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06.大東亜戦争・インド

ジャイ・ヒンド!(インド万歳)

ついに立ち上がったインド民衆。

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 昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動しました。インパール作戦はインド国民軍(INA)も参加し、国民軍は愛しき祖国へ向け出撃しました。ラングーンから短波放送で大東亜戦争の意義とインドの独立、チャンドラ・ボースの演説が流され、インド国民の決起を促しました。イギリスはインド国内で情報統制を行なっていましたが、この放送は少なからずインド人のモラルに影響を与えました。

 しかし、インパール作戦は失敗。一瞬祖国インドの地を踏んだインド国民軍も撤退しました。そして昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦。これにともないインド国民軍も連合軍に降伏しました。イギリスはインド国民軍兵士を裁判にかけ反逆罪で処罰しようとしていました。ところが、戦時中は厳しい検閲によってチャンドラ・ボース、インド国民軍の実態はわずかなインド人しか知りませんでしたが、終戦後次第に明らかになってくるとインド民衆は熱狂的に彼らを支持しました。

 ジャイ・ヒンド!

 人々はチャンドラ・ボースの写真を熱烈に買い求めました。民衆は警官隊と激しく衝突、インド軍も反乱を起し、水兵は「インド国民海軍」を名乗りました。イギリス軍は戦車隊を出動させ鎮圧に乗り出します。イギリス軍の対日戦戦勝パレードはボイコットされ、家々には弔旗が掲げられました。パレードの予定されたコースへ数万の抗議デモが進入し、再び警官隊と衝突、流血の惨事が繰り返されます。

 昭和20年(1945年)11月、インドの首都ニューデリーにおいて大掛かりな軍事裁判が開かれました。日本のF機関・藤原少佐はINA将兵を裁くデリーのイギリス軍軍事法廷の証人として召喚されました。

 藤原少佐

「最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた」

 藤原少佐がニューデリーへ着くと、先に光機関長・磯田中将、参謀・香川大佐と高木中佐、自由印度仮政府在勤大使・蜂谷氏が先着していました。裁判の様子を聞くと高木中佐と香川大佐はこのように語りました。

「すさまじいものだ。全印度は鼎(かなえ)の沸騰する総起ちの騒ぎだ。INA裁判の即時中止、釈放、印度統治権の返還、英人の引き揚げを要求しているんだ。INAは印度の愛国者だ。英雄だ。INAは日本の傀儡ではない。INAが日本を利用したのだと主張しているんだ。国民会議派有数の領袖を網羅した大弁護士団を編成して、一挙印度の独立獲得を期して闘っているのだ。・・・」

 全インドに巻き起こった凄まじい民族的抵抗に出会って、イギリス政府も総督も軍司令官も狼狽し、あわてふためき、彼らは遂に反乱罪を取り下げることになりました。単なる殺人暴行罪として起訴すると声明しましたが、インド民衆の怒りは治まらず、判決は禁固15年としておいて軍司令官より同日付をもって「執行停止、即日釈放」の宣告を下したのです。

 インド法曹界の最長老パラバイ・デサイ博士
「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった」

 昭和22年(1947年)8月15日、インドは独立しました。



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 小学館「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)

参考サイト
 反日ワクチン デリー軍事法廷
   http://vaccine.sblo.jp/article/16840993.html

添付画像
 1947年8月15日憲法制定議会の独立記念日セッションで演説する英マウントバッテン卿(PD)

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親日国インド http://www.youtube.com/watch?v=CunDINRHP_8

ディマプールへ進撃せよ ~ インパール作戦

勝敗は紙一重だった。

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 「コヒマ占領後、引き続きディマプールに突進してもらいたい」


 昭和19年(1944年)ビルマから国境を越えてインドへ進攻するインパール作戦で第15軍牟田口司令官からコヒマを攻略する第31師団へこの司令が出されます。ディマプールはコヒマの北西方40キロにある要所です。しかし、これはインパール作戦計画にはないものでした。第31師団の佐藤師団長は黙殺の態度で聞き流しました。

 第31師団歩五八の主計将校の記録によると
「歩兵五十八連隊が敵をズブザまで追撃し、その後は歩兵百三十八連隊がディマプールまで追撃する」とあり、ディマプール進撃は意識されていたようです。同じく歩五十八の左官の記録からは「敵が北方に向けただちに追撃しようとしていた右突撃隊にコヒマに進攻すべしの命令が四月四日暗くなってから左突撃隊の司令官から発せられた」とあり、ディマプールへの攻撃が中止されたことを物語っています。

 ディマプールはイギリス軍の物資集結基地であり、ディマプールが陥落するとベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、アメリカ軍を崩壊させていただろうという要所です。英ディマプール方面33軍団最高司令官スタッフォード将軍は戦後、牟田口司令の指示通りディマプールを攻撃していたらインパール作戦は成功していた可能性が高かったことを認めています。戦後、イギリス軍の元将校は牟田口司令に
「なぜコヒマからディマプールへ攻撃してこなかったのか」と問い合わせてきています。イギリス軍将校はたちはこぞって日本軍は千載一遇のチャンスを逃したと思っていたといいます。

 牟田口司令官がディマプールの情報をどれだけ押さえていたか不明ですが、軍直轄の特務機関である西機関がチンドウィン河に近いホマリンでインパール作戦準備のための情報活動と、住民宣撫工作を行なっていました。作戦発動前年の11月にインド人工作員3名をディマプール方面へ派遣しています。軍としてはある程度の情報を掴んでいたと考えられます。
 この頃のビルマ戦線では雲南方面の状況については特殊情報班の活躍により通信を傍受解読していました。支那軍の漢字の解読は行えており、そこから間接的にイギリス軍の情報は掴んでいたようです。加藤隼戦闘隊隊員の手記からは昭和18年初期からイギリスの暗号解読が進み対峙するイギリス軍将校の名前もわかっていた、と書かれています。これらのことから牟田口司令官は不十分ながらもディマプールに関する情報を持っていたと考えられます。

 インパール戦でイギリス軍は戦力を後退集結させて日本軍を迎え撃つ戦法に出ましたが、これには広大な領土を戦わず放棄することになるため、インド国内への影響、インド兵士らの士気低下が懸念され、難しい判断であったようです。日本軍がディマプールへ進撃していたらインド国内、インド兵士に動揺が走り新展開の可能性は十分あったでしょう。勝敗は紙一重だったと言えます。しかし結局、牟田口司令官が主張していたディマプール進撃はビルマ方面軍の河辺司令官に拒否されました。そして前線の兵士は武器弾薬、食糧の補給の薄い中、血みどろの死闘を繰り広げ、白骨街道を撤退していきました。恨みはすべて軍司令官の牟田口中将に向けられました。牟田口司令官はインパール作戦の撤退を決めた後、このように訓示しています。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

 インパール作戦から撤退してきた兵士は小銃を肩にしている兵はまだ良いほうで、鉄帽はおろか、ゲートルもなく、素手で飯盒だけ持って雨季の中、雨にうたれている幽鬼の群れでした。

 歩五八・平久保中尉 撤退中に餓えと病で死んでいった兵士の死体を見て
「思えば戦闘間に天皇陛下の万歳を唱えて死ねた将兵は幸福だった。それに反し、ここに死んでいる兵士たちは、おそらく世の無情を思いながら、苦痛にせめたてられ、最後には母の名を呼んで逝っただろう」

 インパール作戦は奇襲による一撃の成否の作戦であり、ディマプール進撃計画は正しかった。しかし、作戦発動後の過程による判断は誤っていたといえるでしょう。作戦は失敗。ではインド・ビルマの地に散った日本将兵は無駄死にしたのか?そうではなかったと思います。イギリス第十四軍司令官ウイリアム・J・スリム中将は自著で以下のように述べています。

「彼ら(日本軍)がアッサムにおける勝利は遥かな密林の土地から遠くへ知れ渡るであろうと考えたのは正しかった。彼らが各部隊に対する訓示で声明した如く世界戦争の全過程を変えたかもしれない」





参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著)/ 茂木弘道(訳・注)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インパール作戦」「牟田口廉也」

添付画像
 ビルマ方面軍司令官・河辺正三(PD)

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第31師団の独断撤退、そしてコヒマに咲いた花 ~ インパール作戦

コヒマに日本兵の花が咲いた。

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 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦発動。佐藤幸徳中将率いる第31師団は3つの突進隊に分かれ、アラカン山脈を越えてコヒマへ進撃しました。4月上旬にはコヒマを占領。1個師団が山脈越えでやってくるとは思っていなかったイギリス軍は大慌てとなります。コヒマはディマプールとインパールの間にあり遮断されればインパールの補給ができなくなります。またディマプールまで攻撃されると、ベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、米軍を崩壊させることになるからです。そしてコヒマで2ヶ月にわたり攻防戦が繰り広げられました。

 インパール作戦は兵站の問題がよく指摘され、補給がままならない状態であったと言われています。第31師団歩五八の主計将校の記録によると現地徴発を行なっています。主食の他、牛や豚を多量に集めることができたとあります。しかし5月からは敵戦車も出現するようになり、砲撃も激しく食料調達、炊事が困難な状況になっていきました。師団本体の方面はイギリス軍の挺身旅団が後方に侵入し、宣伝によって付近住民の感情が悪化して徴発に応じないようになっていました。

 そして6月2日、佐藤幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由にコヒマから独断で撤退してしまいます。

 ビルマ方面司令部宛

「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

 佐藤中将は独断撤退しましたが、師団の支隊である宮崎繁三郎隊は6月22日までコヒマ~インパール道の遮断し、踏ん張っていました。しかし、イギリス軍の1000両におよぶ戦車自動車に突破されました。日本軍には戦車に対して有効な対抗手段を持っていませんでした。
 先に撤退した佐藤師団はモンスーンの季節になった泥んこの道でマラリア、脚気、アミーバ赤痢で苦しみ歩けぬようになり自決するもの、部隊から離脱するものが続出します。それでも残り少なくなった牛を殺して食べたり、山中でタケノコを取って退却行軍しました。1ヶ月かけてチンドウィン河にたどり着きますが、雨季の濁流によって体力が落ちた兵は飲まれて流されてしまいます。

 7月5日に宮崎支隊に撤退命令がでます。第31師団本隊が糧食を求めて撤退した後を行くのです。籾ひとつ残っていない死の退却路です。

 宮崎少将は各部隊に以下を伝達します。

一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ず救うこと。
二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えた後、道路から見えないところに死体を運ぶか、または深く埋めること。

「よいか。餓死した死体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することに拠って全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」 

第31師団参加兵力 約15,000
死亡 : 7,500(戦死4,000 戦病死3,500)
戦傷、戦病によって部隊を離れたもの 4,500

 日本軍がコヒマから去ると野生の雑草の紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れません。そして群生して仲良く一斉に花をつけました。現地のナガ族は敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に戦い、素手に近い装備でも敵の洗車を鹵獲した日本軍の敢闘精神とこの花が二重写しとなり「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。




参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
参考サイト
 WikiPedia「佐藤幸徳」

添付写真
 宮崎繁三郎(PD)

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弓兵団、ビシェンプール、パレルで奮戦 ~ インパール作戦

日本兵士たちの死は無駄死にではなかった。

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  昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動。インド国民軍とともインドのインパールへ進攻しました。5月、日本軍第33師団(弓兵団)はインパール南のビシェンプールを攻撃します。この地を攻略しなければインパールへは到達できません。

「この突撃ならざれば、原隊に見ゆる(まみゆる)ことなかれ」

  突撃大隊は何度か市街に突入しますが、一人も帰ってきません。

  歩兵第二百十四連隊第一大隊長・斉藤満少佐は、5月24日夜、兵380名を率いて、ビシェンプールの北端しから敵陣へ突入。千余名の敵を倒し、360名が戦死。残った20名は28日に敵陣突入し、全員戦死。第九中隊の47名が敵後方に挺身し、敵砲兵陣地を急襲、戦車4両、トラック6両を破壊、敵の宿舎を奇襲します。ビシェンプールのこのような大激戦は70日にわたり展開されます。6月30日の師団の損耗は戦死傷者約7,000、戦病約5,000、計12,000。第33師団の70パーセントにのぼりました。

  第33師団がもっともインパールに近づいたところはレッド・ヒルというところで二百十四連隊はほぼ全滅しています。

  ビシェンプール東南20キロのパレルでは弓兵団の山本支隊が奮戦しました。もはやパレル突破の見込みがなくなっても切り込み隊を編成して殴り込みをかけました。第一陣、井上挺身隊13名は7月1日にクデクノーを出発。敵飛行場のに突入。破甲爆雷、手榴弾による一人一機必殺を念じ見事成功。7月4日に全員無事帰還しました。
  更に第二陣として山田芳枝准尉率いる山田挺身隊9名が出発しました。第一陣の襲撃により敵は警戒を強めているため山中に潜伏したり水中に体を没して敵の隙をうかがいました。敵分哨に遭遇した際は山田准尉が抜刀、兵は銃剣で急襲し、敵に発砲の余地を与えずこれを全滅させました。そして9日の夕方、兵舎、兵器庫、燃料庫を爆破炎上させ、10日に全員無事帰還しました。

  やがて弓兵団は撤退していきましたが、山本支隊の歩兵二百十三連隊の二十数名は撤退の時間を稼ぐため、テグノパールの高地を死守します。追撃してくる敵を引きつけた後、銃身が焼けるほど熱くなるほど撃ちまくり撃退しました。弓兵団の意地を見せつけたのです。

  日本軍兵士たちはインパール手前であるものは無念にも斃れ、あるものは退却していきました。レッドヒルで全滅した二百十四連隊500人の日本兵の霊を弔うために地元ロトパチン村人が慰霊塔を建てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵に食べ物を届けてくれたといいます。私たちのために戦ってくれた、と。

  ロトパチン村の村長
「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです」

  インパール作戦は惨敗に終わりましたが、インドの地に斃れた日本兵士たちは決して無駄死にではなかったのです。



参考文献
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  歴史通2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
参考サイト
  アジアにおける日本と大東亜戦争インド編
    「日本は本当にアジア諸国に嫌われているのか?」飯嶋七生
    http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html


添付写真
  タム付近で英軍の砲火をうける日本軍 第33師団(山本支隊)と思われる(PD)

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インパール戦の強敵、グルカ兵

勇敢だったグルカ兵。

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  グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀、ネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギリス東インド会社は、グルカ兵が傭兵として同社の軍に志願することをネパールに認めさせました。山岳民族で勇猛という点では台湾の高砂族と似ているでしょう。グルカ兵は大東亜戦争のインパール作戦で日本軍と交戦しています。

  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に発動されました。このとき日本軍はインド国民軍と行動をともにし、インド国民軍は前線にいる英印軍インド兵の投降を呼びかけました。昭和17年(1942年)のシンガポールの戦いで、インド兵の投降に懲りていたイギリス軍は前面にグルカ兵を配置していました。このため、投降の呼びかけは戦局を左右するほどの効果はあがりませんでした。

  グルカ兵は勇猛ですから、日本軍の戦局打開のための度々の突撃戦法に恐れず立ちはだかり自動小銃を至近距離で連続発射します。インド兵の場合は恐れて逃げてしまうので、イギリス兵はインド兵の足を立ち木に縛り付けていましたが、グルカ兵にはそうする必要がなく、一歩も引かなかったといいます。これで日本軍は被害を拡大しました。

  グルカ兵は勇猛だけでなく、ご主人様(英国人)に忠実でしかも愚直といいます。インパール作戦が中止となり、追撃してくるイギリスの戦車部隊に遭遇し、山中に逃げ込んだ第15師団の栃平主計曹長は次のように記しています。
「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。次の瞬間、担架が萌え始めた。見る間に黒煙が上がり辺は火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

  ご主人様のいいつけで足でまといになる日本軍傷病兵を焼き殺したのです。残酷な命令であっても忠実に守るわけです。
  終戦となりビルマの日本兵は収容所に入れられます。そしてイギリス軍から「収容所の鉄柵に接近すると逃亡の意志ありと見なして射殺す」と通知が出ました。だいたいこういうのは訓示みたいなものですが、グルカ兵はまじめすぎて柵に近寄った日本兵を自動小銃で撃ち殺してしまいます。

  会田雄次(著)「アーロン収容所」ではグルカ兵に戦争中も収容所でもやられたのである復讐をしたことが書かれています。作業場に電気溶接をやるところがあり、そこにグルカ兵を連れ込みます。溶接作業を見てグルカ兵は大いに好奇心を持ち、
「カクネ、カクネ(面白い、面白い)」といって見飽きるまで強烈な閃光をじっと見つめ、しばらくしてぶっ倒れます。これを次の日本兵捕虜作業員にも申し送り、約10日も続けたそうです。さすがにイギリス軍が調査してグルカ兵に見学禁止を言いわたしました。このほかグルカ兵は「疑う」ということを知らないため、日本兵捕虜が「美しい女がいた」とウソをつくと、グルカ兵はそっちのほうに走って探し、帰ってきて「いない」というと、日本兵がさらに「もっとあっちのほうだ」と更にウソをつくと、何度でも探しにいったそうです。会田氏は日本兵を撃ったのはグルカ兵のせいではないのに悪いことをしたな、と書いています。



参考文献
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  歴史通2009.7「神のごとく振舞った英国人が青ざめた」高山正之
参考サイト
  WikiPedia「グルカ兵」

添付画像
  インパール-コヒマ間の路上を進撃する戦車を伴ったグルカ兵(PD)

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インド国民軍進め、デリーへ ~ インパール作戦

チェロ・デリー!

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  昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース

「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両軍は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインドより放逐せざるを限り、インド民衆の自由なく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ・イギリスの帝国主義戦争の終息もなし。(中略)ここに自由インド政府は、インドの完全開放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くべき厳粛なる決意を布告す」

  インド国民軍、約6,000人が
「チェロ・デリー(進め、デリーへ)」を合言葉にインパール作戦に参加し、日本軍第33師団山本支隊らとインパールに迫るパレルで奮戦しています。第33師団山本支隊はモーレ、タムを突破し、バレルへ進撃しました。佐間連隊、はティディムからトイトムへ、笹原連隊はシンゲルに進出し、開戦わずか一週間で1800両の英印軍自動車部隊を包囲。その後、33師団はビシェンプールへ進撃し、インパールへ迫ります。

  インパール作戦は結果から導き出された「無謀」という刷り込みが行われ、第15軍司令官の牟田口廉也司令官を悪者とする、戦後の日本陸軍悪玉論の格好の標的にされています。しかし、実際には日本軍の特務機関である光機関による諜報、宣伝活動によりインド国内世論の下地をつくり、インパール作戦でイギリス軍に一撃を与え、一気にインド国民の覚醒、蜂起を促すものでした。イギリス軍は日本軍の諜報活動を非常に警戒しました。そしてインパールの戦いではイギリス軍は戦線を縮小して戦力を集中して補給線の伸びきった日本軍を迎え撃つ作戦にでました。これは合理的で「イギリスのほうが賢い、日本陸軍は馬鹿」のように言われてきましたが、戦わずして領土を放棄することになり、インド国内に動揺を与えることに繋がり、非常に難しい判断だったのです。

  第31師団と行動をともにしたインド国民軍のアジミルシン大尉は国境を越えてインドに入った時、
「おお、わが祖国!」と土を両手で握りしめて喜びました。そしてイギリス軍内のインド兵の切り崩しと民衆宣撫を行いました。4人で一班を編成し、敵陣地に潜入し、メガホンで投降を呼びかけるのです。

 光機関・金子工作隊のエピソード

「朝点呼をとったら、インド兵が15人ほど多いのです。おかしいと思って調べたら、これが、なんと、ほんものの英印軍なんです。服装も同じだし、ことばも通ずるものだから、敵のインド兵が夜間偵察に来て紛れ込み、われわれのテントで寝ていたわけです」

  そしてアジミルシン大尉は
「われわれはチャンドラ・ボースを中心とするインド国民軍であって、インド独立のためにここまで来たんだ」と説明すると英印軍のインド兵はすっかり感激して「おれたちも一緒にやる」とそのまま工作隊に入ってしまいました。(この後寝返ってイギリス側へ戻ってしまった)

  この他こんなエピソードもあります。光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。

「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。

「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けし、英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。

  しかし、日本軍の進撃は4月までで戦線は膠着し、7月には遂に撤退命令がでます。

  インド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)。その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害となりました。

  日印双方の夢は費えてしまいました。しかし、このインパールの奮戦は後のインド独立の起爆剤となりました。

  英軍東南アジア総司令部司令官 ルイス・マウントバッテン大将

「かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に、戎衣(じゅうい:戦闘服のこと)も靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわるのは生き地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った」

「それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。もし『日本について神が使命をあたえたものだったら、それは強権をわがもの顔の西洋人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」


  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  進軍の歌は今ぞ高鳴る

  我等の勇士よ眦あげて

  見よ翻るよ独立の旗




参考文献
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インド国民軍」
添付画像
 藤原岩市と握手を交わすインド独立連盟のプリタム・シン(1942年)(PD)

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征け征けデリーへ インド国民軍軍歌

http://www.youtube.com/watch?v=L4X2q4VAXJ0

インパール作戦は無謀だったのか

インパール作戦は一撃の成否如何の作戦だった。

S15pd

  昭和19年(1944年)3月に作戦発動したインパール作戦は補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦とよく言われます。しかし、作戦そのものはアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、この一撃の成否であり、それまでの補給が間に合えばよい話です。
  作戦には自動車中隊150、駄馬輜重中隊60を必要としましたが、昭和19年1月時点で調達率は19%。そこで食糧の携行の他、牛や羊を大量に連れていくことにしました。ジンギスカン作戦といわれる所以です。家畜は途中で四散、脱落したりしていますが、現地人を使って訓練していた部隊は四散させることなく活動していたようです。このジンギスカン作戦には伏線があり、昭和17年(1942年)末から翌18年のアキャブ作戦(三十一号作戦)で第33師団二百十三連隊一大隊、山砲一中隊がアラカン山脈越えの300キロに及ぶ行程を乗り切った時、牛を連れていっています。牛は高山では凍死してしまい、それを食べています。こうした前例があるので、ジンギスカン作戦は無謀とは言えないでしょう。

  第31師団の主計将校の記録によると携行食糧は20日分で一人最低50キロになったといいますから、これは大変です。このほか食糧は現地人と交渉して徴発を行っています。また、英軍が放棄した陣地の倉庫から食糧を得ています。これも作戦の範疇ですが、こういった他力本願で予定がたたないことが作戦として認められるのか?という批判は当然あるでしょうが、実際には第31師団では3月15日の進撃から5月末まではなんとか食糧を調達できています。前述した第33師団二百十三連隊のアキャブ作戦の例では現地徴発の他、川で魚をとってしのいでいます。前例があるので、まったく成り立たないという話ではないでしょう。

  昭和19年3月にインパール作戦が開始される前の年の暮れ12月にインパール作戦の兵棋演習が行われています。兵棋演習は状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究です。このとき、南方軍司令部の今岡高級参謀がこのようなことを言っています。

「軍司令官(牟田口中将)が主張されているように、一ヶ月以内にインパールが攻略できるということであれば、今、軍が考えている補給計画で、その後の補給はなんとか追随できると思う。しかし作戦そのものが途中で頓挫すれば話は別である。突進戦法が失敗すれば補給は続かないし、軍の補給計画は全面的に崩れる。
  要するに問題は補給計画の適否というよりも、軍司令官の言われるように、迂回、突進戦法で敵が崩壊するかどうかの作戦上の見通しにかかっていると考える」


  つまり、補給計画の適否より、一撃の成否だといっています。インパール作戦の本質をついた言です。誤算だったのは第15軍司令官・牟田口中将は英軍はマレー攻略のときのように弱いと思っていましたが、インパール作戦のときには英軍は米国からM3,M4などの戦車や最新の自動小銃を備えており、航空機もふんだんに利用できるようになっていました。山越えのため軽装の日本軍は歯が立たなかったのです。このあたりの敵状の情報収集不足、分析不足には問題がありました。更にいえば昭和19年の時点では既に時遅く利非ず、昭和17年のアッサム進攻作戦(二十一号作戦)を実施すべきでした。

  そしてコヒマおよびインパール方面において一撃がうまくいかなかったときの対応が問題でしょう。牟田口司令官は3月作戦開始で天長節(4月29日)にはインパールを陥落させるとしていましたから、作戦の性質上、戦線が膠着すれば遅くとも5月中旬には作戦を中止しなければならないでしょう。しかし、方面軍司令官の河辺中将が視察にきたのは6月に入ってからでした。6月6日に牟田口中将と河辺中将が懇談しています。

牟田口中将回想
「私は『もはやインパール作戦は断念すべき時期である』と咽喉まででかかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」

河辺中将の日記
「牟田口軍司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」

  何万の将兵の命を預かる軍司令官が「察してくれ」とは批判は避けられません。ビルマ方面の命運を握る方面司令官が前線を視察しておいて、戦況に望みがないと感じておきながら、軍司令官が「言わなかったから」として先送りしてしまうのは更に批判されなければならないでしょう。

  インパール作戦はこの後、1ヶ月にわたって悲惨な戦闘が続き、そして悲惨な退却となりました。一応、両将軍の名誉のために書いておくと、英ディマプール方面33軍団司令官スタッフォード将軍は日本軍のインパール作戦を好評価しています。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド(著)/茂木弘道(訳)
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
添付画像
  インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想(PD)


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インパール作戦はなぜ実行されたか

牟田口批判は司馬手法。

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  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースらインド国民軍の「インド解放」の動きも後押ししました。特務機関である光機関の山本機関長はボースの言葉を使いながら昭和19年(1944年)1月25日に次のように戦略を説明しています。


「日本軍がインド内部のイギリス軍に最初の一撃を加えるやいなや、民衆はイギリス軍の力への幻想から醒め、大きな反乱が起こることが実際に期待できる」「そのため軍事作戦は大規模に実施する必要はまったくない。我々の目的は局地的な作戦で十分に達成されよう」

  しかしながらインパール作戦は動員兵力92,000のうち、戦死38,000、戦病40,000以上と大惨敗。補給線を軽視したな作戦といわれ、とにかく第15軍の牟田口司令官の評価は現在でも非常に悪いです。
  この作戦が認可される過程を追ってみますとほとんどの参謀が反対しています。それなのに作戦が認可されたのはなぜでしょうか。

  インパール作戦は昭和17年(1942年)8月に南方軍参謀の林璋(はやしあきら)中佐が計画したもので、二十一号作戦といい、インドのアッサム地方まで進攻するものでした。このとき第15軍司令官は飯田祥二郎中将は第18師団長だった牟田口廉也(むたぐち れんや)中将に意見を聞き、牟田口中将はこう述べています。


「一挙に東部インドまで突進しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの諸点からみて、あまりにも時間的余裕がなく、実現の見込みはないと思います」


  この後、二十一号作戦はインド工作の状況から無期延期となります。対インド工作は光機関が宣伝工作やスパイを潜入させていましたが、まだ十分ではないという判断が働きました。しかし、昭和18年(1943年)3月のビルマ方面軍の再編成で、第15軍司令官となった牟田口中将はインパール作戦を強硬に述べるようになり、第15軍の参謀・小畑少将が反対すると更迭するという事件がおきています。当時の各首脳のインパール作戦の意見を簡単に表します。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「無理するな」
  |  竹田宮参謀「作戦成立の見込みなし」
  |
 南方軍司令部
  |  総参謀副長・稲田正純少将「絶対許さん!」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「疑問だが、15軍に干渉過ぎるのもよくない」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「・・・作戦構想に修正が必要だが・・・」<=温厚な人柄
  |  片倉参謀「作戦構想を修正しないととても無理!」
  |
 第15軍
   牟田口司令官「やるっきゃない」
   小畑参謀長「反対」<=更迭される

 ところが猛反対だった稲田少将が昭和18年(1943年)10月に突然転出となります。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「十分研究しろ」
  |  真田少将「やり方が違うだろ、ガ島をみればわかる」
  |
 南方軍司令部
  |  (後任)総参謀副長・綾部中将「うーん、できればやらせてやりたい・・・」<=心優しい軍人
  |  山田参謀「必勝の信念は牟田口中将一人。ダメ。中止したほうがよい」<=後で撤回
  |  今岡参謀「補給計画の適否より作戦上の見通し」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「牟田口にやらせたい」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「危険性が高い。再考の余地ないか」<=温厚な人柄
  |  
 第15軍
   牟田口司令官「今回の作戦こそ必勝の信念」<=一回やらせろ、独裁政権
   平井謀長「軍参謀は一切意見はいわないことになっている」<=更迭されるのが怖い
   第15師団山内中将「今、タイから異動してきたばかりでよくわからん」
   第15師団岡田参謀「無理だろう」
   第31師団佐藤中将「補給は間違いなくあるんだろうな」
   第33師団柳田中将(やっとれん)

  このような人事になって稲田少将の後任、綾部中将は参謀本部に上申し、真田少将が猛反対するのですが、参謀本部の杉山参謀総長が「寺内さん(南方軍総司令官)の初めて要望であり、たっての希望である。南方軍でできる範囲なら希望通りやらせてよいではないか」(<=人情派)と言って説得しました。

  このように人事異動などにより人情劇にながされてインパール作戦は決行が決まってしまいました。これで作戦は失敗し、数万の将兵が命を落としたのですから「なんてことだ」と思う人が多いと思いますが、それは現代では結果が大失敗とわかっているから言えることで、考えて見れば真珠湾攻撃も無謀といわれ大反対された中で認可された作戦でした。
  特に戦後は東京裁判史観により日本陸軍が批判の対象とされ、最大級の損害を出したインパール作戦は批判の格好の的になっている感があります。インパール作戦は「無謀な作戦」と言われるのは大東亜戦争は「最初から無謀な戦争」というGHQの刷り込みにも同期しています。また、インド国民軍のことはほとんど語られません。これはGHQのプレスコードによるものでしょう。
  ジャーナリストの高山正之氏によるとインパールを語る戦史は最初から結論が「牟田口が悪い」で決まっており、これは司馬手法だと言っています。司馬遼太郎の乃木希典、伊地知幸助評に似る、というものです。本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。

  どうやらインパール作戦は「戦後の色眼鏡」を外して見なければならないようです。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
  WikiPedia「インパール作戦」

添付画像
  牟田口廉也(PD)

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チャンドラ・ボース

ガンジーは語られるがボースは語られない戦後の言論空間。

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  平成19年(2007年)8月、安倍総理(当時)はインドを訪問し、インド国民軍を率いて日本と一緒に戦ったチャンドラ・ボース(ネタージ)の遺族と会いました。

安倍総理
「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」

ボースの姪にあたるクリシュナ・ボースさん
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるなら、私たちインド人も、英国の植民地支配に抵抗するため、ボースがインド国民軍を組織したことを支援したのが日本だったことを思い出すべきだ」

  日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。

  1919年、全学生中2番の成績でコルカタ大学哲学科を卒業したチャンドラ・ボースはケンブリッジ大学に進学します。翌1920年9月には最難関とされるインド高等文官試験に合格しました。そして彼はインド独立運動に人生を捧げることに決意します。

  昭和16年(1941年)、ボースはベルリンに潜入。駐独陸軍武官補佐官の山本敏大佐と大島浩大使はボースと接触し、昭和18年(1943年)2月、ボースはUボートでひそかにフランス大西洋岸ブレストを出港し、インド洋で日本の伊29潜水艦に乗り換え、5月16日に東京に到着します。秘密保持のため「松田」という偽名を使いました。
  ボースは東条英機首相に会見を申し込みましたが、東條首相はなかなか会おうとしませんでした。東條首相は何らかの先入観を持っていたようです。6月に入ってようやく会見しました。東條首相はボースの熱誠あふれる理知的な論議に完全に魅せられ、二回目の会見のときインド独立への支援を約束しました。そしてボースは「松田」の覆面を取り6月19日、内外の記者にはじめてその姿を現しました。

  この頃、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権はビハーリー・ボース(中村屋のボース)が持っており、二人のボースの対立が心配されましたが、中村屋のボースはチャンドラ・ボースに指揮権を移譲し、ビハーリー・ボースは名誉総裁への就任することになりました。

  インド国民軍は昭和19年(1944年)にインパール作戦で「チェロ・デリー(進めデリーへ)」を合言葉に日本軍とともに戦うことになります。ただ、すんなりとはいかず、ビルマ人はボースの自由インド臨時政府をラングーンに置くことに難色を示しました。英国はインド人を手先に使ってビルマ人を痛みつけてきたからです。ビルマ国防軍のアウンサンも父をインド人に殺されました。インドのライフル部隊はビルマ人を殺しまくりました。このインド人とビルマ人の対立は結構根が深く、戦後、ビルマでの日本兵抑留者の周りでも頻繁に対立があり、抗争などがあると「マスター(日本兵のこと)はこっちに味方してくれ」と双方から言われて困ったそうです。日本の特務機関の光機関は必死にビルマ政府を説得し、ボース自身もビルマ政府首相バー・モーの娘の結婚式に豪華な贈り物をしてビルマ人の反インド感情の懐柔に努めました。

  結局、インパール作戦ではビルマ軍はそっぽを向き、インド国民軍の声に同調して寝返ってくるイギリス側のインド軍は期待したほどおらず、アラカン山脈の中で苦戦し、国民軍兵士はくしの歯がこぼれるように脱落していきました。そしてインパール作戦は中止になります。

  昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。ボースはインド独立闘争の継続を期してソ連行きを決断します。8月17日、サイゴンからツーラン(ダナン)を経由して台北の松山飛行場に到着します。しかし、ボースを乗せた陸軍97式重爆は台北を飛び立った直後に墜落してしまいます。全身火傷を負ったボースは陸軍病院で治療を受けますが、同日午後八時に帰らぬ人となりました。臨終間近の床でボースはこういいました。

「天皇陛下と寺内さん(南方軍司令官)によろしく」
「同志があとで来るから」


  ボースの遺骨は東京杉並の連光寺に収められ、現在もあります。ボースの遺骨が祖国に帰っていないのはインド人、特に彼の出身地カルカッタの人々がボースの死を認めなかったからと言われています。



参考文献
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)

参考サイト
  WikiPedia「スバス・チャンドラ・ボース」

添付写真
  マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)昭和13年(1938年)(PD)

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Delhi chalo -Subhas Chandra Bose-
http://www.youtube.com/watch?v=EQZ_B8D86ms

新宿中村屋のボース

中村屋のカレーはこうして生まれた。

S1915


  ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。

  ボースは1912年、イギリス高官の暗殺未遂で当局から追われ、同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして支那の革命家・孫文のもとを訪れ、アジア主義者の巨頭・頭山満に会います。そして内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていきます。
  しかし、日本はイギリスと同盟関係(日英同盟)にあったためイギリスはボースとグプタの日本退去を要求します。日本政府はボースとグプタに5日以内の退去を命じました。退去期限の夜、二人は頭山満のところへ挨拶に行きました。二人の警官がボースとグプタに付いていましたが、頭山は二人を脱出させました。そして新宿中村屋の店主、相馬夫妻が二人を匿ったのです。ここで同店のインド・カリーが誕生し、相馬の愛娘とボースは結婚することになります。これでボースは「中村屋のボース」と呼ばれるようになりました。

  昭和16年(1941年)、日本は対米英開戦に踏み切ります。東條英機首相はインド独立援助を声明します。

  日本軍は破竹の勢いでマレーを進撃すると、イギリス軍の一大隊が退路を絶たれ、孤立していました。その大半はインド人でした。大本営参謀の藤原岩市少佐は一切武器を持たずに大隊を訪れ、投降を勧め、200のインド投降兵の身柄を預かることに成功します。やがてその中にいた中隊長のモハン・シン大尉の主導によってインド国民軍(Indian National Army、略号:INA)創設されました。

  インド兵捕虜と藤原機関の合同食事会。モハン・シンが述べた言葉。
「戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官、兵まで加えて、同じ食事でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできなかったことである。(中略) 藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、民族の相違をこえた、温かい催しこそはインド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にまさる実証である」

  昭和17年(1942年)5月、タイのバンコクでインド独立連盟が設立され、中村屋のボースが総裁となります。この後、独立連盟とINAは不和があったもののチャンドラ・ボースも加わり、自由インド仮政府を樹立し、米英へ宣戦布告しました。そして日本軍とともにインパール作戦を戦うことになります。

  評論家、日下公人氏は戦後16年たった頃、シンガポールを訪問したとき、街中にある自動車修理工場を立ち止まってみていると、インド人が修理しているのを見かけました。扱っている車はほとんど日本製でした。「これはニッサンだね」というと、「あなたは日本人か、私もかつて日本の兵隊と一緒にインパールまで攻め込んだんだ」と言ってわれもわれも名乗りを上げてきたそうです。
「日本人はブレイブ(brave=勇敢)」とそればかり言って神様のように尊敬していたそうです。

  中村屋のボースは昭和20年(1945年)、日本で客死しました。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの仕事をねぎらいました。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死。インドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の昭和22年(1947年)8月15日に、イギリスから独立を勝ち取りました。



参考文献
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「なぜ日本は『大東亜戦争』を戦ったのか」田原総一朗(著)

添付画像
  「ラース・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)(PD)
   テーブルの向こう側中央に頭山満、その後ろにラース、両者の手前に犬養毅。

新宿中村屋
  純印度式カリー 誕生秘話 http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/room_01.html

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