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14.ノモンハン

停戦を強く望んでいたのはソ連だった ~ ノモンハン事件

スターリンは日本軍の強さに震え上がった。

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  昭和14年(1939年)5月に勃発した満州とモンゴルの国境紛争「ノモンハン事件」は日本軍の惨敗と言われていましたが、ソ連崩壊後の資料によると実際はソ連軍は大打撃を受けており日本軍の敢闘が浮き彫りになりました。ソ連は外蒙古の支配力を強化し、国境紛争を起こし、日満軍に一撃を与え、西の憂いを無くし、東欧へ進攻する予定でした。モスクワの陸軍駐在武官の土居明夫大佐は6月中旬に関東軍首脳へ
「これは単なる国境紛争ではない」進言しています。

「英仏とソ連が一緒になってドイツと戦う時のために、極東で関東軍が手を出さないよう一度徹底的に叩いておくというのが、スターリンの狙いではないか」

  しかも土居大佐は帰国の途上、シベリアで目撃した棒大なソ連軍の東送を伝え、
「だから関東軍は全軍をあげて戦う準備をすべきだ」進言しています。

  ソ連は日本軍があまりにも強いので顔色を失い、大軍を集結させ、8月20日には大反攻作戦を展開します。そして日本側を驚かせる出来事が発生します。8月23日、独ソ不可侵条約が発表されたのです。スターリンは8月15日にはドイツに停戦の仲介を依頼しており、日本軍との戦闘拡大を食い止めるため、ドイツに譲歩したのです。ところが日本側はソ連が東への進攻を強化するのではないか、と疑念を抱いてしまいました。このあたりが日本外交、情報力の弱さでしょう。

  8月20日からのソ連軍の大攻勢に日本第二十三師団は壊滅状態となりました。そして関東軍は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団を動員し、9月上旬大反撃を企図しました。スターリンには日本軍が10個師団を増強するとの情報が入っていました。これは満州有事の際に内地、朝鮮、支那から約10個師団を集めて決戦する、という日本軍の構想がソ連側に漏れていたと思われます。ソ連のボロジェイキン少将は
「日本軍は十個師団を集結中で補給線は日本は有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測し、スターリンは1個師団でも大変なのに10個師団も来られてはと震え上がります。

  8月28日、平沼内閣は日独軍事同盟の締結交渉を進めていましたが独ソ不可侵条約に驚き、
「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職しました。

  8月31日、大本営からの大陸命が届き、関東軍は大反攻作戦へ向けて沸き立ちます。
  9月1日、ドイツがポーランド進攻を開始。
  9月3日、突然、大本営は関東軍に対して掌を返すような隠忍自重の命を出したのです。そして9月7日に関東軍の植田大将以下が更迭となりました。逆にこの情報をキャッチしたソ連は日本軍の大反撃が始まる前触れと思い、10日にはソ連モトロフ外相が原状回復の条件を東郷茂徳大使に提示しました。
  9月14日、東郷大使は最終案を提示し、これを飲まねば停戦しない、と通告。
  9月15日、ソ連は受諾し停戦となります。

  9月17日、ソ連はポーランドへ侵攻。モスクワの土居大佐はラジオ放送を聴いて腰をぬかしました。ここで初めてノモンハンの停戦を強く望んでいたのはソ連のほうだったということを知ったのです。土居大佐は
「こんなことならもう2,3日粘っていれば・・・まんまと騙された」と述べています。

  日本は情報収集力、情報分析力、外交力において大きく遅れをとっていたのです。歴史を見て反省し、将来に活用するのであれば、こういう点でありましょう。
「ノモンハン戦は意味のない領地の奪い合い」「機械化部隊に歯が立たなかった」という誤った見方をしていたのでは意味のない反省しかできません。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
 歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
 モロトフ(左)とスターリン(右)  AUTH:Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum

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奮戦したフイ高地の井置支隊 ~ ノモンハン事件

フイ高地の悲劇。

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  昭和14年(1939年)5月に勃発した満州とモンゴルの国境紛争「ノモンハン事件」は日本軍の惨敗と言われていましたが、実はソ連軍は大打撃を受けており、有利な形で停戦に持ち込むため、8月20日よりソ・蒙軍は戦車、航空機、日本軍の3倍ともいう大兵力を結集し大攻勢に出ます。

  ノモンハンの北方のフイ高地は井置栄一中佐が率いる部隊が守備していました。ここにソ連軍が猛攻をかけてきます。ここを突破して日本軍の後方に回り込み、日本軍を包囲しようという作戦です。

  20日、ソ連戦車40~50輌が来襲。砲兵の射撃と火炎瓶で十数台を擱座させます。夜には火炎戦車を含めて襲撃してきますが、反撃し戦車2台と火炎戦車を全部破壊しました。

  ソ連側資料
「第七装甲車両団と第601狙撃連隊は強固な築城陣地フイ高地で、阻止され、行進しつつ占領することが出来なくなった。フイ高地の日本兵はソ連軍の攻撃を撃退し、この戦闘で狙撃連隊長のスダク少佐は英雄的戦死をした」

  21日には井置支隊の陣地に一分間に120発の砲弾が降り注ぎ、散兵壕が崩壊します。そして戦車群と狙撃兵が陣地に入ろうとしますが、連隊砲で撃退。再び戦車と狙撃兵が来襲し、手榴弾戦になるも撃退。22日は敵砲弾が1秒間に3発も降り注ぎ、野砲が全滅してしまいました。
  ソ連は22日になって精鋭の第212空挺旅団を投入。このソ連兵は他の兵のように白兵戦でひるむことなく、日本軍兵士が死守する岩の裂け目や塹壕陣地に肉薄し、手榴弾を投げつけ、火炎放射器による支援を受けながら飛び込んできました。

  水の補給がままならない井置支隊は渇きに苦しみながらもソ連空挺部隊の攻撃を何度も撃退しました。この井置支隊の奮戦ぶりをみたソ連側は井置中佐を英雄視し、やっとのことで井置支隊の抵抗を破ったありさまをソ連のシーシキンという人が次のように述べています。

「・・・フイ高地の戦闘は続行していた。日本軍守備隊は、全面を封鎖されながらもすべての攻撃を撃退しつづけた。・・・8月23日の終わりになってやっと、第212落下傘旅団の追加支援を受けた北面軍諸部隊によって、敵の抵抗を破った。日本兵は手榴弾と銃剣を持って、文字通りすべての壕から叩き出さねばならなかった。一人として捕虜にならなかった。戦闘後、塹壕と掩蔽(えんぺい)部から、600以上の日本軍将兵の死体ひきずり出された」

  600以上の日本兵というのは誇張で、25日までの井置支隊の戦死・行方不明203名です。井置支隊の269名は補給が断たれ弾薬も水も食糧もない状態になっていきました。通信機も破壊され、連絡もとれず、23日夜にはフイ高地うちの西面一帯が制圧され全滅を覚悟。24日井置支隊長は「いつの日にか戦うことを期して生き残るため、残存兵力の消耗を防ぐ」と決意し、25日未明、ソ連軍が立ち去った後、高地を脱出して一人の犠牲者もださず本隊に到着しました。この頃の日本軍は戦力がなくなったら突撃し、白兵戦で活路を見出したり、隊長は責任を感じ自決したりしていましたが、井置支隊長は自決を図って周囲に止められ、自決できませんでした。

  井置支隊長の判断は合理的ではありましたが、これは命令によらない無断撤退として罪を問われ、停戦協定後の9月16日に井置中佐はピストル自殺してしまいます。これは小松原師団長から自決勧告が出たと言われていますが、これは違法で強制力はありません。師団長については責任回避との批判があります。また辻参謀(?)が毎日のように自決を説得させたとの説もあります。小松原師団長はノモンハン停戦後の11月に井置家を訪問し、遺骨に手をあわせて男泣きに泣きました。そして翌年、胃がんで死去しました。自決との説もあります。




参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
参考サイト
  Wikipedia「辻政信」

添付画像
  塹壕から敵陣を狙う部隊 歴史街道2011.05より

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ソ連軍大反撃 ~ ノモンハン事件

日本軍はソ連機械化部隊を撃破。そしてソ連の大反撃が始まった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に全く歯が立たなかったというのは真っ赤な嘘であり、ソ連戦車、装甲車を破壊しまくりました。史上初の戦車による夜襲を行い、ソ連に大打撃を与え、運動性能に優れた九七式戦闘機はソ連機を圧倒しました。

  ソ連は日本・満州に一撃を与え、安全を確保し、東欧ポーランドに攻め込む予定でしたから、予想外に強い日本軍に顔色を失い、焦ります。日本に潜入していたゾルゲ諜報団は関東軍が8月24日に総攻撃に出るという情報を掴みモスクワに知らせ、
「日本軍の先手をとり、あとくされのないよう徹底的に叩くべき」と進言しました。そしてソ連軍は8月20日に大攻勢に出ることになります。

  ソ連軍ジューコフ司令官は大攻勢をかけるための補給に苦心します。鉄道の最寄り駅ボルジャからノモンハンまで650キロもある未舗装道路しかなく、地形的条件でいえば日本軍より3倍は困難でした。日本側もソ連の輸送能力から考えて1個師団ぐらいの展開しかできないと考えていました。ジューコフ司令官はソ連国内からトラックをかき集め、大輸送を展開し、日本側に見破られないよう盛んに航空作戦を展開し、偽装電波を流します。輸送には荷馬車まで使われたのではないかと言われています。そして日本側をはるかに上回る大兵力と物資を集結させました。関東軍参謀の辻政信中佐は
「まさかあのような大兵力を外蒙の草原に展開できるとは夢にも思わなかった」と回想しています。

  8月20日、ソ連軍は3方面から作戦を展開します。北方面フイ高地の井置支隊は奮戦するものの、22日に突破され、ソ連軍はノモンハーニー・ブルドー・オボーへ進出。日本軍は包囲されます。正面、南側ともに激しい砲撃を受け、歩兵71連隊、72連隊が壊滅。野戦重砲第一連隊も背後から攻撃を受け陣地が蹂躙されました。ノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊も全滅しました。

  ソ連軍は戦い方を変えてきており、火炎瓶攻撃にやられないよう戦車のエンジン部分にネットをはったり、速射砲にやられないよう、1000メートル地点から射撃し、戦車の後ろに狙撃兵を配置し、肉薄する日本兵を狙撃しました。そして歩兵攻撃と連携して前進してくるようになりました。

  3倍の敵を相手に、それでも日本将兵は奮戦しました。絶望的な状況下でも敢闘精神を失わない日本将兵との戦いはソ連兵にとっては悪夢そのものでした。しかし、日本将兵も心理面で崩れて、退却してしまう前線もあり、師団司令部へ40名ほどの将兵がなだれを打って退却する場面がありました。

退却してきた将校
「(辻)参謀殿!右第一線は全滅しました」

辻参謀
「何ッ。お前達が生きているじゃないか。何が全滅かッ。旅団長や連隊長や軍旗をほったらかして、それでも日本の軍人かッ」

  辻参謀はこの後、旅団救出に向かいます。27日夜、第二十三師団小松原中将は自ら手兵を率いて、バルシャガル高地、ハイラスティン河両岸で陣地を固守している歩兵砲兵部隊の救出を企図しました。

  小松原師団長訓示
「師団はこれら(前線)の部隊と連絡し、もって防衛組織を確立せんとす。その任務は重大にして困難なり。ただ全隊一つになり、決死の精神をもってこれを達成すべし。予も死を覚悟す。諸子も予と同心となり、崇高なる犠牲精神に依りこの任務を完うすべし」

  師団本部は二日二晩陣地に拠って奮戦し、30日夜、最後の突撃を準備中「突破帰還すべし」の軍命令を受領。師団長自ら先頭に立ち、軍刀を抜き5回の突撃により敵の重囲を突破し帰還しました。第二十三師団の生き残りの将兵は将軍廟に集結。師団は戦力を消耗し尽くしましが、今度は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団による日本軍大攻勢が予定されました。ところが、これは突然中止となったのです。そして後世、第二十三師団の損耗だけつままれ、ソ連が大量の戦車、装甲車を出動させていたことから、「機械化部隊に歯が立たず惨敗」という東京裁判史観にもとずく神話が作られました。



参考文献
  歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)

添付画像
  小松原師団長と小林歩兵団長、中は田中直一副官、ノロ高地にて 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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人命軽視のソ連軍 ~ ノモンハン事件

日本軍のほうがはるかに人命を重んじていた。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。

  関東軍参謀の辻政信中佐は5月30日、山縣支隊本部に到着するとソ連軍の焼けた装甲車に出くわします。中には運転手らしい者の黒こげ死体が見えました。
「どうして飛び出さなかったのだろう」と、怖いもの見たさで除いてみると、死体の両足首に太い鉄鎖(てっさ)を巻きつけて車体に縛られていたのでした。運転手はモンゴル人のようです。

  ノモンハン事件で国境の河を越してきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却して来る味方の部隊を火炎放射器で焼き払ったという目撃談があります。またソ連軍は退却しても5,6百メートル手前で停止したというのもあります。督戦隊がいたのです。ノモンハンに参加した日本兵の証言には以下のようなものがあります。

「破壊された装甲車を見ると、外蒙古兵が足首を鎖で縛られて逃げられない状態だった」

「外蒙古兵は高い木の上に縛られ、葉のしげみから小銃を撃って来た」

「ソ連軍は戦車に外から錠をして逃げられないようにした」

「蒙古ラマ僧侶に銃を持たせた」


  ソ連はウクライナの農民を拉致したり、総合演習として称して戦地に送り込んでいました。こういう兵は士気が低い。なので、退却、逃亡させないために督戦隊を配備していたのです。督戦隊は退却、逃亡する兵士を処分する役目を持っています。ソ連兵は無理にでも前進して日本軍に接近し、手榴弾を投げると日本兵が突撃してきてます。銃剣術を知らないソ連兵は串刺しにされ、恐怖のあまり逃げると督戦隊に銃撃されるか、焼き殺されるわけです。

  これは当時、ソ連だけでなくアメリカはフィリピン兵、イギリスはインド兵に対しても同じような扱いをしています。支那軍でも各地で拉致した若者を集めて軍を編成してトーチカの中に鎖でしばって死ぬまで撃ちつづけるようにしています。

  田中克彦「ノモンハン戦争」によると
「ソ連軍は兵士に対して戦争目的を友邦モンゴルを日本帝国主義の侵略から守ると掲げて徹底していた」と書かれていますが、拉致された兵士がソ連が掲げる目的を理解していたとは思えず、正規兵にいたっても捕虜になれば家族、子孫まで処罰の対象となるため恐怖のため戦っていたのでしょう。それに対して日本軍は督戦隊のようなものはなく皇軍として統制がとれていました。
  田中克彦氏のいうソ連軍は崇高な使命で戦っていて日本軍は目的が分からず上層部の指令で動いていた、日本軍は命を粗末にしたというのが戦後の東京裁判史観であり、そこから抜け出せない歴史家は戦車の中で鎖でつながれたソ連兵士を
「シートベルトだった」と解釈している人までいます。素直に見れば人命軽視はソ連軍であり米軍も英軍も支那軍も同じであり、相対的に日本軍のほうが人命を大切にしていると言えるでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)

添付画像
  鹵獲したソ連装甲車上は歩26秋野英二少尉 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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空戦は圧勝だったのか ~ ノモンハン事件

ノモンハンで空戦は圧勝だったと伝えられてが、本当にそうだったのか。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たず惨敗したというのは大嘘ですが、空戦では圧勝だったと言われています。

  ソ連機の被害:約1,200機
  日本機の被害:約  120機

  ソ連機の被害はかなり誇張されており、ソ連の損失は280機程度、日本側は179機・・・このあたりが妥当と思われます。数字から見ると圧勝とはいいきれません。

  最初の空戦は5月22日、哨戒行動中の松村戦隊3機が、敵の10機と交戦し、3機を撃墜しました。野口雄二郎大佐率いるハルピンの通称・稲妻戦隊、飛行第11戦隊に応急派兵が命じられ、第一中隊(島田健二中隊長)、第三中隊(藤田隆中隊長)がハイラルに移動し、松村部隊と共同で哨戒にあたることになりました。

  5月27日、28日、ホロンボイル草原上空で日ソの激しい空中戦が展開されます。稲妻戦隊と松村戦隊は51機を撃墜。味方の被害は1機のみで乗組員は無事という完全勝利でした。このためソ連側は日本の飛行機を見たら逃げるように指導し、専ら日本機のいないときに地上攻撃するようになります。

  阿部武彦中尉
「ソ連機が1段50機の3段構え、合計150機で来ても日本機が数機ではダメだが、20機も行けば逃げた」

  日本航空隊が圧倒的に強かったのは日本の九七式戦闘機がソ連I-16に比べて格段に運動性能がよかった点があります。もう一つは日本軍パイロットは練度が高かったのに比べ、ソ連軍パイロットは全くの訓練不足で、ソ連軍パイロットのボロジェイキンは
「年間八時間程度に過ぎない飛行訓練」という信じがたい指摘をしています。

  6月には陸軍中最古の伝統を誇る飛行第一戦隊、加藤敏雄戦隊長がハイラルに移動してきました。6月22日には大規模な空戦が繰り広げられます。このときは以前のソ連機よりも質、量ともに変わっていました。特に質では実戦経験のある”英雄"パイロットを投入しはじめたのです。それでも松村部隊は100機近い敵と交戦し、半数近くを撃墜しました。しかし、味方も4名の戦死者を出してしまいました。

  6月27日にはタムスクを空襲し、第一中隊の篠原准尉は敵編隊の中に飛び込んで11機を撃墜するという離れ技を演じました。この戦いぶりから新選組の「近藤勇」の異名をとることになります。篠原准尉はトータル58機を撃墜し、トップエースとなり、8月27日に壮烈な戦死を遂げました。

  序盤から中盤まで日本航空隊の圧倒的優位も、ソ連軍のベテランパイロットの投入と数にものをいわせる作戦に少数精鋭の日本部隊も徐々に消耗していきます。またソ連はI-16に防弾板を装備するなどしたので、九七戦闘機の7.7ミリ機関砲ではなかなか撃墜できなくなりました。さらに新たに投入したパイロットが初陣で撃墜されるなどの損害も広がっていきました。生き残った第11戦隊・第二中隊の瀧山中尉はノモンハンで126回も出撃し、後に
「前期は勝利、中期は五分五分、後期は苦戦」と語っており、数字には表れない現場の実感が伝わってきます。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「二日間で敵五十一機を撃墜!稲妻戦隊と荒鷲たちの激闘の日々」山之口洋
                「空戦66回!野武士戦隊の戦いの中から得たもの」瀧山和

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  第十一戦隊の兄弟部隊、第二十四戦隊の基地 歴史街道2011.05より

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ハルハ河を渡河せよ ~ ノモンハン事件

ノモンハンは負け戦ではなかった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連機械化部隊に歯が立たず大敗北したというのは大嘘で、ソ連側の損害は日本のそれを上回っており、日本軍の大健闘だったことがわかっています。

  6月27日、日本飛行集団を総力を挙げて、国境から百数十キロ入ったタムスク飛行場を空襲しました。これでソ連軍は委縮し、空の脅威が一時的になくなりました。日本軍はハルハ河渡河攻撃を練っており、関東軍参謀・辻
政信中佐は偵察機を飛ばさせ、対岸が堅固な陣地ではなく、単に戦車の入る掩壕(えんごう)が蜂の巣のように作られていることを確認します。

  7月1日、夜間に日本軍は行動開始。第二十三師団主力の小林支隊は翌正午ごろ、フイ高地に到着。このとき先頭に敵砲弾が落下し、小林少将は乗っていた馬に一鞭あて、先方の高地に駆け上がり、「命令受領者、前へ」と命じながら双眼鏡をとって自ら敵陣地を偵察し、現地を指さして、各部隊に攻撃命令を下命しました。この結果、敵戦車を撃退し、フイ高地の一角を占領しました。

  日本軍は夜間、ハルハ河を渡河します。この日本軍の渡河にはソ連側は驚愕します。西岸では安岡支隊がソ連軍を攻撃しており、ソ連狙撃連隊と装甲車旅団が大損害を受けており、こちらの救援にやっきになっていたのです。司令官のジューコフは焦り、航空機による爆撃を命じ、できる限りの戦力を集め、迎撃に向かわせましたが、歩兵戦力が著しく不足しており、戦車単独の攻撃となります。史上初の戦車の大群と歩兵・砲兵の対決となったのです。

  日本軍先頭部隊がハラ高地に到着すると前方に戦車、装甲車の大群が見て取れます。その数は約200輌。日本軍は射程400メートルまで戦車をひきつけ、速射砲で応戦。装甲車に対しては重機関銃による集中射撃で応戦しました。ソ連戦車、装甲車は次々炎上。あまりの見事さに関東軍参謀・辻
政信中佐は兵に何か褒美をやろうと考えましたが、何もないので恩腸(おんし)のタバコを分け与えました。このタバコは宮内庁だけに納入される市販されてないもので、皇室を表す菊花紋章が入ったものです。兵たちは機関銃弾や砲弾が絶え間なく飛んでくる中でゆっくり吸いおわりましが、吸い殻をもったいなさそうにいじっていました。分隊長はそれに気づき、「おい、皆、吸い殻をポケットに入れてお守りにせよ!」と叫び、兵たちは吸い殻をポケットに入れ、再び突進してきた新手の戦車の第二派に、また必中弾を浴びせました。

  この戦闘は「戦車狩り」と言われ、砲兵と重機関銃がソ連戦車を撃破するのを見守っていた歩兵たちの間から「万歳!」の歓声が何度も沸き起こりました。砲兵が撃ち漏らしたソ連戦車は40~50メートル接近したところで、歩兵や工兵たちの手によって火炎瓶や地雷によって破壊されました。中にはBT戦車の砲塔に飛びついてハッチをこじ開け、手りゅう弾を放り込んだり、銃剣や軍刀で乗員を突き刺して擱座(かくざ)させる猛者までいました。7月3日までに100輌程度を破壊し、その情景は日本側の多くの戦記で次のように伝えられています。


「まるで八幡製鉄所をはじめとする工業地帯の煙突からたなびく煙のように、多数炎上した戦車からの煙が空にたなびいていた」

  日本軍は補給がただ一本の橋梁によらなければならなく、弾薬も残り少なくなったため、これ以上の戦果は期待できないという判断からハルハ河東岸に引き上げることに決定します。安達大隊が取り残され包囲されるというハプニングがありましたが、夜襲をかけて救出し、日本軍は7月5日には東岸へ引き揚げました。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
 産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
 ハルハ河工兵橋 「ノモンハン事件の真相と戦果」より

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史上初、戦車による夜襲敢行 ~ ノモンハン事件

当時、戦車による夜襲は考えられなかった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。

  関東軍所属第一戦車団の戦車第三、第四連隊は6月20日、ノモンハン地区への出動命令を受領しました。そして安岡正臣中将を隊長とし、歩兵、砲兵を加えた安岡支隊を編成します。

  7月2日、攻撃開始。安岡支隊はバルシャガル高地南西のホルステン河とハルハ河の合流地点「川又」地区へ向けて攻勢をかけます。吉丸清武大佐率いる戦車第三連隊はハルハ河に沿って進み、玉田美郎大佐率いる戦車第四連隊は右翼で肩を並べて進撃。しかし、歩兵は既に灼熱の中、長距離行軍した疲れもあり、戦車との共同攻撃に追随できず、戦線後方に取り残されがちでした。また、ソ連軍のハルハ河西岸の銃砲や前進方向の野砲、対戦車砲を浴びせられ次第に前進が困難となりました。

  玉田連隊長は戦局打破のためには戦車第四連隊による夜襲しかないと考えました。

「連隊長としては、夜襲しようと考えるが、各人の意見はどうか」

  当然、すべての中隊長の反対にあいました。戦車というのは視界が悪く、夜に走らせて攻撃するのは無謀であり、しかも地理、地形がよくわかっていない場所です。夜襲の研究も訓練も行っていないし、連隊で夜襲かけるなど前例もありませんでした。しかし、玉田連隊長は強い決意で夜襲を敢行します。

  前進開始から30分すると激しい雷雨が周辺地帯を襲いました。この雨が戦車のエンジンの音をかきけしました。雨はちょうど戦車隊がソ連軍の前哨陣地に到着したあたりでやみました。稲妻に照らし出された日本戦車にソ連兵は驚愕しました。日本軍九五式軽戦車は車載機銃や37ミリ戦車砲を撃ちまくり、停車していたトラックや陣地に張られていた天幕を次々炎上させ、多くの火砲をキャタピラで踏みにじりました。救援にかけつけたソ連BT戦車やBA-6装甲車を集中砲火で撃破しました。大成功です。

  玉田連隊長
「敵はわが猛撃に周章狼狽して射撃もできず、肉薄攻撃してくるものも一人もいない。わが戦車は敵を追いまわし、射撃し蹂躙した。逃げ遅れて壕あるいは砲下のしたに隠れる者は機関銃、拳銃をもって射殺した。戦車をもって砲架に乗り上げ、または体当たりで砲をひっくりかえし、あるいは縦横無尽に暴れまわり、対しては至近弾をぶっ放すので敵はたちまち敗退し暗中に逃れ去った」

  残念ながら戦車隊は歩兵を伴っていなかったため、陣地確保はできず、その後の戦果拡大にはつながりませんでしたが、ソ連側に大打撃を与えました。

  俗説ではノモンハン事件で日本戦車はソ連戦車にかなわなかった、日本戦車隊は敗退した、と言われてきましたが、全くのウソです。日本戦車は小隊ごとのフォーメーションをとった連携ぶりが際立ち、相互に火力支援を行うことによりソ連装甲車両や対戦車砲を討ち取っていました。非常に高い水準の練度を有していたのです。

  この後、関東軍は戦車隊が消耗すると今後、戦車部隊を育てる芽を失うと懸念したため7月中旬ごろ戦車隊を戦線から引き揚げさせます。このことも戦後のウソ作りに使われたようです。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「世界初、雷雨を衝く夜襲!敵戦線を崩壊させた戦車第四連隊の奇策」古是三春


添付画像
  ハルハ河地区で休息中の戦車第三連隊 歴史街道2011.05

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ソ連機械化部隊を撃破 ~ ノモンハン事件

ソ連の機械化に歯が立たなかったというのは誤りだった。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月の戦闘を第一次ノモンハン事件といい、日本側の損失は290名、ソ連側は推定600名でした。ソ連ではフェクレンコ司令官が解任され、ジューコフが司令官となりました。6月から9月を第二次ノモンハン事件といいます。

  ノモンハンの日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たなかったと言われてきましたが、それはウソでした。ソ連機械化部隊は大損害を受けていたのです。

  6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場を爆撃。不拡大方針の大本営は驚き、これより飛行制限するよう命令が発せられます。

  7月2日に日本軍はハルハ河を渡り、ソ連戦車団と大激戦を繰り広げます。ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、速射砲でしとめ、装甲車などは13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来ました。そればかりか、たまたま日本のトラックが戦車に追われたとき、荷台のガソリン缶を落としたら戦車に当たり燃え出したことから、火炎瓶でも軽く炎上することがわかります。そして日本歩兵がガソリンを入れたビンを熱いエンジンにぶつけて炎上させました。戦車はそもそも視界が悪く、ソ連戦車団は走行射撃の技術がないため、火炎瓶攻撃の餌食になりました。

  三輪義男伍長
「日本の速射砲はよく当たりますね。威力があると思いましたよ。撃った弾は全部命中したように思います。パっと火が見えたと思うと黒い煙が上がる。弾が戦車に命中したのが見えますからね。ほとんどやっつけたように思います。」

  前田義夫軍曹
「速射砲は秘密兵器でしたね。正式名は九四式三七対戦車砲と言ったと思いますが、一発づつ発射するものの、射手が熟練すると一分間に30発以上発射できるようになります・・・7月3日、台上の対戦車戦で見事な成果を上げたんです。40台以上のソ連軍戦車を沈めたんです。うちの速射砲中隊ですよ」

  辻政信 ノモンハン秘史
「次々に必中弾が浴びせられ、合計7両を約10分間に炎上させた。10発の弾である・・・約半数をやられた敵は、我が陣地に突入することなく、反転して退却した」

  しかもソ連軍は戦車団の先頭に指揮官が乗っていたため、これをやっつけるとあとは、司令塔を失い、右往左往するので、装甲の薄い側面を見せはじめ、こうなると速射砲の独壇場になったと日本兵士が語っています。最終的にソ連の戦車は800台以上破壊されました。

  ソ連側の記録ではBT戦車などの装甲車両の損失の多くは速射砲や九ニ式七センチ歩兵砲、その他の七五ミリ口径の山砲や野砲による直接照準によるものが主で、その次に日本歩兵・工兵の肉薄攻撃に用いられた地雷や火炎瓶によるものとされています。

  ノモンハン戦の記録についてソ連側の公式発表は誇張や捏造が多いようで、これは良い戦果をあげられないと粛清の対象になる恐怖から戦果を捏造したと考えられます。日本側も情報不足で大敗したと錯覚したようですが、実際にはソ連軍7万7千(23万とも)に対して関東軍3万で互角以上でした。大東亜戦争終戦後も戦前全否定、日本軍否定の中、東京裁判史観を持つ蛸壺歴史学者たちが事実を無視して日本軍大敗論、機械化部隊に歯が立たなかった、と語り継いでいったのでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
  安岡支隊の首脳部。右から安岡中将、砲兵隊の将校(後ろ向き、玉田部隊長、吉丸部隊長、山縣部隊長(後ろ向き鉄甲) 歴史街道2011.05より

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太陽の先生と呼ばれた東中佐 ~ ノモンハン事件

日本はナラン・オルシス(太陽の国)と呼ばれていた。

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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月11日から6月中旬までを第一次ノモンハン事件といいます。

  5月14日、外蒙古軍による越境があり、満州国軍が撃退しましたが、翌日以降も外蒙古軍が越境攻撃してくるので、第23師団長・小松原中将は東八百蔵中佐を隊長とする捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)を派遣しました。東捜索隊が現地に到着すると外蒙古軍は退却しましたが、東捜索隊が引き揚げるとソ蒙軍は再び越境。21日、山縣大佐率いる歩兵第64連隊に攻撃命令が下り、27日夜半より攻撃にでます。東捜索隊は敵陣後方へ回り込みました。

  28日、山縣連隊は敵第一線陣地を奪い、ハルハ河の橋梁方面に進出しようとしましたが、ハルハ河左岸からソ連軍が砲撃してきて、戦況が進まなくなり、敵陣深く侵入した東捜索隊と連絡がとれなくなりました。

  関東軍参謀の辻政信参謀はノモンハンに到着すると東捜索隊危急を知り、30日、山縣隊の本部へ行きます。しかし、東捜索隊の消息がわかりません。夜間になり山縣連隊が前進し、遂に東隊を見つけました。全滅です。周りにはおびただしい敵戦車の轍痕(てっこん)があり、死体は半数以上は焼かれていました。火炎放射の戦車か死傷者にガソリンをかけて焼いたものでした。

辻参謀
「三人で一人の屍を担げ、手ぶらのものはかえってはならぬ。一つの死体を残しても皇軍の恥だぞ」(※1)

  山縣隊700名は約200の死体を担ぎ陣地へ戻りました。

  東捜索隊29日夕刻に全滅していました。生き残った池田軍医中尉の目撃談では東中佐らは最後19名ほどになり敵に包囲され、突撃攻撃を試みました。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れました。これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまいました。池田軍医は日没を待って負傷者に後退を命じて離脱しました。

  東中佐の戦死は山縣連隊長が砲隊鏡で目撃しており、東捜索隊の鬼塚軍曹が山縣隊に伝令に来たときにそれを聞いています。鬼塚軍曹は「砲隊鏡で見えるほどのほんの2キロくらいの距離なんです」と語っており、辻参謀が「(山縣)連隊長に東部隊の戦況を聞いたが何もわかっていない」と語っているのは不思議です。生き残った東捜索隊の兵士たちは山縣連隊を呪ったといいます。
  東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と呼ばれていました。日本兵捕虜から聞いたのだと思います。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいたそうです。モンゴル人が日本をどう思っていたか垣間見ることができます。

  平成2年(1990年)にノモンハンの戦場で慰霊が行われ、そのとき東中佐の三女の方が出席しました。同行していた言語学者の田中克彦氏はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していったそうです。



※1 辻参謀は遺体収容には参加していないという証言がある。

参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
添付画像
  最大の戦闘となったノモンハン事件中のソ連軍(PD)

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日ソ、ノモンハンで激突

ついにソ連が仕掛けてきた。ノモンハン事件。

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  昭和13年(1938年)、外蒙古(モンゴル)から満州国へ166件の越境事件が起こました。昭和14年(1939年)に入ると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。

  同年5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃してきました。いわゆるノモンハン事件のスタートです。5月11日、外蒙古軍がが越境、これを満州国軍が撃退。15日、東捜索隊が現地到着し、ノロ高地のソ・モ軍を追い払いました。渡河退却中の外蒙古軍を軽爆撃機で爆撃。17日、東捜索隊はハイラルに帰還しますが、捕虜の尋問からソ・モ軍がハルハ河右岸に集結したとの情報を得て1,600の日満軍が出動します。ソ連のスターリンが外蒙古制圧と日本に一撃を与えて東欧に進出するために国境紛争を起こしたのです。

  これまでノモンハン事件で日本軍はソ連の機械化部隊の前に歯が立たなかったと言われてきましたが、ソ連の主力BT-5快速戦車の最大装甲は公式には13ミリで、前面11ミリ、側面では6ミリであり、日本軍は速射砲で破壊しまくりました。「一千メートル以内に入れば日本軍の速射砲は百発百中だった」(軍曹 前田義夫氏)。BA-6装甲車にいたっては最大装甲が8ミリで、13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来できました。しかもソ連戦車団は走行しながら砲撃する技術を持っておらず、当初は戦車に歩兵を随伴していなかったため、視界の悪い「鉄の棺おけ」状態でした。日本兵は容易に接近し、戦車に上り、戦車砲や機関銃を打撃して、照準を狂わせ使用不能にしたり、火炎瓶攻撃で破壊しました。

  航空機戦でもソ連軍は燦々たるものでした。日本側の主力は九十七式戦闘機、ソ連はI-16タイプ10戦闘機でした、運動性能は日本機が圧倒しており、しかもソ連軍パイロットは実戦経験が皆無な上、全くの訓練不足でした。

  歩兵64連隊 牧山重信氏
「5月28日、丁度11時、ふと空をみると驚いた。数十台の飛行機が戦闘を開始している。もの凄い空中戦。次々とソ連機が撃墜され、日本機が敵機を追いかける。四十数機の撃墜はこの時の大戦果。全く胸のすくような空中戦であった」

  5月31日までソ連機180機を落とし(※1)、日本側損失は0(あるいは7機)。ソ連機は当初、日本機に全く歯が立たず、
「日本の航空機を見たら逃げろ」と、戦闘禁止命令まで出てしまいます。ソ連側は6月中旬になってようやく実践経験のあるベテランパイロットを投入し始めています。

  ソ連は司令官のフェクレンコ中将を更迭し、ジューコフ中将を司令官にします。このジューコフ中将は後にモスクワ防衛司令官となり、スターリングラードでドイツ軍と戦い、対ドイツ戦で逆転し、ベルリンを占領した軍人です。戦後、米国ミシガン州大学のハケット教授や新聞記者や歴史学者と会談した時、どの戦いが一番苦しかったかとの質問に即座に
「ハルハ河(ノモンハン事件のこと)」と答えて周囲を驚かせ、日本軍の精強さを改めて知ったそうです。


(※1)日本側記録だが、かなり誇張された数字と思われる。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  産経新聞社出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  歴史街道2011.5「二日間で敵五十一機を撃墜!稲妻戦隊と荒鷲たちの激闘の日々」山之口洋

添付画像
  撃破されたソ連軍のBA-10中装甲車(PD)

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