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13.満州史

満蒙開拓移民

遥かなる満州。

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 東京西新宿の住友ビル48階に「平和祈念展示資料館」というのがあります。ここは大東亜戦争時の悲劇や労苦の歴史を後世に伝えるために、体験された方々の証言や関連する資料などを収集し展示している施設です。資料館には「遥かなる紅い夕陽」という森田拳次さんのお母さんの手記をもとにしたマンガ冊子がおいてあります。森田拳次さんは「丸出だめ夫」「ロボタン」で有名なマンガ家です。森田さんは昭和14年の満州生まれです。このマンガ冊子は一人一冊自由に持って帰ることができます。

 森田拳次さんのお母さんは「大陸の花嫁」として千振という新京(長春)から北東のソ連国境に近い町に嫁ぎます。マンガにはそこでの生活や敗戦時の引き揚げの壮絶さが描かれています。森田さんのお母さんはお見合い相手とは一度も会うことなく、写真と数回の文通の末に結婚を決意し、昭和10年に満州に渡りました。

 昭和6年(1931年)、満州事変が勃発し、昭和7年に満州国が建国されました。この頃より日本からの満州国への移民が本格化します。昭和7年10月に試験移民の第一陣500人弱が永豊鎮という村に入植し、第二陣500人が千振村に入植しています。森田拳次さんの父親はこのときの移民のようです。試験移民は昭和11年(1936年)まで五次にわたり、治安が悪いため、武装した在郷軍人によって行われました。同時に対ソ連、対ゲリラの情報収集の役目も担っていました。

 昭和11年、広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、昭和11年から20年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進しました。当初、利用度の低い土地を現住者から適正な価格で買い取り、移民に与えれば、満州国の国益にもなり、現住者も移民も喜ぶという発想でしたが、原住民にとって土地は唯一ともいえる財産で、関東軍が一括して強制買収すると原住民の不満が徐々に膨れていき、第二次移民団を2ヶ月にわたって包囲し、関東軍が出動する事件が起こっています。満州帝国側からも批判が出て、関東軍は改めざるを得なくなり、買収は未開墾地に限るようにし、処理は満州帝国側が行うようになりました。しかし、買収当事者が買収面積の確保に熱中し、既墾地の買収も続けられていました。「遥かなる紅い夕陽」では昭和11年に開拓者に既墾地が分け与えられています。この年に設立された満州拓殖会社によるものでしょう。
 この既墾地の買収には満州建国を牽引した石原莞爾が激怒し
「話が違う、あの土地泥棒会社(満州拓殖会社)め!」と怒鳴り、石原が参謀本部作戦課長になると「既墾地に入るな、手を出すな、分からんのか!」と一歩も譲りませんでした。

 満蒙開拓移民は厳しい北満州の自然の中で生活しました。冬は氷点下20~30度になり、大地は地下60センチまで凍土になります。そして春が近づくとタクラマカン砂漠で発生したつむじ風が大量の砂を巻き上げ嵐となって大地を覆います。春になると花々が一斉に咲き、その美しさは長い冬を越えた移民団の胸を打ちました。移民団は真っ黒に日焼けするまで農耕に従事し、家族同士で助け合って生きていきました。開拓団は27万人にまで達しています。

 昭和20年(1945年)になると内地が米軍に空襲された報が伝わりはじめ、開拓移民の中で出征している兵士の戦死の報が届くようになります。そして8月になると根こそぎ動員となり、男たちは満州防衛の任につきます。そしてソ連軍が不可侵条約を破り満州に攻め込んできました。開拓移民の悲惨な運命の始まりです。「遥かなる紅い夕陽」でも森田さんの家族が祖国の地を踏んだのは昭和21年(1946年)の7月であり、引き揚げ途中に子供3人のうち2人を亡くしています。



参考文献
 平和祈念事業特別基金「はるかなる紅い夕陽」森田拳次(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇順子(著)
 光人社NF文庫「石原莞爾 国家改造計画」早瀬利之(著)
参考サイト
 Wikipedia「満蒙開拓移民」「満州拓殖公社」

平和祈念展示資料館
 http://www.heiwakinen.jp/

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 満州国五常開拓女子訓練所での訓練風景(馬鈴薯の除草)~新人物往来社「歴史読本」2009.9より

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発展した満州経済

王道楽土の満州。

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 昭和7年(1932年)、満州国が建国されました。日本経済と満州経済の関係はそれ以前より一層密接になります。昭和10年(1935年)になると華北に親日政権が誕生します。日本が資本と技術、経営力を提供し、石炭鉄鋼を開発し、華北が資源の供給となり、重工業、軽工業、化学工業の日本と満州で消費財を供給することになります。日本、満州、北支のブロック経済が誕生します。そして経済圏の生活は向上していきます。日本が行ったのは植民地化ではなく、植民地状態の解消であったといえます。

 昭和12年(1937年)に星野直樹、岸信介が両輪となって策定した「満州産業五ヵ年計画」がスタートしました。これより満州が重化学工業化していきます。自動車、製鉄、鉱業、化学工業、その他の重化学工業が「満州重工業開発株式会社」によって進められていきます。これらは石原莞爾、日産コンツエルンの鮎川義介が推進しています。野口遵はダム建設を推進し、水豊ダム、豊満ダムをつくり、水害を抑え、発電を可能にします。豊満ダムを視察に訪れたフィリピン外相はその規模と効用の大きさに驚嘆し、
「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。

 このころの日本はGNPが増加し、豊かになり「昭和モダン」という言葉に代表されるように華やかな時代でした。満州事変から戦争になり、農村部は困窮し、2・26事件がおきた
「真っ暗な時代」というのは一面だけつまんで戦前を全否定する「戦後につくられたウソ」です。私は子供の頃、GNPか工業生産高だったか?の資料をたまたま目にし、右肩上がりになっているので、世界恐慌以降、日本は真暗と教えられたのに何故?と疑問を持ったものです。大人になって戦後のウソに気がつきました。15年戦争というのもウソだったことに気がつきました。満州事変は昭和8年(1933年)3月の塘沽協定(たんくきょうてい)で終わっていたのです。それから4年間は戦争はありませんでした。

 日本が満州に心血を注いだ理由の一つに世界恐慌後のブロック経済化があげられます。植民地を持つ欧米列強はブロック経済をしいて植民地をもたない国を締め出しています。
 満州の近代化をハーバード大学の経済学教授のエリザベス・シュンペーター女史は昭和15年(1940年)に日本と満州国の産業化という900ページの大著を発表しています。そして次のように述べています。

「(欧米諸国が)排他的利益のために植民地原料を統制し、政治的目的のために原料の輸出を禁止することは危険なことである。そして市場と原料の自由が奪われるなら(対抗的に)侵略的領土拡張(aggressive territorial expantion)が行われざるを得ない」

 彼女の夫はケインズと並ぶといわれた経済学者です。満州国を日本の侵略的領土拡張としながらも満州国建設を擁護しています。日本と満州国の経済発展は同じ恐慌をくぐったアメリカよりも回復が早く、しかもそれは軍事国家を作ろうというレベルではないと主張し、立派な国づくりが行われていることを賞賛しています。

 満州国は日本敗戦とともに消滅し、13年あまりの光芒でしたが、戦後の日本で岸信介らの経済閣僚が日本の経済発展に寄与しています。満州の「あじあ号」を構想していた島安次郎の息子、島秀雄は新幹線を東京大阪間に走らせました。それを政治経済面で推進したのは石原莞爾を信奉していた国鉄総裁、十河信二とその参謀・浅原健三でした。満州は戦後の日本で生き続けたのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『夢のパラダイス、満州帝国』田中秀雄
 「歴史通」WiLL7月号『戦前という時代 - それは、つくり話か大マチガイ』日下公人
参考サイト
 WikiPedia「冀東防共自治政府」「冀察政務委員会」

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 鞍山の昭和製鋼所(PD)

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支那大陸史上初の法治国家が誕生 ~ 満州国

大陸に突然出現した法治国家。

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 昭和6年(1931年)3月1日に建国宣言をした満州国は建国以来、国内の法を整備し、遵法精神の普及につとめ、その結果、支那大陸史上初の法治国家が整います。これには裁判官、警察官の増員と教育が必要で日本から識者を満州へつれてくるのと、国立新京法政大学に日本人、満州人の学生を入学させ育成します。こうした法整備は昭和12年(1937年)に完成しました。

 満州国の政府組織は議会にあたるのが立法院、内閣にあたるのが国務院、司法にあたるのが法院でした。法律により民事刑事の訴訟を審判する法院は、地方・高等・最高の三法院制をとり、日本などの先進国の司法制度と比べてまったく遜色がありませんでした。

 法整備によって満州国における日本人が享受していた治外法権は撤廃となります。さらに満州鉄道付属地の行政権も満州国へ移譲となります。満州は日本の植民地だと戦後言論空間で言われてきましたが、欧米の植民地支配でこのようなことはあったでしょうか。満州国総務長官を務めた星野直樹はこう述べています。

「満州の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚しく向上した。東亜各地から集まってくる人は数多く、三千万人であった人口は五千万人を超えるに至った」「治外法権は撤廃され、満鉄付属地は廃止された。日本人も満州在来の人々と同じように税を納め、法規に従うこととなった」

 満州は支那大陸史上初の近代的な法治国家であり文明国家だったのです。満州にはユダヤ人も多く居ました。
ラビ・M・トケイヤー著「ユダヤ製国家日本」
「今日、日本でも無知蒙昧(もうまい)な人々が、満州国は日本の傀儡国家でしかなかったというが、満州国は中国大陸にはじめて出現した近代的な法治国家であり、文明国家だった。これは、当時、満州国に在住していたユダヤ人たちが、証言することである」

 星野直樹は満州の人口が5,000万人と述べていますが、1938年は3,900万人,1941年には4,300万人のようです。毎年約100万人が満州へ渡っています。ひどい所に人が集まったりなどしません。この後、リットン調査団が満州を調査したとき、イギリスのモーニング・ポストは「
満洲の支那人は支那政府に好意を持つて居ないことは支那人の満洲移住でも知られる」と報じています。満州目指して万里の長城を越えていったのです。「日本は満州を植民地にして搾取した加害者」というのは戦後創られたウソです。

 もちろん日本が満州国に対して内面指導を行い、急進的に改革を進めたのはソ連の脅威も手伝っています。また急な改革は弊害も生みます。日系官吏が増えて他民族よりも俸給が多くなっていたり、協和会という建国の理想を護持する会を日本軍人がいつまでも陣取っていたりしています。(本来、協和会も満州国に移譲するはずだった) 満州建国の立役者である石原莞爾は昭和12年に再び満州に赴任してきました。急進的な改革から出る歪を聞き、理想主義である石原は苦言を呈します。しかし、関東軍参謀長の東條英機に疎まれ、孤軍奮闘し、そして満州を去って行きました。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 国立公文書館アジア歴史資料センター「リットン報告に対する外国新聞の論調」陸軍省新聞班

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 哈爾浜のキタイスカヤ通りにあるロシア人向けの店舗(PD)

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満州国建設への情熱

日本人は満州へ情熱を注いだ。

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 1911年辛亥革命によって清朝が崩壊した後、張作霖の北洋軍閥と孫文、蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は
「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を保たせる以外ない」と主張しています。満州では保境安民派、清朝の再建を目指す復僻(復活)派、モンゴル独立を望むモンゴル青年独立派があり、張学良軍閥の打倒を目指していました。

 連省自治派は北京政府と戦い、満州では保境安民派が張軍閥と葛藤を繰り広げます。満州事変が起こり張軍閥が一掃されると各地の実力者が結集して新国家建設に奔走し、満州国となるわけです。

 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変勃発。日本関東軍が張学良軍を駆逐すると満州の民は快哉(かいさい)を叫びました。
 奉天省商民代表は自治派と提携して袁金凱(えんきんがい)委員長、于冲漢(う ちゅうかん)副委員長を中心とする奉天自治維持会を組織し、支那と絶縁して民意に基づく新政権の樹立を目指しました。于冲漢は関東軍作戦参謀の石原莞爾を讃え、満州の自治をスイスのような永世中立国に、とを唱えていました。

 吉林省の主席は張作相(ちょう さくそう)でしたが、彼は事変のとき天津にいたため、実権を握っていたのは東北辺防軍副司令官公署参謀長の熙洽(き こう)でした。熙洽は愛新覚羅氏出身であり、東京振武学校(士官学校の予備校)、陸軍士官学校に留学した経験があります。新政権の樹立には熱心で張学良派を駆逐し、独立を宣言しました。

 奉天自治維持会は遼寧省(りょうねいしょう)地方維持委員会と改組し、熱河省(ねっか-しょう)の遼寧四民臨時維持会と共同で独立宣言を発表しました。

「我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今やこれらの悪勢力を一周すべき千載一遇の機会に到達した。・・・新独立政権の建設を図らざるを得ざるに至った。これがために本会は、張学良と関係のある錦州政府並びに軍閥の禍首蒋介石らの蠢動(しゅん‐どう)を否定することを決議した」

 東省特別区のハルビン市長・張景恵(ちょう けいけい)は関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐の説得に応じ、治安維持会を組織して昭和7年1月1日、独立を宣言しました。このほか東辺道鎮守使・于シ山も地方自治派勢力につきました。関東軍に抵抗した馬占山も板垣大佐の尽力により張景恵に服従しました。

 満州建国にあたり張景恵、熙洽、馬占山らは溥儀を元首とすることで一致し、国号、年号、国旗、国体、政体についてさまざまな意見が出されます。満州の在満日本人は当初の目的「日本の権益を死守」から満州とモンゴルの独立を目指す独立国家論者へ変化し、新国家建設に情熱を燃やすようになります。そして溥儀を執政とする民主共和制が決定され、国号を満州国、国旗を五色旗、国都を新京と定めました。

 満州建国の立役者、石原莞爾は建国の年の8月の関東軍人事異動により転出します。昭和12年(1937年)に東條英機が関東軍参謀に就任すると石原莞爾は参謀副長に就任。再び満州へ渡ります。建国したばかりの満州ではうまくいかないこと、不満も多々あり、石原のもとには千客万来であったといいます。

 満州は日本の植民地や関東軍の野望のための傀儡国家などと戦後言われてきましたが、他民族の共存共栄の理想郷として多くの日本人、満州人、漢人、モンゴル人、朝鮮人が情熱を傾けた国だったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
参考サイト
 WikiPedia「張孤」「石原莞爾」「熙洽」

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 満州国ポスター(PD)

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騙されたリットン調査団

裏には密約があった。

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 昭和6年(1931年)9月18日に発生した満州事変について、中華民国政府の提訴をうけて昭和7年(1932年)2月より、リットン調査団が調査を始めますが、それまでの国際連盟の空気は日本よりむしろ全国を統一しきれないでいる支那の弱体ぶりにたいして批判的であったといいます。

 内田満鉄総裁は
「唯一の解決方法は満州国を承認することである。満州国は日本の傀儡国家ではないし、本来、支那の不可分の領土でもなかった」と強調し、本間関東軍司令官も「満州は日本の生命線で、その防衛は日本のみならず、すべての文明社会をコミンテルンの赤化から守ることになる」と力説しています。

 しかしながら歴史的に満州は漢民族のものではなかったこと、満州の民衆を理解していないリットン調査団は日本の貢献と権益を認めましたが、満州国を認めませんでした。支那の一部としたのです。支那としては満州民族の土地を漢民族の土地として認めてもらったのですからしてやったりです。支那は自らの弱体化を憐憫の情をかけさせるごとく、民衆の軍閥に対する怨嗟巧みにそらしたのですから支那人のうそつきテクニックは昔からたいしたものだったということなのでしょう。

 1930年代に上海の米国総領事館の副領事であったラルフ・タウンゼントは米国が支那政府を盲目的に信用して日本を敵視していることに対して警告を発しています。

「支那人ほど下劣で油断のならない民族はいない。西洋人は道徳観は人類に共通するものと考えているが、それは間違いである。西洋人は人様に親切にしてもらったら何かお礼しようと考え、少なくとも迷惑をかけないように気を使う。これが支那では通用しない。恩義を感じないのである」
「支那に長く居る英米に、支那人の性格で我々と最も違うものを挙げて欲しいかと訊くと、ほぼ全員が躊躇なく”嘘つきである”と答える」
・・・現在も変わりません。

 リットン報告書の第9章では解決の原則および条件を掲げ、原状回復および満洲国の維持を共に否認し以下をあげています。
 1)日中両国の利益に合致すること
 2)ソビエト連邦の利益尊重
 3)現行の多辺的条約と調和し得ること
 4)満洲における日本の利益の承認
 5) 日中間における新たな条約関係の設定
 6)将来の紛争解決について効果的施設をなすこと
 7)中国の主権および行政的保全と調和する範囲内で満洲に自治を許す
 8)内部的秩序は能率ある地方的憲兵隊により、外部的侵略に対する安全保障はすべての軍隊の撤退および不侵略条約による
 9)日中間の経済的提携の促進
10)中国の改造に対する国際的協力等を紛争解決の条件とし

 むちゃくちゃな話しではないので日本政府も受け入れの意向だったといいます。ところがARA密約というのが白人国家同士で結ばれていたのです。ARA密約は日本がリットン報告書を受け入れた後、欧米諸国が満州の権益を分けっこするというものです。これを日本側の情報筋がキャッチしたしました。そのため日本は満州国を譲れなくなり、国際連盟を脱退することになります。



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
参考サイト
 WikiPedia「リットン調査団」

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 中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団(リットン調査団)一行(PD)

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満州建国

理想郷、満州国の誕生。

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 昭和7年(1932年)1月、関東軍作戦参謀石原莞爾は満州現地人の政治能力を評価し、満蒙領有論を後退させ、独立建国論への転向を表明しました。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く入って行くこと、新国家で活動したい在満邦人は国籍を移すことなど語っています。

 同年2月には奉天に張景恵ら、満州の要人が集まり行政委員会が組織されました。
 3月には内モンゴルとホロンボイル(バルガ族ら遊牧民の地)の代表を加え、東北行政委員会が満州国建国を宣言し、清国の皇帝溥儀が執政に就任しました。民族協和・満州国の独立完成をめざし、満州協和党(後、満州協和会)が結成されました。石原莞爾は協和会を建国の理想を護持する団体として政府の動きを監視することを重要な役割として、近い将来、関東軍は協和会に主権を譲り、満蒙の治安維持に専念すべきと考えていました。

 これらの建国の流れをみていますと、清朝の溥儀を頂点とした各地方、民族による国家建設であることがわかります。もちろん関東軍の影響力は大きいものがあり、閣僚はすべて満州国人でしたが、国務総理の下にある総務庁の重要ポストはほぼ日本人官僚で独占されています。しかし、国家がよちよちの歩きのときは寄りすがるものは必要でしょう。寄りすがられるほうも、その分の見返りが必要なのも外交上当たり前のことです。日本の明治維新を思い出してみると近代化を進める上で多くの外国人を高給で雇ったのと同じです。戦後の論調である、日本が得たものや有利なものだけつまんで、日本の傀儡だ、搾取だ、とする考え方は偏向です。傀儡と呼ぶのであれば蒋介石の国民党はアメリカ、イギリスの傀儡であり、毛沢東の共産党はソ連の傀儡と呼ばなければなりません。

 国際連盟から派遣されたリットン調査団は満州国を認めない報告を国際連盟に提出しています。しかし、内容は満州における日本の権益と貢献を認めています。当時の世界中の新聞では日本支持の論調は多くあり、有識者の論調も満州国を支持するものもちゃんとあります。
アメリカ人ジャーナリストのジョージ・プロンソン・レーは著書でこう述べています。

「日本は凡ゆる正当なる法律並びに戦争法規に基づき、支那が日露戦争に参加したことに対し、支那から現金を持って賠償を受くるか或いは其の代わりに1895年に正式譲渡し後に至って還付を余儀なくせしめられた満州の土地を受くる権利があると確信するものである」
「然るに日本がその正当なる法律上の要求権を放棄して満州国の絶対独立および主権を承認し、その独立を擁護する事を声明したことは筆者の目から見ると侵略行為とか領土征服どころではなく、近世史上に於ける最も特筆すべき自制的および利他的行為であるのである」
「満州国の独立および主権を現に尊重する事が日本の根本的政策であると日本は世界に表明して居るのであるから其の約束の言葉を疑い日本の真意を疑いその動機を彼是(あれこれ)いうことは米国がフィリピン独立の約束を疑うのと同一であって理由のないことである」


 EUの父と呼ばれたクーデンホーフ・カレルギーは次のように述べています。

「日本は国際連盟で鄭重なる言辞を以って、而も(しかも)強硬なる行動をもって世界に対し、『満州より手を引きなさい』と叫んでいる。日本は第三国の干渉や仲裁を用いずに、直接の商議を支那との間に開かんことを要求している。すなわち日本は極東に於ける『モンロー』主義を要求しているのである。(中略) 米国及び英国の『モンロー』主義を承認している国際連盟が単り(ひとり)極東『モンロー』主義だけを拒否し、アジアを無制限に連盟の権力化に置かんとすることは困難であろう」

 われわれは満州国について日本の植民地、日本の傀儡、日本が侵略したという東京裁判史観を教え込まれましたが、そこから脱却せねばなりません。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)

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 満州国の閣僚(PD)

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国立公文書館 リットン報告に対する外国新聞の論調 昭和7年10月6日陸軍省新聞班
http://www.digital.archives.go.jp/ から検索。

フランス マタン(三日) 調査団が混乱せる支那に於いて認識した事実を報告結論との間には沢山矛盾がある委員会は支那の無政府状態よりして日本が斯かる行動に出たことは止むを得ずと認めながら結論では連盟擁護上事実に反した断案を下して居る

フランス プテイバリジヤン(三日) 日本政府が満洲国に対する承認を撤回することを得ない以上リツトン報告の結論は反古となつた

イギリス モーニング・ポスト(三日) 満洲の支那人は支那政府に好意を持つて居ないことは支那人の満洲移住でも知られる

アメリカ 紐育タイムス(三日) リツトン報告は我々の予期して居た如く最も公平且透徹せる見解である

スイス トリビューン 連盟が手を拡げ過ぐるは危険なり 連盟は先づ欧洲を改造すべし

※フランスとイギリスが比較的、日本に好意的。「英国民の大多数は日本に対し同情的」「歴史上よりみるも満州独立は当然のこと。南京政府は支那を完全に代表せず」とある。


 国立公文書館の政府がまとめた資料「「リットン」報告に対する欧洲諸国言論機関の論調」にもイギリス・テレグラフは「満州問題はその独立と共に既に解決せられたり」とある。また報告書の矛盾を指摘する論調も目立つ。フランス・マタンは「日本が自力に依り将に延びんとする共産@の魔手に対して満州国を防護せんとするは理由あり・・・」とあり、当時の国際世論がソ連共産主義の南下を脅威としてみていたことがわかる。

 いずれにしろ国際世論は一方的なものではなかった。それを一方的に「日本悪」としてみる日本の言論空間は戦後創られた東京裁判史観、自虐史観以外の何でもない。

清朝皇帝溥儀、満州へ

満州の正当な持ち主。

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 1911年、支那大陸では辛亥革命が勃発し、清国の18省のうち、14省が独立宣言し、孫文は中華民国臨時政府を樹立します。清朝の第12代皇帝宣統帝(溥儀)はラストエンペラーの映画で有名でしょう。彼は政治取引によって退位を余儀なくされ、清朝が滅亡します。溥儀は皇帝の座を追われても北京の紫禁城(しきんじょう)に住むことが許されていましたが、1924年、クーデターが勃発し、北京に危険が迫ってきたため家庭教師のジョンストン博士とともに逃げ出し、日本大使館へ助けを求めました。日本の芳沢公使は剛毅な人だったそうで溥儀を匿います。溥儀はその後、天津の日本租界へ移ります。

 昭和3年(1928年)夏、国民党蒋介石が北伐で北京を制圧したときのこと。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾皇帝から西太后の墓を荒らすという暴挙を行います。副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓は石棺がひっくりかえされて遺体は屍姦されます。天津の溥儀はこれを聞いて激怒します。溥儀の祖父は漢族を「不逞の家奴」と呼びました(家奴・・・奴隷のこと)。溥儀はここでその言葉が真実と知り、清朝の再興を誓い日本に協力を求めます。その後、昭和6年(1931年)の満州事変によって満州国が建国され、溥儀は満州へ移ります。

 溥儀は日本関東軍が無理やり連れ出して利用したわけではありません。溥儀が自分の意思で日本大使館へ助けをもとめ、保護を受けたのです。そして先祖の土地、満州に戻りたいと考え、自分の意思で満州へ行ったのです。溥儀の家庭教師のジョンストン博士は以下のように記しています。


「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満州に向かったことを知った。
 支那人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったようにみせかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。また最近、皇帝と皇后が南京の蒋介石と北京の張学良に電報を打ち、『当然彼ら(蒋と張)に忠誠心があると仮定して、避難所を要求した』という旨の途方も無い所見が発表されたが、これも同じく嘘である。
(中略)
 皇帝が誘拐され満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話しである。皇帝に忠実で献身的な臣下の鄭は皇帝の自由を束縛する牢番ではないことを強調しておきたい。皇帝は本人の自由意思で天津を去り、満州へ向かったのであり、・・・」


 ジョンストン博士は溥儀に密着した日々のことを「紫禁城の黄昏」に書いており、第一級の史料と言われています。東京裁判でも証拠として提出されていますが、もともとインチキ裁判なので却下されています。連合国の都合の悪いものは却下です。日本の侵略など無いことがバレては裁判自体が成立しないからです。
 「紫禁城の黄昏」は岩波書店から出版されています。上智大名誉教授の渡部昇一氏によると全体の三分の一がカットされているのだそうです。しかも中共にとって都合の悪いところばかりカットしてあるそうです。渡部氏は岩波書店にたいして「文化的犯罪」「インチキ出版物」として厳しく非難しています。我々はこうやって歴史を歪められ伝えられてきたのです。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 徳間書店「日本を賤しめる『日本嫌い』の日本人」渡部昇一(著)
 週刊新朝09・8・13「変見自在」高山正之
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「愛新覚羅溥儀」

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 溥儀の「執政」就任式典(PD)

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満州事変

満州事変は侵略ではない。

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 昭和6年(1931年)9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破。満州事変が勃発します。

 このとき、関東軍の兵力は仙台第二師団を基幹とする14,500人でした。これは条約によって満州在留邦人23万の生命と財産を守るために決められた数が駐屯していました。一方、満州の張学良がひきいる軍閥は満州鉄道沿線に約5万人、その他の地域に21万5千人、合計26万5千人の勢力を持っていました。さらに軍閥の予算の80%を軍事費として使い(行政には20%だけ)、近代的装備を保有していました。

 張学良軍は匪賊と同じで昼間でも訓練のないときは民間住宅に押し入り、ゆすり、たかり、強姦などを行って住民から憎悪と反感を買っていました。夜間になると武器を持って営外にでて悪行を行っていたため、張学良は昼間の演習が済むと夜間は兵士から銃器一切をとりあげて、武器庫に収めてしまうことが多くありました。関東軍作戦参謀・石原莞爾らはこれに目をつけ、9月18日夜間に柳条湖で満鉄路線を爆破し、犯人は張学良軍の反日行動であるとして、3600の兵力で張学良と部下6700名が居る北大営に24センチ重砲をぶっ放します。張学良らは武器を倉庫にしまっていたため、十分に反撃できず、大半はほうほうの態で逃げ出しました。

 張学良軍は表面上は無抵抗を装っていましたが、錦州に拠点を移します。関東軍は幣原弱腰外交の不拡大方針を無視し、錦州を爆撃。またたくまに南満州の主要都市を占領。事前に石原莞爾は朝鮮軍の参謀と連絡を重ねており、朝鮮軍も出動させ、北満州へ進出。11月には馬占山軍と激しい戦闘の結果、黒龍江省のチチハルを占領、翌年2月ハルビンを占領します。

 この満州事変のところだけつまんでみてしまうと政府の抑止を聞かずに関東軍が暴走したという話になります。多くの人はそう聞かされ日本の侵略行為として自虐史観を持っているのではないでしょうか。しかし、軍閥と国民党の不法行為、執拗な嫌がらせの流れを見てみれば、日本人居留民の生命と財産を守るためには武力に訴えるしかないことがわかります。直に被害をうけてきた民衆、満州青年連盟は関東軍を支持しています。また満州は支那のものではありませんでした。満州族のものです。ですから支那から奪ったのではありません。満州の民衆は関東軍を敵視していません。日露戦争以降、民衆は日本軍の規律の正しさを見てきており、ロシアや軍閥などの横暴を見てきています。満州では張学良が民衆に過酷な税を課し、怨嗟の声が満ち満ちていました。民衆にとって日本軍は解放軍として迎え入れられたのです。そして昭和7年、五族協和の理想国家、満州国が建国されました。

 ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「あそこ(満州)に暮らす約三千万の中国人には満州国は天国である。(中略) 中国人はただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうと全く気にしない。懐具合がよくて家族が無事でいれば後はどうでもよいのである。台湾、朝鮮、大連統治を見れば、日本は満州国を立派な国にしてくれるであろう。万が一、不具合があったとしても、追い出した連中、常軌を逸した暴君どもよりははるかにましである(中略) 大きな目え見て、何色の旗が翻るかなどという感傷的なことは抜きにして、数百万の人間が幸せに暮らしているのに、損をする人がいるだろうか」

 ジャーナリスト フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
「満州とは日本人が出かけて行って貪り食った、罪を犯した国だとごく普通の人たちは信じているだろう。日本がそこに行ったのは確かだ。しかしもし諸君が満州に行けば - 満州国 - 日本はサンタクロースの役をこれまで演じていること、満州人が断然幸福であることを発見するだろう。彼らの古いご主人、ロシアと中国はまあ残酷な親方で、ひどく苦しめられていたのだ。平和と安全、政府とビジネスの安定、鉄道の建設、都市の建設、病院や学校をもたらしたのは日本だった」



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリク・ビンセント・ウイリアムズ(著)/田中秀雄(訳)

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 柳条湖の鉄道爆破現場を調査している様子(PD)
 実行者は河本中尉らとされている。これは河本中尉の所属する川島中隊の2,3の将校からの聞き取り、関東軍参謀花谷正の手記によるもの。しかし、石原莞爾は「永遠の謎」と言うだけでそれ以上は語らなかった。

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万宝山事件と中村大尉殺害事件

満州事変の直接の引き金。この歴史は語られていない。

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 現在、中華人民共和国の東北地方と呼ばれているところは以前は「満州」と呼ばれており、朝鮮と国境を接しています。朝鮮が李朝の末期の頃、干ばつなどの自然災害と大飢饉が発生し、多くの朝鮮人は満州の間島(かんとう)移住しました。日韓併合(1905年)以降も朝鮮人は満州に多く移住し、間島では60万人に膨れ上がりました。しかし、朝鮮人は満州人、支那人から差別されていました。

 昭和3年(1928年)から昭和5年(1930年)にわたり在満朝鮮人と支那人との対立紛争は100件を超え、支那の国民党は「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追い出そうとします。行き場を失った朝鮮人は長春の西北約20キロの万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去を求め、昭和6年(1931年)7月に遂に支那人農民が大挙して朝鮮人農民を襲撃しました。そこで日本は朝鮮人(日本国籍を持つ日本人)保護のため武装警官を出動させます。

 直接の紛争の原因は朝鮮人農民が作った灌漑水路が支那人の所有地を横切ったというものですが、背景を見ますと朝鮮人迫害と排日、侮日があります。支那人は警察に訴え、朝鮮人は日本領事館に応援を求め、両者睨みあいとなり、支那人が水路を破壊しはじめ日本の武装警官と衝突し、発砲する騒ぎとなったのです。このとき死者はでませんでしたが、朝鮮の新聞が大々的に報じたため、朝鮮半島で反支暴動が起こり、華僑の店舗やお家屋が襲われ100人以上の支那人が殺害されました。

 この暴動とほぼ同時期に起きたのが中村大尉殺害事件で、中村大尉は対ソ戦に備えた兵要地誌作成のため、井杉延太郎(予備曹長)とともに変装して興安嶺方面を偵察中だったとき現地の屯墾軍につかまり、殺害されます。事件は6月ですが、7月になって発覚し、日本側は抗議しますが、支那側は「でっちあげだ」と事実を隠蔽します。この頃の日本の外務大臣は幣原喜重郎外交で、「軟弱外交」と言われ、9月になっても「日支友好」を持論にたいして動こうとせず、これまで積もり積もった反日、侮日よる日本人の怒りは頂点に達していきます。かねてから支那人には国家統治する力が欠落していると考えていた関東軍作戦参謀・石原莞爾らによって満州問題を一挙に解決すべく満州事変へと突入していきます。

 満州事変に至る経緯をみていますと日本が条約によって正当な権益を持っていたにも関わらず、それを無視して軍閥の張学良や国民党が不当な行為を繰り返していること、日本の外交が「日支友好」を掲げて弱腰で対応していることがポイントとして挙げられます。日本はたいして何もできないと軽くみて嫌がらせがどんどんエスカレートしていき限界点に達してしまっています。南満州鉄道だけみても昭和3年(1928年)から3年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件もあります。当時は日支懸案370件と言われていました。そして万宝山事件と中村大尉殺害事件がおきています。

 日支懸案
  昭和2年 31件
  昭和3年 37件
  昭和4年 77年
  昭和5年 95件

 ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「(張学良は)日本との条約を勝ってに破棄しだした。日本は、いわゆる軟弱外交と非難された男爵幣原が外務大臣であった。幣原は『中国政府との交渉は寛容と忍耐が求められている』と発言している。
 この間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで『軟弱幣原外交は全く通じない中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか』と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである」


 支那の本質は現代と変わっていません。軟弱外交の行く末、それは戦争か自滅かということです。我々は失われた歴史を取り戻し、本当の歴史に学ばねばなりません。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 新人物往来社「歴史読本」2009.9『万宝山事件』戸部良一
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)

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 万宝山事件の衝突現場写真(PD)

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満州の日本の権益を否定する支那

日露戦争の犠牲を無視した弱腰外交。

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 昭和4年(1929年)、世界恐慌が起こり、支那大陸の満州で経営を営む日本の南満州鉄道株式会社(満鉄)は創業以来の赤字に転落します。満州は張学良軍閥が勢力を持っており、昭和3年12月、支那の蒋介石国民党に帰順し、これに乗じて国民党は日本が条約に基づいて得た正当な権益を否定する法令を次々に発布します。張学良はこの年、北満州鉄道をソ連から強行回収し、ソ連が国交を断絶し、満州里に攻め込むという事態が起こっています。

 「土地盗売厳禁条例」・・・満州で日本人に土地を売ってはならない、日本人に土地を売ればそれは盗人だという条例です。

 「鉱業法」・・・日本人の土地利用を禁止して、鉱山経営も厳禁にする」

 このほか、60に及ぶ法令を発し、さらに朝鮮人を満州から追い出すという暴挙まででます。日本企業が営業できないような不当な課税など国際法違反の政策がとられました。張学良軍閥は日清協定(満洲善後条約)を破り、南満州鉄道に並行した鉄道を作り、運賃値引き競争で南満州鉄道を追い込んでいきます。このほか日本が敷設権をもっている鉄道の建設は許可せず、張学良軍閥の鉄道建設のために満鉄が与えた一億円の借款に対しては、元利ともその支払いを拒否しました。このため、昭和5年の満鉄の利益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を発表しなければならない、という窮地に陥りました。

 昭和6年(1931年)に入ると共産党が主導する排日、侮日運動が起こり、日本人の子供たちに石を投げるといった陰湿なイジメが日常化し、日系企業に勤務する支那人や満州人に脅迫行為が及び、鉱山が爆弾で破壊されたり日本人が殺されるというニュースがしょっちゅう日本に流れるようになります。昭和4年には以前、支那の日本人迫害を招いてしまった幣原外交に逆戻りしており弱腰外交が再開されてしまっています。
「被害に遭うのがイヤだったら引き揚げてきなさい」というような態度です。ですから被害にあった日本人は領事館に訴えでても日本政府は「厳重抗議」する以上の行動はなにも起こさず、「日支懸案370件」と言われるほど張学良が無視する懸案が積み上げられていきます。

 朝鮮人農民は圧迫を受け
「日本人は朝鮮人を保護してくれない」と不信感を強めていき、「日本政府=幣原外交恃むにたらず」となり、「全満日本人連合会」「満州青年連盟」が結成され、交渉相手を関東軍に切り替え日夜押しかけ「なぜ立たないのだ!」と談判を繰り返していきます。もう限界まできていたのです。ロシアの満州侵略に対して日露戦争では日本が戦い血を流したのです。そして得た権益です。そのとき支那人は何をしていたのでしょうか。感謝もせず排日、侮日を繰り返しているのです。そして遂に満州事変の直接的引き金となる「中村大尉殺害事件」「万宝山事件」が勃発し、満州事変へ移ることになります。

 支那の本質は過去から少しも変わっておらず、現代でも中共は天安門事件で世界から孤立してしまったとき日本が手を差し伸べても、ODAで支援しても、感謝もせず、歴史問題、領土問題を捏造し、反日・侮日を繰り返しています。



参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「満州事変」「南満州鉄道」

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 大連の満鉄本社(PD)

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