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21.明治・大正時代

日本とベルギーの友好の話

意外に知られていないベルギーとの友好関係。

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 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起こりました。死者行方不明者10万人、避難住民190万人、70万戸を超える建物・住宅が全半壊あるいは焼失するという大惨事でした。関東大震災のニュースは世界を駆け巡りました。
 各国は日本支援に乗り出しましたが、日本中を驚かせたのはベルギーからの支援で、大国の米が2000万円、英が400万円の支援に続いて3番目が小国のベルギーの35万円でした。ベルギーは第一次世界大戦でドイツに占領され、独立を回復して間もない頃です。国土面積は日本の1/12の国です。

 ベルギーの親日ぶりは明治26年(1893年)に特命全権公使として来日着任したアルベール・ダネタン男爵によるものが大きいようです。ダネタン男爵は16年にわたり日本に駐在しました。明治27年(1894年)に勃発した日清戦争で公正な目で日本を見ています。

「アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている」


 明治27年(1894年)11月の旅順港の占領にあたり、日本軍が住民に対して残虐行為を行った(※1)という虚偽報道がされましたが、ダネタン男爵は報道が誇張されていると報じ、更に以下のように報じています。

「その場に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町の残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」(JJ太郎注記:シナ兵は捕らえた日本兵を虐殺して食ったり、バラバラにして吊るした)

 男爵は日露戦争でもロシア兵捕虜が虐待されているという虚偽報道を是正する報道を流しています。

 ベルギーは第一次世界大戦でドイツに占領され、国王アルベール一世はフランスに亡命します。ベルギーの惨状は日本で連日報道され、日本国民にベルギー支援の声があがり、大阪朝日新聞は日本人の魂を届けようとします。欧州特派員の杉村広太郎はアルベール一世に謁見し、日本刀を献上します。備前長船、織田信長が所有していたという名刀です。大阪朝日新聞社は義援金募集のキャンペーンを繰り返し実施し、集まったお金はベルギーへ届けられました。
 大正10年(1921年)、日本の皇太子(後の昭和天皇)が皇室史上初の皇太子洋行として欧州訪問しました。予定は英仏2カ国でしたが、皇太子殿下たっての希望でベルギー、オランダ、イタリアの追加訪問が実現します。皇太子殿下の訪問が単なる見学ではなく、第一次世界大戦による文明破壊に対する弔問の意味があるのを知ったベルギー国民は感激し、熱烈歓迎しました。

 このほかにもベルギーと日本の親交エピソードは色々ありますが、長くなるので近年の話のみ記しておきたいと思います。
 昭和天皇が崩御され、大喪の礼が行われた際、欧州の王室でトップを切ってベルギーのボードワン国王が出席を表明しました。平成5年(1993年)、ボードワン国王の葬儀に天皇皇后両陛下が出席されています。これは歴代天皇で外国王室の葬儀に出席したのは初めてのことでした。


※1 米国の「ワールド」紙など6万人が虐殺されたと報じた。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 講談社現代新書「天皇陛下の全仕事」山本雅人(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「ボードゥアン1世 (ベルギー王)」

添付画像
 ブリュッセル市庁舎(CC)
 Made by Luc Viatour. : Luc Viatour / www.Lucnix.be

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日本・ベルギー交流秘話 ~日本を救った二人のベルギー人~ http://www.youtube.com/watch?v=nQAP_L6FwOs

板東俘虜収容所

バルトの楽園。

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 板東俘虜収容所は「バルトの楽園」という映画があったので有名だと思います。

 大正3年(1914年)から大正7年(1918年)の第一次世界大戦で日本は参戦し、ドイツ領の膠州湾、青島及び膠済鉄道全線を占領し、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。(※1) ドイツ兵捕虜は4700人余りにのぼり、その多くは日本に移送されました。板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)はそのうちの一つです。鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)にありました。

 板東俘虜収容所の所長は松江豊寿大佐です。以下は松江大佐の口癖です。

「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」

 松江大佐は捕虜全員を集めたとき以下のように訓示しています。

「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」


 そして松江大佐は驚くような事をし始めます。収容所の正門前に80件もの捕虜たちが経営する店を出したのです。仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店・・・松江大佐は捕虜たちの多くは職業軍人ではなく、手に職をもち、青島や東南アジアで働いていた義勇兵であることを知っており、彼らの知識や技術を活かしたいと考えていたのでした。
 捕虜収容所の前の土地7000坪を借り上げて運動場を作り、捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。空き地には鶏舎や菜園が作られ、ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。

 捕虜たちは吉野川や櫛木海岸で水遊びや海水浴を楽しみます。これを知った陸軍省は激怒。しかし松江大佐は
「あれは足を洗わせていたもので、彼らはつい泳いでしまっただけであります」と言ってはぐらかします。それで櫛木海岸で行われえる水泳大会を「足洗い大会」と称して捕虜と地元民がお祭りを行うようになります。
 捕虜たちの外出は引受人さえいれば比較的自由で、地元民はドイツの農業技術や洋酒製造、標本作成、植物採集、気象観測、設計建築、石鹸の作り方、染色などを学び、ドイツ兵捕虜は日本の養蚕や稲作、藍作や焼き物などを学びます。
 地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞いた松江大佐はエンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲルを紹介し、音楽教室を開きます。日本で初めてベートーベン交響曲第九が演奏されたのはこの板東俘虜収容所です。

 やがて停戦協定が結ばれ捕虜は日本を去ることになります。松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」

 「四方の海」・・・は明治天皇御製の歌ではありませんか。

 それから50年のときを経た昭和47年(1972年)、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成しました。この板東俘虜収容所についてはドイツ人捕虜のお墓を13年守り続けた日本人主婦の話やフランクフルトで「バンドーを偲ぶ会」が行われたいたなど数々のエピソードがあります。



(※1)日本はこのほか地中海に水雷戦隊を派遣している。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 小学館「SAPIO」2009.7.8『世界から感謝される”人情の日本史”』四条たか子
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 鳴門市ドイツ館 http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/
 WikiPedia「バルトの楽園」「松江豊寿」
添付写真
 板東俘虜収容所跡(PD)

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義和団事件と柴五郎

世界が称賛した柴五郎。

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 明治33年(1900年)、清国で義和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進する光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳のとき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまります。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにしていませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略) この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

 この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン(著) 中山理(訳) 渡部昇一(監修)
 オークラ出版「世界から愛された日本」『世界に轟いた会津武士道』岩田温
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「歴史街道」2010.06柴五郎と北京籠城
参考サイト
 WikiPedia「義和団の乱」「光緒帝」
添付画像
 明治35年(1902年)7月、ロシア・ペテルブルクを訪れ、歓待を受けたときの写真。中央が柴五郎。「歴史街道」2010.06より

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エルトゥールル号の遭難

トルコとの友好の歴史。

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 明治23年(1890年)9月16日深夜、紀伊半島の先端の港町・串本や、その東に浮かぶ大島付近には午後4時半に暴風警報が出され、風雨は暗闇が迫ると共に強さを増していきました。大島の東の端に立つ樫野埼灯台の宿直室に突然、全身ずぶ濡れの大男が倒れこむように入ってきました。全裸で血を流し、明らかに日本人ではないその大男を見て、宿直員は、これは海難事故だと直感しました。

「おい、どうした?どこの国の船だ?仲間はいるのか?何人いるんだ?」

 主任の瀧澤正浄が日本語でいくら問いかけても通じません。万国信号ブックを取り出して見せると、男は震える指先で赤地に三日月と星を染め抜いた旗を指差した。

「この国旗は・・・トルコか!」

 この時、樫野の村民もがけからよじ登ったトルコ人に出会い、遭難現場を確認し、村へ知らせ、大騒ぎとなり生存者の救助を行います。
 遭難した船はトルコの軍艦エルトゥールル号。横浜から神戸に向かう途中に台風に遭い、岩礁にぶつかり船は沈没しました。乗員650名。生存者69名のうち58名が負傷、うち38名は重傷という大惨事でした。
 大島島民あげての看護と治療がはじまります。この事件は9月19日には新聞の号外で報じられ、20日にはドイツの軍艦ウォルフ号が支援に大島に駆けつけます。生存者はウォルフ号に乗せられ、神戸へ移送されます。翌日、天皇陛下の意向をうけて日本の軍艦八重山が大島に到着しますが、一日違いでウォルフ号が出ていっていました。しかし、八重山乗組員と島民とで埋葬式を行いました。

 エルトゥールル号の乗組員は神戸で順調に回復し、10月11日、軍艦比叡と金剛に分譲し、イスタンプールへ向かいます。12月17日にはエジプトのポートサイドに到着。しかし、ダーダネルス海峡はオスマントルコ帝国の船しか通過できないため海峡手前のユクリで乗組員を下船します。
 ところがその直後にトルコ皇帝からダーダネルス海峡の通過許可がおり、イスタンプールへの上陸の許可がおります。比叡と金剛はイスタンプールへ入港、皇帝に謁見し、天皇陛下の親書を贈呈します。イスタンプールの滞在は40日滞在し、明治24年5月10日に日本に帰港します。このとき比叡に「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之が乗船しています。

 このエルトゥールル号の遭難は日本全国で義援金が集められ、遺族に送られています。そして民間レベルでの交流が活発になります。日露戦争のとき、トルコはロシア黒海艦隊の邪魔をして日本を助け、日本連合艦隊がバルチック艦隊を破ったときには熱狂し、この年に生まれた子供に「トーゴー」「ノギ」という名前をつける人が多くいました。

 昭和60年(1985年)3月のフセインの無差別撃墜予告にイランに取り残された日本人をトルコ政府がトルコ航空を使って救出してくれたのは良く知られています。決死のフライトに駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と述べています。ちなみにこのとき、テヘランに取り残されたトルコ人がいます。日本人を優先させたのです。それについて非難するトルコ人は一人もいませんでした。(トルコ人は車でなんとか脱出)

 平成20年(2008年)、「エルトゥールル号が結んだ日本とトルコの友情」をテーマにシンポジウムが開催されました。トルコのセルメット・アタジャンル大使は、日本でエルトゥールル号のエピソードを教科書で紹介するという試みに対し「非常に誇りに思い、嬉しく思っている」とスピーチしています。


参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『エルトゥールル号遭難とイラン・イラク戦争』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲(一)」司馬遼太郎(著)

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 和歌山県串本町(紀伊大島)にある「エルトゥールル号遭難慰霊碑」 撮影:Photo by Si-take.

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友好国トルコ http://www.youtube.com/watch?v=WOY2BcsmdpQ

ハワイを乗っ取ったアメリカ

ハワイはアメリカに侵略されたのでした。

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 ご存知の方も結構いらっしゃるかもしれません。ハワイと言えば観光地の印象ですが、歴史を見るとアメリカが不当に乗っ取ったのでした。アメリカ、つまり白人の集合体はインディアンを追い落とし、メキシコから土地を奪って、アメリカ大陸を横断し遂に太平洋まできました。次は太平洋の先、アジアがありました。そのためには拠点としてハワイをぶんどる必要があったのです。日本にはペリーがやってきましたが、日本は独立を守りました。ハワイは残念ながらそうはなりませんでした。

 アメリカが急速にハワイに目を向けたのは1872年(明治5年)に米陸軍長官がホノルル港を軍事目的で調査するよう指示をしたあたりからと言われています。調査の結果、真珠湾の割譲をハワイに迫りましたがハワイは住民の反対があり拒否しました。しかし、アメリカは圧力を加え、1875年に結んだ米布相互条約によって真珠湾の使用、改築及び必要な施設建造に関する「絶対権」を獲得したのです。

 白人の侵略は巧妙で、宣教師を遣わして、移民を入れて徐々に内部から支配力を強めていき、条約を結んで支配力を強化したり経済侵略したりして、最後は武力でガツンです。ハワイも内部から白人に支配されていったのです。そこで、1893年リリオカラニ女王が高額納税者に限られていた選挙権を広く貧しい島民にも与えるとした新憲法発布に打ってでました。白人の移民たちは王朝打倒に動き、アメリカ公使のスティーブンスは「血に飢えた淫乱な女王が独裁政治を復活させた」と本国に打電しました。
 アメリカは戦艦ボストンを派遣しました。1893年1月、海兵隊を出動させ、ホノルルを制圧し、ボストンの主砲をイオラニ宮殿に照準させ、女王は遂に屈することになります。軍隊のない国の悲しさです。

 王朝が倒れた1ヵ月後、ハワイに日本の軍艦「浪速」と「金剛」という軍艦が寄港します。ハワイには2万5000人の日本人移民がおり、生命と財産を守る目的です。王朝が倒れる1月17日付で日本とハワイの間の不平等条約改定を認める公文書に女王が署名していますから、なんらかハワイを救う目的、ハワイ王朝から援助要請があったのかもしれません。「浪速」と「金剛」はボストンを挟むようにして投錨しました。「抗議」する、ということです。そして浪速の艦長、東郷平八郎が声明を発表します。

「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」

 これは痛烈な皮肉を言っており、クーデターを起こして政府転覆を謀ったのはアメリカ系市民であり、アメリカの公使です。それを承知で暴挙の巻き添えになるアメリカ市民を日本が守ってやる、と言っているのですから。

 そして浪速は3ヶ月滞在して引き揚げます。翌年、浪速は再びホノルルに寄港します。新政権1周年の祝いにハワイ新政府は浪速に21発の祝砲を撃つことを要請しますが、浪速は「その理由を認めず」として突っぱねました。このときも浪速の艦長は東郷平八郎です。それで港にいた他国の軍艦も従って祝砲を撃ちませんでした。世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂に包まれた」と報道しました。アメリカは赤っ恥をかいたわけです。

  *毅然とした日本人の姿がそこにありました。*

 ハワイでは日本の軍艦が味方したことが今でも伝えられているそうです。「ナニワ」は「ありがとう」という現地語で使われたこともあるそうです。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP研究所「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 歴史通2010.1月「アメリカはなぜ日露講和に乗り出したのか」高山正之

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 リリオカラニ女王 1887年(PD)
 女王は1917年11月11日、79歳で死去

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