満蒙開拓移民
遥かなる満州。
東京西新宿の住友ビル48階に「平和祈念展示資料館」というのがあります。ここは大東亜戦争時の悲劇や労苦の歴史を後世に伝えるために、体験された方々の証言や関連する資料などを収集し展示している施設です。資料館には「遥かなる紅い夕陽」という森田拳次さんのお母さんの手記をもとにしたマンガ冊子がおいてあります。森田拳次さんは「丸出だめ夫」「ロボタン」で有名なマンガ家です。森田さんは昭和14年の満州生まれです。このマンガ冊子は一人一冊自由に持って帰ることができます。
森田拳次さんのお母さんは「大陸の花嫁」として千振という新京(長春)から北東のソ連国境に近い町に嫁ぎます。マンガにはそこでの生活や敗戦時の引き揚げの壮絶さが描かれています。森田さんのお母さんはお見合い相手とは一度も会うことなく、写真と数回の文通の末に結婚を決意し、昭和10年に満州に渡りました。
昭和6年(1931年)、満州事変が勃発し、昭和7年に満州国が建国されました。この頃より日本からの満州国への移民が本格化します。昭和7年10月に試験移民の第一陣500人弱が永豊鎮という村に入植し、第二陣500人が千振村に入植しています。森田拳次さんの父親はこのときの移民のようです。試験移民は昭和11年(1936年)まで五次にわたり、治安が悪いため、武装した在郷軍人によって行われました。同時に対ソ連、対ゲリラの情報収集の役目も担っていました。
昭和11年、広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、昭和11年から20年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進しました。当初、利用度の低い土地を現住者から適正な価格で買い取り、移民に与えれば、満州国の国益にもなり、現住者も移民も喜ぶという発想でしたが、原住民にとって土地は唯一ともいえる財産で、関東軍が一括して強制買収すると原住民の不満が徐々に膨れていき、第二次移民団を2ヶ月にわたって包囲し、関東軍が出動する事件が起こっています。満州帝国側からも批判が出て、関東軍は改めざるを得なくなり、買収は未開墾地に限るようにし、処理は満州帝国側が行うようになりました。しかし、買収当事者が買収面積の確保に熱中し、既墾地の買収も続けられていました。「遥かなる紅い夕陽」では昭和11年に開拓者に既墾地が分け与えられています。この年に設立された満州拓殖会社によるものでしょう。
この既墾地の買収には満州建国を牽引した石原莞爾が激怒し、「話が違う、あの土地泥棒会社(満州拓殖会社)め!」と怒鳴り、石原が参謀本部作戦課長になると「既墾地に入るな、手を出すな、分からんのか!」と一歩も譲りませんでした。
満蒙開拓移民は厳しい北満州の自然の中で生活しました。冬は氷点下20~30度になり、大地は地下60センチまで凍土になります。そして春が近づくとタクラマカン砂漠で発生したつむじ風が大量の砂を巻き上げ嵐となって大地を覆います。春になると花々が一斉に咲き、その美しさは長い冬を越えた移民団の胸を打ちました。移民団は真っ黒に日焼けするまで農耕に従事し、家族同士で助け合って生きていきました。開拓団は27万人にまで達しています。
昭和20年(1945年)になると内地が米軍に空襲された報が伝わりはじめ、開拓移民の中で出征している兵士の戦死の報が届くようになります。そして8月になると根こそぎ動員となり、男たちは満州防衛の任につきます。そしてソ連軍が不可侵条約を破り満州に攻め込んできました。開拓移民の悲惨な運命の始まりです。「遥かなる紅い夕陽」でも森田さんの家族が祖国の地を踏んだのは昭和21年(1946年)の7月であり、引き揚げ途中に子供3人のうち2人を亡くしています。
参考文献
平和祈念事業特別基金「はるかなる紅い夕陽」森田拳次(著)
PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇順子(著)
光人社NF文庫「石原莞爾 国家改造計画」早瀬利之(著)
参考サイト
Wikipedia「満蒙開拓移民」「満州拓殖公社」
平和祈念展示資料館
http://www.heiwakinen.jp/
添付画像
満州国五常開拓女子訓練所での訓練風景(馬鈴薯の除草)~新人物往来社「歴史読本」2009.9より
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