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05.大東亜戦争・ビルマ

植民地に教育は不要だった

有色人種は人間以下だった。

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 ビルマ(現ミャンマー)がイギリスに植民地支配されている頃、イギリス人は学校を作りましたが、大正9年(1920年)の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベトナム、ラオス、カンボジア)では大正11年(1922年)で就学率1.7%、昭和17年(1942年)でも3%です。白人は有色人種に教育を施す気はありませんでした。賢くなって反抗されては困りますから。教育を受けたものは名誉白人という称号を与え、そうでないものは白人の良き下僕となるように仕向けられました。

 大学ではきっちりとした教育が行われていたかというと戦後、ビルマで抑留生活をしていた会田雄次氏の記録(アーロン収容所)に面白い話が載っていました。
 会田氏がラングーン大学の英文科を卒業したビルマ人に会ったときのこと。そのビルマ人はシェイクスピアに関する卒業論文を書いたといい、「カンタベリー物語」(イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー)を読んだという。会田氏は自分より英会話がうまいし、「カンタベリー物語」を読破するとはとても歯が立たないと思い、大いに敬意を表し、その本を見せてくれ、というとビルマ人は大得意で貸してくれました。ところがその本を見てみると絵入りのカンタベリー物語、シェイクスピア劇物語であり、日本で言えば中学校2,3年生程度が読むような簡易化した本でした。しかも本人は本物だと思っているので会田氏は驚いています。大学といってもイギリス人はこの程度しかビルマ人を見ていなかったわけです。

 もっともイギリス人も大したことはなく、この当時、算数が出来るものは少なく、会田氏の著書によるとイギリス人は掛け算ができないのです。経理担当のイギリス兵士は計算はできますが、そうでない兵士がトラックの荷物の受け取りなどに来ると48個入りの木箱が20だと48を二十回足し算していたため計算に20分ぐらいかかっていました。なかには「ヘーイ、ジャニイ」と日本兵を読んで、計算しろ、といい、1回で計算してみせるとしきりに首をひねっていたといいます。
 また、収容所内で新聞の発行許可をもらいにイギリス軍将校のところへいくと
「日本人の中で文字が読めるのは何人いるか?」と聞かれて「全員読める」といったところ、イギリスでは、とてもそうではなかったため、信じてくれなかったと述べています。
 元自衛官の池田整治氏の著にも父親がシンガポールに抑留されていたときの話が載っていますが、イギリス軍将校が
「日本の兵隊は文字が書けるのか」と質問してきたので「日本人なら誰でも読み書きソロバン(計算)ができる」と答えたところイギリス人らはびっくりしたといいます。
 イギリスはブルジョワジーとプロレタリアートがはっきりしており、軍隊の中でも同様で士官と下士官の区別がはっきりしています。日本軍の一兵卒が大学の講師をやっていたと言うと信じてくれなかったと会田氏は述べています。

 ちなみに日韓合邦時代の朝鮮半島では大正5年(1916年)から3村1校の教育普及政策が推進され、大正14年(1925年)の就学率は15%。高等教育では98校となっています。大正13年(1924年)に京城帝国大学が設立されています。大阪帝大や名古屋帝大よりも早く設立されています。昭和4年(1929年)からは1村1校が進められています。昭和11年(1936年)には公立普通学校は2,500校に達し、昭和18年(1943年)の就学率は61%。台湾では昭和18年(1943年)には義務教育を実施しています。これらの数字を見ても朝鮮、台湾を「植民地」と呼ぶのは誤りです。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
添付画像
 1945年ごろのラングーン大学(講堂だと思われる Glenn S. Hensley氏)

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大東亜戦争時のビルマ人とインド人

仲が悪いのは白人が仕掛けたデバイド・アンド・ルール

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 大東亜戦争後、ビルマ(現ミャンマー)で抑留されたときのことを書いた会田雄次(著)「アーロン収容所」にはインド人とビルマ人の仲が悪かったことが書かれています。会田氏が歩哨にたっているとインド兵が逃げてくる。インド兵は武装していないので非番で休暇をとっていたと思われ、服は破け、顔を打たれたらしく血が流れていました。追いかけて来るのは一塊のビルマ人らで女性の姿も見えます。このインド兵は会田氏ら日本兵捕虜に助けを求めます。ここはおもしろいところで、同じインド兵のところに助けを求めないのです。インドは宗教各派や地方、カースト別に隊が異なっているので簡単にインド兵に助けは求められず、なんと日本兵捕虜に助けを求めたのです。
 実は日本兵捕虜とビルマ人が闇取引をやっていたのをインド兵が禁止し、物資を没収したのでした。それで何かの拍子に怒りが爆発したのです。インド兵の親玉はイギリス軍です。イギリス軍はインド兵を使って取り締まりをさせていました。デバイド・アンド・ルール(分割統治)です。民族間を対立させ、その上に君臨統治する白人の手法です。

 イギリスはインド人を使ってビルマを支配していました。ビルマ国防軍のアウンサン(スーチー女史の父)もインド人に父を殺されています。インドのパンジャブ・ライフル部隊はビルマ人を殺しまくりました。大東亜戦争をきっかけに国外のインド人は独立へ向けて立ち上がりましたが、ビルマ人はそんなインド人に協力するのを拒否しました。ラングーンに自由インド臨時政府を置くのを拒否。日本の特務機関は懸命にビルマ政府を説得しました。自由インド臨時政府主席のチャンドラ・ボースはビルマ政府首相バー・モーの娘の結婚式に多額の贈り物をしてビルマ人の反インド感情を和らげようとしています。しかしビルマはインパール作戦にはそっぽを向きました。

 白人の有色人種支配は数百年かけたノウハウがあり巧みです。「アーロン収容所」によると不良イギリス軍士官がおり、腹をたてたビルマ人らが宿舎を襲撃してくるので、見張りには日本兵捕虜をたてるという驚いたことをしています。インド兵だと襲撃をやめないからです。日本兵が見張りにたつと襲撃してこなくなりました。
 日本兵捕虜が大工や左官、機械工など高い技術能力があることを知ったイギリス軍はこれを商売に使います。ビルマ人やシナ人の民営工場に派遣して働かせてビルマ人の数倍のカネをとるのです。
「日本兵は仕事をやれやれと強制すると反抗してかえって動かなくなる。自信が強いからなるべくおだてて使うとうまくいく」というパンフレットまで用意するという手の込みようでした。

 日本では終戦後に朝鮮進駐軍と称する朝鮮人が横暴を働いていましたが、GHQは半ば黙認しています。これはデバイド・アンド・ルールです。台湾人を戦勝国民と位置づけ優遇したのもデバイド・アンド・ルールです。沖縄の諸施設の名称を「琉球」に変更し、内地と距離を置くよう仕向けたのもデバイド・アンド・ルールです。

 さてミャンマー(ビルマ)ではアウンサン・スーチー女史の話がよく聞かれますが、彼女はイギリスが身元を引き受け、教育し、ハンサムな英国人と結婚させました。父の暗殺犯はイギリスの歴史が言うウ・ソー(ビルマ元首相)だと洗脳されました。彼女はイギリスとインドの利益の立場の人です。ミャンマーは民主主義 vs 軍政という単純な構造ではないようです。デバイド・アンド・ルールは今もミャンマーを混乱させています。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「歴史通」2010.3月『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
添付画像
 シュエタゴンパゴダ(C)
   Author: Ralf-Andre Lettau
    Date: 15. Nov. 2005
    Notes: Shwedagon Pagoda
    Source: Photo taken by Ralf-Andre Lettau


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日本のサムライと戦ったことは誇り

当時の人の手記を読むのは戦後のマインドコントロールから目覚めるきっかけになる。

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 大東亜戦争で日本軍はビルマへ進攻し、イギリス軍を追い散らしました。しかし、日本は敗戦。ビルマの日本兵士は捕虜となり抑留させられます。陸軍一等兵だった会田雄次氏はそのときのことを「アーロン収容所」という著書に残しています。
 「アーロン収容所」ではイギリス軍兵士は日本兵捕虜と話しをするようなことはあまりなく、例外的に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」「復讐をしないのか」(カタキウチという日本語を使って聞かれた)「なぜ武装解除に簡単に応じたか」と問いかけられることはあったと書いています。

 あるとき、アメリカで働いていてハーバード大出のイギリス軍中尉が日本兵捕虜の作業場所に来ました。彼は人懐こく、日本兵捕虜によく話しかけていました。そして作業指揮官の日本兵将校と話をしていました。そのとき、日本兵将校が「日本が戦争をおこしたのは申し訳ないことであった。これからは仲良くしたい」とという意味の言葉を言ったところ、このイギリス軍将校は次のように述べました。

「キミたちは奴隷(スレイブ)か。奴隷だったのか」

 人懐こいイギリス軍将校が急にいずまいを正すような姿勢を取りました。会田氏はハッとしました。

「我々は我々の祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それとも主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだと思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝った事を誇りとしているのだ。そういう情けないことはいってくれるな」

 会田氏はイギリス軍将校の言葉には相手を勇気づける好意が含まれているのを感じ、頭がさがる思いであったと述べています。このイギリス軍将校の言葉は戦後の日本の自虐史を真っ向から否定するような言葉でしょう。

 ジャーナリストの笹幸恵さんは、10代のとき、友人の家に遊びにいったとき、ふとこの「アーロン収容所」が目につき、そして読み、このイギリス軍将校の言葉に衝撃を受けたと述べています。

「この日本の将校と英軍中尉のやりとりは、私がそれまで受けてきた十数年の教育を根底から覆すのに十分でした。私たちの父祖の本当の歴史を自分でなんとか学ばなければならないと思いました。戦史や体験記を読んでもわからないことがある。ならばかつての戦場をこの目でたしかめ、この足で歩いてみたいと考え、これまでガダルカナル島をはじめ主に南太平洋の島々を巡ってきました。過去を過去の視点で見ることなしに、単純な善悪二元論で、戦後の日本人があの戦争は誤りだったと断ずるのは傲岸(ごうがん)だと思います」

 笹幸恵さんは学校で
「日本は無謀な戦争をした」と教えられてきましたが、年齢を重ねると疑問が出てきて、「無謀だとわかっている戦争など誰も賛成し、参加するはずもないではないか。無謀と思わない何かを信じたから、あるいは無謀ではあっても、やむを得ざる戦いだったのではないか。そうした疑問を抱えたまま漫然と十代を過ごしていた」と述べています。そしてアーロン収容所を読んで覚醒したのです。戦後教育を受けて来た人は大東亜戦争について笹幸恵さんのように学校やマスコミで言っていることに何か疑問を感じながら過ごしている人は多いのではないでしょうか。そういう方は是非その疑問を自分で調べてみてください。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「正論」2009.10『なぜ歴史の事実は封印されたのか』新城卓 笹幸恵 上島嘉郎

添付画像
 ゼロ戦(靖国神社 JJ太郎撮影)PD

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イギリス軍の残虐さ

冷酷に残虐さを発揮したイギリス兵。

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 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦が発動されました。日本軍はアラカン山脈を越えてインパールを目指しました。インドの地でイギリス軍に一撃を加え、インド国内に独立機運をつくりあげる目的がありました。しかし、この頃は既にアメリカからイギリス軍にM4戦車などの優秀な装備が手渡されており、日本の対戦車砲は歯が立たず、2ヶ月にわたる激戦の末、日本軍は撤退します。そしてここから英軍は日本軍を追撃していきます(雨季に入ったため深追いはしなかった模様)。イギリス軍は戦闘だけでなく捕虜となった日本兵士の大虐殺を行なっています。

15師団栃平主計曹長の記録

「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけて行った。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけたのだろうと思った。次の瞬間、担架が燃え始めた。見る間に黒煙があがり、あたりは火の海になった。彼等がかけたのはガソリンだった」

 グルカ兵がご主人の英軍の言いつけで足手まといの日本軍傷病兵捕虜を焼き殺したのです。イギリス軍は日本軍の野戦病院も攻撃し、そこの日本軍傷病兵を道路に並べ、将官クラスは後で尋問するのかトラックに載せ、残った日本兵はガソリンをかけ焼き殺しています。疫病の伝染を防ぐ目的もあるのでしょうが、生きたまま焼き殺すとは・・・

 戦争が終わった後、日本兵は捕虜となり強制労働に従事させられます。その中で次のような話があります。

 陸軍一等兵の会田雄次氏が戦闘中にイギリス軍の捕虜になった日本兵から話を聞きました。

「私はミッチーナで傷を負い、倒れていてイギリス軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもよいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人に知らせてください」

 彼はイラワジ河(エーヤワディー川)のずっと河下におり、その中洲に鉄道隊にいた日本人が百何十人か入っていました。泰緬鉄道でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いがかけられてそこに収容されていたのです。そこで何があったか。

 イギリス軍は日本人百何十人の一群を河の中州におき、食糧をほとんど与えませんでした。その中州には毛ガニが棲息していますが、赤痢菌まみれで生では食べれません。中洲は潮が満ちてくると全部水に没し、30センチぐらいの深さになります。日本兵捕虜は背嚢を頭に載せて塩が引くまで何時間もしゃがまされました。イギリス兵は決してカニを生食しないよう警告しますが、日本人捕虜は耐えがたい飢えのため毛ガニを食べました。薪などイギリス軍は用意してくれませんから、生で食べたのです。そして皆、赤痢にやられ血便を出し血反吐を吐いて次々に死んでいきました。水を飲みに行って力尽き、水の中へうつ伏して死ぬ、そんな無残な死に方をしたのです。
 看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日、観測していました。全部死んだのを見届けて
「日本兵は衛生観念不足で自制心に乏しく、イギリス軍の度重なる警告にもかかわらず生カニを捕食し、疫病にかかって全滅した。遺憾である」と上司に報告したのです。

 イギリス兵は殴ったり蹴ったりというのはなく、それはオーストラリア兵に多かったようです。イギリス兵は小児病的復讐心を持ち、表面上、非難に対してうまく言い抜けできるように冷静に、そして冷酷に残虐さを発揮したのです。



参考文献
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『イギリス軍捕虜収容所の悲惨』岩田温
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)

添付画像
 エーヤワディー川 Auth:Colegota(CC)

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ビルマの夜明け

ビルマ独立。

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 昭和15年(1940年)11月23日タイとフランス植民地軍との国境紛争が勃発。当初攻勢だったタイ軍でしたが、フランスが重火器を導入し、一転劣勢となり押し捲られます。ここで日本が仲介し、昭和16年(1941年)5月8日に東京条約を結びタイはラオスメコン川右岸及びカンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州を獲得します。このとき日本はタイでの無害通行権を得ています。
 昭和16年(1941年)12月8日、日本は連合国へ宣戦布告(タイは翌年1月25日に連合国へ宣戦布告)。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍はタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手します。12月15日ビクトリアポイント(現在のコートーン)を占領。12月28日タイのバンコクでビルマ人を集め「ビルマ独立義勇軍」を結成。年明けに日本軍はタイから国境を越えタボイ、トングーへ入りラングーンへ向けて進撃します。翌昭和17年3月8日には首都ラングーンを占領しました。そして政治犯として刑務所に収監されていたバー・モウを解放し、彼を行政府の長官に就任させます。

 ビルマ初代首相タキン・ヌー氏
「ビルマの民は日本軍を信頼していた。日本の爆撃機が飛んできても避難しないで着ていたシャツを破り、それを振って歓迎した。」

 ヤンゴン大のタン・タット歴史学教授
「神のごとく振舞ってきた英国人が青ざめ、逃げ惑うのは見ていて痛快だった。彼らの手先だったインド人がご主人様の顔色に敏感に反応して、まるで沈没する船から逃げ出すネズミのように群れを成してベンガルに逃げ出していった」

 タキン派(民族解放派)コドー・マイン氏
「私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジア民族が馳せつけて他のアジア民族を解放してくれた。我々に古代の遺産と国土と自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前にこの幸せな日を見ることができた喜びに泣いた」

 バー・モウは昭和18年(1943年)3月に日本を初訪問し、天皇陛下に謁見し、東條首相と会談しました。7月には新憲法の最終草案を正式承認して、バー・モウを満場一致で国家代表に選出。8月1日、ビルマは独立宣言します。

「本日ビルマは50年以上にわたる英国の領有の後、世界の自由にしてかつ主権を保有する国家の間にその当然占むべき地位を回復セリ。ビルマは連綿として絶えざる長き歴史を通じ、誇りをもって当然の地位を占め来り、その間、ビルマの光栄は天における月日の如く輝きたり」

 外相に就任したウー・ヌー演説
「歴史は高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」

 ビルマ婦人連盟会長キンママ・モウ女史(バー・モウ夫人)
「私たちはこれまでビルマの女性としてやってきた。これからはアジアの女性たらねばならぬ」

 ビルマの独立はタイのピブン首相、フィリピンのラウレル大統領など、東南アジアの各国の首脳がこぞって慶祝したのをはじめ、ドイツが日本の堂々たる態度に敬意を表したほか、スペイン、アルゼンチンが共に慶賀を表し、フランスの新聞がアジアにおける日本の軍事的存在感が拡大するだろうと伝えました。

 こうした歴史は今の日本国内では意図的に抹殺されてしまっています。イギリスはビルマを戦後の1948年に独立させたなどと言っています。そうではありません。

バー・モウ「ビルマの夜明け」
「真実のビルマの独立宣言は1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国であった」

 これが歴史の真実です。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
参考サイト
 Wikipedia「東京条約」「タイ・フランス領インドシナ紛争」「ビルマの戦い」
添付画像
 昭和18年の大東亜会議に出席した各国首脳。前列左端がビルマ軍の軍装姿のバー・モウ。続いて、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(PD)

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ビルマの独立への思い

イギリスの侵略を受けたビルマは日本とともに立ち上がった。

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 19世紀に入ってからビルマはイギリスの侵略を受け、1886年にはイギリス領であったインドに併合されてその1州となってしまっいました。ビルマ人は次第に「白人には勝てない」と、無気力になっていきましたが、日露戦争で日本が史上初めて白人を倒したのを契機に独立の気運が高まります。独立運動家のオッタマ僧正が2回も日本に来日し、「日本」という著書を書き、ビルマ国民の奮起を促しました。そして青年仏教徒連盟を結成、改組して仏教徒団体総評議会を結成して、不服従抵抗を展開しました。オッタマ僧正はビルマ独立を見ることなく昭和14年(1939年)に死去しました。しかし、その思いは有志に受け継がれます。

 ヤンゴン大のタン・タット歴史学教授が大東亜戦争の頃のビルマを語って
「ビルマ人はとっくに日本人を知っていた、なぜなら日露戦争の実写映画を見ていた。英国が日英同盟の誼(よしみ)から上映したのだろうが、ビルマ人の受け止め方は違った。小さな日本人が大きな白人をやっつけていた」

「日本でパイロットを目指すビルマ青年が飛行機を操縦してラングーンの空を飛ぶ。あのシュエダゴンパコダの空を」(昭和10年日本の映画「にほんむすめ」東映)
「飛行機は特別の意味があった。白人の力の象徴だった。それをビルマ人が操縦する。それだけで驚きだった。日本人が喜んで教える姿も驚きだった」


 昭和16年(1941年)10月、ビルマ首相のウー・ソウはロンドンにチャーチル首相を訪ねて独立交渉をしますが、チャーチルに冷たくあしらわれます。今度は米国へ行き、F・ルーズベルト大統領に会いに行きます。しかしそこでも失望させられます。イギリスもアメリカも民族自決、国民の望む政府という理想に満ちた大西洋憲章に有色人種を適用する考えはありませんでした。
 ウー・ソウはラングーンに帰る途中、偶然にも乗り継ぎのハワイで日本軍の真珠湾攻撃に出くわすことになります。日本の力をその目で確認したウー・ソウはとって返し、ポルトガルのリスボンに入ります。(ポルトガルは中立国)ここから彼の行動は日本の外務省の記録に残っています。

「12月31日午前、ビルマ首相ウー・ソウが密かに大使を来訪せり。ハワイより引き返して大西洋を経て当地着。帰国のための飛行機待ち合わせの間を利用して苦心来訪せる趣なり。その申し出は左の如し。

 今やシンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立のための挙兵には絶好の機会と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約せらるるにおいてはビルマは満州国のごとく日本の指導下に立つ国として日本とともに英国勢の駆逐にあたり、また、日本の必要とする資源は悉く提供するの用意あり


 これは真珠湾攻撃を見て思い立ったというだけでなく、それまでオッタマ僧正の教え「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本に頼るしかない」を聞き、日本をずっと見てきておりどのような国かどのような国民性かを知っていたからでしょう。

 残念ながら日本の外交暗号電文は連合国に解読されウー・ソウはナイロビに着いたところで英国に逮捕され監禁されます。この事件を知ったF・ルーズベルトはチャーチルへ手紙を送っています。

「私はビルマ人が好きではありません。あなた方もこの五十年間、彼等には随分手を焼かれたでしょう。幸い、ウー・ソウとかいう彼らの首相はいまやあなた方の厳重な監視下にあります。どうか、一味を一人残らず捕らえて処刑台に送り、自らのまいた種を自ら刈り取らせてやるよう、願っています。」

 ウー・ソウは逮捕されましたが、その願いは実現することになります。昭和17年1月末より日本軍第15軍とボーモージョー(鈴木大佐のビルマ名)率いるB・I・A(ビルマ独立義勇軍)がタイより国境を越え、ビルマへ進攻。ビルマ人は
「ドウバマー(我々のビルマ)!」と歓声をあげ、日本軍とビルマ独立義勇軍を迎え入れました。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 徳間文庫「ビルマ独立秘史」泉谷達郎(著)

添付画像
 ビルマ国境へ向かう日本軍第15軍(PD)

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イギリスの侵略をうけたビルマ

白人こそが侵略者。

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 19世紀当初、ビルマ(現ミャンマー)は清国を宗主国としていました。しかし、その後イギリスの侵略を受けます。1824年にビルマ戦争の火蓋が切って落とされます。清国は援軍を出し、ビルマ軍と共にイギリスと戦いますが、敗れ領土の一部をとられてしまいます。
 1852年、さらにイギリスは侵略を開始し、ビルマは再び清国に援軍を要請しますが、イギリスはフランスを味方にして天津攻略などを行い、清国をかく乱しており援軍どころではない状況にしてしまっています。実に狡猾なイギリスのアジア侵略が見えてきますね。そしてビルマは無残な結果となります。1885年にはビルマ国王シーボウは降伏し、幽閉されることになります。英清条約によって清国とビルマの関係は切り離されてしまいます。1886年、ビルマはイギリス領であったインドに併合されてその1州となってしまったのです。

 これよりビルマでは暗黒の時代に入ります。公用語は英語になり、ビルマの民族衣装ロンジーは侮蔑され、ビルマの伝統的教育を解体されます。ごく一部のビルマ人のみ教育を受けることができ、あとのビルマ人は白人のよき下僕となることが良いこととされ扱われるようになります。日本は明治時代の頃です。
 イギリスの植民地支配は巧みで、インド人労働者を大量にビルマに送り、資本を投入し、ビルマ人労働者を圧迫しました。インド人は労働以外にも農業開発資金を貸し付ける金融業者として、あるいはあらゆる商業経済に属する者としてもビルマ人の経済を圧迫しました。インド人とビルマ人を反目させ、その上にイギリス人が君臨する。デバイド・アンド・ルールです。さらにビルマは支那人の移住にも悩まされ、イギリス、インド、支那から二重三重に搾取されるようになりました。

 イギリスに支配されたビルマ人はどんどん無気力で無自覚になっていきました。1900年頃よりビルマ独立運動を展開していたオッタマ僧正は、当時のビルマ人の多くは港にイギリスの巨大なタンカーが停泊し、本来ビルマ人のものであるべき石油がどんどん収奪されていくのを見ても、自分達の血が吸い取られていくに等しい痛みを感じることもなく、イギリスはあんな立派な船が作れるすばらしい国なんだと、むしろ憧憬の念をもってタンカーを眺めていたといいます。

 無気力、無自覚になったビルマ人に転機が訪れたのはボーア戦争(1899年~1902年)と日露戦争(1904年~1905年)でした。ボーア戦争は南アフリカに移住したオランダ系農民が、原住民とともに、イギリスの統治に反抗して戦った戦争です。結果、イギリスの勝利となりましたが、ビルマ人に大きな影響を与えました。日露戦争は言うまでもありませんね。我々日本人の先人が有色人種として初めて白人を倒した戦いです。

 ビルマの歴史家ティン・アウン博士
「この頃にビルマの最初の映画館が出現したが、上映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。観客はスクリーンに写し出されたマフェキン(イギリス軍に包囲されたボーア人の町)のボーア人救出に安堵のため息をつき、日本軍の兵士が鉄道で輸送されるロシアの軍隊を襲撃する場面に拍手を送った。
 その頃は映画の検閲などもちろん無かったうえに、イギリスの役人たちは、ボーア人に対するイギリスの勝利を印象づける映画や、どっちみちイギリスの同盟国(日英同盟)である日本がロシアに勝つ映画は、ビルマ人に見せても害はないと考えていた」


 オッタマ僧正は日露戦争の日本勝利に感激し、日本に2回行き、その感激を「日本」という著書に表し、ビルマ国民の奮起を促しました。

「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結、奮起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本を頼る以外に道はない」

 オッタマ僧正は1939年(昭和14年)に死去しました。しかし、僧正のビルマ独立の悲願はその約4年後に訪れます。その契機となったのは大東亜戦争でした。日本がアメリカ、イギリス、オランダの横暴に対して立ち上がったからです。




参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
参考サイト
 Wikipedia「ミャンマー」
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 1895年のラングーン(PD)

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軍艦マーチ(ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ)

ミャンマーは親日国。

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 ミャンマー(旧ビルマ)では1942年(昭和17年)のビルマ独立義勇軍の創設を建軍としています。国軍記念日の軍事パレードでは軍艦マーチ、歩兵の本領、愛馬進軍曲が流れるといいます。国軍記念日は対日蜂起の日でもあるのですが、なぜ日本の軍歌が流れるのでしょうか。

 昭和17年(1942年)タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍」が結成されます。これは日本の南機関という特務機関が日米開戦前からビルマ国内工作としてビルマ独立党を支援しており、日米開戦にともない敵となったイギリスを打倒するために結成したものです。司令官は鈴木大佐。ロンジー(ビルマ民族衣装)で白馬にまたがりビルマ人の前に登場したと言います。この演出の提案をしたのがアウンサンで、アウンサンスーチー女史の父です。ビルマでは
「王朝最後の王子よみがえって東方から白馬に乗ってやってきて白人支配から開放する」という伝説があったのです。

 イギリスとの戦いの前、アウンサンは日本に亡命し、独立運動指導者らをビルマから呼び寄せ、海南島で南機関によって厳しい軍事訓練が行われました。訓練の厳しさに脱落しそうな者が現れると
「こんなことでイギリス軍をビルマから追い出せるか!」「そんな意志薄弱で独立が獲得できるか!」と怒声が飛び交ったといいます。

 昭和17年(1942年)日本軍とビルマ独立義勇軍(B・I・A)がタイからビルマとの国境に近づくと、ビルマの青年たちが国境を越えてやってきて、
「ドウバマー」(万歳)と叫び、日本軍の物資輸送を手伝いました。日本軍が国境を越えてビルマの村に入ると村の人たちが「ドウバマー」「ドウバマー」大歓声が沸きあがり、日本兵はあまりの感動に涙を流したといいます。

 ビルマに入った日本軍は進撃を続け3月には首都ラングーンを占拠。イギリス軍に逮捕されていた独立指導者らを解放しました。その後、ビルマ北方方面を制圧し、ビルマをイギリスから解放しました。

 昭和18年(1943年)バー・モウを元首とするビルマ国が建国しました。その後、大東亜戦争は日本の旗色が悪くなり、アウンサンは日本を裏切りましたが、それは独立を維持するため仕方がない行為で、日本を恨んでいたわけではありません。戦後、ビルマ独立に尽力した7人の日本人がアウンサン勲章が授与しています。南機関の鈴木大佐のことはミャンマーの学校教科書でも大きく取り上げられているそうです。こうした親日的なところが、日本の軍歌をずっと残していることにつながっているのでしょう。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間文庫「ビルマ独立秘史」泉谷達郎(著)

添付画像
 ビルマの日本軍(PD)
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軍艦行進曲の系譜 ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ/Myanmar Tot Ya Tatmadaw
http://www.youtube.com/watch?v=ZSmqdf6N4n8



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