追いかけて艦砲射撃、魚雷攻撃すればいいだけです。海戦は連合艦隊のワンサイドゲームとなり、世界のマスコミがバルチック艦隊有利と予想したことと反対の結果となり、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させることになりました。弱小日本を科学の力が救い、弱小国でも科学の力で勝てることを世界に証明した瞬間でもあったわけです。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「歴史街道」2011.12『世界を震撼させた下瀬火薬と伊集院信管』
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「下瀬雅允」「下瀬火薬」「日露戦争」
 常勝ニッポン 日本海海戦 http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
添付画像
 降伏旗を掲げるニコライ一世 
  国立公文書館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_nikolai_1_01.htm

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辛勝の連続だった陸上戦 ~ 日露戦争

日本を守ってくれた先人に感謝。

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 明治37年(1904年)2月8日 ~ 明治38年(1905年)9月5日の日露戦争での陸上戦の経過を追っていると奇跡に近いような勝ち方をしています。日本海海戦は奇跡ではなく勝つべくして勝った、ですが、陸上戦の南山から奉天に至るまでの戦闘は奇跡と言えます。

 旅順戦は別にして、だいたい南から北へ日本軍はロシア軍と戦っています。

 鴨緑江 -> 南山 -> 特利寺 -> 大石橋 -> 遼陽 -> 沙河 -> 黒溝台 -> 奉天

 鴨緑江は朝鮮と満州の国境でここでは日本軍は圧勝。南山は要塞化されており、苦戦しましたが、海上からの艦砲射撃により撃破。

 明治37年8月24日からの遼陽会戦で日本軍は既に弾薬不足(旅順を優先した)の状態で兵力もロシア22万5千に対し、日本軍は13万5千。火砲はロシア653門に対して日本は474門。これは勝てない。しかし第一軍・黒木為楨司令官は迂回作戦を展開し、少数でロシア軍を包囲しはじめます。この黒木軍の活躍は外国観戦武官も驚愕しています。日本軍は大損害を出しながらもロシア軍を撤退させることに成功します。

 10月8日からの沙河会戦もロシア圧倒的有利の状態で、日本軍は弾がない。そこで夜襲をかけます。そして右翼で閑院宮戴仁親王率いる騎兵第二旅団が機関銃で攻撃。左翼では秋山旅団がコサック騎兵に機関銃と騎砲を浴びせかけます。ここでロシアのクロパトキン総司令官の状況判断ミスがあり、ロシア軍が撤退。これには日本軍が一番驚きます。
 翌年、1月25日からの黒溝台会戦では日本軍左翼が手薄と気づいたロシア軍は大挙して殺到し、黒溝台を占領します。日本軍は増援部隊を派遣しました。そのため中央が手薄になりますが、ロシア軍中央の攻勢は行われず、29日には日本軍第8師団が黒溝台を奪回し、ピンチを脱しました。このあたりはロシア軍内の抗争があり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しく描かれています。

 明治37年(1905年)2月末、ロシア軍は奉天から南方へ向けて総攻撃を企画します。ロシアの総兵力37万に対して日本軍は旅順から第三軍を呼び寄せますが、それでも24万5千。2月27日、第三軍がまず動き、鴨緑江とともに東西包囲作戦を展開します。第三軍は乃木将軍率いる部隊です。ロシアのクロパトキン司令は西部に現れた乃木軍の出現に恐怖におののき、東部に回した部隊を戻すよう指示を出しています。乃木第三軍に従軍したアメリカ人記者スタンレー・ウォシュバンによると乃木軍の兵士たちが覚えたてのロシア語で「われらは旅順の乃木軍ぞ」と叫ぶと、ロシア兵は狼狽して抵抗を諦め、退却したといいます。
 奉天会戦は大激戦となりますが、時間がたてばたつほど兵力、火力とも少ない日本軍は不利となります。総司令部は秋山支隊わずか3千を大きく迂回させ敵側面をつかせます。猛烈な砂嵐で視界が不良の中、ロシアのクロパトキン司令は日本軍の主力に包囲されたと勘違いし、またまた撤退。日本軍は追撃を行い、ロシア軍捕虜2万を得ます。3月10日のことです。(後の陸軍記念日)日本軍の死傷者7万5千、ロシア軍9万。余談ですが、日本軍は脚気患者が多く、戦死者より多かったのではないかと言われています。

 奉天占領後、児玉源太郎満州派遣軍参謀長は東京に帰り停戦の段取りを依頼しています。もう弾がないのです。あとは連合艦隊の勝利を祈るだけとなります。

 これら陸上戦はほとんど奇跡に近い勝利の連続で、「坂の上の雲」に書かれている通り、秋山騎兵隊の活躍は見逃せないところでありますが、やはり国の存亡をかけての日本軍首脳、兵士の肝の入り方が勝敗を分けたと思います。不利な状況、そして大陸の過酷な環境下で黙々と国家の存亡をかけてわれわれの先人は戦ってくれたのです。今日、日本があるのは戦ってくれた先人のお陰です。唯唯、感謝です。


参考文献
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『日露戦争 陸上戦闘の研究』三野正洋
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る"日本人の真価"とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「黒木為楨」

添付画像
 日露戦争の経過(PD)

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日露戦争_壱 http://www.youtube.com/watch?v=6gY4lHXoHTE

日露戦争_弐 http://www.youtube.com/watch?v=3jJnWlSWTHE

日露戦争_参 http://www.youtube.com/watch?v=3EcMGWAf1JU

難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍

奇跡を起こした将軍。

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 明治37年(1904年)~明治38年の日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、本当はそうではありません。

 旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。日本軍は日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。

 明治37年8月19日、第一次総攻撃開始。旅順要塞が強固なのに気づいた乃木将軍は9月1日には塹壕を掘って接近する「築城攻撃」に切り替えました。これは要塞戦では極めて有効であることを世界に先駆けて示すものでした。
 海軍はこの前の8月10日、黄海海戦で旅順艦隊の一部を取り逃がしてしまい、同艦隊は旅順港に篭ってしまいます。バルチック艦隊を迎え撃つには旅順艦隊と挟み撃ちになる危険があります。海軍は陸から山越えに旅順港にいる旅順艦隊を砲撃しなければならないと考え、陸軍に旅順攻略を早めるように矢の催促をしたのです。それで乃木将軍は無理な作戦でもやらなければならなくなったのです。

 乃木将軍は海軍の要請により旅順港を見下ろし砲撃可能な203高地をターゲットに切り替えていますが、既に第一次総攻撃後に攻撃目標にしており、大損害を強いられています。評論家の福田恆存(ふくだつねあり)氏は昭和17年(1942年)に203高地に訪れ、斜面の急峻さに衝撃を受けており、昭和45年(1970年)に乃木愚将論は間違いと指摘しています。
 10月15日、バルチック艦隊がバルト海リバウ軍港を出発。10月26日、乃木将軍は第二次総攻撃開始の命令を発します。塹壕作戦と砲撃により損害は最小限に止めることができました。大本営が主攻撃目標を203高地に切り替えるよう決定したのは11月14日のことで、11月26日から第三次総攻撃を開始し、白襷隊ほか各師団は苦戦を強いられ、11月27日、乃木将軍は主攻撃目標を203高地に切り替えました。203高地への攻撃は203高地後方の堡塁を砲撃するとともに、ロシア軍の逆襲を阻止すべく、味方撃ちも辞さず砲撃を加える非情なものでした。この第三次総攻撃の死傷者は1万7千でしたが、うち1万は203高地においてでした。

 12月5日、203高地を占領します。ここに海軍は観測地を儲け、旅順艦隊を砲撃しますが、実は既に旅順艦隊は廃艦となっていたのでした。海軍はこの情報をつかめていなかったのです。
 203高地を落としても旅順要塞は健在です。乃木将軍は坑道を掘って堡塁を爆破する正攻法で各堡塁を次々に占領し、明治38年1月1日に最高所の望台を奪い、ロシア軍司令官ステッセルはついに降伏しました。

 旅順攻防は1万5千の死者、4万4千の戦傷者を出しましたが、日本軍の士気は衰えることなかったため、ロシア兵は恐怖を抱いたといいます。兵士が乃木将軍を有能な司令官として信頼し、敬愛していたということでしょう。また、乃木将軍の息子二人は危地の部署においたため戦死しています。この点でも日本兵士は乃木将軍の心を知り奮闘したのだと思います。「坂の上の雲」ではそう書いていません。
「ひどい作戦指導」「将官級のなかの一、ニの中にはわざと病気になり後方に送られる者すらでてきた」などと書き、一部の将官の旅順戦後の講義から引用し、「(乃木将軍は)まさに死を決っせんとしているとの風説が前線に伝わったことがある。しかしその風説は、少しも第一線部隊の督励にもならなかった」「将軍の子供が二人戦死したごときも・・・第一師団方面は知らぬこと、第十一師団方面では当然ぐらいに考えたに過ぎなかった」と乃木将軍をこき下ろしています。

 難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍は世界中から賞賛されました。「水師営の会見」で見せた武士道精神に対するだけでなく、近代的大要塞を過小な兵力でしかも短期間に陥落させた「奇跡を起こした将軍」として讃えられたのです。

 現在、歴史教科書で乃木将軍がどのように書かれているか自由社の教科書(H21年版)を見てみましたが・・・乃木将軍の名前はありません。東郷平八郎は1ページカラー使ってます。東京裁判史観の延長上にある「坂の上の雲」の呪縛から逃れられないのでしょうか。極めて困難な条件下で目的を達し、人間的にも優れていた人ですから載せてもらいたいものです。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『私を"転向”させた坂の上の雲』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11
  『世界に先駆ける合理的な戦法と敢闘が永久要塞を攻略した』原剛
  『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る”日本人の真価”とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 1列目左から4人目東郷平八郎、5人目乃木希典、2列目左から6人目秋山真之 アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm

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明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編 http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o

日露戦争の戦費調達秘話

世界が日本の負けとみていた。

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 明治33年(1900年)、清国北京でおきた義和団事件をきっかけにロシアは満州を制圧しました。火事場泥棒です。ロシアは更に朝鮮半島へ南下をしかけます。義和団事件以前の明治29年(1896年)にロシアと清は攻守同盟密約を行っており、大韓帝国(朝鮮)は一進会は日本支持ですが、高宗らの支配階級はロシア寄りでした。日本は日英同盟を結び大国ロシアに対抗します。

 ロシアと日本では国力が違い、戦力もまるで違います。陸軍兵力で約5倍、軍艦の排水量で約2.5倍も違ったのです。そしてロシアと戦うにはお金が必要です。日本銀行の副総裁だった高橋是清は海外に日本の国債を売り込む使命を帯びてまず、太平洋を渡りアメリカへ乗り込みます。ですが、世界は日本とロシアが戦っても日本が勝つことは万に一つもありえないと判断しており、誰も引き受けてくれません。そして今度はイギリスへ向かいます。
 高橋はロンドンに一ヶ月以上滞在し、銀行から銀行へ精力的にまわります。日本と英国は同盟を結んでいましたから好意的ではありましたが、投資するとなると誰もが尻ごみします。それでも英国の銀行団から500万ポンドの日本の国債を引き受けてもらいます。しかし、それでは足りず、第一回の戦時国債として1000万ポンドは必要でした。高橋は途方にくれました。

 高橋是清が英国の銀行家の友人が自邸で催してくれた晩餐会に招かれて出席したときのこと。隣に座ったアメリカ人から
「日本兵の士気はどのくらい高いか」といったことをはじめとして多くの質問を受けます。高橋は一つ一つ丁寧に答えます。すると翌朝、イギリスの銀行家が突然、高橋をホテルに訪ねてきて「前夜の宴会であなたの隣に座ったアメリカ人の銀行家が、『日本の国債を引き受けよう』と言っている」と言います。高橋は驚きます。その銀行家はヤコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人でした。

 シフは500万ポンドの日本国債を引き受けてくれたのです。ときは1904年(明治37年)5月。日露戦争は始まったばかりで、まだ日本軍は大きな勝利を収めていないときです。実はユダヤ人は帝政ロシアに甚だしい虐待を受けており、圧政はその極に達していたのでした。

シフの述懐
「ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する"神の杖”であるに違いないと、考えた」

 シフの戦費に支えられた日本は陸戦は辛勝ながらも連続勝利。難攻不落といわれたロシアの旅順要塞を乃木将軍が陥落させます。そして日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を相手に日本連合艦隊がワンサイドゲームで大勝利し、小国日本が大国ロシアに勝利しました。

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 日露戦争から50年後の昭和41年(1966年)、イスラエル駐日大使、モシュ・バリュトウール大使が着任した時の話しです。着任早々大使は他の外国大使がそうするように、皇居にて信任状を昭和天皇に奉呈します。このとき昭和天皇より次のような言葉を賜ったといいます。

「日本人はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて我国はヤコブ・シフ氏に大変お世話になりました。日本人はこの恩を決して忘れることはありません」


 昭和天皇は知っていたのです。逆にモシュ・バリュトウール大使のほうがシフを知らずに後で調べたそうです。



参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『日本を助けたユダヤ人 ユダヤ人を助けた日本人』岩田温
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 ヤコブ・ヘンリー・シフ(PD)

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日本海海戦の勝利は奇跡ではなかった

圧倒的優位だった連合艦隊。

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 1905年の日露戦争の日本海海戦は日本の連合艦隊よりも3倍の戦力を誇るバルチック艦隊に奇跡的に勝利したように言われています。東郷司令官と秋山参謀の丁字戦法を絶妙な東郷ターンによって完成させたことや下瀬火薬、風上をとった戦術による勝利であると。
 ところが実際は勝つべくして勝ったというのが実態のようです。日本の連合艦隊はバルチック艦隊の実効射撃量は約4.5倍だったとのことです。

 バルチック艦隊が3倍の戦力を誇るというのは戦艦の数や砲門の数、長距離砲の数などの総合的な火力、破壊力を言っています。世界はこの計算から導き出された数値からバルチック艦隊絶対有利とし、バルチック艦隊が壊滅した報を聞き、驚愕したのです。
 しかし、この計算の中には発射間隔や命中精度が含まれていません。実は連合艦隊は3倍の発射間隔と3倍の命中精度を持っていました。つまり、バルチック艦隊が1発撃つ間に連合艦隊は3発撃てるし、バルチック艦隊が1発命中させたときには連合艦隊は3発命中させれるのです。更に連合艦隊は水雷艇を備えていました。(あまり戦果はなかったが) もちろん新兵器の下瀬火薬を採用していたことも見逃せません。

 なぜ、連合艦隊が3倍の発射間隔と3倍の命中精度を持っていたか。それはロシアの艦隊とまともに戦っても勝ち目がないため、猛訓練したのだそうです。つまり東郷司令官も秋山参謀も海戦時には勝算を持っていたということで、実は絶対有利の状況下にあったということです。

 ここで疑問となるのが、絶対有利が把握できている状況下でなぜ「東郷ターン」という危険行為をしなければならなかったのか、ということです。東郷ターンは縦列で進んで敵前でターンし、艦隊を横列にしてより多くの砲門を縦列の敵先頭艦に集中させる戦法です。ターンしている間が弱点でここで敵の砲弾多く浴びることになりますし、射程距離外でターンすれば戦法を見破られて回避されます。

 日本側にはバルチック艦隊を全滅させなければならない理由がありました。バルチック艦隊はウラジオストックに入港し、日本近海の制海権を握り日本列島と大陸間を分断することが戦略的な目的です。日本はそうなれば大陸の軍は孤立し壊滅するのでそうはさせじと決戦を挑みますがバルチック艦隊との海戦に勝利してもバルチック艦隊が何十パーセントでも残ってしまば、今後、ゲリラ的に出没されてしまい、輸送に支障をきたしてしまいます。つまり日本の勝利の条件はウラジオストックに入港する前にバルチック艦隊を全滅させることだったのです。東郷ターンに加え、第二戦隊「出雲」の上村司令長官の機転と秋山真之の七段構えの戦法によりバルチック艦隊は全滅。ウラジオストックに入港できたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけでした。

 このように日本海海戦の勝利は奇跡ではなく、東郷司令官と秋山参謀、猛訓練を行った兵士たちの人事を尽くした結果だったといえます。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 武田邦彦「常勝ニッポン」
  第一話 決戦の前夜 http://takedanet.com/2007/04/post_de6a.html
  第二話 決戦 http://takedanet.com/2007/04/post_7f37.html
  第三話 海戦次第 http://takedanet.com/2007/04/post_27e9.html
  第四話 日本はなぜ勝ったか http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
 
 日本海海戦「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」 (東郷ターンアニメーションあり)
  http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html
  
  実際には丁字というよりイ字に近い。アニメは併走に到るまで見れるが、この後、連合艦隊がバルチック艦隊の進路を塞ぐ。旗艦スワロフが火を噴き、北へ転進したのを第一戦隊は逃走と判断し、回頭したのに対し、第二戦隊は舵の故障と正確な判断を下し、回頭せずに攻撃を続行したのが功を奏した。

添付画像
 戦艦三笠(JJ太郎撮影 PD)

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日露戦争 日本海海戦報道
http://www.youtube.com/watch?v=QIfGddn2XnY


 バルチック艦隊の第一発見者は沖縄の青年猟師だった。宮古島沖でバルチック艦隊を発見し、宮古島の役場に報告したが、宮古島には電信局がなかった。このため、若者3人が荒れる海を15時間もかけて八重山島まで知らせた。しかし、そのときにはもう海戦が始まっていた。

日露戦争が世界に与えた影響

世界に衝撃が走った日本の勝利。

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「日露戦争が始まった年、私はちょうどヨーロッパにいましたが、ある日、東郷大将がロシアの海軍をうちやぶり、ロシアが新しくヨーロッパからウラジオストックに派遣した艦隊が、日本海で全滅させられたことを聞きました。このニュースがヨーロッパに伝わると全ヨーロッパの人民は、父母を失ったように悲しみました。イギリスは日本の同盟国でしたが、このニュースを聞いたイギリス人のほとんどいずれも眉をひそめ、日本がこのような大勝利をおさめたことは、結局白人の幸福ではないと考えたのです」

 これは支那革命の父といわれた孫文が神戸で講演した内容の一部です。さらに次の話があります。

「その後まもなく、私は船でアジアにかえることになり『スエズ』運河を通るときに、たくさん土人(原住民のこと)がいまして、これはほとんどアラビア人でしたが、私が有色人種であるのを見て『お前は日本人か』と問いかけてきました。それに答えて『違う、私は中国人だ。何があったのか、なぜそんなにうれしそうなのだ』といいますと、『なんでも、ロシアがヨーロッパからまわした海軍を、日本が全滅させたということだ。そのニュースが本当かどうか知らないけれど、自分たちは運河の両側にいて、通る船ごとにロシアの負傷兵がヨーロッパへ送られるのをよく見る。きっとそれはロシアが大敗した証拠に違いない。これまで我々東洋の有色民族は、いつも西洋民族の圧迫をうけて、苦しめられ浮かび上がれないが、こんどは日本がロシアを負かしたのだから、東洋の民族が西洋の民族を、うちやぶったことになる。日本人が勝ったのは自分が勝ったようなものだと思う。これは本当に歓喜すべきことだ。だから自分たちは、こんなに愉快になり喜んでいるのだ』といっていました」。

 インド建国の父、ネルーはこのとき16歳の少年でしたが、「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍を沢山買い込んで読もうと勤めた」と述べています。

 「アジアは日本の勝利に飛び上がって喜んだ」と「日露戦争全史」の著者ウォーナー夫妻は書きました。インドを旅行したイギリス人の見聞には「大きな興奮がインド全土を駆け巡った。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壷の囲りに集まって日本の勝利について語り合っている」と述べています。中村屋で有名なビハリ・ボースは日露戦争の日本の勝利に刺激されて日本に来てあのカレーが誕生しています。

 支那でも衝撃が走り、大量の学生が東京へ留学に訪れ、明治39年は1万5千人になり、直接日本に触れ、日本が維新によって外圧を克服し、立憲君主と富国強兵を通じて近代化に躍進した歴史の道筋を理解しました。支那だけでなく、フィリピンやベトナムやインドから祖国独立に熱血をたぎらせた青年たちが次から次へと日本に来ました。

 ロシアに痛みつけられてきたトルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を「トーゴー」(東郷元帥のこと)と名づけました。トルコでは息子に「ノギ」(乃木将軍のこと)と名付ける親も少なからずいたといいます。ユダヤ人の中でも子供に「トーゴー」と名付けることが流行しました。

 このように私たちの先人はアジアの人たちに感動と勇気、希望を与え、民族主義の気運を盛り上げていたのです。この日露戦争の勝利は世界史上、大変な意義があったと言っても過言ではないでしょう。



参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子著
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著

添付画像
 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠(PD)

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日露戦争_壱
http://www.youtube.com/watch?v=6gY4lHXoHTE

日露戦争_弐
http://www.youtube.com/watch?v=3jJnWlSWTHE

日露戦争_参
http://www.youtube.com/watch?v=3EcMGWAf1JU

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