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41.加藤隼戦闘隊

加藤隼戦闘隊の終戦

加藤隼戦闘隊の生き残りは敗戦に何を感じ、戦後、何を思って生きたのか。

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 昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。加藤隼戦闘隊の生き残り、鉄脚のエースと呼ばれ義足をつけて空にあがった檜與平少佐は愛知県の小牧飛行場で「終戦の詔勅」を聞きます。檜少佐は航空帽を廊下に叩きつけました。航空眼鏡が微塵に砕けて散りました。

 檜少佐
「なんのための戦いだ。なんのために払われた犠牲だ。とうとい血汐を流した数十万の将兵は、なんのためなんだ」

 檜少佐の胸にはやるだけやった、戦うだけ戦った、という思いが体を駆け巡りました。しかし得体の知れない虚しさが残りました。加藤建夫戦隊長の顔、安間大尉の顔、遠藤中尉の顔、一人っ子の黒沢大尉の顔、顔、顔、が浮かんできます。檜少佐は万斛(ばんこく)の涙をのんで、小牧飛行場の一角に立ち尽くしました。。

 陸軍飛行第六十四戦隊、通称加藤隼戦闘隊は南部仏印クラコール飛行場で終戦を迎えました。隼三型18機が残り、8月24日、全機が最後の場周飛行を行い、部隊の歴史に終止符を打ちました。第六十四戦隊の感状は合計9回となりました。生き残った隊員のうち何名かは中華民国軍やベトミンに引き抜かれたといいます。

 黒江保彦少佐は戦後は民間の航空会社にパイロットとして入社しました。昭和26年(1951年)から日本人のパイロットの操縦が許可されるようになると陸海軍のパイロットは民間の航空会社に返り咲いていました。黒江少佐もその一人でした。その後、航空自衛隊に入隊します。

 安田義人准尉は健康を害し、榛名山麓で4年の闘病生活を送っていました。あるとき、新聞に黒江少佐がセスナ機で農薬散布をしている写真入りの記事が出ており、なつかしさで胸がいっぱいになりました。矢も盾もたまらぬ思いで手紙を書きます。そして返事がきました。その中に「近々空から見舞おう」と書かれていました。4、5日たち、午後三時頃、安田氏は入浴していると、耳を切るような超低空の爆音が聞こえてきます。

「来た!」

安田氏は裸のまま庭に飛び出しました。山谷を縫うようにして何度も急降下する鮮やかな操縦のセスナの飛行に隼の姿をダブらせ、失意の底にあった安田氏は勇気づけられました。

 日本敗戦後、GHQ製の歴史が言論空間を支配し、戦争は悪、日本は悪、軍部は国民を騙した、特に陸軍は悪、軍人は悪、と言われてきました。そのような風潮の中、安田義人氏は自分の子供に戦争の話は多くは語らなかったといいます。戦争という物の熾烈さ、無残さ、空しさを含めて、よく真相を語りえなかったから、と述べています。そして著書「栄光 加藤隼戦闘隊」を記しました。そのあとがきには次のように記されています。

「祖国の栄光を信じ、遠くアラカンの山脈を越えてヒマラヤの峻峰を脚下に臨み、またインド洋の水平線のかなたで、容赦ない敵機の火箭(かせん)につばさ折れ弾丸つきて散った多くの空中戦士は、思えばすべて二十代の若鷲であった。その若鷲たちが、まなじりを決して敵機に立ち向かう勇気は、また戦争の無残さ、空しさとは別物である」

 黒江保彦少佐は昭和40年(1965年)12月5日、悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死しました。部隊葬では加藤隼戦闘隊歌によって送られました。弟の豊氏は兄の墓参りに行き、線香をたてると兄から「おい、そんな線香ばかりとぼすな」と叱られるので、兄保彦が愛好していたタバコの「ホープ」に火をつけて、墓前の香炉に立ててあげたといいます。

 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機


参考文献
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」

添付画像
 飛翔する一式戦一型(キ43-I)(PD)

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ああ陸軍 隼戦闘隊

www.youtube.com/watch?v=srCG6TR0dtw

鉄脚のエース、檜與平

義足を空にあげた加藤隼戦闘隊のエース。

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 陸軍飛行第六十四戦隊、通称加藤隼戦闘隊の檜與平と言えば、鉄脚のエースとして有名です。

 昭和18年(1943年)11月25日、ビルマのラングーンに敵機来襲の情報が入ります。ミンガラドンの加藤隼戦闘隊第三中隊4機が迎撃に向かいました。すると見たこともない単発の、頭の尖った飛行機が7機、ロッテ(2機ペアの戦術)を組んで飛んでいます。檜大尉、隅野中尉、木下准尉が計3機を撃墜したものの、高性能戦闘機の出現に警戒を強めました。P51ムスタング戦闘機が現れたのです。

 11月27日、ラングーンに敵戦爆連合約80機が来襲。加藤隼戦闘隊第三中隊8機が迎撃に向かいます。10対1の対決です。檜大尉機は前上方からバリバリ攻撃を仕掛けました。戦闘は海上までもつれ、檜中尉はP51ムスタングに照準を合わせます。後方より銃撃を加え1機撃墜、さらにB24に照準を合わせ撃墜。さらにもう1機に狙いを付けたとき、激しい衝撃を感じました。別のP51から下後方より狙い撃たれたのです。檜大尉の右足首がちぎれてしまいました。檜大尉は瀕死の状態で基地に帰還し、すぐ野戦病院へ運ばれました。

「お願いですから、私の足は切らないでください。足を切られては飛行機に乗れなくなるから・・・」

檜中尉の願いは虚しく足は切断されてしまいました。

 檜中尉は内地に戻ることになりました。羽田へ着くと、迎えに来るはずの自動車が来ていません。有楽町から電話して自動車をよこしてもらいましたが、「ご苦労です」と、運転手に声をかけても返事がありません。軍医学校へ着くと衛生兵が「背負いますよ」と馴れ馴れしい態度で接してきました。部屋は大部屋で外来患者が大勢いるところです。大尉といえども戦えなくなった兵にはこうも厳しいものか・・・しかし、昭和19年(1944年)3月に「加藤隼戦闘隊」の映画が封切られると病院内で檜大尉のことが話題になり連日の慰問攻めにあいました。

 檜大尉は義足をつけ、必死のリハビリを始めました。「もう一度空にあがる」の一念でした。義足をつけた箇所の皮膚は破れ痛みが激しくなり、再度手術することになります。治ってからまたリハビリのやり直しです。朝、義足を付けて歩くと患部が痛み、窓に寄りかかって踏み込む毎日でした。リハビリは続けられ、最後の仕上げで箱根湯本で訓練を行いました。そこには航空関係者の特別療養所がありましたが、檜大尉は当初入れてはもらえませんでした。もう空には上がれないと思われたのです。それを知った檜大尉は悔しくてたまりませんでした。

 昭和19年(1944年)11月27日、負傷して1年、檜大尉は恩賜の義足を装着し、軍服をまとい、軍刀を吊るし、立川の航空審査部に到着しました。そこで加藤隼戦闘隊にいた黒江保彦少佐に会いました。二人はかたく手を握り合い、目には熱いものがこみあげてきました。

 檜大尉は教官として明野教導飛行師団の勤務となります。三重の明野飛行場に着いた檜大尉はそこから97式戦闘機に載って高松へ向かいました。途中で垂直旋回、斜め宙返りを試します。義足の右足の踏ん張りが遅れると機体がすべります。2,3回やるうちに以前と変わりなく操縦できるようになりました。

「ついに飛行機に乗ったぞ!ジュラルミンの義足が空中へ上がったのだ!」

 昭和20年(1945年)7月16日10時頃、"敵小型編隊、伊勢湾に向かい北上中!"の情報が入ります。

「まわせ!」

 檜大尉の陸軍最新鋭五式戦闘機が飛び立ちました。敵機はあのP51ムスタングです。敵戦闘機との交戦は足をなくした日以来1年半ぶりでした。檜大尉機はP51にぐんぐん近づいていきました。あと100メートル、照準眼鏡を覗きます。「畜生!」、右足を突っ張ったつもりでも義足では微妙に自由がきかず、機体がすべり、これでは撃っても命中しません。50メートル、20メートル、これなら機体がすべっても命中間違いなし。ダダダダダ!P51は翼が吹き飛び落下していきました。加藤隼戦闘隊のエース復活、それも鉄脚のエース復活でした。



参考文献
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

添付画像
 檜與平 「歴史街道」2011.8より

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一式戦・隼を語る_檜與平(桧与平)エースパイロットの証言
www.youtube.com/watch?v=0yHlloZoUeM

加藤隼戦闘隊 VS B24

強敵、B24現る!

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 大東亜戦争の日本軍のビルマ進攻は援蒋ルートのビルマルートの遮断が目的の一つにありました。これに成功すると、英米はヒマラヤ越えの空輸ルートしかなくなってしまいます。インパール作戦のもととなった二十一号作戦はこのヒマラヤルートの遮断に主眼をおいていました。

 昭和17年(1942年)10月25日、加藤隼戦闘隊ら戦爆連合編隊百数十機がメイクテイラを離陸、チンスキアの敵飛行場を目指します。高度5500Mでアラカン山脈を越えるとヒマラヤ山脈を臨みながら爆撃と銃撃を行います。翌26日、28日も攻撃成功します。
 
 この頃から南方戦線が怪しくなり、各拠点から航空兵力が抜き取られて、加藤戦隊からも8名が転戦しています。そこへ持ってきて敵B-17ボーイング、B-24コンソリデーテッド大型機がやってきて、加藤隼戦闘隊は困難な戦闘を強いられることになります。隼は13ミリ機銃(ゼロ戦は20ミリ)ですので、命中してもB24はなかなか落ちず、エンジンが2発停止しても飛び続け、下方に銃座があるため死角がありません。加藤戦隊では西沢曹長が初撃墜し、上口伍長が体当たりで撃墜するなどしていますが、かなり手を焼きました。

 加藤隼戦闘隊は昭和17年5月の加藤建夫戦隊長戦死のあとは事実上、黒江保彦大尉が第64戦隊を指揮していました。なんとかB24に一矢報いなければとB24撃墜戦法を研究していました。
 11月23,23日とマグウエ、続いてメイクテーラ、トングーがB24の夜間攻撃によって被害を受けます。25日夜間、「ラングーン西方30キロ、敵機東進」の情報が入り、加藤隼戦闘隊は出撃します。
 黒江大尉はB17(24?)を捉えました。左下方から一連社を浴びせます。すると別の方角からもパパパと曳光弾がB17へ向かって放たれました。別の味方機がB17を狙っていたのです。安田曹長の機でした。※1 夜間ですので、味方機同士の空中衝突の危険があります。それでも黒江機は突進しました。まさに射撃を開始しようとしたとき、黒江機の前にポっと火の玉が投げられました、黒江機は急旋回して避けました。これは安田機が被弾したのでした。安田曹長は落下傘降下し、沼地に着地しました。火傷をおっていましたが、ビルマ人らが手厚く看護してくれました。

 翌、昭和18年もB24は悠々とやってきました。対する加藤隼戦闘隊の迎撃は精彩を欠きました。黒江大尉は搭乗員の士気のゆるみに気が付きましたが、責めることはせず、自らが模範を示すべきという結論に至りました。

「死のう、いさぎよくB24と刺し違えて、撃墜するか、撃墜されるか。これ以外に敵に勝つ方法はない。真っ先に勇気のほどを見せて、命を捨てよう。そうしてら、敵は必ず落ちる」

 5月入り、チッタゴン攻撃の途中、B24の12機編隊にバッタリ遭遇。黒江機は垂直攻撃を仕掛けB24に命中弾をあたえました。B24から一人、二人、三人と飛び出し、パラシュートが開きました。威圧するような巨体を持ち、火力に優れたB24といえども同じ人間が乗っているし、爆撃機にとって、戦闘機は脅威以外何ものでもない、ということに改めて気付いた黒江大尉は「攻撃のイニシアティブは戦闘機が握っている」とし、皮を斬らせて骨を斬る捨て身の戦法でB24を撃墜していきました。

 同戦隊、高橋俊二中尉も「捨身必殺」をモットーにB24来襲と聞くや真っ先に出動しました。あるとき、トングーに来襲したB24を追撃し、被弾して基地近くに不時着し、彼自身負傷しましたが、翌日には来襲したB24を撃墜し、またも被弾しながら平然と戻ってきました。決してひるまない捨身必殺の精神に黒江大尉も脱帽でした。しかし、高橋中尉は昭和18年の秋、ラングーンに来襲したB24を海上遠く追ってついに帰ってきませんでした。

 そのうちB24と一緒にP51ムスタング戦闘機という更なる強敵が出現するようになり、加藤隼戦闘隊は一層、過酷な戦闘を強いられるようになっていきました。数え切れないぐらいの戦闘を行い、無事の帰還を喜び合い、何機撃墜したかなど話題にならなくなったといいます。




※1 安田義人の記録ではB24とある。記録では黒江機の存在に全く気が付いていない。



参考文献
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
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 訓練中、黒江(左)に「よらば斬るぞ」の構えはこうだ、と説明する姿 「歴史街道」2011.8より

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 加藤建夫 武士道Tシャツ http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11298078332.html
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軍神となった加藤建夫隼戦闘隊長

死に様も自ら身をもって示した加藤戦隊長。

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 加藤隼戦闘隊(陸軍飛行第六十四戦隊)は大東亜戦争中、マレー、シンガポール、ジャワ、ビルマで活躍しました。戦隊長の加藤建夫中佐は普段は優しい人でしたが、任務に対しては厳格な人で
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」「不時着して飛行機を敵に渡すようなことがあってはいけない」と厳しく部下に語っていました。

 昭和17年(1942年)3月12日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイへ進出。この日よりフライングタイガースP-40トマホークと死闘を演じます。4月26日、ビルマへ進出。ローウィン、ラシオ、アキャブ、チッタゴンで輝かしい戦績を重ねていきました。

 5月20日、アキャブ新飛行場にロッキード爆撃機が攻撃してきました。ちょうど加藤戦隊長機がトングーからアキャブへ来たところで、ロッキード機を撃墜しました。翌21日もロッキード爆撃機が来襲し、加藤戦隊は出撃しました。この出撃で清水准尉機が被弾し、落下傘降下していきました。捜索は南特務機関に依頼しました。

 その夜、宿舎で全将校が会食後、大谷中尉と遠藤中尉が加藤戦隊長に呼ばれて寝室に入りました。加藤戦隊長は非常に機嫌がよく、次から次へと話題を変えてはとめどもなく話し続けました。普段は口数はあまり多くなく、聞き上手の加藤戦隊長がこの日は全く異なりました。


「ドイツへ行ったとき、ヒトラー総統御自慢の戦闘機を見せてもらったが、ちょっといじってみたら大体わかったので、その場で乗って飛んだら、ずいぶんびっくりしたらしいよ、向こうはね。日本には無茶なヤツがいるってさ、ハハハハ」

 大谷大尉と遠藤中尉は今晩の戦隊長はどうしたものかなと思いながらも、珍しいお話をお伽噺のように夜遅くまで聞いていました。

 5月22日、加藤部隊はトングーへ戻ることになっていました。遠藤中尉はデング熱を発症し、加藤戦隊長の命令により一足先にトングーへ戻らされました。これが加藤戦隊長と遠藤中尉の最後の別れとなりました。
 この日の正午、行方不明の清水准尉の捜索報告が正午には南機関よりくることになっていましたが、機関員の田中中尉がくる様子がありません。トングー行きを伸ばしていると敵のブレニム爆撃機が一機出現しました。


「回せっ!」

安田曹長機が真っ先に離陸し、大谷大尉機、加藤戦隊長機、伊藤曹長機、近藤曹長機の順に離陸し、敵機を負いました。敵爆撃機は海上低く逃走します。安田機がまず銃撃を加えました。敵爆撃機の後方銃座から反撃が加えられ、曳光弾(えいこうだん)が空中で交差して火花が飛び散りました。安田機は風防ガラスを砕かれ、安田曹長は顔面に傷を受け、基地に引き返しました。
 大谷機も交戦中被弾し、燃料タンクを撃ち抜かれ、戦列を離れました。加藤戦隊長は逃してなるものかと捨て身の戦法で後上方から肉薄攻撃を仕掛けました。敵機は被弾するたびぐらぐら揺れますが完備した防弾のためなかなか落ちません。アキャブ西北方90キロ、アレサンヨウ西方10キロの海上で加藤戦隊長機が再び必殺の一連射を加え、見事に決まりました。

 ところが、加藤戦隊長機の右翼から突然、火が出ました。戦隊長はちらりと後ろを振り返り、従う伊藤機、近藤機に目をやりました。陸地は近いですが、そこは敵地です。加藤戦隊長機はゆっくりと翼を振り、そして低空からくるりと反転し、機種を垂直に立てて海中ふかく突っ込んでいきました。ときに5月22日、午後2時30分。普段から
「敵地に不時着して捕虜になってはいけない」と部下に厳しく言っていたことを自ら身を持って示したのです。

 5月30日、加藤戦隊長に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 加藤建夫中佐が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。

 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦

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 支那事変の出征時の加藤建夫(PD)

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加藤隼戦闘隊 (Kato hayabusa sento-tai - Colonel Kato's Falcon Squadron)
http://www.youtube.com/watch?v=YcuGt2ZVZrE

強者、安田義人 ~ 加藤隼戦闘隊

強運の持ち主、安田義人。

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 大東亜戦争中、特にビルマ戦線で活躍した加藤隼戦闘隊の中にあって「強者中の強者」と呼ばれたのが安田義人准尉です。二度も不時着し、一度目は敵地だったにもかかわらず奇跡的に生還しています。

 昭和17年(1942年)4月29日、加藤隼戦闘隊は空挺部隊のラシオ占領の援護をしていました。このとき安田曹長機がガソリン洩れをおこしました。安田曹長機はグングン高度を下げていきます。黒江中隊長機が心配そうに寄り添ってきます。あまり遅れると主力に追いつけなくなるので、安田曹長は黒江中隊長に手を振り、編隊に戻るよう促しました。黒江中隊長は安田義人は
「どんなに危ないときでも、決してひるまなかったし、運命を投げてしまわない神経があったはずだ」「安田義人はきっとかえるはずだ。どんなことがあろうと彼が自ら打開してくれるにちがいない」と自分自身に言い聞かせながら、安田機と別れました。

 安田機は平地に入り、胴体着陸を試みました。前方に崖があります。もう飛び越すことはできません。ザザーと着陸し、崖すれすれに着陸しました。けがはありませんでした。

 着陸した場所は敵地であり、友軍の最前線までは120キロあります。安田曹長は歩き始めました。途中でビルマ人に道を尋ねてさらに歩いていると前方に一人の支那兵がビルマ人を従えて歩いてきます。向こうもあまりの突然の出会いに驚いた様子でしたが、お互い気をのまれたまますれ違いました。すれ違ったあともお互い何度も振り返り、やがて支那兵の姿が見えなくなると安田曹長は一気に走り去りました。

 安田曹長はビルマ人の部落に入りました。ビルマ人らは最初は驚きましたが、食事を提供してくれ、
「安全な部落がある。4人の男に案内させる」と別の部落に案内してくれました。その部落でも暖かい食事を作ってくれました。一泊後、翌朝、弁当を持たせてくれました。

 翌日、ある部落に到着すると
「このまま進めば支那軍にやられるぞ」と村のビルマ人から警告を受けました。そこで安田曹長は飛行服とビルマ人の服を交換してもらい、ビルマ人の姿で歩き続けました。支那軍を回避し、野宿をして寒さと空腹に耐えながら3日目、最前線のサモンカンまであと2,30キロというところで支那軍の歩哨がいる橋にさしかかりました。ちょうど向こう側から荷馬車が通りかかり歩哨の点検が始まりました。安田曹長は意を決して橋を渡り、荷馬車の裏側を通りました。セーフ、気づかれなかったのか、怪しまれなかったのか無事通り抜けることができました。※1

 安田曹長はさらに歩き続け、またもや支那軍の一団に遭遇します。これを回避し、歩き続けました。空腹と足の痛みでヘタヘタと座り込みたい気持ちに鞭を打ってトボトボと歩き続けました。

「おれもいよいよ年貢の納め時が来たか、5月1日が命日か」

 日本軍がいるはずのサモンカンまであと2,3キロ。道路の前方でたくさんの自動車が停止しているのを見つけました。イギリス軍の自動車です。山に入りじっと様子をうかがいました。周囲に注意しながら近づいてみると先頭の乗用車に日の丸が見えます。安田曹長は
「ああ!」と叫び、かけよりました。自動車部隊の隊長は加藤戦隊長をよく知っており、特別にトラックを出してくれ、5月2日、安田曹長は無事、加藤戦隊に帰還できたのです。

 加藤戦隊に到着すると皆がかけより「よかった、よかった」と声をかけました。

「安田曹長ただいま帰りました!」

 戦隊長に報告にいくと黒江中隊長は
「よかったな」と声をかけ、加藤戦隊長は「おまえのことだから恥さらしのことはしないだろうと確信していた。よかった」と喜びました。

安田
「隊長、明日からまた出動させてください。体は大丈夫だし、もうこうなったら・・・」
加藤隊長
「まあいいよ、そう張り切らなくても、ひとつゆっくり休養して、それからだ。何はともあれビルマ人から、まず日本人にかえってもらわなくては・・・山本曹長、安田君をやすませろ・・・」

 そして皆が安田曹長の肩を抱くようにして去っていきました。



※1 黒江保彦の記録では安田曹長から聞いたとして記載があるが、橋のところで支那兵に呼び止められたとある。



参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「あゝ隼戦闘隊」黒江保彦(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

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 左から高橋俊二、安田義人、安間克己 「歴史街道」2011.8より

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死闘!加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース

こっそり参戦してきたアメリカのフライングタイガース。

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 フライングタイガースというのはアメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊のことで、アメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で、中華民国軍として兵籍に入りました。ほとんどは米軍人で退役の形をとりましたが、米軍復帰は約束されており、真珠湾攻撃前の姑息な方法によるアメリカの参戦であり、中立違反です。(アメリカ合衆国義勇軍AVGという)

 このフライングタイガースと日本陸軍飛行第六十四戦隊・加藤隼戦闘隊が激戦を交えています。昭和16年(1941年)12月25日のラングーン空襲で、25機の隼で九七式重爆撃機を護衛していた時にフライングタイガースと交戦。宿命の対決の幕が切って落とされました。

 昭和17年(1942年)3月21日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイ飛行場に集結。フライングタイガースはビルマのロイウィン、ラシオ付近に展開していました。
 4月6日、フライングタイガースP-40トマホークがチェンマイ飛行場を空襲します。P40の航続距離から考えると不可能と思われていましたが、中継基地をつかっての空襲であり、奇襲となりました。
 4月8日、加藤隼戦闘隊はローウィンを攻撃します。このとき戦隊が得ていた情報はフライングタイガースは既に戦力を消耗しているという情報でした。そのため実戦経験のない搭乗員も連れて行ったのです。しかし、フライングタイガースの戦力は十分残っており、しかも待ち伏せされており、戦隊が地上攻撃をはじめたとき約20機のP40がまともに上からかぶさってきました。苦しい戦闘の末、戦死1、未帰還3という結果となります。エース中のエース、安間大尉が戦死し、三人未帰還という損害を被りました。フライングタイガースは現地のシナ人を使って地上から監視させ、無線などで日本機の進行コースなどをAVG司令部に知らせていたのです。

「不覚であった!」

加藤戦隊長はチェンマイ飛行場へ帰還すると沈痛な表情でつぶやきました。この日の夕食時、加藤戦隊は灯の消えたようでした。ローウィン攻撃に参加していなかった檜與平中尉は「戦隊長、残念ながら打つ手がありませですね」というと、加藤戦隊長は次のように答えました。

「檜、おれはかならず、きょうの恨みを晴らしてみせる。いいか、人間はいかなる困難にぶつかっても、投げてはいかんぞ。方法はきっとあるものだ」

それから加藤戦隊長は夜遅くまでえローウィン攻撃の作戦計画をたてはじめました。そして出た答えは夜間航法による払暁攻撃でした。650キロ先のローウィンまで2時間の夜間飛行が必要になります。月齢23日のわずかな月明かりの中、人家はなく山また山という650キロです。

「航法だに成功せば、敵を奇襲しうるの確信を有す」

加藤戦隊の安田義人曹長は加藤戦隊長のこの言葉を20年後も忘れることができない、と記しています。

 4月10日、加藤隼戦闘隊9機は夜間に出撃し、途中4機がエンジン不調で引き返し、残る5機が払暁にピタリとローウィン上空に到着しました。加藤戦隊長の航法はパーフェクトでした。ローウィン飛行場にはトマホークP-40が23機、カバーをかぶせたまま一列横隊に並んでいました。加藤戦隊は急降下し、ダ、ダ、ダ、ダッ、と一撃をかけ上昇。更に急降下し銃撃。これを数度繰り返し敵に損害を与えました。奇襲成功です。

 部隊はチェンマイ帰還後、直ぐ第二撃に飛び立ち、再びローウィンを攻撃します。加藤戦隊長、十八番のピストン攻撃でした。「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を叱咤激励しました。
 夕方、ローウィン上空で加藤戦隊とフライングタイガースの死闘が繰り広げられました。フライングタイガース2機を撃墜。加藤戦隊も後藤曹長と三砂曹長が戦死し、檜中尉が負傷するという激戦でした。

 加藤戦隊は4月26日にはビルマのマグウエ基地に前進し、28日にローウィンを攻撃。このとき平野伍長機は撃墜されますが、伍長は落下傘で脱出し、敵地から奇跡的に生還します。29日のラシオ攻略の陸軍落下傘部隊の護衛では安田曹長機が撃墜されるも胴体着陸し、これも敵地から奇跡的に生還しました。フライングタイガースは4月30日には昆明に退却し、7月3日には解散しました。(中国空軍起動部隊(CATF)に編入)


参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
参考サイト
 WikiPedia「フライング・タイガース」「加藤隼戦闘隊」
添付画像
 フライングタイガースに所属するP-40Cトマホーク(PD)

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一式戦闘機 隼
www.youtube.com/watch?v=Pf1_7UbMdBA

空の神兵と加藤隼戦闘隊

歴史を変えた空の神兵。

S43i


 昭和17年(1942年)2月6日、7日、8日、13日とパレンバン航空撃滅作戦が決行されました。スマトラ半島のパレンバンは東南アジア有数の大油田地帯で、資源のない日本にとって最重要攻略目標地でした。14日には落下傘降下作戦が予定されており、それに先立って敵の航空戦力を撃滅しておくのです。

 パレンバン落下傘降下作戦には陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊が護衛にあたることになっていました。加藤戦隊の檜與平中尉はマレーのカハンの宿舎の近くのゴム林の広場にたくさんの兵士が車座になっているのを見かけました。そこには黄色い袋の落下傘が高く積み上げられ、祭壇が設けられて数本の蝋燭が灯されていました。落下傘降下部隊「空の神兵」です。神兵たちは敬虔な祈りを捧げていました。檜中尉は足をとめて成功を祈り、頭を深く垂れました。そして行き過ぎようとすると走って追いかけてくる人たちがいます。檜中尉の同期の元田精一中尉と、飯塚英夫中尉、野崎幹雄中尉でした。みな落下傘部隊の操縦者です。

「おお、檜、パレンバンの敵さんはどうだい」


「パレンバンには、いるぞ、いるぞ。戦闘機が山ほどいるから、危ねえものだぞ」

「ほんとか。降りたらこっちのものだが、降りるまでは、なんともならん。降りるまでは頼むぞ」

「心配するな。うちの部隊がついているんだ。安心して、おフクロの夢でも見て寝ろよ、大船にのった気でなあ」「じゃあ、あしたな」

「うん、頼むぞ」

 14日、陸軍戸山学校で鍛えられた一騎当千の空の神兵降下部隊329名のうちの第1悌団は一〇〇式輸送機やロ式輸送機に乗り、パレンバンを目指しました。護衛は加藤隼戦闘隊と飛行第59戦隊です。
 パレンバンは視界が悪く目標がなかなか見えません。やっと雲の切れ間があり、高度を600メートルまで下げ、大編隊はパレンバンへは突進しました。いよいよ降下のというときは飛行速度は時速200キロ近くまで落とします。このとき敵機に攻撃されると大変です。高度300メートル。雲のため落下傘降下の最低高度となりました。まだ敵機は現れません。

「いまだ、はやく降りてくれ!」

 加藤隼戦闘隊員は祈るような気持ちで輸送機を見つめました。11時25分、歴史的瞬間!輸送機から黒いものがパラパラと無数に転がり出て、あっと思う間に純白の落下傘が間隔をおいてパッパッと開きました。気付いた敵の地上砲火が炸裂しはじめました。しかし、この時点では落下傘部隊の被害は皆無でした。加藤戦隊は来襲してくる敵ハリケーン戦闘機やスピットファイアと交戦し、12分の戦闘でこれらを撃墜しました。そして空の神兵が地上で集結しつつあるのを確認して戦場を離脱しました。

 2月15日朝、偵察機から報告が入りました。
「精油所は火煙のため確認できざるも、飛行場占領部隊は集結した部隊をもって飛行場を攻撃。その占領も時間の問題と考えられる」

 15日には第二次の降下部隊第2悌団がパレンバンに降下しました。この時点で既に飛行場は占領していました。空の神兵たちはパレンバン市街を占領しました。神兵はじつによく大任を果たし、加藤戦隊を喜ばせました。また、この占領によりシンガポールのイギリス軍の後方を遮断させることになり、15日9時50分、イギリス軍は白旗をあげて降伏しました。

 2月17日、加藤隼戦闘隊はパレンバン飛行場へ進みました。ゴム林の中にはどこもかしこも石油缶の山であり、"ガソリンの一滴血の一滴"のスローガンで節約してきた日本人にとっては驚きでした。辻々の立札には日本の落下傘部隊が降下してきた場合に、抵抗することを指示した絵入りのポスターが貼られていました。情報は洩れていたのです。しかし、シンガポール陥落より前に強行したことが「奇襲」となり成功となったのでした。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
添付画像
 一式戦一型(キ43-I)(PD)

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空の神兵
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隼、シンガポールへ ~ 加藤隼戦闘隊

同じカラーだった。

S_2

 昭和17年(1942年)1月12日、マレーのイボーに前進した陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊はシンガポール攻撃の命令を待っていました。敵に機先を制されることなく、夜間に出撃するのです。しかし、あと一時間もすれば明るくなるのに出撃命令が出ません。

「よし、いこう!」

 加藤建夫戦隊長は出撃を決断。離陸寸前に出撃中止命令がでますが、「ここで中止すれば混乱を来たし、大損害を出すおそれがある」として出撃を強行しました。出撃すると重爆隊がすでに出撃しており、加藤戦隊は重爆隊を護衛してシンガポールへ向かいましたシンガポールには百機余りの戦闘機があるはずでしたが、もぬけの空でした。続く13日の出撃もわずかにバッファロー戦闘機が5,6機出撃してきただけでした。加藤戦隊は連日のようにシンガポールへ出撃しました。

 1月20日、まだ夜が明けない頃、檜與平中尉は枕元で物音がしたので目を覚ますと八田中尉が口の周りを歯磨き粉で真っ白にして立っています。

檜 
「おい、どうしたんだ?」
八田
「おい、檜、起きろよ。歯ブラシが折れたんだよ。今日はおれの最期だよ」
檜 
「ばか、歯ブラシだって何かの拍子に折れるさ」

 この日、八田中尉は敵、スピットファイアの奇襲を受け戦死しました。

 1月31日、檜中尉は後藤力曹長と奥山長市曹長を連れて、第三中隊の竹内正吾中尉の指揮する1個編隊に従って出撃しました。爆撃隊の護衛です。爆撃隊は目標へ正確に爆撃し、ジョホール水道の上空を北上して帰路につきかけていました。そのとき敵ハリケーン戦闘機10数機の大編隊が襲ってきました。檜機らは反撃します。檜中尉は数機撃墜し、ふと下をみると後藤曹長機がいました。後藤機の後方から敵機が狙っていました。後藤機は気づいていません。

「後藤危ない!」

 檜機はまっさかさまに突っ込んで救援に向かいましたが、時すでに遅く、後藤機は一連射を浴び、機体から火を噴き、墜落していきました。

 後藤曹長は落下傘降下していました。そしてゴム林の中の小さな村落に降りました。ちょうどイギリス軍が、なだれのように敗走している真っ最中でした。見つかってはまずいので、後藤曹長は一目散にあてもなく走って落下傘の側を離れました。そして、村のはずれの一軒家の物置の中の草むらに身をひそめて外をうかがっていました。
 夕方になり、周囲が薄暗くなると敵の通過も少なくなります。すると、家の中から17,8歳のマレーの少女が出てきて、どうしてか後藤曹長がいることを知っており、「来い」「来い」と手招きしています。しばらくすると、お盆の上に握り飯を乗せて一間ぐらいまで近寄ってきてお盆をおいて、家の中に走り込んでいきました。

 夜になると、また少女が現れて、「来い来い」と招くので、後藤曹長は今度はついていきました。家の中には歳取った父親が何か細工物をしていましたが、少女と何か話すと家を出ていきました。「もしや敵に通報するのでは?」と思った後藤は家を出て行こうとしますが、少女が手を横に振って引き留めて放しません。そうしているうちに5,6人のマレー人の青年が家にやってきました。後藤曹長は拳銃を持って身構えました。ところがマレー人らはニッコリとしてみんな手を出してこういうのです。

「カラー」「カラー」

手の色も顔の色も同じだ。われわれは味方だというのです。後藤曹長は安心しました。後藤曹長はひどい火傷をおっていましたが、彼らは実に親切に看護してくれ、家の外では若者たちが鎌や棒を持って護衛してくれました。後藤曹長は感激し、傷ついた身体も心もふるわせて泣きました。

 やがて日本軍第五師団が進出してきて後藤曹長は野戦病院に収容されました。後藤曹長が生きているという報せをうけた檜中尉は野戦病院を訪ねました。後藤曹長は全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、目だけ出して横たわっていました。

「後藤曹長!」
「檜中尉殿!」

 後藤曹長の目から大粒の涙がとめどもなく流れました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

文頭イラスト
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出撃、加藤隼戦闘隊

対米英開戦。隼が征く。

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 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争対米英戦の火蓋がきっておとされました。陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊は仏印フコク島で出撃の命令を待っていましたが、爆撃戦隊のいるプノンペン飛行場が豪雨で出撃は中止となりました。しかし、加藤建夫戦隊長は出撃を敢行します。目指すはマレーのスンゲイパタニ飛行場です。

「敵機発見!」

 初の実戦に檜與平中尉はゴクリと唾を飲み込みました。喉がからからに乾いていたのです。敵機はイギリスの中型爆撃機ブレニムでした。大泉製武中尉機がブレニムの後ろ上方から最初の攻撃を仕掛け、さらに高山隊長機が攻撃し、その後、檜中尉の隼が攻撃します。ブレニムは被弾しながらもなかなか落ちず、最後は八田米作中尉機が攻撃し、ブレニムは尾部がバラバラに分解して吹っ飛び、ペナン島対岸のアエルタワル飛行場の片隅へ、真っ逆さまに落ちていきました。加藤隼戦隊はこの日、スンゲイパタニ、アロルスター、アエルタワル、ペナンの敵飛行場を次々襲撃し、戦火をあげ、緒戦を飾りました。

 9日、ペナン島アエルタワル飛行場を攻撃、11日ケダー州を攻撃。寺内南方軍総司令官から感状が授与されました。13日にはクワンタンを攻撃し、コタバル基地へ前進しました。
 22日、加藤戦隊はクアラルンプール上空でバッファロー戦闘機の大編隊と激しい空中戦を展開します。600ないし700mの優位な高度をとった高山編隊が次々反転し、バッファローを攻撃し、片っ端から撃墜していきます。安間編隊は遁走するバッファローを撃墜します。おそらくは全機撃墜したであろうという理想的な大空中戦でした。

 12月23日、ビルマ方面で重爆隊がラングーンを攻撃しましたが、戦闘機の護衛が足らず、25日のラングーン攻撃に加藤戦隊が護衛につくことになりました。加藤戦隊はタイのドムアン飛行場に移動しました。飛行場に着くとタイの空軍兵士が群がってきて「ナカジマ、ナカジマ」(中島飛行機製作)と隼戦闘機を撫で回しました。

 25日、加藤隼戦闘隊はラングーンへ向けて出撃。爆撃隊はラングーンに爆弾を投下しました。その帰路のこと、敵戦闘機が爆撃隊を襲撃してきました。加藤戦隊の任務は爆撃隊の護衛ですから、敵機を深追いすることは禁物です。加藤戦隊長は敵機が襲ってくると威嚇射撃をし、敵を追っ払い、決して深追いせず、爆撃隊から離れることはありませんでした。しかし、敵機を攻撃したい気持ちで一杯の若い隊員たちは気が焦り、深追いしてしまいます。檜與平中尉はバッファロー戦闘機3機が攻撃してきたので、急旋回でやりすごし、追撃を開始してしまいました。敵機を撃墜したときには、爆撃隊は遠く機影が豆粒のように小さくみえるくらい離れてしまいました。案の定、二手にわかれていた爆撃隊の一隊は敵機の攻撃を受け、三機が撃墜され、一機が不時着という損害を受けてしまいました。

「貴様らは、それでも戦闘機乗りか!」


 基地にもどると、普段はやさしい加藤建夫戦隊長は烈火のごとく隊員たちを叱りつけました。檜與平中尉が遅くにひょっこり戻ってくると
「檜!今頃のこのこ帰ってくるとは何事だ!」と怒鳴りつけました。戦隊長は爆撃隊の隊長のもとへいき、「自分のいたらぬ指揮で援護ができず、大きな損害を出させ、何とも申し訳ありません」と謝罪しました。

 隊員はショボンとして、タイランドホテルに帰りました。皆無言です。食卓に着くと加藤戦隊長は
「本日は残念だった。さあ、みんな元気を出して、一杯やろう。ご苦労さん」と声をかけます。もう普段の加藤建夫にもどっていました。

「おい、檜、ここへ来い。うまいのをやろう

加藤戦隊長はザボン(果物の一種)を剥いて檜中尉へ渡しました。

 隊員たちはすっかり元気を取り戻し、
「明日もう一度、攻撃をやらして下さい」「お願いします」と戦隊長に熱心に頼み込みました。加藤戦隊長は「そのうち機会はまたあるさ。シンガポールも残っているじゃないか」と諭(さと)すように言いました。加藤戦隊は恨み深いラングーン攻撃をいったんあきらめて、タイを後にコタバル基地へ帰還しました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

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栄光、加藤隼戦闘隊

エンジンの音 ゴオーゴオーと 

S1942


 「加藤隼戦闘隊」というのを聞いたことがあるでしょうか。陸軍飛行第六十四戦隊のことで、前身である飛行第二大隊から数えると部隊の歴史は9年に及びます。昭和19年(1944年)には映画が公開されました。戦隊長の加藤健夫中佐(死後、少将)は第四代目の戦隊長になります。

 加藤建夫少佐が六十四戦隊の戦隊長として赴任したのは昭和15年(1940年)4月15日のことでした。このとき36歳。数ヶ月前に部隊歌が作られ、赴任当日、加藤戦隊長に披露されました。

 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機


 作詞は部隊の田中林平准尉、作曲は、南支派遣軍楽隊の岡野正幸氏、原田喜一氏、森屋五郎氏、編曲が寺岡真三氏です。歌詞の中に「隼が征く」とありますが、このころ部隊の主力戦闘機は97式戦闘機でした。後に一式戦闘機が採用され、「隼」と命名され、部隊歌と偶然にも一致しました。

 一式戦闘機キ43「隼」は昭和13年(1938年)12月12日に初飛行しましたが、当時の戦闘機パイロットたちの評判は悪く、97式戦闘機よりも大きく、重たいと考えられていました。しかし、列強の新型戦闘機より500キロも軽く、運動性能に優れていました。評判の悪かったキ43「隼」は一年放置されましたが、太平洋に風雲急を告げるようになると航続の長い戦闘機が要求され、キ43が急遽採用されました。加藤建夫戦隊長はキ43の採用に反対していましたが、採用となると文句を言いませんでした。

加藤
「いくら反対したってそれは研究段階でのことだよ。いったん決定したら、どのように使うかが勝負だ。なあに、この加藤が必ずモノにしてみせるから安心してくれ」

 加藤戦隊長は多忙な訓練の合間をぬって航空本部に飛んでは改良の打ち合わせをしたり、睡眠時間を削って自ら機体の特性や限界を試したりしました。

 航空戦隊の戦隊長というと鬼のような厳しい軍人を思い浮かべますが、加藤戦隊長は実に部下思いで優しい人でした。戦隊の檜與平少尉が週番士官勤務についていると加藤戦隊長がやってきて
「今夜はおれも泊まるよ」と兵営の視察にきました。やがて消灯となったので、檜少尉は風呂へ行くと湯が汚れて悪臭を放っています。湯気の奥から「檜、こっちへ来いよ」と声がするので見るとなんと戦隊長がいました。

加藤
「こんなにひどい状態だとは思わなかった。早く改修しよう」

 翌日には大工を呼んで改修させたといいます。また、加藤戦隊長は夜半過ぎてから何度も兵舎を見て回り、兵隊たちの手や足が蚊帳の外へ出ているのを、いちいち蚊帳の中へいれていました。それは慈父さながらであったといいます。
 加藤戦隊長はコーヒーが好きで、単独飛行で出かけるたびにどこからか仕入れきました。そして、食後に
「おい、みんな、コーヒー飲まんか?」といってコーヒーを挽いて部下にふるまいました。加藤戦隊長がいれてくれるコーヒーは美味しく、部下たちはご馳走になるのを楽しみにしていたといいます。

 昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英に宣戦布告。加藤隼戦闘隊はマレー作戦に参加しました。これより加藤隼戦闘隊は激戦の歴史を刻むことになります。マレー、シンガポール、、パレンバン、ジャワ、ビルマ、遠くはインドのインパール、カルカッタまで隼は征きました。加藤部隊は一旦出撃して一撃を与え、帰還すると直ぐ出撃して再攻撃するピストン攻撃を行うという厳しい戦闘行動を行うことしばしばで、加藤戦隊長は「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を激励したといいます。戦隊の安田曹長は
「体力の限界をはるかに超すもので、ただ気力で支えられていた」と40歳(数え)の加藤戦隊長の馬力には恐れ入ったと述べています。

 「戦果」撃墜258 不確実25 炎上49 大破95
 「損害」戦死122

 加藤戦隊長は昭和17年(1942年)5月22日ビルマ・アキャブの戦闘で敵機ブレンハイムを撃墜しましたが、自身の機も被弾し、翼が炎にまみれ、50~60メートルの高度で海中へ反転し、自爆しました。これは部下に普段から話していた「確実に死ねる」方法でした。(捕虜にならないようにする) 加藤戦隊長の戦死には南方軍司令官・寺内寿一より感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 そして昭和19年(1944年)には加藤隼戦闘隊の活躍は映画化され、同戦隊の隊歌と相まって当時の全国民の知る伝説的英雄となりました。



参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」
参考サイト
 WikiPedia「加藤隼戦闘隊」「加藤健夫」

添付画像
 昭和17年(1942年)初旬(戦死の数ヶ月前)の加藤建夫戦隊長(PD)

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加藤隼戦闘隊 -Kato Hayabusa Fighter Wing-
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w

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