加藤隼戦闘隊の終戦
加藤隼戦闘隊の生き残りは敗戦に何を感じ、戦後、何を思って生きたのか。
昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。加藤隼戦闘隊の生き残り、鉄脚のエースと呼ばれ義足をつけて空にあがった檜與平少佐は愛知県の小牧飛行場で「終戦の詔勅」を聞きます。檜少佐は航空帽を廊下に叩きつけました。航空眼鏡が微塵に砕けて散りました。
檜少佐
「なんのための戦いだ。なんのために払われた犠牲だ。とうとい血汐を流した数十万の将兵は、なんのためなんだ」
檜少佐の胸にはやるだけやった、戦うだけ戦った、という思いが体を駆け巡りました。しかし得体の知れない虚しさが残りました。加藤建夫戦隊長の顔、安間大尉の顔、遠藤中尉の顔、一人っ子の黒沢大尉の顔、顔、顔、が浮かんできます。檜少佐は万斛(ばんこく)の涙をのんで、小牧飛行場の一角に立ち尽くしました。。
陸軍飛行第六十四戦隊、通称加藤隼戦闘隊は南部仏印クラコール飛行場で終戦を迎えました。隼三型18機が残り、8月24日、全機が最後の場周飛行を行い、部隊の歴史に終止符を打ちました。第六十四戦隊の感状は合計9回となりました。生き残った隊員のうち何名かは中華民国軍やベトミンに引き抜かれたといいます。
黒江保彦少佐は戦後は民間の航空会社にパイロットとして入社しました。昭和26年(1951年)から日本人のパイロットの操縦が許可されるようになると陸海軍のパイロットは民間の航空会社に返り咲いていました。黒江少佐もその一人でした。その後、航空自衛隊に入隊します。
安田義人准尉は健康を害し、榛名山麓で4年の闘病生活を送っていました。あるとき、新聞に黒江少佐がセスナ機で農薬散布をしている写真入りの記事が出ており、なつかしさで胸がいっぱいになりました。矢も盾もたまらぬ思いで手紙を書きます。そして返事がきました。その中に「近々空から見舞おう」と書かれていました。4、5日たち、午後三時頃、安田氏は入浴していると、耳を切るような超低空の爆音が聞こえてきます。
「来た!」
安田氏は裸のまま庭に飛び出しました。山谷を縫うようにして何度も急降下する鮮やかな操縦のセスナの飛行に隼の姿をダブらせ、失意の底にあった安田氏は勇気づけられました。
日本敗戦後、GHQ製の歴史が言論空間を支配し、戦争は悪、日本は悪、軍部は国民を騙した、特に陸軍は悪、軍人は悪、と言われてきました。そのような風潮の中、安田義人氏は自分の子供に戦争の話は多くは語らなかったといいます。戦争という物の熾烈さ、無残さ、空しさを含めて、よく真相を語りえなかったから、と述べています。そして著書「栄光 加藤隼戦闘隊」を記しました。そのあとがきには次のように記されています。
「祖国の栄光を信じ、遠くアラカンの山脈を越えてヒマラヤの峻峰を脚下に臨み、またインド洋の水平線のかなたで、容赦ない敵機の火箭(かせん)につばさ折れ弾丸つきて散った多くの空中戦士は、思えばすべて二十代の若鷲であった。その若鷲たちが、まなじりを決して敵機に立ち向かう勇気は、また戦争の無残さ、空しさとは別物である」
黒江保彦少佐は昭和40年(1965年)12月5日、悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死しました。部隊葬では加藤隼戦闘隊歌によって送られました。弟の豊氏は兄の墓参りに行き、線香をたてると兄から「おい、そんな線香ばかりとぼすな」と叱られるので、兄保彦が愛好していたタバコの「ホープ」に火をつけて、墓前の香炉に立ててあげたといいます。
エンジンの音 ゴオーゴオーと
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸にえがきし 赤鷲の
印はわれらが戦闘機
参考文献
光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」
添付画像
飛翔する一式戦一型(キ43-I)(PD)
ああ陸軍 隼戦闘隊
www.youtube.com/watch?v=srCG6TR0dtw
最近のコメント